ナカノセ漫画戦記

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 目次


 第一部

  一 瓦礫の山
  二 子供の国
  三 国男
  四 上海
  五 私服憲兵



 第二部

  六 戦後教育
  七 ハムスター作戦
  八 黄金の自由
  九 ローズピアノ
 一〇 最後の授業
 一一 フォルチュネ医療団
 一二 シベリア鉄道
 一三 臨時停車
 一四 騎兵襲撃
 一五 ユーラシア雪中行軍


 第三部

 一六 砂川闘争
 一七 動機
 一八 猫崎の夏
 一九 電話帳の向こう
 二〇 もはや戦後ではない
 二一 秋の原野
 二二 ママちゃまの失踪
 二三 海の正倉院
 二四 変る過去
 二五 沖縄
 二六 イデオロギー
 二七 ダイヤモンド地下街
 二八 チュンカベル
 二九 映画館
 三〇 ナカノセ漫画戦記


 第四部

 三一 羽賀少佐
 三二 真昼の暗黒
 三三 纏足の女
 三四 批闘
 三五 民の由来



 第五部

 三六 義挙入国
 三七 労働戦闘
 三八 毛沢東主席万歳
 三九 不良少年たち
 四〇 真理は寒梅の似し
 四一 冬の黄河
 四二 ディナー
 四三 鼠箱
 四四 ヒエロファニカル
 四五 劇場国家
 四六 硝子の碍子
 四七 看護詰所
 四八 戸口調査


 第六部

 四九 父の神話
 五〇 カザフ入境
 五一 即席飛行場
 五二 犬吠埼の夢
 五三 Fロマンチック
 五四 空襲
 五五 協力はしてもいい
 五六 ナカノセの常識
 五七 ブラナの塔
 五八 手を見せてみろ
 五九 敢て風雪を侵して開く
 六〇 焼け野原に
 六一 必ずだぞイーサー
 六二 孤児達の聖戦



 第七部

 六三 金魚の楽しい飼い方



  ∇ 資料



















§ 第一部
















§  瓦礫の山

 若気の至りで済まず、彼女が高校二年生の時には、昔、私たちがハムスター王国と呼んでいた場所に辿りついていたのである。そこは実際にはソビエト連邦トルキスタン共和国――当時の中国西域ウイグル自治区のことで、ナカノセは自分のことを革命家であると名乗った。同地域は中ソ戦最大の戦場となり、壊滅的な状況に陥っていた。幾つかの情報で、彼女の悲惨な顛末が伝えられていたので、到底生きてはいまいと思っていた。だが彼女は生きていた。
 ナカノセと音信不通になってから早や十年になる。クレヨンを握り込むように書く、あの掘建て小屋のような字をまた見ることが出来るとは思いもしなかった。
 私は今、東京の高専でフェローをしている。
 私の務めている高専の講座の一つが衛星配信されたのがきっかけとなって、ナカノセから手紙が届いたのだ。授業映像をよく見返してみると、背を屈めて舞台袖へ逃げてゆく私が一瞬だけ映っている。
 私は何も変っていないナカノセの気配に衝撃を受けた。彼女は職業的な革命家である。戦後の安保闘争の洗礼を受けて、そのまま帰ってこなかった一人である。そして恐らくは唯一挫折をせずに、己の理想を実現させた稀な存在でもある。
 ナカノセの正体が明らかになった日の夕暮れ、彼女は恐らく十四歳だった。
 恐らくというのは、本当のところは解らないからだ。私たちは戦災孤児で、エリザベス・サンダース・ホームの町田分園という児童擁護施設で幼少期を過ごしたのである。
 私が確かに十四歳であったことはその後明らかになったが、彼女たちの生年月日は未だもって正確には解らないままである。
 ナカノセは細やかな性分ではないが、それでも綺麗な花柄の便箋とか、ビロードのリボンの切れ端とか、ママちゃまから配給されるそういう品は大好きだった。下手っぴながら無心にやっているが、時おり、はっとして我に返り、遠い世界を見るような目で、私たちがちまちまやっている縫いちくや、折り紙のあれこれを眺めていた。
 彼女の作る折鶴は、いつも、ゲソか始祖鳥のような凄い形になってしまうが、ママちゃまはそれでも、よく出来ましたと誉めてくれるので、ナカノセは、やっとのことで出来上がると、地響きするような金切り声で愛しのママちゃまを呼びにすっ飛んでいった。
 ナカノセは声が大きいので、内緒話が内緒話にならない。先生の居る横で、「先生には内緒だけどねぇ」とやりだす。ひょっとすると少し耳が悪いのかもしれなかった。いい年になっても、彼女は何度か中耳炎をやった。
 粗暴ばかりかというと、そうでもなく、分別のある判断も出来るのだが、それは、繊細さというよりは、ある種の鋭さと言った方が近い。蜥蜴や蛇を捕まえる時の、あるいはゴキブリをすっ叩く時の息の止め方は、周囲を止めてしまうような集中力を垣間見せた。 野球の代打で呼ばれるのが常で、案外これが鋭い打撃を放ち、たまには大きな弧を描いて、ホームランになることもある。やや特殊な存在だったと思う。
 そういう才に秀でていたので、彼女は男児からも一目置かれていた。
 サンダースを出た後、彼女は画文集に描いたような漫画家やケーキ屋さんになる夢は諦めて、本当の革命家になってしまい、それが当然のことのように、世界を駆け巡り始めた。
 私も、そういうのは最初から知っていた気がする。ナカノセは漫画を読むのが好きなだけで、カフェーのガラス戸の中にあったデコレーション・ケーキを食べるのが望みなだけで、それが彼女の心底を生涯打ち続ける行動原理になるとは到底思えなかったからだ。
 日本中で安保闘争が繰りひろげられていた時代なので、革命の旗手を自負する、血の気の多いあんぽんたんは、ナカノセに限らず商店街にも一人ずつの程度で居はしたが、彼女はその範疇を超えていた。彼女が十七歳で単身、紛争地帯に降り立った時には、彼女はもうこっちの世界には戻っては来ないと思った。 
 ナカノセの身振りや、表情はいつもちょっと怒っている。相手の不意をつくように、ばばばっと素早く喋って論じ詰め、ぎゅっと腕を組んで小首を傾げる。意表をつかれたり、痛いところをつかれると、余裕があるうちは、呆れた素振りを見せて時間を稼ぎ、瞬く間にそれらしい解答を用意する。
 視界の隅で不逞の輩が動くと、それが人だろうと犬だろうと、誰が悪いでもなしに風が吹いて倒れる寸前のゴミ箱であろうと、その眉を吊り上げて、何か言って、鋭く牽制する。そういう彼女の一つ一つの振る舞いが、時に奇妙に思えた。きっと、ミサイルが飛んできても同様の態度だったのだ。
 いつしか、こいつは最初から根幹的に何かがおかしいということに気付いたのである。彼女は革命家になってしまったのではなく、出会った時から、そういう気質なのであり、私たちと一緒にあって、年少から中学時代を過ごしたことの方がたまたまであったのだ。たぶん、あれは元からあっち側の人間であった。どう宥めてみても、どうにもならないこともある。

 まだ彼女が日本にいて、数月に一度ぐらいは会っていた時、幼年期の絆を繕うように、私たちはホームにいた時の延長線で相対し続けたが、じゃあ、と言って彼女と別れて、ポプラと白壁の集合住宅が並ぶ町に目を向けると、その途方もない事実に私はある種の驚愕を覚えた。私には啓示がないというその籤に、理由のない幸運を、何の理由もなく示されて、ただ有らざるをえないということを。
 影の薄いオレンジ色の陽の中を通る。
 私は、自分の家に帰るんだと。ホームじゃなくて自分の家に。普通の高校に通って、六課の授業を受けて、成り行きで選んだ部活動をやって、提携校の男子たちの動向を論じ合って、手持ちののブロマイドを見せ合って、普通の家に帰る。
 無性にホームに帰りたくなるとことが幾たびかあった。
 心が挫けて、分別つかなくなってしまったフリをすれば、それは不可能ではなかっただろう。
 ホームから出た後、同じ地域にいることの出来た私のような例は希であった。里親が見つかると、大抵は見ず知らずの土地へ、場合によっては外国にまで行って、そこで生きてゆくことになり、ホームに戻ってくることなど出来ない。気紛れで戻ることはなかったにせよ、それが可能であった私はホームの中では一番と言っていいほど恵まれた立場にあった。
 途中で電車に乗れば、ホームには帰れる。しかし、近くまで行くことはあっても、私はそれ以上のことはしなかった。
 ホームの規模縮小と町田分園の閉鎖に伴って、少しの間、どうしても戻らなければならない事態が何度か起きたが、それとて、私にとっては、回想するためにあったようなものである。
 たとえ戻ったところで、ホームはもう以前とは別の存在になってしまっているのだ。そんなことを自分に言い訳しながら撤退し、お小遣いで雑誌などを買った。
 夏に切符一枚買ってもらえるだけで大イベントだった時とは、全てが変ってしまったのである。

 ホームの夏の旅行で乗っていた観音崎に向かう赤色の電車はいつも並走だった。線路が蛇行していて、隣の電車が目の前まで迫ってくると皆で口々に叫んでいた。心ゆくまで絶叫して清々する。傍迷惑もいいとこであるが、この時ばかりは、ママちゃまも、ホームの先生たちも目を瞑っている。隣の電車は何回か、つかずはなれずを繰り返すと、最後には反れて、どっか遠くの町へ行ってしまうのだが、毎年恒例のこの小旅行で、私は一度、奇妙な勘違いをしたことがある。隣の電車の中にいる見知らぬ女の子をナカノセと勘違いして、大声で呼び止めようとしたのである。
 女の子は電車の軋む音で細切れになった激しい日差しの向こうで、私たちに向かって何かを告げていた。眉を顰めるようにして苦笑いしているのが、ナカノセそっくりだった。
 私はナカノセが間違って反対側の電車に乗ったと思った。間違ってではない。ナカノセの場合、わざとだ。やりかねなかった。ナカノセは、これを最後に戻って来ないという、慄きがあった。車窓から見える風景は、復興期と重なり毎年激変してゆく。私たち自身の世界がその波に揉まれて変わってしまわないと、どうして言えるであろうか。
 皆ですぐにママちゃまに知らせて、乗合客まで巻き込んでの大騒ぎとなったが、暫くすると、ナカノセは電車の連結ドアを開いて戻って来た。
「ラークがまたあった」と、意気揚揚で見せびらかす。ナカノセは男子に取られてしまう前に、タバコの空箱が落ちていないか全車両を見て回っていたのである。
 何も不思議なことはない。傍目に他愛もない幼少の一コマであったが、私は帰宅途中の通学路で、一人になった時は、その時のことを思い出すことが多かった。
 いつか事実になる日が来る。
 そう思っていた。
 階段を上がり我が家の玄関の扉を開けると、ホームのママちゃまではなく、私のお母さんが夕飯の支度をしていて、とても嬉しそうに微笑んでくれる。暫くして、眼鏡をかけた銀行員のお父さんが会社から帰ってきて、彼に出来る最大限の良き父を演じて、優しそうに微笑んでくれる。突然出来た三歳年下の弟も優しくしてくれた。いくつか混乱はあったが、私はそのために拗ねたり、反発したりという、一連のありそうなドラマを紡ぎはしなかった。
 私が大人になった時はいつかと問われれば、やはり十四歳、中学三年の秋であったと言う。ナカノセだって、同じはずなのだが、彼女はそのままでいる事を決めた。
 彼女は私たちを突然打ち据えたその仇を、自らの手で捕まえようとしていた。

 職員室の自分の机で私がプリントの下書きをしていると、数学科の教諭がやってきて、彼の青春をひとりでに語り始める。学園紛争で、誰かを鉄パイプで殴り殺しにしたこと。MPとかヤクザに悪態をついてやったら、彼らが半べそで逃げていったこと。学生運動のアイドルであった樺美智子の知り合いの誰某と面識があったこと。その時付き合っていた彼女が、あの誰某に似ている等等――。彼は私とほぼ同じ時代に大学生だったが、労組上がりで復学しており、私より一回り年配だった。彼は戦前の生まれであり、戦中は共産党員であったというが、そこらへんの経歴は学生運動期の話よりも更に胡散である。
 私とナカノセが幼馴染であったことを知って以来、その手の話を積極的に振ってくるようになった。このまま行くと正教員への口利きと引き換えに日教組へのお誘いである。
 十月の午後、校舎の窓の外では、ポプラの高木が葉を揺らしている。薄く延ばした水色の空の向こうに、私の住んでいる町が見える。 
 教諭が煙草を吸おうとするので、机の抽斗からキャラメルを取り出して、それとはなしに勧めると、彼は歯の詰め物が取れちゃうから困ると言って、私に煙を吐く。
 それから、不意にツンカンと甲高い音がして、背後から何か良からぬものがやってくる。女史だ。
 彼女が私に何か雑用を思いついたらしいので「頭空っぽ」のフリをして振り向くと、「茶葉の袋の締め方がグチャグチャで、お前は輪ゴムの使い方も知らないなんて、非常識極まりない下賎の輩である。全く話にならんので今すぐ辞職願いを出した方がいい」と、私を現場に連行しつつ、この十倍ぐらいで述べた。
「あの者は、自分が悪くても人の忠告を素直に聞けない」と、最近は教頭や用務員のおばさんたちにまで宣伝している。
 その通りですと言えば、そういうことになってしまうし、違うといっても、この通りプライドが高く頑迷であるということになる。彼女は、それが誘導尋問であることに自覚がないが、このやり方を本能的に嗜好している。 
 ある日のこと煙草先生が「教頭がライオン。桐原ちゃんはシマリスだよね、僕はオオカミかな。〇〇女史は――」と、愚劣な動物ゴッコをやって以後、〇〇女史に良からぬスイッチが入ってしまった。煙草狼にとって彼女が何だったのかは知らないが、たぶんろくでもない代物であろう。どうしても伝えたかったらしく、彼は、口を大きくカミカミして、手でもって頭の上に小さく耳を立てたり、尻尾を作って振ったりして、私に伝える。はいはいオオカミ。とあしらうと、違う。と真顔で訂正してくる。はいはいネコネコ。違う。とまたしてもリテイクが入る。
 どうでもいい。私は人間だ。
 その直後「ふざけないで〇×△のくせに! いい気になってんじゃないわよ!」と何故か私が怒られる羽目になった。
 理不尽とはこのことである。私はそれ以来、彼女のことを胸中にて小猛獣と名付けているが、小猛獣はこの私が何か取り返しのつかないミスをやって、職員室からたたき出されることを願っているのだった。
 大人になった私の日常はせいぜい、そんなとこである。
 煙草先生にお愛想し、小猛獣に付け狙われる日々が幾年か続いていたが、ナカノセから手紙が届いたことで、私はそれどころではなくなってしまった。
 何かの紙袋を切り抜いて作った手製の便箋の末尾にはかく記されている。
「黄金の自由よ私を導け。そのために私は全てを捧げよう」
 この句は、私とナカノセの共通の友人で、漫画家であった少女猫崎の遺作、チュンカベル戦記に由来する。未完であったが、実話にならざるをえなかった。
 その事実に慄く。一つ屋根の下にいたのに、紙一重で世界の彼方まで行くことになったチュンカベルの物語はナカノセの人生になってしまったのである。

 この時期、学生運動は既に終わっており、残存勢力は、社会の無関心に憤るようにして、行動をエスカレートさせていた。活動がテロ化し、身内同士では血腥い内ゲバが相次いだ。その一部は海外にも火をつけて回り、必死に世紀末を演じていた。
 彼女がどこかで銃を乱射して素町人を殺戮するような事態や、どこかで惨死しているだろうという予言は幾らでもあった。だが、彼女に限ってそういうことはなかった。
 あの人間はごく単純に言って面白い。大それたことが出来る。そして、どんなに虚しいことがあっても、私の期待を裏切るような真似はしなかった。
 細切れになって降りかかる激しい日差しの向こうから不意に、生意気な声が届く。
「どうすべきかってのは、どう終るべきかという意味じゃん。あんたたちの言っていることは、そこが全然解んない。私にはホームがある。あんたたちには家がある。理想はその程度でいい。どんなに東京が凄くなったって、ホームのない理想なんて私には考えられない。ロケットなんて飛ばなくていい。月に人が立つことなんかどうでもいい。そんな下らない夢、私が潰してやる。ホームの子の皿の上にたまにはエビフライが一本ずつ乗ってることの方がはるかに偉大だってことを解らせてやるのが私の革命だ」
 何かやって来る。赤い。あれは普通の子じゃない。帰りの電車の中で私は、ナカノセがホームにやって来た時の頃を思い出していた。






§  子供の国

 元旦を過ぎたばかりの東京は、すっからかんの牛小屋の軒先にツララが並び、シモバシラが土を高く持ち上げている。東京の片田舎の生まれであるというと、人は不思議そうな顔をしたものであるが、私は自ら知る限りの最初、そういう場所にいた。
 国鉄のガード下の坂をずっと下りてゆき、舗石が泥に埋没したまま干乾びた酷い道を辿ってゆくと私たちのホームはあった。道を挟んだホームとの向かい側は、空き地になっており、ホームに難癖をつけにくる悪党の車がよく留まっていた。その周囲を背の低い草が覆い、捻れた黒い炎の如き伊吹の木立が繁っている。タイヤの轍が深く刻まれた泥濘の中央付近はいつも大きな湖になっており、春になれば、アメンボたちが飽きもせずに波紋を作って、宇宙人と交信を続けていた。
 空き地の隅には、元々は貝焼場であった建物の残骸があり、波形のトタン材の屋根を無残に吹き飛ばされたコンクリートの壁が一面だけ残って、ホームの子供たちが群れている。砂岩のチョークで絵を描くのである。その砂岩は、空き地の脇にあった瓦礫の山から調達していた。
 いつ、どうやって、ナカノセと猫崎と遊ぶようになったのかは覚えていないが、私たちはそこで毎日絵を描くのを日課としていた。
 私が描くのは花。難しいのは描けないので、チューリップの絵を無数に量産していた。チューリップを百本描くことに情熱を注いでいた。毎日描いていたのに、百本描ききった覚えはない。
 ナカノセは最初のうちは、一緒に花の絵を描いているが、飽きてくると、だんだん滅茶苦茶な線を描きはじめて、「雲」とか「水」とか、いい加減なこじつけをした大爆発を作って、すっ飛んでゆき、何回転もぐるぐる巻きにして最後には奇声と共に石を投げる。私は、彼女の滅茶苦茶描きのせいで、チューリップが地面から離れて、空中に浮んでしまうことに悩んでいた。
 ナカノセは、絵を描いているというよりは、石の方に感情移入しており、壁の上で、信念を帯びた石ころが縦横無尽に走り回ることに快感を覚えていたと思う。
 ナカノセは将来は「ケーキ屋さんの絵描き」になると言っていたが、私は、子供ながら、ナカノセにその才があるとは思っていなかった。絵が上手い下手以前に、ナカノセはじっとしていられないから無理――。
 一方で猫崎の方は、その時から一目に値する才覚を見せていた。石の色を区別してパレットを作ったりする。幼稚園児の私が思うには、全部単なる茶色の石であり、まあ、白石と茶色の石は違うことを主張するとこまでは解らないでもなかったが、幾つかの石が、赤であるとか黄色であるという主張には全く納得出来なかった。赤というのはトマトのような色であるし、黄色というのはトウキビや、踏み切りの黒と交互に塗ってある明るい色である。猫崎は幾ら言っても了解しない。どう見ても黒い石、あるいは石炭を、これは青であると主張するに到っては、猫崎は目が悪いのだと心配して、先生に言いつけにもいったが、それで猫崎の信じる世界が否定されることはなかった。
 お昼ごはんの時刻になれば、ママちゃまがドラを叩いて、皆一斉にホームへと戻る。遅れでもすれば、下手をすると食いっぱぐれに合うから、私もナカノセも、手に握っていた石を投げ捨てて、駆け戻った。
 猫崎は、踏ん切りがつかづに、絵を描き続けており、ママちゃまが迎えにこなければ、切り上げることが出来ないで、ベソをかいていることがままあった。そして、彼女は自分で選りすぐった幾つかの石を決して手放さなかったので、手を洗うのにも一苦労であった。
 空き缶を手に入れるまで、彼女は何度も大切な石をなくして、悲嘆に暮れていた。あまりに不憫なので、そのうちにママちゃまが空き缶を用意して、猫崎の石は職員室で保管されることになった。

 何でそんな僅かな色の違いに拘っているのか最初のうちは解らなかったが、ある時、猫崎は、レンガの破片をポケットから取り出し、それで花を描き、黒い石で葉を描くことを私たちに勧めた。それで初めて猫崎の考えが解った気がした。
 時期は四月だろう。正確には覚えていないが、新学期が始まって、そう時間がたってはいないのと、桜がまだ咲いていたことから、一九四九年の四月、第一週か第二週の土曜日だったろうと推測する。
 金曜日の遠足の途中で、猫崎が何を思ったか、唐突に車道へと飛び出したのだ。猫崎は背が小さかったので、前列の方にいて、先生の目を掻い潜ることは出来ない。随分と叱られていたが、彼女は危険を冒して拾ってきたそれを決して手放さなかった。
 それは一見、茶色でしかなかったが、壁に描いてみると、確かに赤と呼べなくもない色をしている。猫崎の異常な興奮に引っ張られて、女の子たちはキーキーと蝙蝠のような奇声を上げ始める。特別な石であることが解ると、男の子連中まで寄ってきて、取り合いになった。
 先生に言いつけると、没収されてしまう。そこで、私はナカノセを呼んだ。ナカノセはその時、男子たちの群れに混ざって、「コマ」とか言って、水に浸した縄跳びを頭の上でぶんぶん振り回していた。
 ナカノセは「いーから!」とママちゃまが叱る時と同じ口ぶりで、若干尊大な態度でもって皆を宥めつつも、話を聞いているうちに、そんなにいいものならばと、もう一度同じ場所へ行って赤石を取ってこようと言い出す。
 その時は私が反対してやめさせたのだが、ナカノセも猫崎も結局諦めきれずに、次週の日曜日に、規則を破って、赤石を探しに行くことになった。私が規則を破ったのはこれが最初で、罪悪感で一杯だった。その後叱られたのか、上手く誤魔化せたのか、持ち帰った石をどうしたのか、さっぱり覚えていない。

 ナカノセは、小さい頃から行動半径が広く、先生たちの目を盗んで、すぐに遠くへ行ってしまう。「チョウチョが逃げたから」とか「野良犬が呼んでた」とか、気になることがあるとホームから何キロも離れた違う町まで一人で行ってしまうのだ。子供たちよりホームの大人たちの方が驚いて、丸一日も経ってようやく帰ってくれば、叱るどころではなく(とはいえかなり叱られていたが)、胸を撫で下ろすということが一度や二度ではなかった。ナカノセは、反省こそしてみせるが、その実、ホームの外で日を跨ぐことを何とも思っていないようだった。そこまで潤沢に食べているわけでもなく、まだ本当に子供だったので、体力面でも危険であった。放浪から帰ってきたナカノセは目だけが煌々として、出て行く前に比べて幾らか痩せ細っているようにも見えた。
 ナカノセが昼過ぎ、昨日の夕飯なのか、はたまた今日の朝食なのかを食べつつ、先生たちの尋問を受け、どうやら、東京駅まで行ってきたらしいことが解る。その前は川がくっついている海――鶴見川河口付近か。
 猫崎はその脇で、とんでもない下手人を見物するような表情で、話を聞いている。そして私のところにやってくると、話が変形する。
「朝がトウキョウで、夜はカナガワ。トウキョウに行くと未来の世界が見える」
 子供の頃、想像力旺盛ではあるが、時空概念が平然と曖昧だった猫崎が変な話を沢山作ってしまうので、私は今に至るまで、その神話に囚われて生きている。
 私の世界観に大きな影響を与えた人物は猫崎とナカノセであるのは間違いないだろう。先んじてもう少し詳しく説明すれば、猫崎とナカノセの中間要素としての人格があった。これは名前や立場を変遷しつつも、常に猫崎の描く漫画に一つの類型として登場し続けた。これが後々問題となってくる。
 ナカノセは、時折、皆から少し距離を置いて、ぽかんとしていることがあった。彼女は、ホームを借りの住まいであると思っているようなとこがあったと思う。本人によれば「世界一大きな船に乗って東京にやってきた」のである。小さい頃はお母さんと一緒にいたというが、それが事実なのか、彼女の願望なのか、実のところは解らない。どこからか、引揚げ船でやって来たのは恐らく事実で、横浜埠頭で脱水症状になって行き倒れになっているところを発見され、公園で浮浪していた傷痍兵の手からイーサー先生に抱き取られたのだった。
 イーサー先生は、祖国ハムスター王国の独立戦争を経て、国連から派遣されたGHQの学視官である。私たちのホームは、創立当初、経営母体が二転三転して、最終的に、北海道の戦災孤児を引き受けることを条件に、エリザベス・サンダースに編入されたが、イーサー・エルク先生は、ホームの設立と存続に尽力した先生として、私たちの知っている一番偉い人だった。
 イーサー先生というのは、ナカノセにとっては、一つの原点であり、革命家としての目標であり続けることになった人物である。
 イーサー・エルクは仲間達と共に独立戦争を開始して間もない二十五歳の時、ハムスター王国を実効支配していた軍閥に捕まり、生死を彷徨うほどの拷問を受けた。背中からふくらはぎにかけて、刃のついた鞭で抉り取られた痕が無数にあり、背中の皮膚は広大なケロイドになっていた。腐敗が完全に止まり、肉が盛り上がるまでに一年を要したという。
 そのため、イーサー先生は腕を挙げる時に少し表情を歪める癖があった。ナカノセの人生を裏打ちすることになったイーサー・エルクの生涯についてはまた後で順を追ってゆく。彼はこの物語のもう一人の主人公である。

 猫崎は物心つく前に親を失って、親戚の間を盥回しにされて、最終的にホームに預けられに来たという比較的多いケースであるが、この話は徐々に形を失ってゆき、最終的には全く違う形に変形した。しかもそれは元に戻せなくなっていった。
 これは猫崎だけの責任とは言えず、猫崎の出自に関する話は最初から揺らぎが大きかった。その経緯を大人達も完全には把握してはおらず、已む無いことでもあった。最初の頃、猫崎は山形の方の親戚の間を転々としていたという話であったが、出生地が三重県であることが解り、その後、大阪にいたことが明らかとなった。猫崎は自分の出自に誰よりも関心を抱いていたと思う。中学校の時の私の担任であった青木先生は「君たちの過去は人伝に聞いたもので、自分の中にないので、気になってしまうのだろう」と言っていたが、誰であれ、自分の出自はどうしても人伝である。親というものは、本当の肉親かどうかはそんなに自明ではないし、そんなに過度に拘るべきことでもないと思う。
 ホームに先立つのは戦後の焼け野原であり、戦災孤児という事情、私たちは親のことを知らなかった。またホームの側が認知していたとしても、混乱を避けるために教えられることはなかったし、法廷後見人として親権をホームに譲った後には、その親たちが安易に近づくことを許さなかった。
 ホームの表札を剥がせば、その向こう側に自分の根源があるのは必然である。たとえ、それが磨耗して見えないものになっていたとしても。
 猫崎はその当初、ホームを出て引き取られてゆく可能性があり、彼女のアイデンティティは大きく翻弄された。
 彼女の描く漫画の根幹的な部分には、常に出自に纏わる話が出てくる。色んな味付けはあるが、大雑把に要約してしまえば、記憶喪失になったお姫様が、最終的にお城に帰ってゆく話ばかりである。
 彼女の主著『魔王アントニウス』や『砂川漫画戦記』、あるいは、未完の『ハムスター王国』等の大作は、掌編の多かったお姫様シリーズとは違って、やや特殊なのだが、それでもその結末において、同じことを描き続けていたと思う。アントニウスは、最後には悪魔城ではなく、ホームへと帰っていく。砂川もそうだ。何故って、それは私たちの実話を描いた漫画だったからだ。彼女の漫画だけが、ホームの皆に特別視されていた。
 私自身が、どういう経緯でホームにやってきて、どういう経緯でホームを去ることになったかは、また後で追って書く。

 ホームの最初の頃にあった記憶は細切れで、順番もさほど明瞭には思い出せないが、今でも私の世界観に影響を与えていると思う印象的なことは多い。
 ホームの下駄箱にまで伸びる小径は丸太の階段になっていたが、半分ぐらい泥をかぶっていてよく滑る。一度、大雨の時に崩れて、赤錆の出た釘で、上級の尚治君が足を刺した。破傷風(ママちゃまは時折ガス壊疽とも呼んでいた)でその後死んだので、錆びた釘には皆恐れをなしていた。
 破傷風にかかると、本業は看護婦であった園長のママちゃまに背負われて、光のまったく届かない防空壕に連れてゆかれて、そこから出してもらえなくなる。目に包帯を巻いて、一切の光が入らないようにしてから、蝋燭に火をつけるのである。破傷風にかかると光過敏になって、ひきつけを起こして死んでしまうからである。
 看護の世界は非常に恐ろしいもので、誤まって、草刈機で足を切りとばしたお爺さんを、凄い力で押さえつけて止血したり、腸チブスにかかって死にかけている子の悪臭を放つ吐瀉や下痢便を掻き集めて処分したりと、獄卒さながらである。下手に近付こうものなら「来るんじゃないッ!」と物凄い剣幕で叱られる。
 私は、ママちゃまに気兼ねして、将来は自分も看護婦さんになって、可哀相な人たちを助けてあげたいなどと嘯く少女であったが、その実、看護婦になるのだけは無理だと思っていた。
 私が生まれてくる前に、戦争で大勢の人が死んだことは子供ながら知ってはいたし、葬式というのはそれ以前にも見て知っていたと思うが、それを死と認識したのは尚治兄が破傷風で命を落とした時が最初と思う。その後、何度か棺桶を石で釘打ちした経験もあったためか、釘には死のイメージが強い。
 あの事故があってすぐに、ホームの階段の丸太は全て釘を抜かれ、組んだ杭に交換されることになった。

 新しくなった丸太の階段の脇にはツクシが沢山生えていたのを覚えている。八歳ぐらいまでは給食が乏しかったので、それを皆で集めて食べたりもした。ツクシに混ざって「緑色のギザギザ」もとい、スギナが生えていて、それを引っこ抜くと、地下茎でツクシと繋がっているので、自分としては変だと思っていたのだが、その摩訶不思議には誰も同意してくれず、そういうものだと諦めた。
 一方、猫崎などは本当に勝手で、彼女の頭の中でツクシとトンボのイメージが混ざっており、地面からトンボが生えてる絵を平気で描いていた。随分とエキセントリックな感性であるが、ニワトリの飼料に春はツクシを混ぜ込んでいた。そして場合によってはトンボを食べさせたことが混同の原因である。
 夏になれば男の子たちがトンボを沢山捕まえてくるが、一晩経つと大抵、全部弱ってしまう。それを地面に撒くと、ニワトリがわっと集まってきてよく食べる。ナカノセなどは男の子に混じってトンボを取っていて、自分がニワトリどもを養っていると自負していたと思う。
 最初のうちは口の利き方があまり良くなかったので、ニワトリは何故か「ども」呼ばわりされていたが、ホームでの生活が充実してくると、そのうちに自然とそういう言葉遣いはなくなっていった。

 戦争はとうに終わっていたが、グラマンの大群が低空で飛んできて、皆で防空壕に逃げたこともあった。ホームの先生たちは何かの間違いで機銃掃射されるかもしれないと本気で思ったのだった。猫崎は、急のことで一気に顔色が悪くなった。子供たちの間で、誰かが撃たれたと噂になって、また戦争が始まるのではないかと私は怯えた。目の前の猫崎は撃たれていないのに、撃たれたことにされた。飛行機の陰に入った時、知らぬ間に撃たれたのではないか。撃たれるというのは、自分の全く知らない現象なのではないかと不安になり、私は、息を荒くしている猫崎の体をひっくり返したり、必死になってその背中を摩ったりしていた。
 戦後になってからも、日赤の従軍看護婦であったママちゃまには召集令状が来たので、中国や朝鮮では戦争が終わってないということは、ホームの子供たちの間では常識だった。
 この時のナカノセは、何人かの愚連隊気質の男の子たちと武器を取りに走って、叱られていたが、私たちは、戦争に対するリアリズム、リアリズムと言って悪いならば、その身近さというものを、知らず知らずのうちに、巷よりも強く感じていたものと思う。






§  国男

 ホームの東側に空の牛小屋あって、男の子たちは、伊吹の生垣からジャンプして屋根の上に飛び乗ったりしていた。ホームの持ち物ではなかったが、小屋に牛が戻ってきて以来、上級生がその世話をしていたので、私たちは小屋の中の牛も含めて、ほとんど自分達のもののように思っていた。
 ナカノセなどは、牛小屋に飛び込むと、牛の足元に潜りこんで、乳に食らいつく。こんなことしていいのか。不安になって猫崎を見ると、彼女も、こいつはちっと頭がおかしいと唖然としていた。
 びっくりするほど大きなアブが飛んできて、猫崎は情けない悲鳴を上げて逃げ出す。私はアブより、敷藁の上にある巨大な牛糞に恐れをなして、知らぬ間に口呼吸になっていたと思う。
 猫崎が怒鳴る。
「火を通さないといけないんだよナカノセ!」
「ひぃ?」
「そうだよ!」
「なんでさ」
「ばい菌がいるからだよ!」
「なんでいるの?」
「知らないけどいるの!」
「うしが平気なら、私も平気だもん」
 ナカノセは、牛の腹の下でその乳首を噛みながら、面倒そうに人間社会に応対してしており、人間の端くれである私たちのお咎めなどお構いなしである。そういう態度はママちゃまに見つかれば流石にやまったが、それも一瞬のことである。腹を壊すとかそういうことより、マナーの問題で怒られていると彼女は認識していた。大抵は「あなたは女の子でしょ」と窘められていたからである。
 ナカノセはその後も十歳ぐらいまでは、このように水道から水を飲むのと変らぬ調子で牛乳を得た。他にも、鶏小屋で卵を取ると、当然の眼差しで、必ずその場で一つ割って飲み込んでしまう。ガリっと卵の頭を齧ってぺっと横に吐き捨てて、中身を飲み込んでしまう。私とて生卵を食べることに拒否感はないが、ナカノセが食べる様子は何か違う。何かじゃない。ただ単に人間の食べ方ではない。時代がもう少し下っていれば完全に変人の部類だ。当時だって、あんな食べ方は普通じゃなかった。

 私達は病院の脇に生えているビワやイチジクの木から実をとって食べたり、道の脇にタケノコが生えていれば、引き抜いてきたりという日常を送っていた。潮干狩り等の大掛かりなものは、教師引率の下ホーム総出で行われた。男子などはオイカワや油の張った田んぼのドジョウやタニシを捕まえてきては焼いて食べる。しかし、それとて、許可が必要であったし、ナカノセほどの悪食を嗜むものはいなかった。
 またその一方で、極初期の頃、今になって驚くのは、女の子たちは、皿洗いの手伝いと称して、流しに溜まる残飯を食べていた記憶もあるということだ。物がなかった時代である。石鹸は使っていなかったし、今とは感覚が違うので否めない面もあるが、嘘ではない。そもそも米軍の食堂では「残飯屋」が出入りしていた。
 現実が衛生観念やマナー等の理想に色々追いついていなかったので、こと食に関しては、本音と建前がちぐはぐになることが多かった。
 ナカノセは茶碗をぺろっぺっろに舐め回さないと気が済まないし、長らく、その方が正しいことであると信じてやまなかった。ご飯を無駄にしないし、茶碗はきれいになるしで言うことなし――。男子も大方その口なので、ペロ禁止令は厳格なれど、初期にはどちらが正しいかを巡って、勢力が拮抗していたぐらいで、カレーやヨーグルトが出る時には、ママちゃまの方が折れざるをえなかった。
「先生が見ている時はダメで、先生が見てない時はいい」
 ナカノセは、残飯の中でも相当に怪しいものにまで平然と手を伸ばす手合いだったので、悪びれる様子もなく、そんなことを言った。
 先生はナカノセを叱るよりも先に、きちんと言い含める必要があった。理解出来れば、比較的融通が効く。ただし、これは優れた説明が出来ないと、全く治らないということでもあるので、先生たちは手を焼いていた。ママちゃまはマナーの問題として指摘するのは諦めていて、食中毒や集団感染が起るから、残飯を食べてはいけないと説明すると、ナカノセはこれをよく理解した。ただ、自分が行けると踏めば、ルールなどお構いなしなのは結局変らなかった。

 ナカノセは確かに群を抜いて危険嗜好だったが、男の子だったら同じくらいの奴はクラスに一人、二人はいた。先生たちは、男の子の素行の悪さには結構甘かったと思う。
 必然、ナカノセは男児と一緒にいることが多く、時には取っ組み合いをやったりもしたが、やはりと言うべきか、これが小さい割りに喧嘩が強い。痛みに対して異様に強い。千里引きが得意で、相手の指を取ると、そのまま無茶な方向に巻き倒してくるので、やられた方はたまったものではなかった。ナカノセは自分以外の女の子はすごく弱い存在であると思っていたので、私がナカノセと殴り合いの喧嘩をした経験というのはないが、一度何かで罵り合いになったついでに、頭を押さえ込もうとして手を出したら、逆にその指先を捕まえられてしまった。親指を一本捕まえられただけであったのに、全く身動きが取れなくなってしまう。
 後になって力道山ブームが来るとプロレスの研究に熱中し、専門的な話を、同学年だった国男とよく語り合っていた。相撲で言ったら誰が横綱で、誰が大関であるとか、ヤクザや米兵がリングに上がって異種格闘技戦をすることになったら、どっちが勝つか、武器は使っていいのか等……。もちろん私はついてゆけない。はっきり言ってこの手の類は興味がない。猫崎に至っては「プロレス嫌い」と言って憚らない。
 女の子なのにパンツ丸出しでプロレスごっこをやっているといい加減ママちゃまに悲しまれてしまうので、ナカノセはそのうちに、レフェリーや実況に回ることを覚えた。案外その役回りでこその何かを見出していたと思う。関節技を抜け出す方法とか、怪我をした場合の対処、ルールの普及などにも熱心であったと思う。

 あとは、ひとりでに朝会や演説の真似事などもした。世界平和の必要性とか、手洗いの大切さとか、タニシの集め方とかで、内容自体は大したこと言っているわけではなかったが、そのうちに観客が集まってきて、真顔で質問をする。
 車掌の真似ごとをする男の子や、先生ごっこをする女の子はよく見たが、こういう、いわゆる演説の真似事をする子はナカノセだけであったと思う。
 街頭のアジ演説や、先生たちがデモ行進をする姿を見て真似ていたのである。
 その一環であったと思われるが、ナカノセは大概は何か棒切れを持ち歩いていた。とにかく棒を持つことは彼女にとっては当然のことで、MPや警察が持っている棍棒を真似ていた。時代はまだ、子供がチャンバラをやるような気風を残していたし、権力の形象として、最も単純な武器や道具として、長柄の代物が社会に沢山存在していたのである。
 中でもお気に入りは、箒入れの中に入っている天秤棒で、これを振り回し始めるともう、天下無敵で乗りに乗りまくる。ただ単に棒を振り回すことの何がそんなに楽しいのかさっぱり理解出来ないが、遊びがだれて、つまらなくなってくると棒をとってくる。オハジキやってても棒を取ってくる。皆でどこかへ出かけようとすると必ずどこかに隠してある棒を取りに戻った。終いにはノコギリを借りてきて、竹槍を何本も作って、私や猫崎にまで配ったことがあった。私は、それを切り詰めて、風呂を沸かす鞴に使うのが関の山で、猫崎は望遠鏡にして、ポエムめいたことを呟く程度である。
 もしも、同じ時代、同じ場所に集められなければ、それぞれ一緒にいることはない性分だったかもしれない。私には女の子の他の友達が人並みにいたが、ナカノセは私と猫崎以外の女の子と関わることが案外少なかったのではないかと思う。取り仕切るために呼ばれることはあれど、ナカノセは他の女の子たちとはそもそも種類が違った。私や猫崎のような何人かの連絡役を作って、それを介してグループ内のゴタゴタを片付けにやってくる役回りが、ごく小さい頃からはっきりしていた。

 猫崎はというと、これは浮いていた。浮いているというのは、つまりナカノセと逆で、役割を必要とされずにグループ内にいる。ゴッコ遊びをしていても、猫崎は何故か「猫崎」の役回りで、本人は本心、お姫様役や、お姉さん役をやりたいのだが、いい役は競争が激しいので、なかなかそうもならない。一方で、皆で何をやりたいとか、話の設定には結構、喧しく口を出すところがあり、彼女もまた、ある種の余所者だった。
 お絵かき以外の時は出番がなくて影が薄い。興味のない話は半分ぐらいしか聞いてないようなとこがある。彼女は時間さえあれば絵を描いていたが、年齢が上がるにつれ、それは意識的に漫画という形になっていった。元来病弱であったので、ママちゃまや先生と一緒にいることも多く、政争の具にされることはあっても、誰かに苛められるということもなく、割と平和に暮らしていたと思う。

 男の子たちは、最初の頃はよくチャンバラをしていたが、横浜高校でピッチャーをやっていた大岩先生が来て、野球を教えるようになると、これまた暇さえあれば、キャッチボールや、素振りばかりをしていた。そんなに細かい指導もなく、とにかく根性のようで、私には何が面白いのかよくわからなかったが、彼らはそれこそ真剣だった。
 大岩先生は戦場で投擲手として手投げ弾を投げ続けて肩を壊して帰ってきた人で、ホームからプロの野球選手を出すことが彼の夢だった。

 男の子たちのことに関しては、そのやらかした数々の土地悪さや凄まじい喧嘩、水上小学校との合同チームで県大会まで行った根性等、語るべきことは多々あるが、ナカノセの歩みを追う以上は、彼らの話を差し置いても、触れておかねばならない話が他にある。国男のことだ。
 彼は地味な男の子だったが、ナカノセにとっては最も重要な少年で、彼の残したノートがなければ、ナカノセは高校へは行けなかったはずである。
 国男は、皆が肥後守でバットを削り出している中で、流行遅れの木刀を作るタイプだった。野球の話をすると、細かいルールの話にばっか気が向いて、プロ野球の選手の話にはあまり興味を示さない。「送りバントって、本当に有利なの? だって、それでワンナウトでしょう? ああ、下手すると損の方が大きいよ、これは……」とか、そういう独り言をブツブツ言いながら三振する奴で、打順は決まって最後の方で「おまえ、代打!」とか、気の強い子たちに罵られている口である。
 幾分どん臭かったので、女子たちの話題にも上らない男子だった。しかしナカノセはある日、その存在に気付いた。女の子たちは、上級生の富子姉さんから縫い物を習っているところだった。洗い張りの着物を干している時に、何枚か風で飛ばされたか、盗まれてしまったかして、元の着物の形に戻らなくなってしまい、残った生地を分け合って、小さなポーチを作っていた。
 ナカノセはどうにも「コマイ仕事」が上手く行かず、自分は木刀の方が欲しいと言い出して、国男と仕事を交換する約束をした。そのうちに、ナカノセが削り方が曲がってるとか、ささくれ立っているとか色々と注文をつけるようになり、国男はそれを黙黙と直した。
 それ以後、国男はナカノセのお気に入りの男子となった。国男の風采は見るからにトロく、しまりのない口は常に半開きだが、さんすうがよく出来た。先生が余興でやるナゾナゾの答えを出すのが早い。手を上げる前に、天井の斜め上を覗き込んで、ゴニャゴニャっと一人ゴチするようなところがあって、皆が答えに詰るような頓知を、ぼよーんと伸びてきた手で、さっと選り抜いてしまう。スローモーションがかかっているように見えるが、結果、速い。
 私としては、ナカノセが国男の独り言に気付いて、くるっと振り向いて、眦を裂く様子の方がすごくて、誰かがおもらしでもしたか、貧血でも起こしたかと思ったことが何度かある。

 国男は、米兵がくれたパズルを飽きもせずに何十回も解くような習性があった。皆が外で遊んでいると、国男と猫崎だけ教室に残っていて、互いに何の関心も見せずに、自分の世界に没頭しているという光景を何度か見た。他にも、国男はヨーグルトや白玉の入ったフルーツポンチを別けるやり方が慎重で、中の具の公平性が保てないことには、くどくど言って、腹を立てるようなところがあった。
 分割にはうるさいが、彼が変っているのはそれだけではない。たとえば私たちのホームには重要な備品としてポン菓子砲というものがあったのだが、このお菓子の出てくる大砲は、網のたてつけが悪く、時折菓子をそこらじゅうに吹っ飛ばすことがあった。そうすると皆地面に這い蹲って我先にポン菓子を拾い集めるのだが、彼はポン菓子を集めることよりも、ポン菓子砲を見ている方が好きで、菓子の方にはほとんど気をとられることがなかった。彼が金網を外れないように工夫すると、一人占めする気だと皆に思われて、余計なことをするなと罵られたりもしたが、彼は決してそんなつもりではなく「なんなら僕の分は誰かにあげるよ」とか軟弱なことを言うのであった。
 分配はナカノセにとっても強い関心事であったので、何かを公平に別ける必要がある時には国男を大声で呼ぶ。
 国男は、お好み焼きの分割などに際し、取り合いになったりすると、口をわなつかせながら「だったら、それは、切る奴と選ぶ奴を別にすれば上手く行く!」とか言う。ナカノセは、子供ながら、こういう解答をすることの出来る国男の意見を重視していた。
 早い者勝ちとか絶対言わないので、子供目線には面倒くさい奴でもあり、少々煙たがられてさえいたが、ナカノセと大人だけは、彼が並じゃないことを解っているようで、一目置いていた。試験の成績は私と大差ないか、むしろ私の方が出来ることが多いので、子供の頃は彼がそれほど凄いとは思っていなかった。その彼は今、サンパウロ大学の工学部で助教授をしている。ブラジル組というのがあって、ブラジル移民団に十二歳で加わったのだ。ブラジル組は不慣れな異国の地で皆奮闘したが、彼はうちのホームで最も出世した人物である。
 中学に上がると彼は高校を受験受することになっていたが、直前で遠い親戚に引き取られることになって、その親戚一家共々ブラジルに渡ることになった。本人はそれをいいとも嫌とも言わず、若干緊張しつつも、相変わらずのぼよーんとした表情で、皆に見送られた。ナカノセが神妙な顔つきで「いつかまた会おうね」と言うと、国男は、明日また遊ぼうと言われたぐらいの様子で頷いて「そういえば、スズメバチの巣がガード下にあるから食えばいいんじゃないかな」と告げた。
 あまりにもヘンテコな別れの挨拶だったので、皆ずっこけたが、ナカノセによると、彼はこんなことも言っていたらしい。
「皆、関数で躓いて時間を無駄にするぐらいなら、確率と統計を優先した方が将来役に立つと思うんだ。僕は将来、算数の教科書や問題集を作る人になりたいと思う」
 中学一年生で、既にそこまで考えているとは、立派な奴だと感銘を受けたという。
 ナカノセ自身は数学が苦手だったが、海上保安高校を受けるに当っては、彼の残していったノートを使って熱心に勉強していた。曰く、教科書よりよっぽど解りやすい。
 何せ、そのノートのイントロダクションが凄い。
「教科書というのは、先生の講義ありきで成り立つ本なので、素読しても解りづらいのは仕方がない。そうであれば、一方で、教科書を読んで解らないことはそんなに心配しなくてもいいと言える。このノートは、中等数学を一から始める人のために書いたもので、このノートを手に取った全ての人に少しでも役に立ち、理解しやすいように、務めて丁寧に説明を重ねた。長くなるが、ゆっくり読めばきっと解るはずであるから、諦めずにじっくり取り組んで欲しい」
 国男は、後年、沖ノ島中学の立ち上げに際して、ブラジルから支援に駆けつけてくれた人物であり、ホームの歴史を語る上で欠かせない人物となった。
「博士になるにはどうしたらいいのか」と、生徒たちに訊ねられて、こう答えている。
「上手いことしようというよりは、好きなものを育てるというふうに考えるのがコツです」と。
 彼はホームが願っていた理念を、最も体現した男であると思う。



  三 * *

 国男と別れて、ガード下のスズメバチの巣はその後、私とナカノセで見に行った。
 それ以前から蜂の巣を見つけると縁の下に隠してある竹槍で突き刺すのは恒例であったが、ナカノセは年上に混じって、むしろ率先してそれをやっていた。最初の頃は危ないから来るなと上級生たちに追い払われていたが、そのうちにナカノセは自分一人で蜂の巣を退治するようになった。「スズメバチは危ないから気をつけて!」と注意を喚起しつつ、自分はでかい石をぶつけたりする。危険極まりない。今では考えられないことであるが、お構いなしである。どちらかというと蜂に同情する。無益な遊びを卒業するようになると、巧妙にも夜中にズタ袋を持っていって蜂の巣に被せ、シャベルで黙黙と叩き落す。池に錘をつけて沈めて、次の日引揚げると川エビまでまとわりついている。炒って食べた。蜂の巣は泥で出来ているので、とるもの残して全部溶けてしまうのだ。私も猫崎も最初は嫌がっていたが、炒った蜂の子は頂くようになった。
 ナカノセだけではないが、男子が奮闘して食糧調達してくる量はばかにならなかった。変なものも随分食べていたが、それが原因で死んだり、病気になったりということはない。
 ハチの巣取りは、国男おすすめのガード下のスズメバチの巣を退治したのが最後である。この時猫崎はだいぶ弱ってきていて、布団からあまり出ようとはしなくなっていたので、一緒に見に来ることは出来なかった。元より猫崎は生まれついた性分か、危険なものにあえて近付くようなことはしない。何より彼女は漫画を描くのに忙しくてそれどころではなかった。
 ナカノセと一緒にハチの巣をガード下の脇に流れる小川に沈めた後、猫崎の体の具合のことについて長々と話したのだが、これといった解決策はあるべくもなかった。
 ナカノセはそのうちに猫崎の体調が回復したらという方向に話を変え、思い出話をした。思い出話とはいっても十四歳でする話であるから、十年も遡れないのであるが、この頃は頻繁に私たちの過去を確認し合っていた。

 ガード下の脇を流れる川は、幼少期の私達には良い遊び場であった。キラキラ光る青い蜥蜴が石の隙間から顔を出すと、ナカノセや男の子たちはそれを真剣に捕まえようとしていた。猫崎は「噛まれるからやめた方がいい」と言って嫌がる。一方でナカノセなどは蜥蜴の切れた尻尾を手に入れると、食べると言ってきかない。放置しておくと生で食べてしまうので、ママちゃまの指導の下きちんと調理されることになる。トカゲの尻尾は切れていても、火で炙ると寝返りを打ってひくひくする。これがあった次の作では、猫崎の漫画に蜥蜴や地獄の描写が出てくるので、ナカノセは半ば解っていて蜥蜴を捕まえるのである。漫画の中で、自分の捕まえた蜥蜴が暴れまわるのを楽しみにしていた。川では小魚やエビ、タニシなんかもよく取った。
 ナカノセは、それらの自分で調達したおかずのことをツマミと呼ぶ。ママちゃまが何度直させても、ナカノセにとっては、主食以外の食べ物はツマミであり続けたので、いつしか、ごはんのおかずのことをツマミと呼ぶのがホームに定着していた。
 このせいで「おつまみ」と丁寧に言えば通用するものと勘違いした女の子は多く、一つ上の七生などは、おかずのことを、いまでもツマミと呼んでおり、自分の子供まで、そう言っているという。
 私はナカノセに訊ねる。
「何で、おかずのこと、ツマミって言うようになったの?」
 だいたい、どこで覚えたのだろう。
「私たち、タニシとか食べてたじゃん。今も食べてるけどさ……。あれって、私たちにとっては定番のおかずだったけど、道普請とか、水商売とかでも、酒のツマミの扱いだったと思うんだよね。飲み屋のおばさんに、何とってんの? って尋いたら、酒のツマミって、言われて、ツマミになっちゃったんだと思う」
 そんなことを言って、ナカノセは楊枝でタニシをくるくると引き抜いて、そいつを、ぱくと食べた。
 横浜に珍味を食べさせる料亭があって、私は十年ぶりのナカノセを眺めていた。ナカノセの印象は何も変っていないように思える。その隣には、これまた、すっ呆けているのか、鋭いのか、妙な塩梅の女が、突き出しのタニシを真剣な眼差しで引き抜いていた。こういった人間がナカノセには必要なのだろう。
 ナカノセの知り合いで犬吠埼先生という。本業は気象学者で、思いもよらない風の吹き回しにより、ナカノセと戦場を共にすることとなった。
 食通である。
 犬吠埼先生は自己紹介も忘れて、目の前の肴の紹介をしていた。
「これは世界で一番美味しいサバの味醂干しです。これを超える味醂干しは他に存在しません」
 ナカノセはそんなことお構いなしに、世界一の味醂干しを、自分の分と線引きしたところまで、非常な速さで平らげてゆく。
「ナカノセ。味解ってんの?」
 ナカノセは「うんまい」とぞんざいに頷いて、半分つっついたあたりで、味醂干しをひっくり返した。
 犬吠埼先生は市場の魚を見て回るのが好きで、横浜港の魚市場などでは顔馴染みになっていた。第五福竜丸事件以後の漁業対策で協力していたので、全国津津浦浦の漁港に伝手が多い。稀代の女性科学者として一時期は非常に有名な人でもあったので、揮毫を求められて「一期一会」などと書いたりもしていた。
 残念ながら研究者としては一連の政治的動乱によりケチがついてしまった人で、本人も学会には見切りをつけて距離を置いている。今は料理人になるか、料亭経営者になるかで身振りを決めかねているとのこと。
 ナカノセとつるんでいる段階でご愁傷様なのであるが、どうにも隙が多く、トラブルに巻き込まれやすい性質で「犬も歩けば棒に当る」を地でゆく。
 なにせこの時のナカノセは「仮り出所中」である。彼女と次に会ったのは米軍の基地内で、私と国男とで会いに行ったのだ。ナカノセはずっと米軍に捕らえられていたというが、恐らくは戦い続けていた期間の方が長い。ナカノセの話には少なく見積もっても空白の三年間があり、彼女はかつてのママちゃまと同じように、全てを語ってはいなかった。






§  上海

 ホームの成立過程そのものがナカノセを決めてしまった部分も大きいので、ナカノセが本格的に駆動するまでに、もう少し話を遡らねばならない。何より、私たちのママちゃまのことについても触れておく必要がある。ママちゃまというのは、ホームの園長であった松原美保先生の愛称である。ナカノセが物心つくまでは、彼女に主人公として登場してもらう。さしずめ最初の主人公だ。猫崎はしばしば、主人公を切り替えて意表を突くという方法を使ったが、それを「最初の主人公」と呼んでいた。実際、松原美保、彼女に類する人物が私たちの物語の中において最初の主人公であることは珍しくはなかった。大抵の場合本編の主人公は、最初の主人公から何らかの影響を受けているが、ナカノセの性格や立場もまた、ママちゃま譲りと言える部分が私や猫崎より色濃い。
 私たちの漫画は、幾らかルポ的なところがあり、ディティールに留まらない部分で、その眼差しが妙に現実的である。年齢不相応にも風刺漫画と解釈されることもあった。たぶん、ママちゃまの語る戦中の中国大陸での実体験を繰り返し聞かされる中で、継ぎ接ぎして作られる話が多かったからである。
 私たちにとって彼女は先生であると同時に母であり、ママちゃまからは裁縫、料理のみならず、ゴキブリのすっ叩き方から、美人に見える写真のとり方まで、およそ庶民教養的なことのほとんどを学んだ。即興でチャップリンの真似をして子供達の笑いをとったり、どこで手に入れたのかドラを叩いて昼ごはん招集をかけたりするようなこともする女性で「トラップ・ファミリー」(後のサウンド・オブ・ミュージックを、私たちはそう呼んでいた)の主人公、マリア・トラップに憧れていた。そのくせ歌の方は下手の横好きで、ちょい音痴。
 猫崎が不用心にも、イーサー先生や何なりを彼氏役で登場させて、メロドラマめいた作を拵えると、ママちゃまは年甲斐もなく慌ててすっ飛んできて、デリカシーがどうのこうのみたいなもっともらしいことを諭しつつ、その漫画を没収することがあった。なにはなくとも面白い。彼女の作るホーム自体がコミックめいていて、茶目っ気のある女性だったと思う。
 だが看護を教える時は非常に厳しく、必要とあらば極めて冷徹な人でもあったと思う。
 物怖じしない性格で、米兵や愚連隊、ヤクザから兵隊崩れまで、数多の悪党との交渉に毅然として立ち向っていた。
 彼女の飄然としたところを作ったのは看護学校。根性を作ったのは看護学校を卒業して最初の勤務地であった上海であるという。子供の頃、まだ女学生だった頃は引っ込み思案で随分大人しかったのだという。
 ママちゃまはイーサー先生とは戦前の上海で知り合った。当時の上海は一旗挙げようとする庶民派のみならず、政治家、マフィア、大手商社の社員、革命家、それにスパイまで、それこそ、世界中のありとあらゆる立場の人間が、それぞれの思惑をもって集まってくる場所だった。

 イーサー・エルクは祖国ハムスタンの独立に燃える革命家で、レーニン・スクール(ソ連にあった共産党幹部養成機関)を出て間もない青年。当時二十五歳であった。ハムスター王国戦線に身を投じて以後は、騎兵小隊を任され、匪賊や地域軍閥との戦いに明け暮れていたが、ある時、軍閥の一つ東北抗日聯軍の罠にかかり、自身と深手を負った部下数人を残して四十人あまりが戦死するという凄惨な敗北を喫した。捕まって拷問を受けたのもこの時である。
 だが、間もなくこの東北抗日聯軍は、地元の馬系軍(馬氏の血筋に連なる、漢民族イスラム教徒の戦闘集団)の襲撃を受ける。イーサーの捕まっていた獄舎にも火が回り、彼はその混乱に紛れて脱走。九死に一生を得た。
 国民党の盛世才がハムスター王国の全権を掌握すると、イーサーは、来るべき反攻作戦の準備のために、ハムスタン議会議長のアブドゥルラシド・フサイン二世の命令により密使団に選抜されて、軍閥が割拠していた当時の中国大陸を横断。主に日本政府を当てにして国際的な支援を受けるために上海へと向かった。ところが、イーサーに与えられた実際の処遇は、密使団に伴って上海の病院までゆき、その後は雀の涙ほどの傷病兵年金を貰って、除隊すべしという扱いだったらしい。
 まだ完全に傷の癒えていなかったイーサーは旅の途中で何度か生死の境を彷徨った挙句、中国内陸部の都市西安で暴動に巻き込まれ、仲間たちと逸れてしまった。イーサーは予定より二ヶ月遅れて単独で上海にたどり着き、日本の政治家や軍部との接触を図ろうとしていた。上海にたどり着いたときにイーサーの持っていたものは、一発しか残っていないソ連製の回転式拳銃と僅かな金額の上海ドル。そして、国際的な通用力を持たないハムスター王国旅券だけである。浮浪者同然の風貌で、到底、海外の有力者に取り合ってもらえるような状態ではなく、行き倒れとなるのは時間の問題と思われた。

 当時の上海には、中国最大の租界があった。租界というのは、外国人居留地のことで、そこは日本を含む列強諸国の治外法権下にあった。上海の租界は大まかに言って、一国独立を堅持していたフランス租界と、英米が支配しながらも、欧米各国の寄り合い世帯である共同租界に別れており、唯一のアジア勢であった日本は英米租界に組み込まれた立地を持っていた。
 上海共同租界旗という万国旗で作った万華鏡のような奇妙な旗があって、それを見れば当時の状況が一目のうちに推察される。「全てのものが一つになって――」というモットーの下に列強諸国が中国というパイを散々に切り分けた様を図にしたような代物で、これは「――中国を食い物にする」という結論を絵に描いたものに他ならない。
 日中戦争が始まり、枢軸国と連合国という枠組みが出来上がってくると、上海租界の形勢は必然的に日本一強という形になったが、依然として国際性は残り、戦場となった中国大陸の中において、制度的な中立性を保っていた。
 上海の租界はその当時既に東洋随一の金融街である。「東洋のパリ」と呼ばれ、世界最大の都市であった。世界中の富裕層が集まり、とんでもなく煌びやかな生活もあったが、一方で猥雑な繁華街としての顔も持っており、大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣された当時の芥川龍之介は上海のことを「下品なる西洋」と書いた。道端には汚泥に埋もれるような日々を送る浮浪者もたむろしており、明暗は激しい。
 筋の悪い通りなどには野犬も多く、行き倒れになった人を食い散らかすというのはさして珍しい光景ではなかった。その残骸は警察に届け出されることもなく、掃除夫が掻き集めてゴミと一緒に燃やされてしまうのだった。
 ママちゃまこと松原美保は、当時二十四歳。上海北四川路の日本人街で活動していた梶木宗一医師の下で働いていたが、この先生が脳溢血で倒れて世を去ってしまい、途方にくれていた。残りの仕事を片付けつつ、やむなく店を畳む準備を始めているところだった。
 そこに、あと一月持つか否やという風体のイーサーがやってきたのである。
 上海の浮浪者は中国人ばかりだった。その時のイーサーも浮浪者同然だったので美保はイーサーのことをやはり中国人の浮浪者であろうと思ったが、その風貌は面長で、彫が深く、髭が濃い。原型を留めていないカイゼル髭が、こけた両頬の上に散らかっている。しかし、西洋人かというとちょっと違う。あまり見ない人種だった。

 イーサーの話す漢語は内陸の西北方言で、美保の上海訛りとはほとんどかみ合わなかった。埒があかず、次の患者が待っていたので後回しにしようとすると、イーサーは自分の後ろを確認して、咄嗟に英語で話しかけてきたという。
 この時の次の患者は梶木医師の旧友でイギリス人のマーティン・クリフォード卿と言った。クリフォード卿は中国産の銘菓を欧州に輸出している貿易商人で、薬用阿片や漢方薬なども扱っていたので、それらを自煎していた梶木医師とは縁があった。非常に羽振りのいい男で、上海事件以後、日本軍が租界内での影響力を高めて、イギリス租界随一の名門企業、ジャーディン・マセソン商会(阿片戦争の発端となった)が傾き始めたのを機に、若くして一財産を手に入れていた。
 祖国の没落を食い物にしていると批判されていたが、何を況や、全ての成功は誰かの没落を食い物にしているという、ニヒルな世界観の持ち主で、それを隠そうともしない。子供のように我侭な男でもあったが、軽薄な魅力とでも言うべきか、直情的で喜怒哀楽に嘘がない性質で、英国富裕層にしては、えらく簡単な性格をしていた。
 梶木宗一を老師と呼ぶかわりに、サーをつけて自分を呼ぶことを要求し、美保には、会うたびにチップを寄越したり、ロードショーやアイスクリームを奢ったりして、自分を貴族扱いするように求める。梶木宗一は、この男を「俗物の王」と評していた。美保も、最初は如何わしく思いつつも、気前はいいので単純に好きだったが「そういう女」が五、六人いることを知って見切りをつけることにした。
 上海の租界ではごく一部の有力者や政策の決定者を除いて、出身国ごとに別れて暮らしており、英国人と米国人ですら別々の社会を築いていたので、こういう関係は思うよりは少ない。日本人とて出身地域で固まる傾向は強く、県民会同士で対立することすらあった。会津人と長州人が幕末の因縁を引き摺っているのも、琉球人が朝鮮人に順ずる異邦人であるのも暗黙の了解である。昭和のはじめから昭和の終わりよりも、昭和のはじめから幕末の方が近いことを踏まえねばならない。
 その日、上海は雨だった。イーサーは、雨よけに使う油紙と膿止めのサルファ剤を求めていたのであるが、診療所ではどちらも在庫を切らしていた。美保が何の気なしにそのように言うと、イーサーの沈んでいた瞳がふっと上を向き灼を帯びた。唇は震え罵声意外の何かが繰り出される。それで美保は、目の前の人間の凡その正体を察した。そして、この青年は遠くない将来、どこかで殺されることになるだろうとも思った。
 美保にはどうすることも出来ない問題である。油紙も薬も本当になく、この診療所は支払いが出来る限り、身分や人種を問わないと伝えるも、イーサーはそう簡単には引かず、横から仲裁に入ろうとするエセ貴族、クリフォード卿を肘で牽制し、自分の身の話ではなく公平性を問い始める。
 美保さえ興味のない日本の政治家や軍人の名前が次々と出てきて、その真意と民意を問い始める。
 革命を目論むインドの志士か。モンゴルの亡命知識人か。ナチスに追われたユダヤ人が上海に大挙して押しかけていたので、こういう手合いは見て知ってはいた。
 とはいえ、ないものはないし、邪魔なものは邪魔だった。雇い主が死んでしまい、明日どう暮らしてゆくかが全ての懸案である一介の女に日本政府の見解などを問われても困る。
 仕事の邪魔をしてくる浪人を不審に思いつつも、美保は金があるのならばとイーサーに別の医院を紹介した。フランス租界に梶木宗一の伝手のあった、ジャック・フォルチュネという医者がいて、美保自身も、そこで雇ってもらえないかと考えていた。しかしフランス租界で仕事をするとなれば、言葉を新たに習得するまでに随分時間が掛ってしまう。そんな余裕があるべくもなかった。フォルチュネ医師は熱心な慈善家であったが、彼の輝くばかりの大理石の医院では、東洋人の給与体系は欧米人より二割から三割程度低く見積もられている。「支那人と犬は入るべからず」で知られる上海、黄浦公園(こうほこうえん)旧パブリック・ガーデンの看板があったと実しやかに語られていた時代なので美保自身、それを特別不満には思わなかった。言葉や慣習が通用しないので、同じだけの仕事が出来ないということを理由に納得していたという。
 イーサーを診療所から追い出した日の翌日、美保は旧知の沖ノ島という医者に連絡をとって、自分の勤め先を斡旋してもらおうと手紙を書いた。



  四 * *

 梶木宗一医師は荼毘に付された後、その遺骨は上海の海に蒔かれた。この時の葬儀も美保は沖ノ島に頼んでいる。沖ノ島という人は少々奇異なことをする人で、医者でありながらある種の祭祀を執り行う女だった。非常な美人で、これが亡国の姫君か、崑崙の仙女の如き装いで独歩するので、しばしば日本でもその噂は聞き伝わっていた。美保のいた看護学校にもたびたび顔を出しており、学生の間では、その時から既に有名人であったという。
 梶木宗一医師には「俺の死体は犬に食わせて骨は海に撒け」と命じられていたので、葬儀は只で行われた。もとより、残すような財産もなかったので、美保は言われた通り、無賃で葬式をしてくれる沖ノ島に連絡を取るしかなかったのである。流石に犬に食わせはしなかったが、沖ノ島は、各戸から瞬く間に薪を集めて回り、各々の梶木宗一の思い出話を促し、上海の中心を流れる黄浦江(こうほこう)の東岸で焼いた。
 老師こと梶木宗一はぶっきらぼうで、仕事の他は一見して何もない人生を送った人だった。濁った海水で炊いた炒飯と魚の切り身だけが彼の食事で、それを朝夕二回、焼酎で飲み干す。昼飯は食べない。そんなの体にいいわけがない。また、彼は時折こんな警句を口にした。
「美保。理想を求める人間なんて残らんぞ。情も矜持もないどうしょうもないのだけが残るから、覚悟しとけよ」
 貧しくとも志の高さに関して一目置かれる医師で、美保もそう信じていたので、最初のうちは何故そんなことを言うのかと不思議に思っていたが、老医師には一つ余計な悪癖があった。
 この老人は、日曜日には教会に行くと嘯いて、馴染みの娼婦を抱きに行った。修道服を着せて犯すのがお好みなようで、急患で呼びに走ると、その娼婦はいつ見ても、修道服を着たまま裸の老人に押し倒されていた。美保が知る限り一応クリスチャンのはずである。それでも隠れるようにして出かけるのであるが、本当にそればっかりなので、ひょっとして、教会に行くというのは、嘘というよりも、これの言い回しだったのではないかと思うことがった。
 葬儀の中、その中年の娼婦はどこか晴れがましいような表情で煙を見送っていた。
 黄浦江の東岸は浦東と呼ばれるが、まだその頃は開発が進んでいない。外灘(バンド)と呼ばれ、天楼が並ぶ都会的な西側と、海辺の寒村を留めている東側とでは、まるで合成写真のように極端な断絶がある。
 上海のどこらへんが最も上海的なのかと言えば、この鋭い刃物で切り落としたかのような東西の劇的な競り合わせに他ならない。
 沖ノ島は、梶木宗一の葬儀に際して、わざわざ浦東に向かい、浦西に戻ってくるという視野の変化を求めた。奇妙な脱感作を伴って、さほどの縁もなかったのに泣く者が多かったという。激動の時代に生まれ、泡のように消えてゆかねばならない運命を諭されたかのようであった。
 中国人にとっては人間を火葬にしたというのもショックが大きかった。浮浪者が犬に食われることには、さしたる関心がないにも拘らずである。キリスト教も基本的に土葬なので、それらを信仰する人々からしても彼女のやり方は異端であり、弔問客のうちの何人かは物議を醸した。
 沖ノ島は小さくなった西岸の街並みを背に、思いもかけないことを言う。
「赤十字では死者を炎で弔うことが出来ます」
「そんな規定があるのですか?」
 美保は思わず訊き返したが、そもそも赤十字は宗教ではない。しかし、沖ノ島は美保に向かって静かに頷く。参列の中心には確かに炎のように赤い十字架の旗が高くはためいている。美保は一瞬理屈をすっ飛ばして沖ノ島の言を信じてしまいそうになる自分に気付いた。空から降り注ぐ光と風が火の粉と煙と混ざり合い、居合わせた者全員が聖書の世界と地続きであることを思い返すことが出来る。そういう強いエネルギーに満ちていた。
 沖ノ島は天賦の才で象徴操作に長じていた。形骸化して久しい神父たちにはない、ある種の能力を持っていることは確かで、この人にならば任せられると、その場に居合わせた誰もが思っているようだった。
 過去大清帝国を揺るがした太平天国の乱(キリスト教系)の経験をもつ中国民衆にとっては沖ノ島会の存在は日本人が思うよりははるかに信憑性がある。日本帝国の植民地獲得の野心と軍事力を頼みに大上段から布教を試みた日本仏教、神道界に対し、命懸けで闘う姿勢を見せていた沖ノ島会は、教祖本人の奇矯な性格や、その未熟を超えて民衆の信頼を勝ち得ていた。
 無論彼女は医者である。上海のような大都会においては、都市衛生の面で火葬がやむを得なくなる。自分の家さえ持つことの出来ない貧乏長屋の民衆が土葬を望むことは困難で、何らかの前例を設けねばならないという医療行政的な見解が沖ノ島と梶木宗一にはあった。梶木はこれも奇矯な人であったので、自分の死体は本気で犬に食わせたかったようであるが、自らの亡骸を沖ノ島が独自の医療倫理と宗教観で扱うことを認めていた。
 梶木宗一は沖ノ島が東京の帝国女子医専で学生をやっていた頃の担当教授で、この神懸りの少女の哲学的な話し相手でもあった。
 美保は自分が持つことになった菓子を刺した花枝の上に、鳩が何度も舞い降りようとするのを受け入れつつ、自分が沖ノ島の儀式に知らぬ間に巻き込まれていることに気付く。
 マーティン・クリフォード卿は、沖ノ島の存在を不思議そうに物見していたが、火葬には動揺することがなかった。そのうちに祭祀を執り行う姿に何らかの啓示を受け、沖ノ島に神学的な説明を求めた。
「何故焼くのだ? それで復活が出来ると考えるのか? 灰になってしまうではないか」
「鳳凰と同じです。あなたたちアブラハムの民は世俗の理屈に絡め取られ、炎による復活を忘れているだけなのです。焼かれることで天国にいけないのであれば、ローマのラウレンティウスは聖者たりえなかったでしょう」
 そこでクリフォードは我が意を得たりとばかり、即決する。
「聞いたか諸君。予が死んだ時も火葬にしてくれ。ミサは沖ノ島あなたにお願いしたい」
 意志一つで貴族になろうとしている自分の青春を、沖ノ島の新しい祭祀に重ね合わせていたものと思われる。
 ラウレンティウスというのは、ローマ帝国時代のキリスト教の聖人である。ラウレンティウスは、捕らわれて火刑に処された時、焼けた鉄格子の上にその身を置きながら「片面はよく焼けたから、ひっくり返して、反対側もよく焼きたまへ」と言ってのけたという。それを見ていた衆人は、ラウレンティウスの勇気に感動してキリスト教に改宗したのだという。
 感動する方も感動する方であるが、本人は喋る焼き魚みたいな奴で、私たちが幼少の頃、七輪で魚やスルメを焼く時にはこの時の逸話を思い出して「ラーレンテテスごっこ」をするのが恒例だった。
 ともかく、梶木宗一医師はそうして荼毘に付された。
 美保が沖ノ島に仕事の伝手を求めて手紙を出したのは、そういう経緯もあってのことだった。
 顔の広い沖ノ島なら何かいい伝手を知っているかもしれない。場合によっては、彼女が認めてくれるのならば、助手として暫く過ごすのも考えのうちだった。
 沖ノ島は宗教家でもあったが、当時、日本では違法であった共産主義者でもあって、美保はその立場をよく知らなかった。単なるちょっと変わり者の慈善家だと思っていたのである。沖ノ島は葬儀を済ませた日の翌日には、公安警察の動きを察知して、挨拶もせずに姿を消していた。
 沖ノ島は官憲に追われていたので、連絡先の一つにしていた中国遼東半島の老鉄山の駅逓当ての書留で出した手紙は、すぐに検閲されて、連絡をとろうとした美保は警察に呼び出された。険しい表情には見覚えがあった。梶木宗一の通夜には顔を見せた男であった。
 美保は梶木宗一を殺し、イーサーと通じ、ハムスタン王国を連合国側に取り込まんとするスパイであると嫌疑をかけられたのである。
 この時、美保は梶木宗一は日本軍のスパイの末端であったらしいことを知った。梶木宗一は、上海陸軍病院と縁のある嘱託医だったので、兵隊の健康検査などでも出張することがあったが、美保は、彼らから赤十字の研修で知り合った外国人看護婦の動向を問われたりすることがあった。むしろ、美保は知らぬ間に日本軍側のスパイの協力をさせられていたのである。






§  私服憲兵

 その日、外は晴れた。週末だったので、南京路の大通りへぱっと飛び出してゆきたかったが、鋭い目で睨みつける羽賀と名乗る私服憲兵を前にして、そんな思いも消え飛んだ。口の利き方を間違えたら、どうなるか解ったものではなかった。
 半ば嘘泣きして、愛国と身の潔白を売ろうとしていると、羽賀は、今まで低く押し殺していたのに「黙れ! 下らん芝居をするな!」と、鼓膜が破れるかと思うほどの声で怒鳴りつけて椅子を蹴った。何の諧謔もない凄い剣幕で、袖口からコンパスを取り出すと、それを美保の爪の先、三ミリばかりのところへ、カンッと叩きつける。美保は、刺されたと思って悲鳴を上げたが、机の天板にはコンパスの刺さった深い穴が開いていた。
 人殺し――。直観がそう告げて、一瞬で涙が干上がった。
 暫くして、日本軍に保護されたイーサーが獄卒に小突かれながらやってきて、「女はこいつで間違いないか」と確認をとらされると、力なく首肯して、ぼうとしていた。イーサーは、またすぐに、別室に連れて行かれてしまった。イーサーは憔悴しきっており、瞳には生気がなかった。自分で塗ったらしいサルファ剤の赤い粉末が垢と泥と一緒になって全身を汚しており、前に会った時よりも更に凄い様相になっていた。風貌はともかく、ああいう目をし出すと危ない。イーサーは、明日死んでも全く不思議ではなないところまで衰弱していた。
 美保が思わず「あの人、放っておくと死んでしまいますよ」と口を出すと、羽賀は静かな調子で「死なさせん」と答えて、離れた机で独りきりになり、調書の前で頭を抱え込んでいた。
 その晩、美保は、背中の炎症で魘されているイーサーを、窓も時計もない独居房で見張るように言われた。
「このイリ人が死んだら、貴様が隙を突いて殺したことになる」とも言われた。何故? 関係ないのに。たまったものではなかった。それにしても布団が不潔すぎる。イーサーが死んだようになって転がっているせんべい布団は饐えて黒ずんで半分腐っているような代物だった。フケと虱が大鋸屑のようになってベッドの隙間に詰り、零れ落ちたものはベッドの形に沿って矩形を描いていた。部屋の隅には青サビを纏った蛇口があったが、水はとっくに止められている。その下には、コンクリートの床を一段落として刳り貫いた排水溝に金盥が鎮座している。金盥は内側から外側まで堆積層のようになった糞が全体にこびり付いていて、最初はそれがなんだかさえ解らないような代物だった。彼らは何を考えて、こんな不潔な状況を放置しているのか。
 羽賀は「必要なものを言え。ないなら、今日はもう来ない」と言いながら、既に立ち去ろうとしていた。美保があわてて、新しい布団と毛布、煮沸した水と過水、包帯、手拭と盥をあるだけ――と矢継ぎ早に言うと、羽賀は、これでどうにかしろとばかり、軍用の衛生材料を全部持ってきた。それらの入った台車ごと部屋に押し込むと、カチンと鍵をかけて立ち去っていった。
 そしてその三週間後、美保は回復したイーサーと共に、フランスの赤十字に加わって、ハムスター王国へと向かうことになったのであるが、この時の情勢を少し説明する必要がある。
 一九四〇年の六月に欧州ではドイツ軍がフランスに侵攻した。それによってヴィシー政権が樹立して以後、フランスは枢軸側に入り、フランス国民も渋々それを支持していたが、こと上海のフランス租界では本国の動向を完全には反映せず、放埓な土地柄もあって「ペタンはともかく、ナチは失せろ」などと、好き勝手なことを言っても逮捕されることがなかった。
 ハムスター王国が上海のフランス租界の支援を得た場合、それが枢軸国側に寄与するか、連合国側に寄与するかは、まだ未知数だった。美保がイーサーに紹介した、件のフランス人医師、ジャック・フォルチュネは自由フランス側を、つまり連合国側を支持している雰囲気があった。枢軸国、とりわけ日本軍関係者の素養の無さに憤懣しており、内輪では、これ以上日本人が増えると上海はダメになると口にしていた。時勢のせいもあったが、実際それは嘘とは言えず、日本人が欧米勢を押しのけはじめると、上海の文化活動は完全に湿気たものに変り、結局、面白いことが何も出来ない。最後には市民の生活さえ脅かされるに到った。
 ついでに、美保が上海に来る以前の話になるが、一九三六年には日独防共協定が結ばれ、その翌年には第二次上海事変が起きている。国民党軍はドイツの軍事顧問団がついており、実質上の日独戦が展開されていた。だいたいこのくらい込み入ってくると教科書には載らない。連合国と枢軸国が別れて戦ったという大局に反するので、教える方でさえ意味が解らなくなってしまうからである。
 しかし、第一次世界大戦において、日本は中国におけるドイツ利権を奪っており、更にそれ以前には三国干渉で、日独は遼東半島を巡り対立しているように、その対立は尾を引いている。第二次世界大戦を語るとき、第二次世界大戦以前の世界情勢は切り捨てて論じられがちであるが、第二次世界大戦以前において、第一次世界大戦は、ただ「世界大戦」と呼ばれていたのであり、ナンバリングがついたのは二回目の惨禍があった以後の話である。当時「世界大戦」の影響と印象は今の世から第二次世界大戦を振り返ることよりもはるかに近い記憶であり、ほとんど「世界大戦」に関与しないで勝利した日本と、全面的に関与して泥沼にはまり込んだドイツとでは、記憶の質が違うのである。少なくともドイツからしてみれば、それらの出来事は決して小さな話ではなかった。リメンバランスデイ――欧州において第一次世界大戦の終戦記念日は今でも年間の祭日として組み込まれている。主戦場から外れ、大きな犠牲を出さずに漁夫の利を得た日本とは事情が異なる。第一次世界大戦は欧州大戦とでも呼ぶべきものであり、もし欧州が主戦場とならなかったのならば、それはひょっとしたら世界大戦とは呼ばれていなかったかもしれない。世界は一つだが、そこに住む人々は、必ずしも同じ記憶を共有してはいない。

 形式上、ヴィシー政権下に入ったフランス租界で、イギリスの支援を受けた自由フランス側のスパイが横行しはじめていた。
 ジャック・フォルチュネは、ヴィシーフランス政府からは、やはり自由フランス派と疑われており、租界から排除されると同時に、出陣の支援を受けて、ハムスター王国への介入作戦に協力することを命じられている。事実上の追放だった。ヴィシーフランスにとって、ハムスター王国は、影響力の少ないアジア内陸部の辺境であり、戦略的にはさほどの意味をもたない。ヴィシーフランス側の監視はつかないことになっていたように、上海の敵性因子の排除という面が大きかったが、日本政府の考えていることは、フランスとは比重が異なっていた。
 日本は対ソ、あるいはイギリス領インド戦において、ハムスター王国を戦略上の重要な調査対象にしており、ハムスター王国や、チベットをはじめとするアジア西方諸国と、満州や朝鮮をはじめとする日本の勢力圏で中国を挟撃する大陸包囲作戦、ツラン計画を発動せんとしていた。
 ソ連はもとより、イギリスは植民地インドとその周辺国の独立を押さえ込もうとしている関係で、中央アジア戦略を決して軽視してはいない。イギリスの糸を引いたスパイがジャック・フォルチュネの医療団に紛れ込んでおり、あるいはジャック・フォルチュネ自身がその身であり、ハムスター王国を連合国側につかせるとなると、今まで研究し、培ってきたツラン計画は失敗に終わる。
 ジャック・フォルチュネがどうであったとしても、日本軍は、ハムスター王国に工作員を送り込むのに赤十字の肩書きで参加出来ることは、またとない好機でもあった。赤十字は平等主義を建前にするのなら、日本人も加えるべきだと主張するのは一応の筋が整う。それが日本軍のスパイであることは、容易に勘付かれるであろうが、ジャック・フォルチュネとしてみれば、ここで本国の命令に背いて反発すれば、焼きが回って、ヴィシー政権下の警察に要注意人物として捕らわれる可能性があった。
 美保は、反日分子の教祖、沖ノ島の伝手を頼るのであれば、拘束せざるをえないと言われ、もしもフォルチュネに伴って、ハムスター王国へ行くのならスパイをしろと言われていた。そうでなければ、看護免許はスパイ容疑で抹消するとも言われた。滅茶苦茶なことを言う。沖ノ島によれば、日本の諜報工作の技術はそこまで高度なものではなく、それは未だに、江戸時代、鎖国期の影響を受けていて、二六七年もの間、世間知らずだったことがその遠因であると言うのであるが、昔から外交と諜報分野は日本の弱点であるのは間違いないのだろう。
 怒鳴り散らして叩きさえすれば、人は言う通りに動くと信じている、そういった精神論が基本だったので、憲兵達はすぐに高圧的に出た。そのやり方は、風紀粛正や、もっとも単純な敵の撃滅という意味においては効果があったが、それ以上のレベルでは役に立たない。自分の聞きたいことを無理矢理吐かせるのは、真相を究明しえないので、権威主義の内部では安泰だが、対外戦争や、天変地異のような、国家的試練の状況では、致命的な誤りを齎すことになる。日本国内やその影響下のアジア諸国では、貧しかった影響から、飴が用意出来ず、鞭でないと民を動かすことが出来ない。民は民で、お上に睨まれて、村八分になれば生きてゆけないと思えば不合理な命令に黙々と従うのだった。よって、誤まった判断は先送りにされ、塵積もり、山となる――。
 沖ノ島はかく言う。
「追い詰められた人々は真実を言おうとしているのではなく、自分が助かることを言おうとしているのです。憲兵隊が考えた作り話が、血まみれの自白を添えて天皇に報告されて、またそれを信用するから、真実が蔑ろにされる。それでは実証主義科学を重視するアメリカには勝つことが出来ません。また、勝つ必要すらない。日本軍の兵士には人間としての責任感がないのです。お国のためにしないと、身も心も行き場がないような人たちに、信念などはありません。彼らは敗北したらこう言うことでしょう。全ては天皇のためだったと。問い詰められた天皇は、臣民のためを思った真心だったと言って腹を切ることでしょう。これでは、大切なものの所在がぐるぐる回ってしまっていて、いけません。一見、立派な自己犠牲をしているように見て、正しくても、悪くても、常にそれは自分の外の出来事なのです。共犯関係に無自覚なのです。彼らにとって国家とはあくまでも自分の外にあるものであり、自分の中には存在しないのに、それが一番大切だと思っている。彼らが日本を芯から愛しているのを私は見たことがありません。誰かのためだと思ってと言えば、自分の目の前の不義が許されると思っている。良かれと思ってとさえ言えば、自分で考えないでいいと思っている。理念というものを、それに纏わる責任というものを、誰かに押し付けて生きている。そのような状態で腹など切っても、内臓が飛び出して死んでしまうだけで、真実はやはり出てこないのです。どうしても、痛めつければ真実が出てくると信じきっている。これは生贄があれば、天は笑ってくれるという、一種の呪術信仰です。古代はそれで絆を結びえました。しかし、今はもう古代社会ではありません。このままでは、彼らは、価値観を分裂させたまま、人倫を喪失してしまうでしょう。それは終局、契約の欠如であり、つまり信念の欠如なのです。和魂洋才などと言って、西欧文明を単なる便利な道具と見なしたつけは大きい。西欧文明の本質は道具ではなく思想です。考えのない信念などというものは存在し得ない。彼らは信念というものを履き違えている。私は国権を握る無責任のレジーム、天皇制の廃止を強く勧告する」
「弁士注意! 弁士注意! 全員動くな!」
 沖ノ島がやりたい放題にやっていると、当然官憲が飛び込んでくるが、彼女は常に紙一重でそれを逃れ、日本帝国が滅びるまで一度も捕まることがなかった。

 沖ノ島が上海を退却して、朝鮮で抗日運動を展開している頃、イーサーは自分の出自、意図、祖国の置かれている状況、致死寸前までの拷問を受けて尚、国を売らなかったその経緯を羽賀大尉に訥々と語り、信用を勝ち得ていた。
 イーサーは言う。
「足手まといだったので私は仲間たちとは西安で別れました。一度、省軍のスパイに追いつかれました。幸い全員逃げきれたのですが、その時の銃撃戦で、だいぶ使ってしまい、弾は全員のものを数えても僅かしか残っていません。別れる時、最後の一発は自決用として、私にも与えられていました。しかし、私はその弾を自決に使うつもりはありません。一人でも祖国の敵を道ずれにして死んでやるつもりです。そうすれば、我が国の子供が一人逃げ延びることが出来ますから。私は必ずや戻ると、学校の子供達に誓ってきました。子供らはまだ十歳になるかならぬか、皆栄養失調を煩っています。私が戻れぬとなれば、皆その場で挫けてしまいかねなかった。私は裏切るつもりで誓ったわけではないし、まして命が惜しくて、そう誓ったわけではない。私には責任がある。そうだ、我が国の密使団からの連絡はありませんか? 彼らに会えば私が中共のスパイだなどという誤解はすぐに解ける――」
 その信義に通ずるところがあったと見え、普段は冷酷である憲兵の中にも同情と悲愴の色が漂う。密使団の仲間が中国共産党軍に捕まって、全員処刑されたことをイーサーが知ったのはこの時である。
「イーサー殿。気の毒だが、あなたの同志は全滅した。西安を出たところで中共軍に捕えられて、全員その日のうちに処刑されたようだ」
「おい、馬鹿を言うな!」
「生き残ったのは、あなただけだ」
 目の前に投げ出された写真には、群集に囲まれて処刑される四人の男たちが映っていた。
 イーサーの師にあたるマフムード・ファラオン一世博士は、ハムスター王国ただ一人の現代法学者であり、インド留学を経てイギリスのオックス・フォード大学にも留学経験がある、国際的にもある程度名の知れた人物であった。マフムード・ファラオン一世の従者たちであるシュリプ・アホン・ハビブッラ大尉、読経師アブドルカリム・バダウィーらは、イーサーと同じく、レーニン・スクールや東方勤労者大学の卒業生たちで、ハムスター王国の命運を握る選りすぐりの秀才たちであった。
 彼らはまだ死ぬわけにはいかないのに――。
 傷もまだ癒えぬ、半死半生の身には酷な報せだった。イーサーは絶望のあまり血の気が引いて、その貌は、青ざめを超えて、どす黒くなっていた。
 羽賀の鋭い瞳は相変わらず冷え切っていたが、崩れ落ちそうになるイーサーの肩を掴んだ掌には知らぬ間に力がこもっていた。
 その日、ハムスター王国陸軍少尉イーサー・エルクは、日本政府への使者と確認され、正式に保護されることとなった。

 美保は、釈放された後、遽しく診療所をたたみ、荷物をまとめていた。日本軍からの提供物資が狭い室内に溢れかえっていた。老師、梶木宗一郎の死に悲しむ暇もなく、とんでもない陰謀劇に巻き込まれてしまったのである。宙に浮いたような気分であったが、生来の実務肌か、仕事ぶりは普段よりも増して機敏だった。
 フォルチュネ医院の方から、三人の看護婦が応援にかけつけていて、美保はここで、思わぬ人間が入り込んでいることに気付いて唖然とした。二人はフランス人で、もう一人は日本人と紹介された。しかし、日本人であると紹介された看護婦は中国人であることを美保は知っていた。この中国人は真面目な顔した曲者で、後に老鉄山と呼ばれるが、これは沖ノ島の助手である。眼鏡の向こうでぱちくりとウィンクしたきりで、あとは初見のような顔ぶりであったが、美保の看護学校時代の先輩で、途中から事務方をしていた。その時は眼鏡などかけてはいなかったし、髪もひっつめにしていた。ある時から姿を消したので、支那のスパイだったのだろうと噂されていた。
 暫くして、また誰か来た。
 奇妙なことに、最後に四人目に駆けつけてきた若いフランス人看護婦も梳き櫛の如き長い睫でウィンクをしてくる。これは美保の知らない人間だった。金色の髪は緩く巻いていて、その瞳は緑色をしている。思い当たるところは全くない。ちょっと大柄なのを除けば、正しく彼女はフランス人形のようであったが、男たちには見抜けない何か、只ならぬ険があった。
 お国の為と決意を固めていた美保の心が泡立つ。どうすればいいというのか。下手を起こせば、今度こそただでは済まない。
 女学校時代に、美保は、自分が、冗談で女スパイなどというあだ名で呼ばれていたことに愕然とする。岡田嘉子がいいなどと、適当に女優の名前を挙げていたら、これがソ連に亡命して、学園祭の演劇では、全会一致で女スパイ役に抜擢されてしまったのである。自分は、ひょっとすると、そういうふうに見える態度や風貌をしているのかもしれない――。
 流石に慄いて荷造りの手が緩慢になる。美保が外の空気を吸いに出ようとしたところで、羽賀が二人の部下を引き連れて、様子を見に来た。
「羽賀さんも来られるのですか?」
 美保の声色は思わず裏返る。
「私が行かんで誰が行くと思っているんだ。イーサーが回復出来れば、今月末には出発になる。体調を整えておけ」
 美保は自分が心底まずい事態に巻き込まれていることを自覚した。かくして、上海の寄り合い世帯は一路ハムスター王国へと向かうことになる。




















§ 第二部
















§  戦後教育

 猫崎はこの話をママちゃまから訊き出し、それを元に漫画を描こうとしていた。よく解らないところはすっとばされて、猫崎の日常から編み出される他愛もない空想で補われる。私たちは、そういう物語を繋ぐための空想のことを「チュンカベル」と呼んでいた。
 あるいは、転んで怪我をしたりすると「チュンカベル」と言っておまじないをかけながら、傷を舐める。勉強で解らないことがあったりすると「チュンカベル」と言ったりもする。図工の時間などに肥後守で模造紙を切り過ぎたりした時も詰って「チュベった」と叫ぶ。語感が良かったので、それ以外にも適当に使われることがままあった。
 ママちゃまが最初に「チュンカベル」と言ったと思うのであるが、ママちゃまは猫崎が最初にそう言ったのだと思っていて、長らくその由来は不明だった。語源を求めて、結論が出なかったので、皆で「チュンカベル」と言ってけらけら笑ったこともある。
 チュンカベルは何か空白を補うとか、補填するとか、そういう意味合いがあるらしい。猫崎の漫画では、チュンカベルが出てきて、逸早く危機を伝える。チュンカベルは善玉であったが、チュンカベルが現れると、それは不穏なことが起きる前ぶれでもあったので徐々にチュンカベルは恐い存在であるという印象をもつようになった。
 イーサー先生ならば、チュンカベルのことを知っているかもしれない。そう思って、ある日、私たちはイーサー先生が授業をしている中学生の教室を覗きにいった。
 ホームでは、設立当初、その多くが幼児から小学校低学年ぐらいの年頃で、中学生以上の生徒は少なかったが、いなかったわけではなく、イーサー先生の授業においては、彼ら向けにかなり踏み込んだ内容の授業が為されていた。
 イーサー先生の授業は、外部生や大人たちも聴きに来るのが通例で、教室は超満員となる。私たちは中に入れてもらえないので、授業を覗くために、園庭の方から回って、その様子を見ようとしていた。授業の主な内容は、主に国際連合の理念に基いた講義録であり、当時の国際情勢や、人間の生き方についてとか、民主主義的な人文教養が中心だったと思う。彼はまるで前線の兵士たちに訓話をするかのような口ぶりで授業をしていた。
 イーサー・エルクは言う。
「日本は自衛戦争をしただけで、侵略戦争をしたわけではないなどという物言いは極めて身勝手な物言いであり、内政干渉どころの話ではなしに隣国に軍隊を進駐させて、多大な犠牲者を出して民衆を殺戮している以上、中国や朝鮮に向かって、あれは侵略戦争ではなかったと言うのには無理がある。そこにあるべきなのは空疎な定義論ではない。侵略ではないと言っている方と、侵略だと言っている方のどちらの訴えこそが妥当性があるかという話である。自衛戦争と侵略戦争は、どちらかが事実で、どちらかが嘘であるという相反するものではなく、同じ事件を立場の違いから論じたものに過ぎないからである。自衛であったからと言って、それが侵略ではなかったことにはならない。
 近代において、世界最大の侵略を行ったのはアングロサクソン民族であることは、何をどう嘯こうと揺るがない事実である。英米がそういう自身の立場を弁えずに、日本の侵略戦争を指摘するのが今の最大の虚構なのであり、日本が大陸を侵略する以前に、既に欧米列強は大陸を侵略済みだった。それ故に、欧米から見ても、中国から見ても日本が侵略者であるという意見が一致したのである。中国としては自分の立場が、世界の最先進国のお墨付きを得た形ともなる。
 第二次世界大戦下の日本のありようを論じる時に、対アジア、対英米で象限を別けて考えねばならない。アジアを巡る日本と欧米諸国との戦いと、日本とアジア諸国との戦いは意義、様態が異なるからだ。
 日本が侵略をしたのかどうかを巡り、日本の保守陣営は今尚中朝に対して強く反発しているが、そもそも、日本が許してはいけないのは中朝の面罵ではなく、英米がすまし顔で、それが世界の真実とばかりに、大上段から日本を侵略者呼ばわりすることの方である。
 日独のような枢軸国家をのみ摘み上げて集中的に侵略国と見なすのは、今の政治に過ぎない。同様に、日本国内の親米反中などという立場は、歴史の信憑性を蔑ろにした損得の話である。
 諸君等の中には、どれだけアメリカ的であるかを競い合っている者もいるだろう。純粋に暴力を否定しているだけで、英知と美徳は出自を問わず愛しているなどと嘯いてはならない。古今東西、全ての侵略者は、世界の英知と美徳とを何でもかんでも得ようとして、侵略を始めたのである。侵略者は求めるが故にこそ、自分達が侵略者であることすら認めようとはしなくなり、ついには自分を無謬のクリスチャンに準え始めた。自分が無謬であるのに、人を殺してしまうのは、出会った相手が、殺さねばならぬほど邪悪で暗愚だったからということにまで話を変えてしまう。
 啓蒙主義の行き着く先が、未開地、文明が開花していない地域のあり様を否定するという帝国主義と結びついたのは必然であり、博愛や知性は人類の徳として賞賛されるが、それを推し進めてゆけばいずれそれは、支配と蹂躙を肯定する根拠となる。
 啓蒙主義とは、功利主義、有能主義、衛生志向のことであり、それは人として当然の道理であり、目指すところでもあると考えられているが、言いようを替えれば、それは即ち、打算的で損得勘定が強く、卑屈な権威主義を持ち、不寛容であると言い換えることが出来る。そういった、清く正しく美しくという安易な走資走光主義が、最終的に行き着いた結果は、ファシズムであり、ナチス・ドイツの反省を、自分とはおよそ対極にある人々の発想だと思って、押しやってはいけない。
 ダビデの星を顕微鏡で覗き、細菌の発見のように揶揄するナチス党のプロパガンダ・ポスターは科学と啓蒙主義の行き先を暗示している。ナチスを生み出したドイツは、世界で最も民主的で徳の高いヴァイマル憲法を実現させた社会であったし、ナチス時代には、自然保護や動物愛護、健康増進、愛国教育、婦女子の教育など、今でも素晴らしいとされている概念が綺羅星の如く散りばめられており、中でも、自分の利益しか気にしないような金銭至上主義を強く憎んでいた。それ故にあのドイツにおいて、金貸し業を民族的職分として受け持っていたユダヤ人を絶滅させようという動きが起ったのである。
 これはナチスに端を発する問題ではない。ナチスというのは原因ではなく結果である。ゲルマン民族とユダヤ民族は、殺す者と殺される者という形で近代世界の呪いを一身に浴びた。ポーランドはナチスより反ユダヤ傾向が強いぐらいであったし、この時、イギリスも、フランスも、イタリアも欧州は常に亡国の民であるユダヤ民族には冷淡だった。ナチスのホロコーストとは、ヨーロッパ全体でユダヤ民族を歴史を通して村八分にしてきたことのつけであり、それは彼らの良心であったキリスト教がヨーロッパじゅうに浸透していたことの負の側面として現れたものなのだ。
 薬も過ぎれば毒となってしまうように、あらゆるものは無条件で誉められるものではなく、その行き着く先は全て邪悪である。かつては皆が貧しくて、良い薬など十分には手に入れることが出来なかったのであるが、産業革命以後、欧州先進国を中心にそれが可能になり始めた。
 あまりにも性能の高いライフルを与えられた市民が、毎日、庭に来る野良猫やカラスを駆除の名目で狙い撃ちにしていたら、野良猫やカラスがこの世から全滅するようなことが、本当に起きてしまう。常識の中に全く知られていないことがあるという理解が足りていなかったのである。凡庸な自分が銃を撃つという選択をとる時には、預かり知らない何百万人もの他者も同じ引き金を引いているのであり、その社会的な影響は計り知れないことになる。
 ファシズム、ファッショとはイタリア語における束、団結のことであり、古代ローマ時代の執政官が権威を示すために手にしていた小枝の束を縛って柄とした斧、ファスケスを語源に持っている。つまり、斧という攻撃性と独断性を、刃のない単なる木切れが束になって遂行するのであるが、その図像を見ても、自らの正体を把握し得ないことが悪の無思想性の指し示している姿である。古来、人間のやることは、自然の脅威や、精緻さの不足によって大幅に減殺されるのが当たり前だったのが、産業革命以後、そうではなくなってしまい、生活を改善しようとして、自然に対して全力で立ち向うと、自然の方が負けてしまうようになってしまった。
 猫を根絶やしにすれば、ネズミが大量発生して町は滅び、カラスを根絶やしにすれば、スズメの大群によって畑は消える。
 同じようにユダヤ人を徹底的に迫害したら何が起きたのかというと、アメリカに亡命ユダヤ人科学者が結集し、ナチスが勝利することの恐怖からある兵器が出来た。核爆弾だ。そして、それを、アメリカは使った。あろうことか、敗色濃厚であった日本に対してだ。科学は様々なものを作り出すが、作り出してはならない代物を阻止する力を持たない。
 オオカミを全滅させれば、全てが良くなると素朴に考えていた世界は終わってしまったのであるが、オオカミをナチスに言い換えただけのナチスみたいなのがなければ、世界は良くなる式の教育はまだまだなくなることはないであろう。
 君たちの使っている黒塗り教科書などは見ての通り、糊塗策なのである。そのようなものでは、真の戦後教育などは出来ず、当然、今はまだ真には戦争は終わってなどいない」
 ある生徒はこの授業でこのような質問をした。
 「善を求め続けているのに、それが原因で悪い方向に転げ落ちてしまうのであれば、私たちはどうすればよいのですか」
 イーサーは沈黙する。イーサーにとってそれは、身に迫った問題であり続けた。
 この授業は「戦後世界は何を目指すべきか」という表題の論文を元に構成されていたと思われ、出版元は日本灯台局とある。
 戦後、灯台局というニックネームで呼ばれていたGHQ管轄下の一医療機関の長を務めていた沖ノ島と、GHQ学視官イーサーとの共著であったが原本は紛失している。
 イーサーはGHQにおけるアメリカの独裁や、国連での振るまいに強い懸念を抱いていたが、英米系混血児の多かったエリザベス・サンダース本校で、大人たちを相手に行われた授業は、私たちのいた町田分校での講義に比して、アングロサクソン民族の批判のトーンはもっと慎重であったようで、そこでは、イーサーはこういう論理展開をして牽制している。
「私はただ単にアングロサクソンを批判しているのではない。私たちは敵を探すのではなく、問題の本質を見つけ出さなければならない。アメリカは長崎と広島に原爆を落とした。私はこれを許していない。しかし、切り札に原爆が使えたのならば、日本もまたアメリカに原爆を落としたことだろう。日本軍は、現実的に間に合いこそしなかったが、長距離爆撃機の研究と、原爆の開発を始めていた。即ち、ワシントン核攻撃という、起死回生の作戦を決行出来るのならば、彼等は決して躊躇しなかったのである」






§  ハムスター作戦

 空が眩しい。私たちはその午後、暗鬱な世界の外側にイーサー先生が出てくるのを心待ちにしていた。スパイごっこである。教室の窓の外では、私たちの頭がソロソロ動いては、中に向かって、突然にモモンガーとかをやっていた。猫崎はチュンカベルと囁きながら、瓦礫の山で見つけた鏡の破片をキランキランと反射させて、教室の中に光を走らせる。お前も何かやれとナカノセに唆されて、私が仕方なくモモンガーと控えめにやってみせたら、外部から聴講に来ていた書生らしき人に、ぴしゃりとカーテンを締められて、中の様子が見えなくなった。
 暫くの間、カーテンの陰の向こうで、子供たちの頭の影がウロチョロしていた。
 予鈴が鳴る。ナカノセは、教室から出て、その足で外に向かおうとするイーサー先生を追いかけてゆき、体当たりするように抱きついて「先生は、みぎきき?」と最も安易な政治哲学を、出来るだけ神妙そうに問うた。
「この世は右か左かではない。上か下かだ!」
 イーサーはそう言い放ち、ナカノセをひょいと宙に持ち上げて、外で口論になっているホームの先生たちと、右翼結社と思われる人たちの丁丁発止を見せた。
「君には魂が宿っている。人々の言っていることではなく、人々が何をやっているのかを見るんだ」
 ナカノセは呟く。
 右ってどっちだっけ?
 右はこっちだ。私がナカノセの右手を叩く。
「でもなんで、なぜ……! それは、逆向くと同じところがなる……?」
 そういうものだ。
「だから、なんで……?」
 んん? いや、そもそも、そんな話ではないのではないか。私が回答に窮していると、イーサー先生が呟く。
「同じだからだよ」
 そんなバカな。
「右であれ左であれ我が祖国……」

 次いで猫崎が窓の外を見せてもらい、どうしたら本物の漫画家になれるのかを相談した。漫画はイーサー先生の専門外であったし、漫画はその頃はまだまだ悪玉だったので、私は怒られやしないかと気を揉んだが、イーサー先生は即答だった。
「作家に必要な力は一つ。世界を説明する力である」
 私は、とくに聞きたいことはなかったので、瞬く間に自分の番になってしまい、間誤付いた。イーサー先生は忙しい人で、毎日三時間しか寝れないのだという。私が何を訊ねたのかはよく覚えていない。どうして手を綺麗に洗わなければいけないのかと訊いたかもしれないが、何か自分だけどうでもいいことを訊いてしまったという、ちょっとした後悔の念みたいなものが残った。
 続続とイーサー先生の周りに子供たちが集まってきて、暫くの間、毎日の献立の話とか、どんな遊びが流行っているのかといった話をしていたが、窓の外の悪党たちが、こっちをちらちら見始めると、イーサー先生は「隠れろ」と言って窓の外から見えないように私たちの頭をひっこませた。それからシッと、人さし指を立てて、厳しい表情を作った。
 皆がしんとしいると、イーサー先生は「ハムスター作戦を始める」と宣言して、私たちに案内させて、ホームの裏口にまで出た。
 悪党どもはしばしば、刀や拳銃のような純然たる武器を持っていたので、連中がやってくると、子供たちは教室の中に入って出てきてはいけないことになっていた。
「お別れだ。君たちは教室に戻れ」とイーサー先生が言うと、皆不安そうにして、息を詰めた。

 戦前が著しく軍事的な時代であったとするのならば、戦後は著しく政治的な時代であった。
 子供とて、否、むしろ子供だからこそ巻き込まれないでは済まず、基本的に子供は左派の尖兵にして根拠という身分を付与されていた。ホームの先生たちと悪党たちの怒鳴り合いは、だんだん物騒になってきており、単なる口論では済まされない時もあった。
 イーサー先生はこの日の最後、裏の戸口から回って、怒鳴り合いになっているホームの先生たちと悪党どもに向かって、ベロベロバアをして逃げ去っていった。その様子がとても可笑しかったので、私たちは笑い転げた。先生がそんなことをすることはありえない時代だったので、私たちはそれだけでもイーサー先生のことが大好きになった。ハムスターが何であるかは、この時の私たちは知らないが、漠然とチュンカベルの一種だと思った。
 猫崎はこの日のことを夕飯までには漫画に起していた。小学一年生の奔放な描写であるが、私たちの描く絵とはかなり違う。猫崎はツバメ返しの如き素早い筆跡で「だいたいこんな感じ?」と事態の大掴みがよく描けた。
 そこ指が一本少なかろうと、少々変な方向に関節が曲がっていようと、何がしかの本質を掴んで放さない。彼女の絵は風や光、視線や慣性を強く感じさせる。何を描くにしても上手かったが、彼女はモノ意外の全てを描くのが得意だったのだと思う。気がつけば彼女は人間の影を描く唯一の子供だった。
 成長途上であったが、猫崎はまた肉眼での自然観察と流行のスタイルを融合するという技をも身につけていた。猫崎が自らの描画において最も影響を受けたのは恐らくは「あんみつ姫」である。そこから抽出した姫的キャラクターを自身の体験と組み合わせることが出来る。単に出来の悪い焼き写しとして描けるのじゃなくて、彼女はそのスタイルを理解した上で運用することが出来た。伊達ではない。ホームの先生たちは、猫崎のことを、単なる早熟か、よくてちょっとした才能と見なしていた。万一そんな次元のものではなかったとしても、天才であることよりも、幸せであることの方が、彼女にとっては重要なことになる―ー。
 先生たちは強いて天才を作る気はなかった。我がホームの方針は平凡主義である。一人の才能のために、特別の予算を割くことはない。誰がどこまで届くかではなく、皆で命の境を踏み留まって徐々に前線を上げてきた。そういう孤児院としての経緯がある。「天才である前に、逆境に耐えうる人間を育てる。支えあえる人間を育てる」そういう理念を掲げていた。
 とはいえ、なし崩しは抗しがたく、その才能において彼女は、病弱も、無神経も、とりわけ絵や漫画のこととなると融通の効かない我侭も許されて育った。幸不幸問わず、そういう人間はどういう境遇からであれ、生まれてきてしまうのである。
 ホームの先生たちが集まってきて、猫崎の描いたイーサー先生のカリカチュアを囲んで、何やら議論を重ねていた。ホームの先生たちは、私たちが勝手に漫画を読むことを快く思っていなかったが、描くことに関しては比較的寛容で、私たちの描き出す絵や漫画を熱心に見ていた。 

 この頃は「あんみつ姫」のみならず、姫モノは一つのジャンルを形成しており、戦中の抑圧から一挙に解放されたがために、「あんず姫」やら「りんご姫」やら、中には「ピノキオ姫」なんてものまで、雨後の筍の如く続々と生まれ出てきた。姫さえつければ何でもいいのかという状況で、姫たちは贅沢と放埓への強い覚悟を表明していた。
 うちのホームには「あんみつ姫」の他に「てるてる姫」があった。「てるてる姫」の方は誰かが脱脂粉乳をぶちまけて、意地の悪いお兄ちゃんたちからは「でろでろ姫」とからかわれていた。これは紙芝居屋の蔵書印が入っていた。酷く汚してしまったので仕方なく買い取ったと思われる。
「あんみつ姫」にも本の端に噛み付いた跡がついていた。もののない時代を反映してか「あんみつ姫」に限らず何かと食べ物と関連付けられていたせいである。「漫画」と「お菓子」そして「姫」という概念は私達の意識の中でかなり接近した要素だった。
 新聞の切り抜きをスクラップした「サザエさん」もあったが、これは姉たちが、大切に作ってきたもので、ただでは見れなかった。貸してちょうだいと、猫撫で声で言ってみても、破くとか、汚されるとか言われて、胡散の目付きであしらわれるのが落ちだった。それでも、お姉さんたちが学校から戻らないうちに、部屋に忍び込んである分は全部読んでいた。サザエさんは、その主人公の年齢や新聞連載がなされていたことなどから言って、子供よりも大人に近い年齢層にこそ愛されていたと言える。
 他には、戦前からの流れで、教育的内容の少女漫画もあったが、こちらは人気を勝ち得るには到らなかった。全般に「いい子」指向で、私たちの希望する女の子ではなく、大人が希望する女の子たちだった。
 猫崎が漫画を描き始めたのは、ともすれば、まだ四歳にもなっていない頃かもしれない。手元に残る一番古い漫画には、私たちの手によって長らく描き続けられていた最古の型のチューリップがあって、赤と黒で色分けされている。記号的であり、名作「ベロベロバアをして走り去るイーサー先生」を描いた躍動溢れる漫画絵と比べると全然違うもので、幼少の僅かな間に、大きな跳躍をしたことが解る。
 抜群に上手い。しかし、彼女は案外描き込みにはそこまで時間をかけなかった。過不足のない軽快な線を一発で決める。既に森羅万象を最小限の線で切り出してゆくミニマリズムな方針を研究している節があり、記号化して装飾化してゆく私たちのスタイルとは違う方向に踏み出していた。それが物語を形成するのに必要な時間を与えたと思う。
 彼女の物語は決して饒舌ではない。殆ど舌足らずの部類で、無数の破綻と混乱とを内包する。しかしやはり才能とは凄いもので、比類なき輝きを放つ。そのことについて語るのが私のささやかな使命である。

 この時期、漫画はまだ小説や映画並みのドラマを持ち得てはいなかった。そこにあるのは、物語の背景からくる慣性を持たないキャラクターたちによる漫談であり、明るさの反面、紙面に存在するためには必ずや笑いを要求される。さもなくば漫画は単に舶来品、希少品を中心としたカタログであった。「読者へのお愛想」か「読者の欲しいもの」のどちらか、ないし両方を描いた図解の一形式として漫画は存在していたのであり、のっぴきならない物語の追求はまだ始まっていなかった。
 猫崎は小学一年生ぐらいの時には既に漫画を描いて生きてゆくことを志向していたと思うが、まだこの頃は部屋の隅を陣取って、寝転がりながら藁半紙に絵を描いていた。彼女は数ページに渡って、辛抱強く意味体系をもつ物語として、確かな重心を持った世界観を繋ぐことが出来た。
 これを可能にしたのはやはりママちゃまの影響が大きい。私たちは夜になると、相当数の物語を毎日読み聞かせられながら眠りについたのである。
 ママちゃまの本業が看護婦であったこともあって、看護婦さんというのは私たちの漫画やゴッコ遊びに特有のキャラクターであったが、当時の女の子全般にとってそこまで一般的だったわけではない。
 ホームのゴッコ遊びにおいて、お母さん役や、お父さん役というものは存在しない。私たちは一般的な家庭というものが想像つかないのである。そうであるから、家族関係ではなく社会関係を軸に私たちの物語は紡ぎ出されていった。
 他にはイーサー先生をモチーフとする革命家という役回りが存在した。あとGI(米兵)。これは非常に現実的で身近なものとして存在していた。GIは私たちにとっては、ほとんど人攫いの一種だったが、一方でガムやチョコレートを持っている。革命家や仙女も飴玉や落雁等、多彩なお菓子を持っており、こういったお菓子を持っていると、勝手に思われていた役はどれも人気だった。
 様々な立場の人間が揃うと、いい役をとった方が、仲間外れを作って意地悪をするようになる。名もなき役どころは、何とかして遊びに加わろうとするのだが、そのうちには「それいない!」とまで言われて罵られるようになる。
 しかし人数は多い。仕舞いには、人間かどうかも解らない正体不明の存在であるチュンカベルが「モモンガー!」などと金切り声を上げながらやってきて、事態は収拾がつかないものと化す。モモンガーが「チュンカベル!」と怒鳴ることもあり、まあ、どっちもどっちである。
 それが何であるのか、よく解っていない。暗黙のうちにそれらの役には、社会の爪弾き者や、乞食という性格も持たされていたと思う。飴玉をねだりに来て、気前よく遣さないと悪さをする存在である。
 イーサー先生がやってきて、うかつに本物の飴玉を配るようなことがあると、イーサー先生はママちゃまに叱られていた。目の色が変わってしまうほどお菓子に釣られてしまう子がいるからである。飴玉一つで、激しい喧嘩になることもある。食べ終わった後の飴の包み紙まで子供たちの間ではちょっとした価値があり、石を入れて包み直して、オモチャにしていた。
 流石に見苦しいというのは私たちとて思うところであったし、そこまで飢えさせているわけではないので、ママちゃまはお菓子の取り合いをするとこれは非常に怒っていた。
「革命家というのは飴玉で人を釣るような人ではないの!」とママちゃまは叱っていたが、ある時イーサー先生は「実際あまり変わらんがね」と口を滑らした。
 ママちゃまは真顔になって怒る。
「公平性が保てないことには配ることが出来ないじゃない!」
 イーサー先生は苦笑いをしつつ肩を竦めていた。
 イーサー先生は言う。
「皆、全くその通りだぞ。この中に、本当の革命家になりたい者はいるか?」
 チュンカベルになりきっていたナカノセが「はい!」と手を上げる。何を思ったかママちゃままで手を上げた。表情は不満そうである。
「ママちゃまは真の革命家である。ナカノセ。君たちは、ママちゃまからよく学べ」
 イーサー先生は、真面目腐った顔でそう言うと、お茶を濁して逃げて行った。






§  黄金の自由

 ある週末、イーサー先生が来ると聞いて、駅の改札口で皆で待っていた。イーサー先生が降りてくるのを見つけると、子供たち一斉に纏わりつく。開口一番「何かちょうだい!」とせがむ者から、イーサー先生のポケットの中を勝手に探ったり、財布見せてと言ったりする者ばかりである。
 しかし、その日イーサー先生は何も持ち合わせていなかった。
 イーサー先生は「モモンガー」と言って、何も持っていないから諦めろと、継ぎ接ぎの背広をパタパタさせて示した。
 皆それだけで大爆笑である。背広を着ている人が、校長先生より偉い先生が、こんなことをすることはありえなかった。
 子供たちがイーサー先生を中心に、ゴンズイの玉のようになって、ホームへと戻っててゆく。
 ホームの門を通り過ぎると、イーサー先生は、ダッと駆け出して、距離を取ると、皆を牽制し、シッと指を立てた。
「これから、モモンガ作戦を開始する」
 それから私達は裏手の倉庫へと向かった。イーサー先生はポケットからタイピンを取り出すと、それを使って、いとも容易く倉庫の南京錠を開けてしまい、中をかりたて始めた。その手筈があまりにも鮮やかだったので、誰も何も言わず魅入っていた。
「ほら見ろ、モモンガを見つけたぞ!」
 盗んできた座布団を投げ飛ばしたり、取り合って、半ば狂乱気味に遊んだ。ホームには低学年が使える手頃なボールがなかったのであるが、手に入れてくる約束をイーサー先生は忘れていた。その代用だったらしい。
 息を切らして、ふと気がつくと、猫崎が遊ぶのに疲れて、園舎の縁に独り座っているのが見えた。職員室から呼ばれて、彼女は嫌々引っ張られてゆく。
 私はすぐにそれが何であるかを悟った。
 この頃には、お医者さんが来て、猫崎が一人だけ職員室に呼ばれて、抵抗するという場面を何度か見ていた。苦い薬を飲まされたり、注射をされたりする。 
 私が、ずっとそれを見て迷っていると、イーサー先生は、君が行けと目で示した。私が園舎に駆けて行くと、ナカノセもそれに気付いてすぐにやって来た。

 猫崎は鏡の破片で遊んでいて指を切った時にも、職員室に引き摺りこまれたことがあった。姉たちに寄って集って破傷風になると言われて、絶望的な気分だった。その時は結局、ちょっと深く切った他は特に問題はなかった。私もそれ以後に鏡で手を切ったことがあったが、もはや黙っていた。本を読んで、破傷風のことを知ったのである。一般的に言って鏡の破片で破傷風になることは少ないだろうと。しかし、それ以後私は、無茶なことや、あえてしなくても良いことをするのは慎重に避けるようになったと思う。猫崎を含め、幼年の女の子たちは鏡の破片を持ち歩いており危険だったが、私はそれをいち早く捨ててしまった。
 無論ママちゃまは女の子たちが鏡の破片を隠し持っていることは知っていた。
 ある日、ママちゃまは、割れた姿見を美容院から貰ってきた。それをガラス切りで正方形に何枚も切り出して、木切れや着物の切れ端を組み合わせて、コンパクト式の手鏡を作った。だいたい三十個ぐらい作ったのだと思うが、それでも、全員分はないので、協議の結果、小学三年生以下の女子全員に配給されることになった。何せ狭い世帯に百人いたので、園内での配給が員数分ないことは普通である。しばしば配給物を巡って取り合いが起き、またそういうことを理由に部屋ごとに対立することもあった。上級生にぶん取られたり、寝ている最中に盗まれたりすることもある。そういう希少な配給は順番なので、欲しいものが当った時は嬉しいが、自分達の番で、いらないものが配給されるとがっかりした。
 女の子たちが貰った手鏡とのバランスで、この後、男の子たちは、磁石を貰ったのであるが、ナカノセは「あぁ、今回は磁石の方が良かった」と嘆いて、私と猫崎を驚かせた。主に低学年を担当していたママちゃまの配給は、買ったもの以上の出来栄えになることが多く、とても気が利いていたので「低学年ばっか甘やかしてずるい」と上級生にはしばしばやっかまれた。そうであったから、磁石が、あんな砂鉄がくっつくだけの代物が、手鏡よりいいとは信じ難かったのである。男の子たちは、磁石に紐を通して、くっつけ合わせたり、砂鉄を集めたり、あるいは、ガード下の橋脚に投げ飛ばしたりして遊んでいた。また男の子たちは、磁石を使って別のことにも応用していた。磁石で金屑を集めるのである。その効能を知って、ナカノセは嘆いたのであった。
 この頃はまだ女の子はあまりやらなかったが、男の子達は、中学生の先輩に率いられて金屑集めを熱心にやっていた。集めて金物屋に持ってゆくとグラム幾らで売ることが出来る。私たちにとって破傷風のトラウマは大きく、ホームの規則の上では金屑集めはダメということになっていたが、実際にはホームの先生たちにも黙認されていた。
 磁石など使わなくても、金物は見分けがつくので、大した意味はないのだが、彼らは、それを金物探しにおいても、得意げに振り回して、集めた金屑に意味ありげにくっつけて遊んでいた。

 その一環、あるいは延長であるが、男の子たちは「M資金を探す」などと言って、度々わけのわからないことをすることがあった。日本軍が隠蔽した隠匿物資として噂されていた財宝、M資金を探して、そこらの地面を滅茶苦茶に掘り返したり、笹竹の枝先に吊るした磁石をもって川へ出かけたりするのである。手塚治虫・酒井七馬による新宝島の影響もある。宝がどこかに埋まっている。世界はそうであってほしい。そういう漠然とした思いがあったと思う。ナカノセは自分達も資金調達の手段を整えねばならないと焦っていて、穴掘りや金物探しを率先していた。
 タバコの空箱を集め始めたのもこの頃である。当時のタバコの空箱の内側には薄い鉛紙が引いてあって、これも集めると鉛屑として値打ちがある。中学生の男の子たちは、隠れてシケモクを集めて、切った新聞紙で撒きなおして吸ったりしていた。
 闇市がまだどこでもあって、日曜日の早朝などには、私たちは闇市の後をウロチョロすることもあった。いわゆる地見屋である。極希に小銭が落ちていることがあり、そうでなくても、金屑やタバコの空箱、米粒や大豆とか、ビー玉とか、何やかんや落ちていた。
 用もないのウロチョロしていれば、当然大人達に怒られるものであったが、私たちの間では、何が悪いのか解らないので、叩かれたり怒鳴られたりしながらも闇市はよく見に行った。
 闇市には色々な店があったが、中学生の祐介兄さんたちが、残飯屋で食べているのを見て羨ましいと思っていた。残飯屋は、米兵の食べ残しを全部鍋に入れて煮込み、一杯幾らで売るという代物で、食欲をそそるものの、微かに腐敗臭が漂う。時折、コンドームや、タバコの吸殻などが出てくる。今考えれば言語道断の代物なのであるが、人々はそれを、滋養があると言って、美味そうに食べていた。
 ある時、長兄組みの祐介兄さんたちが残飯鍋の列に並んでいると、イーサー先生が駅の方からやってきて、自身も十円払って残飯鍋を啜っていた。私たちが駆けていって、ナカノセが、自分も食べたいと言うと、イーサー先生は、中学生になるまでダメだと言う。そして、背広の内ポケットから、甘栗の入った包みを取り出して私たちに配り、ついでに、そこにいた関係のない人にまで配ったので、なんて心の広い人なのだろうと感動しつつも、私たちの分が減るのでヤキモキした。中学生になったら仕事をして、思う存分買い食いしようと思っていたが、闇市はその後消える。



  八 * *

 日本は戦後から脱しつつあった。私たちの身近で最も印象的だったのは、カフェーが再開したことである。
 線路沿いの場末を抜けると、壊れた街灯の脇に、戦前からの古ぼけたカフェーがあって、看板がかかっているだけで、いつも閉っていたのだが、それがある日唐突に店を開いた。
 戸口の少し入ったところのショーウィンドウに、パフェとかホットドックとか、メロンソーダとかのレプリカがあり、私たちはそれを食い入るように見入っていた。中でも猫崎はそれを見るだけでも心躍るらしく、足繁くカフェーの前まで通った。
 時代が変わると子供ながらに思ったものである。この予感は嘘ではなく、間もなくGHQが日本から撤退し、配給制度がなくなり、生活は安定していった。
 先生たちが汽車に乗って遠くの農家にまで買出しに行くことがなくなり、アメリカの小麦粉が月毎で供給されることが決まると、猫崎は「ああ、よかった」とほっとしていた。私はそれを二度ほど聞いた。猫崎は学年でほとんど全期間を通して一番小さかった。取り合いになれば、だいたい食いっぱぐれる方になる。必ずしもこのまま日本が豊かになっていくとは信じられていなかった時代で、食糧事情が安定することは、切実な願いであった。
 この頃の少女漫画の基本路線の一つに、母子モノというのがあって、どれもこれも、母親と生き離れになった少女が、身売りされて、継母にいびられたり、見世物小屋で働いたりして、母と出会える日まで苦難に耐えるという、マロの家亡き子をチープにしたようなドラマ展開のものが多々あったのであるが、それは決して冗談では済まされない私たちの実情があった。意外に思うかもしれないが、恋愛漫画というのはまだほとんど市民権を獲得しておらず、母と子の絆の方が少女たちにとっては重大なテーマで、愛とは家族愛のことであったと言っていい。
 大人になってお金を稼ぐようになったら、あのカフェーでケーキを食べようと話し合ったのであるが、この時のことは、私とナカノセの間で奇妙な記憶の食い違いがある。ナカノセはそこにイーサー先生がいたと言う。私はそんなことはなかったと思っているのだが、ナカノセによると、イーサー先生は、そこでホットドックが食べたいと言ったのだそうである。どちらであれ、傍目には、さしたる問題のあるものではないし、どのみち僅かな食違いである。
 私の記憶が正しいのであれば、たぶん、ナカノセが、そう思い過ぎたのが原因であり、逆にナカノセの記憶が正しいのであれば、私の気がなかったのが原因だろう。
 しかしもう一つ、どうしても避けられない原因は、猫崎の漫画である。
 ナカノセがどこかで何かをやらかしてきて、猫崎がそれを元に漫画を描く。それを見たナカノセは、自分が何をやってきたのか初めて気がついたような顔をしていた。私たちは、それをもって、そうだとか、そうじゃないとか真面目に議論していた。猫崎の原稿が仕上がる間もなくナカノセは、またどっかへすっ飛んで行く。
 こういうプロセスが、物事の詳細を明らかにする一方で、実際には起きなかったことまで記憶させることになっていたと思うのである。事実が曖昧になることはごく希だったが、棄却された描写でも、記憶であることには変らず、私たちは多分にその思考プロセスそのものを共有していた。ナカノセと猫崎の間にある認識は特に肉薄していたと思う。
 漫画の中のナカノセは三割ほどは猫崎で出来ている。たとえば漫画の中のナカノセが「銀座」に出かけると何かにつけ、白い背広を来た紳士に声をかけられるのだが、ナカノセと私は、漫画の展開で銀座に買物に出るという話になると、その時点で既に笑いが止まらなかったのだが、猫崎にはそれが滑稽であるという自覚は乏しく、そうあるべきだと信じてやまなかった。こんな人はテレビの中にしかいないとか、いやこのあたりでもたまにはいるとか議論になって、白い背広の若社長、ないしタカラジェンヌのような男が本当にいるのかどうか探したこともあった。結果その正体は洒落者の若いチンピラでしかなかったのだが、猫崎は、そういうところは時代に先駆けて非常にませていたと思う。

 猫崎が熱心に漫画を描くので、そのうちにはママちゃまも、処分品の赤本漫画や、月刊誌のお古などを、色々な伝手を使って手に入れてくるようになった。
 何故飴はダメなのに、漫画を集めることには積極的になってくれたのか、私はふっと思い至った。漫画は皆が読めるから。
 そのことを言うと「私もそう思う」と言ってママちゃまは私の頬を親指で撫でた。
 ママちゃまの集めてきた漫画の中の一冊に、主人公の女の子がとても可愛い漫画があって、それは我々のお気に入りだった。画風は高橋真琴の類であるが、作者は残念ながら解らない。書いてないのである。主人公の名前はアリス。彼女にはフランクという恋人がいて、フランクからは時に「巻き毛ちゃん」とか呼ばれている。一緒にピクニックに行って野原で追いかけっこをしたり、花を摘んだり、唐突に踊ったりする。小川を飛び越えようとすると、ちょっとドンくさいアリスが案の定、足を滑らせて川に落ちて、びしょ濡れになるのだが、フランクは咄嗟に飛び込んで助けに来てくれる。
 私たちはこれを真似て、自分も「巻き毛ちゃん」にしようと鉛筆を芯に髪を巻いて寝たりもした。無論とんでもない寝癖がついた。
 ある時、ママちゃまが美容院から切り抜きを貰ってきた漫画で、巻き毛のアリスは、フランクじゃなくて、アントニウスという貴族の青年と抱き合っており、猫崎は、これに感情移入すればいいのか、唾棄すべき背信行為なのか混乱して「アリスは何でこんなことになってるの?」と抗議した。アントニウスは、フランクに劣らず、とてもカッコイイ青年なのだが、ちょっと高飛車で、そこはかとなく悪玉の気があった。財力に物を言わせすぎるのである。
 ナカノセは「フランクが酒に溺れて毎日ぶつようになったから、仕方なくアリスが刺した」と決め付け、猫崎は「アリスが刺したんじゃない。アリスがフランクの豹変に困って、アントニウスに相談したら、アントニウスが子分を使って、フランクを消した。アリスは、そのことを知らなかった」と瞬く間にサスペンスフルなメロドラマを紡ぎ出し、あくまでアリスの潔白を主張していた。
 フランクとピクニックに行ってから、どれくらい時間が経ったのか、今は何が起きているか、アリスは何故こうなってしまったのかと長らく議論した挙句、私はふと思い至った。ひょっとすると、この子はアリスじゃなくて、同じ作家の別の漫画の中の人ではないか――。そう言うと猫崎とナカノセは唖然としていた。
 醒めているのか、私は小さい頃から舞台袖に出てしまう気質で、物語そのものを維持尊重することに二人ほど熱心ではなかった。現実が水を差してしまう。そんなであるから、私は三人の中ではちょっと仲間外れなんだろうとも思っていた。

 猫崎の強い弁護により、アリスの潔白は保たれたが、何故かアントニウスは、裏で悪い事をやっている奴という設定だけは残って、その後、猫崎の漫画でも頻繁に登場する便利なキャラクターになった。アントニウスは忍者みたいなのを使って、大統領や校長先生等の要人を殺しまくる。
 貴族なのに、血の滴る包丁をもって指揮をとったり、そのくせ、戦いの成り行きは見届けずに、お城でお姫様と踊っていたりと、ムラの多い人物である。思い出したように吸血鬼になって、街の上空を飛び回って女子供を脅かしたり、いつのまにか地底人になって、角つきの車で中国まで侵攻したりする多忙な日々を送っている。
 お姫様は沢山出てくるが、大抵、三ページぐらいが平均寿命で、楽しそうに踊った後は、大抵血を吸われてるか、既に血を吸い尽くされて干乾びている。干乾びたお姫様は、直視に耐えない生々しさがあった。
 アントニウスは「わかいむすめのチしかのまない」とか一面つかって言い放った次のページで、すまし顔で豪勢なステーキを食べていることもあった。じいやが「ステーキなどおからだによくありません」とアントニウスを咎めると「そんなことを言っている場合ではない!」と言って怒る。
 子供ながらに、何故、若い娘の血しか飲まないはずなのに、ステーキを食べているのか、その経緯がなっていないと思ったので、猫崎に訊ねてみると、「だって、世界がもうすぐ終わるから、吸血鬼でも、好き嫌いを言っている場合じゃない。それにペットの蚊とか忍者にも血をわけてやらないといけないから、我慢している」と、スラスラと解答がかえってきた。
 なるほど。アントニウスは、よほどの金持ちなのだろう。これじゃ、下手すると、村の原っぱでピクニック程度しか出来ないフランクより素敵なんじゃないかとも思った。
 「カ」はこの時にはまだ、登場していなかったので、後で本当にペットの「カ」が出てきた時には感心した。猫崎の漫画は、小学一年にして、内容を持った辻褄を実現させるだけの体系性や即応性があった。彼女は私たちの中では抜群に絵が上手かったが、それ以上に重要だったと思うのは、彼女には大きな物語を描く才能があったことである。純粋に次の原稿が上がるのが楽しみだった。
 ペン入れや植字などの要素を除けば、彼女の才能は、その本質において、既にプロの漫画家の域に到達していたと思う。
 ペットの「カ」の登場以後、蚊を捕まえて、手で叩いてぺちゃんこになったのを、ノリで紙に貼り付けて表現することもあり、蚊を捕まえると、皆で急いで猫崎の元に届けた。
 ナカノセがゴキブリをすっ叩いて、吸血鬼に相応しい、もっと衝撃的な新種のペットを出すことを猫崎に訴えていると、ママちゃまから、それは汚いからダメと言われた。
 漫画なんて読んでるとバカになると思っている先生たちも、何だかんだ言って、猫崎の漫画を楽しんでいた。そうであるから、猫崎の漫画はホームの話題の一つとして確立していた。私もナカノセも、他の子たちも、先生に小言言われつつ、誉めてもらいたくて漫画を描こうと試みたことは一度や二度じゃない。でも、同じようには描けなかった。猫崎は常に絵を描いていた。そしてそれは、桁外れに速かった。
 猫崎の漫画は出来上がったときも面白いのだが、少し時間が経って冷静に読めるようになってからも興味深い。アントニウスがステーキを食べる時に使っているナイフが、ホームの台所にあった桐箱に入ったままの洋包丁(某夫人の寄贈であり、彼女が視察に来る時にだけ使ってるフリをさせられる代物)だったり、アントニウスの召使がよく見ると昭和天皇だったり、猫崎の目線を通して描き出された光景が、時にサッと影を差す冷たい観察力で描き上げられている。一番気障りだったのは、アントニウスや皇帝たちの横暴に堪えかねて抵抗に出るレジスタンスの頭がイーサー先生に見えることで、これは必ず戦いに負けてしまい、勝つことが出来なかった。職員室の誰かが「猫崎の漫画は案外笑えないですよ」と言う。それに対し「笑えるなんてことは、さして面白いものではない」と言い返したイーサー先生の言葉が印象に残る。

 猫崎の漫画の特殊性というのはいくら言を尽くしても語りつくすことが出来ないが、最後にもう一つ、彼女の漫画の方向性を決定付けたものとして陳べておかねばならないものがある。
 春休みに入ってすぐのある日、男の子達が「M資金を見つけた!」と言って駆け込んできて、そこらにいた全員、それこそ百人近い子供たちが一群になって、ガード下から駅前通りまで一息で駆け上がるという事態が起きた。あまりにも物物しい状況だったので、駐在のおまわりさんまで出てきた。
 この一大事に、消しゴムをなくしたとか言って困惑している猫崎をナカノセが引っ張り出して、私たちも急いだ。しかし、猫崎は少し喘息っぽいところもあったので、あまり無理をさせるわけにはいかなかった。私と猫崎はM資金はナカノセに託して、祐介兄さんの漕ぐ新聞配達用の自転車の荷台に乗せてもらって、ゆっくり行くことにした。
 猫崎は、私に遠慮してか「元子も先に行ってもいいよ」と言った。
 私はホームではいい子ちゃんをやっていたので、猫崎にもしものことがあった場合には、それをママちゃまに報告する役目になっていた。であるから衝動的に動くということはなかった。そしてそれが私は嫌ではなかった。
 M資金がこんな近くにあるわけがないとは思っていたが、現場に到着して、何が起きたのか解ると、案の定呆れた。
 カフェーの横のシャッターをいつも閉じていた小屋にまたしても気取った店が開き、ガラス戸の向こうに、カメラやラジオ、飛行機の模型。宝飾品やブランドバッグ、社交ドレス。そういった高級品が所狭しと並んでいた。
 お店の人が出てきて、警察に事情を聞かれていた。
 群がる子供たちはそれを取り巻きながらも「誰だ。M資金とか言い出した奴は」「オレじゃないぞ」「かもしんないって言っただけ!」と方々に有耶無耶の体となった。
 皆がぞろぞろ帰り始めていたが、遅れて到着した猫崎は「私も見たい」とガラス戸の前に齧りつく。
 ガラス戸の向こうに、カメラやラジオなどに混ざって、幾つかの宝石が並んでいた。最初私は宝石には気を向けなかった。もしも一つもらえるのなら、旅行鞄か、ママちゃまが外行きに履くような黒い革の靴が欲しかったのである。しかし猫崎はそれを見つけた。
 金製の輪の上に、半透明の飴のような色をした石を掲げている。その時丁度差し込んだ日の光を一杯に浴びて、光の輪を青いベルベットのクッションの中に落としていた。燃えているのではないかと思うほど輝き始めて、暫し皆で覗き込んでいたが、それはカフェー以上に場違いであったので、盗まれやしないかとも思った。
 化粧箱には筆記体で何か書いてあった。猫崎はそれを書き写してきて、ホームの先生たちに聞いて回ったが、解る者はいなかった。イーサー先生がやって来た時、訊ねてみると、イーサー先生は不思議そうにしながらも「アウレア・リベルタス」と答えた。
「どういう意味?」
「黄金の自由という意味だ。それを、どこで聞いてきたんだね?」
 アウレア・リベルタスの美しさとその響きに甚く惚れ込み、猫崎はこの宝石を何度も自身の漫画の中に登場させ、色々と重要な役割を担わせた。
 ナカノセが最初に口走ったのだと思うが「黄金の自由よ私を導け。そのために私は生涯を捧げよう」という世紀の名文句が生まれ、秘宝アウレア・リベルタスは、クライマックスで使われることが定番となった。無論、どこかで聞きかじった言葉の継ぎ接ぎからこれは生じた。口馴染みいいだけで、その科白の内容に関して、特にこれといって深い考察があったわけではない。思わせぶりなだけで関係がないことも多かった。しかし、アウレア・リベルタスを核に私達の物語は巨大化していった。まだ描かれていない漫画の展開についての議論は、格好の会話のネタとなっており、それ以後私たちがホームにいた全期間を通して、幾つになっても飽きるところがなかった。アウレア・リベルタスをめぐる物語は私たちの青春だ。
 洋品店は私たちが中学に上がる前になくなったが、東京へ移転したことをナカノセが突き止めてきて、この石がまだ売れずに残っていることを確認した。数奇のアウレア・リベルタスは、私たちを待っていた。
 熱心に金屑を集め始めたのは、全てこのアウレア・リベルタスを手に入れるためであった。大人になるまでかかっても、十年がかりでも到底間に合うような値段ではなかったが、私たちは最後、これを手に入れることになる。






§  ローズ・ピアノ

 イーサー先生の他に学視官という名目でホームに訪れる先生は他にも何人かいたが、どうやら学視官というのは肩書きで、彼らの実際の職務は他にあるようだった。
 私たちが小学二年生に上がった時には、ホームに念願のピアノが来たのを覚えているが、これは、GHQ学視官としてホームに訪れたグルーエンサーという先生が、日本を去る時に、私たちに贈ってくれたものである。
 グルーエンサー先生はアメリカの退役軍人であり、将軍とも呼ばれていた。長身痩躯で金ボタンの並ぶ紺色のダブルのスーツが厳めしい。細面で頬がこけていて、眼の彫りが深い老紳士である。頭を撫でられると、嗅ぎなれない煙草の匂いがした。
 グルーエンサー将軍が来るとなればホームの先生たちがそわそわして普段とは様子が変る。全員銭湯に連れて行かれたり、新しい服が卸されたりして「グル将軍」は相当偉い人であることは子供たちでも解った。鼻水なんぞ垂らしてボケっとしていると、寮母の先生たちに怒られて井戸まで引っ張られていって、顔を洗わされた。
 グルーエンサー先生の置いていったピアノは二台あり、それぞれ微妙に音色が違った。調整の仕方が違うらしい。
 音色は独特で、低い丸みのある広がりの後に、玉砂利を打ち合わせたような余韻が尾を引く。B17爆撃機の余った部品で組み立てられた無骨なアルミ造で、ローズピアノと呼ばれる一種の電子ピアノであるが、今の電子ピアノとは異なる。一般的なフェンダー・ローズともまたちょっと違う音色で、強いて言うのであれば、一つはマリンバのような素朴さがあり、もう一つはオルゴールのような堅い響きがあった。
 当時は、単に変てこな鍵盤楽器であり、日本人が知る限り、どう見ても純然たるピアノではなかったので、アコーディオンとか、オルガンとか、曖昧に呼ばれていた。
 そういえば、子供たちの間では、ラジオピアノとかいう、今となっては何のことやら解らないような渾名もあった。電源を必要とするので、子供にはラジオの一種と見なされたのである。ホームにあった他の電化製品と言えば、ラジオと電球ぐらいで、電気で音が出るから、子供たちにしてみれば、あれはラジオの仲間だったのだ。
 ホームの音楽の教師であった滝沢先生は、あの原始的な、名前さえあやふやな、ローズピアノで、無数の曲を弾いてみせた。
 この先生は歌も上手くて、滝沢先生がペダルを踏んだまま、歌ってみせると、玄が共鳴して、どこまでも登っていったのを覚えている。
 子供たちもそれを真似てみようと、ピアノに向かって必死に叫ぶが、ピアノは、そっぽを向いたように黙りこんで、そんじょそこらのガキんちょ連中には易々とは共鳴しないのだった。
 先生は留まる所を知らないレパートリーを即興する。難曲の楽譜を初見で弾き倒す腕前には皆、大いに感化された。
 このピアノを整備しにくる調律の石橋さんという人がいたが、この人は調律士ではない。元々電気技師で、アマチュアでちょろっとピアノも弾ける。ホームの近くの新興団地に住んでいた。このピアノは電子部品を必要とする。時折、フィラメントの切れた真空管など、機械部品の余りが出るので、男の子たちは取り合いをしていた。機械大好きの国男がこれを放っておくわけもない。国男はいつもはボヤっとしているのに調律の石橋さんが来ると、スイッチが入ったように率先して手伝いを買って出て、熱心にその仕組みを教えてもらっていた。そのうちには、国男が修理を受け持つようになった。国男はポン菓子砲の時もそうだったが、メカニズムには興味を持つものの、ピアノ演奏自体にはさほどの興味を示さず、ピアノを練習しているのは、多くの場合、中学生の女の子たちであった。滝沢先生は天才肌で、これがまた困った優男だったので、女の子たちは皆、密かに恋心を寄せていたと思う。

 いつしか、滝沢先生の伝手で、米兵のホールに行くことになった。私たちが合唱要員として、滝沢先生に伴ってホールに行くと、歓迎されて色々もらえるし、洋食にありつけるし、時にはチップさえもらえた。いい事尽くめだったので、誰しも一度はピアニストになりたいと思ったと思う。
 滝沢先生は相手が驚くほどマイナーな曲目を知っていたし、仮に知らなくても、楽譜がなくとも、そこに歌があれば、手探りで演奏してしまう。米兵たちからはミスター・ジューク・ボックスとあだ名されていた。
「ピアニストのいいとこは、何はなくとも、ピアノのあるホールには入る権利があることだ」と滝沢先生は言っていたが、この先生は実は非常に志が高く、自分の演奏には対価を求めなかった。ナカノセは、先生に向かって、何でもっと積極的に商売をしないのか、先生は自分の才能を活かして、世界中を駆け回るべきだと熱心に主張していたが、彼は首を縦には振らなかった。
 滝沢先生は言う。
「僕は才能でお金を取るのは良くないことだと思う」
「そんなんじゃ! 先生はどうやって暮らしてゆくの? お金なかったら死んじゃうじゃん」
「カラスは、お金なんて持ってないけど、死なないよ」
「先生はカラスじゃないでしょ?」
「なんでだよ。僕はカラスだろう」
「なんでって、なにが。どこがさ」
 だいたいママちゃまがこのヘンテコな先生をホームに呼んできたのである。実際にはホームから先生に最低限の給与は出ていたのであるが、先生は寄宿生のような扱いで、特定の教室や授業は持っていなかった。気が向いたり、頼まれるとピアノを弾き、野良仕事に借り出される。そうでもなければ、職員室に宛がわれた椅子の上で本を読んでいるか、昼寝をしているだけという日々を送っていた。
 滝沢先生は、暫くすると私たちが新任の福地先生と恋仲にあると噂になった。それは果して事実であった。その噂を知ると猫崎の漫画が一時期ぱたりと止まってしまった。滝沢先生をホームに連れてきたのは、ママちゃまのはずだ。
 滝沢先生と福地先生がピアノの話で盛り上がったり、連弾とかしているのを見ると、言いようもない嫉妬感があった。失恋したのは、ママちゃまじゃなくて、私たちだったのである。
 姉達の真似であるが、女の子たちはママちゃまがずっと独身であることを、気にしていた。従軍看護婦は婚期を逃がす人が多く、その上、軍人年金の対象外でもあり、苦しい生活を強いられている人たちが多かった。ママちゃまは伝手を辿って従軍看護婦たちの現状を政府へ陳情したり、市民集会で説明などをするようになっており、そのせいで、ますます多忙な人になってしまっていた。
 少女達はママちゃまを尊敬と同情が入り混じった視線で見ていたと思われる。しかしナカノセだけはどこか頓珍漢で、男の子たちと同じような場違いな面持ちでそれを見ていた。
「福地先生はショパンの練習曲を一つも間違えずに弾けるわ。練習曲って言っても、ショパンは凄く難しいのよ」などと、ピアノが上手いことを我がことのように自慢し始めた福地先生のクラスの女の子たちと何やら言い争いになって、ナカノセが不意にこんなことを言い放ったのを覚えている。
「そんなんの全然すごくない。うちのママちゃまなんて、指一本でピアノを弾けるもん!」
 これは、勝ち目がない。
 猫崎は終始失意の悲しみで泣きべそであったが、私に向かって、ひっくと、困惑した表情を向けた。
 私が慌ててナカノセに耳打ちしていると、ママちゃまが教室に飛び込んできて「はい口開け」と命じて、チリメンジャコを娘たちの口に一つまみずつ放ってゆく。
 臨時おやつに勘付いた男児たちが凄い勢いで舞い戻ってくる。やつらの食べ物に対する嗅覚は尋常ではない。
 ママちゃまは苦笑いしながらも、先生然とした威厳をもって言い含める。
「ナカノセ。私はピアノを弾くことも上手に歌を歌うことも出来ないけど、ママちゃまよ。頼りがいのある先生たちが増えてきたから、私は来年からクラス担当からは外れようと思っているの。そうなると皆とは話す時間も少なくなってしまうけど、お願いよ。四月には新参がまた入ってくると思う。小さい子たちの中には、体力のない子もいる。私はどうしても皆の誕生会をやりたいの。だから、あんたたちは福地先生に歌やピアノを沢山教えてもらって、一曲ぐらい弾けるようになりなさいよ」
 ママちゃまはちょいちょいと福地先生を呼び寄せると、福地先生の口にもジャコを一つまみ放り、何ごとか告げ微笑むと、自分はヒヨコ組の方へと戻って行った。
 近所の大人たちは割と気安く結婚はいつだなどとママちゃまを冷やかしていたが、彼女は、相変わらずの愛想を振りまきながらも、人知れず内なる厳格さを増していった。
 ホームは常に存亡の危機を抱えており、安定していない状況に置かれていたが、私たちは先生には恵まれていたと言える。






§ 一〇 最後の授業

 イーサー先生が最後にホームに訪れたのは、昭和二七年、私たちが小学二年生の夏頃。GHQの占領が終わったのと同じ年のことだった。日本全国で実験導入されていたサマー・タイムが廃止になり、滝沢先生がホームの時計の針を元に戻していた。GHQの占領は四月一杯までだったが、イーサー先生は、事務処理の関係で、夏休みに入る前まではホームに訪れていた。
 食糧事情が安定したとはいえ、ホームの経営は依然としてキリキリ舞いで、職員室ではそのことについて、先生たちがいつも議論していたのを覚えている。先生たちが忙しかったので、私たちは小さい子のお守や、皿洗いなどの手伝いをいつもより多く与えられていた。その間にも、イーサー先生の授業が何度かあった。イーサー先生の授業はいつも、算数とか国語とかの名前がなかったので不思議に思っていた。どんな授業であったのか自分はそんなに覚えていない。イーサー先生の授業は、ホームを卒業してゆく中学生や高校生のために語られているところが多く、言ってる事が小学生には少々難し過ぎるのである。
 最後の授業はひっそりと静まった夜間にプレハブの講堂に集められて行われた。多忙なイーサー・エルクの都合でもあろうが、その頃、私たちより更に小さい子たちが増えていたので、彼らを寝かしつける必要があった。講堂の照明電球をつけなかったので、何かただならぬことが起きていることが解った。ホームで重要な話がある時には、暗闇の講堂で蝋燭を灯す。それは、ママちゃまが看護学校の戴帽式を引き継いで採用したホームの伝統だった。
 何より衝撃を受けたのは、先月、イーサー先生は、自分の故郷が戦闘に巻き込まれて自分も戦ってきたこと。学校の生徒がほとんど連れ去られたことの報告だった。日本でニュースになっているのは、朝鮮戦争と北海道の内紛のことで、ハムスター王国の話はこれっぽっちも記事になることがなかった。イーサー先生が集めてきた写真のスライドが白幕に映し出される。皆黙り込んでいるだけで、イーサー先生も、それが何であるのかの説明をポツポツと言うだけで、その背景についてはあまり語ることはなかった。

 それからイーサー先生は、私たちの将来のことなどを話し始めた。
「君たちとは色々と話したいことがあります。でも、私たちには時間がない。そういう時に何の話をしたらいいのかということを考えた時に、まずは私たちの関係性に踏まえて言及すべきだと思います。私たちとは、私と君たちのことです。しかし、ただ単に、皆で夏には海に行ったよねとか、冬にはお餅をついたよねとか、そういう思い出話をするだけならば、それは私がいなくても出来ます。逆に、人間の生き方についてとか、世界についてとか、そういうことを話し過ぎても退屈です。しかし、正しいことと大切なことはしばしば相容れない。人生において最も大変なのは、自分の信じている正しいことと、自分にとって好きなことがどうやっても一致しない時です。その時に私は正しい方を選ぼうと思っています。
 自分が知る限りにおける正しい方を選ぶ。神ならぬ人間における正しさというのはそういうことです。本当の正しさとは何か? と疑問符をつけて呟きつつ、自分の知っている正義を知りながら裏切るということを私はしません。
 自分の好きなことや大切なことだけを、優先すれば、たとえば、ただ単にオモチャが欲しい。お金は払いたくない。だから盗むというような結論をも作ってしまい、自分の信じている正しいこと、仲間に迷惑をかけたくない。社会規則は守るべきだということは犠牲になります。
 私は幼い頃、実際にこれをやって、危うく手を切り落とされるところでした。資産家の用心棒ではなく、ハビブッラ――共産主義者の先輩に。
  君たちは革命のことを盛大な泥棒で、革命家のことを泥棒の一種だと思っているかもしれないが、違うんだ。ハムスタンには、革命家が現れざるを得ない社会事情があった。
 私たち革命家はお互いに一度も会った事がなくても、その屈従の歴史を跳ね除ける、信念において互いを知っていた。
 私たちが何を求め、何のために闘っていたのかというと、それはリベラル・デモクラシーです。つまり、自由民主主義です。それが私の考える正しさです。
 自由民主主義、あるいは民主主義的自由というのは、ただの自由ではないんです。純粋な自由ではない。自由が大切であると皆言っている。自分もそう思う――。だったら何故盗んではいけないのか。何故ならばそれは、誰かの自由を失わせるから――という推論は、およそ誰でも出せると思います。少なくとも理屈としては。すると、自由には正しい自由と正しくない自由というものがあるということに気付く。
 自由というのは楽しくて面白い。何より幸せだ。皆そう思っている。だいたい合っていると思います。それが私の好きで大切なことでもあります。しかしそれだけではならない。自由民主主義というのはそれです。自由民主主義は、ただの自由ではなく、正義を伴った自由であると言い換えてもいい。私が革命家であって泥棒ではないのは、正義を伴った自由を求めて闘っているからです。
 しかし、そうすると、正しいというのは、時に、楽しくなくてつまらないものであるということにもなります。これは事実です。本当に厳しい事実があり、楽しいとかつまらないとか以前の、人倫を絶した過酷さを伴った事実があり、その戦いは苦痛と生命の危機と常に隣り合わせにならざるをえない。
 自由をただ身勝手に求めるわけにはいかないからこその自由民主主義であるのに、その自由民主主義を目指す過程が人々を苦しめるという状況にもなってくる。
 そこで純粋な自由と自由民主主義は、天秤にかけられることになります。天秤にかかる以上は、リベラルデモクラシーという正義の自由は、決して傲慢になれるほどの原理的な正しさを持った錦の御旗ではなく、常にその真価を試されている一つの考えに過ぎないことが暴かれる。
 正義の自由というのを逆にとれば、それは、積極的に悪いことをしなければ、何をしてもいいということにもなるかもしれない。
 日本では、今や抑圧的な戦時体制から解放されて、皆が皆好きなことを出来るようになったのですが、好きなことをやるには案外お金が必要です。皆がお金を稼ぐためにすごく頑張っている。
 すると、道で行き倒れになっている人をみつけても、かまってなどいられなくなる。でもそれは加害しているわけではない。極論、川で溺れている人をみつけても、それを無視することも、見て笑っていることも、別に悪いことではないということになります。

 新自由主義と言ってもいいですが、この新自由主義というのが、ただの泥棒の自由と違うのは、ルールを守った上での正義であるにも拘らず抜け穴があり、ほとんど醜悪とでもいうべき態度を伴うことが可能であるということです。泥棒というのは実は、自分が悪いことをしているのを知っていて、それを認めているのですが、新自由主義の信奉者というのは、それが悪いことであるとは認めません。何故ならば、ルール、つまり法律を守っているからです。それが彼等のかかげる新しい正義です。
 明治革命以後、日本で何より大切だったのは天皇だったのですが、第二次世界大戦の後、最も大切なものの筆頭が自由になった。これは凄いことです。何故ならばその自由というのは、人民の自由のことを指しているからであり、天皇が一番大切ならば、その臣下は時に命を捨ててでも天皇の意向を体現せねばならなかったのですが、その大勢の臣下が、他人に危害を与えない限りにおいては、皆自由に振舞っていいことになったということだからです。
 何のために自由が一番になったかというと、それはもちろん皆が幸せになるためです。天皇ではなく、人民がおしなべて幸せであること、それを人民が各自決めることが幸せになり、倫理に適うという考えです。
 他者を危害しない限り好き勝手にしていいという他者機害則の法律は、人民主権、即ち、最大多数の最大幸福という理想を実現するために生じたのですが、これはもう少し抽象的に言うと、帰結主義ということがいえ、幸福の結果が最大化されることを目指しているということが言えます。
 日本では近年、頻繁に結果よければ全て良しなどと言います。しかしイスラム圏は違います。イスラム圏では、アラーの御心のままに。これは義務主義と言います。ハムスタンは比較的世俗的ですが、サウジアラビア等の厳格なムスリム国家においては、宗教はそれ即ち法であり、理念法と世俗法の位置が肉薄しており、理念法の背後にいる神の権威も強い。神と共にあるということが、単なる詩情の口ぶりではなく、信念なのです。共産主義革命はここから神を追い出そうとした革命であるということも言え、これは私たちとっては、非常な葛藤を孕んだ難題であり、ハムスタンはイスラム共和国か人民共和国かで内紛をしていて、今も国論を二分しています。はやくどうにかしなければ、我々はまたソ連か中国に吸収されてしまう。あるいは分断された上で飲み込まれてしまう――。
 好きなことよりも正しいことを選ぶというのは、私や革命においては憲法理念におけることを指します。しかしそれを国民に強要するのは違う――。
 君たちにおいて、日本人において、天皇は国民の象徴であると言う時、それは国民の意思を体現します。しかし、それだけではなく、国民の範であるということも含意されており、天皇と国民の間で共有された理念を守るために、国民が挫けそうな時は天皇が持ち堪え、天皇が挫けそうな時は国民が持ち堪えるという意味にならざるをえない。日本国憲法は自由と平等を標榜し平和を目指しますが、天皇は自由の象徴でも平等の象徴でもなく、国民の象徴なのであり、あえてそれを言わなくても、元々国民の姿と表裏一体だったと言えると思います。国民の代表が、国民の代表たりえない時には、革命が起きる――。革命のさなかで、革命の中でそれが起きると、およそその革命は失敗する。



 一〇 * *

 最後の方の話は少々縺れていた。イーサー先生は、この後「クルタ」がどうとか言い出したのだ。大筋で「クルタが悪い」という話であることは解ったが、クルタとは何者で、どうして悪いのかはさっぱりで、あんまり話の本筋とは関係なさそうなところで「ハムスターとは先生の国にいるネズミの一種」だということを私は知った。最後の方の話は先生たちにもよく解らなかったようであるが、実はエリザベス・サンダース本校でも同じ話をしており、私はその講義録を随分後になってから手に入れた。以下はその話である。
「クルタとはこれです。これは置いていきますので、みんなで使ってみて下さい」
 イーサー先生が、クルタだと言ってポケットから取り出したのは、円筒形の原始的な電卓だったそうである。
 帰結主義というのはたとえばこういうことを生み出すでしょう。たとえば試験の場で、賄賂を使って試験監督から答えを聞き出し、球の体積を求める問題が出たら、とにかく三六π立方メートルと書けば正解だと教えられたとしましょう。確かにそう書けば正解するのかもしれない。しかしそれは理解を素通りして得た正解であり、限りなく不正に近い。私とて、そういう生徒を見抜けるとは限らない。答えは答えで正しいのだから。自らその問題を解こうとして、僅かな計算間違いをして落第する生徒も出る。しかし、我々の将来において、真に難しい問題を解決するのに必要な人間は後者なのであって、先生としては君にはそこで挫けてもらいたくないのですね。
 自分の力で戦うことの出来る人間は、いつの日か、自分の力で勝てる時が来ます。まあ、現実問題、この世は厳しいというか、世知辛いものなので、そういう日が来ないまま去ってゆく者も多いのですが、世界は常にそのような勇気ある人間を必要としています。それは本当のことです。
 自分で戦う時には、その結果がどうであれ、世界は命を賭けるに値するものに化けます。
 むしろ、結果やルールという恣意的な規準線を設けることでこそ、信条は骨抜きになる。
 罰を受けたくなくば卑劣なことをしてはいけないと言われます。しかし、罰を罰とも思わねば、あるいは明るみにならなければ、それはやっていいと判断されるようになり、むしろ積極的に抜け穴を探すようになるでしょう。
 勉強をしろ。将来立派な人間になりたいのならば。ありがちな発破ですが、これも全く同じことで、即ちそれは、将来特に立派な人間になりたくないのならば勉強などはしないし、金持ちになることが目的ならば、勉強をするよりも、媚を売って権威に近づき、ライバルの足を引っ張って暗躍する方が容易であり、いかに勉強をしないで誤魔化すかという方向へとひた走ることになる。
 更には情けは人の為ならずなどとは言いますが、即ちそれは人に情けをかけるのは自分の利益になるからということでしかありえず、こんなものが警句や名言のつもりならば退屈以下です。かえって、損得勘定でしか動かない卑屈な魂を育てるのに一躍買う。
 たとえば君たちは日本語における親切という語が何故、親を切るなどという気味の悪い字形をしているのかと不思議に思われるかもしれない。
 しかし親切は、親を切るという意味で間違いない。本来ならば自分の親にやるべき餅を他人にくれてやるということを言っているのであり、身内びいきを控える公平さのことを意味するからです。親切を自分ないし、準自分たる家族に対する餅であると考え続ける限り、その意味するところは永遠に理解出来ないんです。親を切ってまでしてすべきことは、庶民の日常においてはそうそうありえないわけで、親切は、字義通りの世界観を譲らない。
 そこまで気張らないとしても、単なる間違いは修正すれば直りますが、思考性は考えない限りどうにもなりません。誰かの戦いに参画するのは悪いことではありませんし、戦う人間は協力者を常に必要としています。だからこそ私は革命家というものをやっているわけですが、世界が迫ってくる実感がなければ、それもまた、やはり意味を持てない。
 自分の中で一生燃やし続けることの出来る火種が一つでも手に入れることが出来れば、ただ何となく一喜一憂しているのとはだいぶ違う財産となるでしょう。学生である諸君には、是非ともそういう炎を手に入れてもらいたいと思います。
 君たちが世界に確実に在るという実感は、誰かとただそこに一緒にいることではなく、火種を掴んだ経験によってのみ成される孤独な体験です。同じ炎に触れた無数の人々がいることを知り得るのは、炎を触れないと解りえないのですが、その人が炎を触れることは、その人をもってしか出来ないということです。
 帰結主義の盲点とはそういうことを言っている。しかし、これは序の口です。依然として、世界の富が最大化されないからよくないということを言っているに過ぎません。
 たとえば先端医療において人間の臓器移植というものが可能になってきている。もしも医療科学の粋である臓器移植の技を最大多数の最大幸福の理念に沿って活用しようと思えば、思いもかけない奇怪なことが起こりうる。
 ここに心臓に疾患を持つ者がいるとします。他にも肺炎を患っている者から肝臓を病んでいる者、眼球癌を患っている者に皮膚が焼け爛れている者もいる。皆このまま放っておけば死んでしまう。そこで一人の健康な人間を引っ張ってきて処分し、それぞれの患者の疾患に割り当てる。そうすれば多くの人の命を救うことが出来て、最大多数の最大幸福が実現しうる。恐るべきことであり、無論私はこれを良いことだとは思えないし、真に邪悪であると思っていますが、功利主義的な正義においてはこれを正しいことであると帰結せざるをえないのです。
 他には、こういうのはどうか――。ホームの皆に私が約束するとします。便所の汲み取りの仕事を手伝えば皆に十円ずつお小遣いをやろうと。しかし皆が一生懸命働いた後に、君たちにお小遣いをやってもどうせ下らないものを買うだけだから、お小遣いは、将来有望なローズやフルブライトの奨学生たちや、ハムスタンの飢える人々にあげることにする――。君たちは騙されたが、これは、最大多数の最大幸福においては正しいことである可能性が高い。
 何故ならば優秀な人たちは世界をより発展させることに大きく寄与するであろうし、飢えている人たちは非常に不幸だからです。毎日三食食えている君たちは物の数ではない。これは、ある意味で、君たちは倫理的客体として遇するに値しないと言っているのです。すると、約束を守ることは、単にそれだけでも、幸福や公平性と同じぐらい大事なことであることに気付かされるはずですが、一方の最大多数の最大幸福という考え方は、嘘をついてもいいと言っているし、裏切ってもいいということを導き出します。
 君より有望な人がいれば、君より不幸な人がいれば、幾らでも君を裏切ることが許されるという仕組みを使えば、いかなる権益からも排除された奴隷を作り出すことさえ可能になる。正義や倫理、幸せというのは、特定することが困難であるばかりか、進めてゆくと突然グロテスクな一面を現すわけで、そういう現象を、思想的には啓蒙の弁証法と言います。
 啓蒙の弁証法とは、Dialektik der Aufklarung――これはドイツ語ですね。
 英語でDialectic of Enlightenment――ダイアログオブエンライトメントの訳語であり、光で照らし出すことに関する対話、あるいは照らし出すことに関する反語という意味です。新自由主義とは、つまり啓蒙の弁証法です。
 私たちには正しいことよりも大切なことがある。正しいことに対して、より正しいなどということには、繰り返すほどに、さしたる価値ではなくなる。

 クルタ以前にはコデックスがあったのです。クルタは暗算に対する義足のようなものですが、コデックス、つまり書物というものは言語性思考に対する義足であり、ソクラテスもキリストも本を書きはしなかった。彼等の言行録を書いたのはプラトンを元とする後の哲学者たち、そして、使徒たちで、当人たちは恐らく本に頼ることを、正しいとさえ信じていなかった。
 今でこそ本を読んで一生懸命勉強しろと言われますが、ついこのあいだまで、私が子どもの頃は勝手に本を読むことは、特にコーランを勝手に読むことは良いことではありませんでした。
 神の言葉を受けて自ら本を書いたのはムハンマドであり、これは言わずと知れたイスラム教最後にして最大の預言者です。私はムハンマドの判断は正しいと信じていますが、縦しんばクルタを認めたとすれば、その先も認められるでしょうが、次々に現れる革新を、最後まで認めた時に、人間は既に生命であることをやめているはずです。その意味においてムハンマドがイスラム教最後にして最大の預言者であるというのは、人類において最後にして最大の預言者という抽象理解が可能であり、書物は人間の倫理的境界線にあたり、且つそれを引ける最後の道具であるということを私は認めるのですね。仮に私がイスラム教徒であることをやめたとしても。つまり、私が如何なる背教者に身を窶そうとも、結局は私の信じるところのムスリムの教えは本質的に変るところがない――。
 まあ、そういう歴史精紳的な話は置いておいても、現実問題、自分で考えることを捨てると、我々は大変なことになります。我が国では、医者が大丈夫だと言った粉ミルクを飲ませて、赤ん坊が沢山死んだことがあります。明らかに食べ物とは思えない味がすると、何人かの母親は訴えたのですが、結局は医者が大丈夫だからと言うので、不幸にもそれを信じた。それは何らかの溶剤だったのですが、分量さえ間違えなければ、毒性はあっても死ぬまでにまでは到らなかった。その上悪いことには、博士は、その説明書に欠いてある分量単位の誤記を鵜呑みにして疑わなかった。おかしいということに気付いたのは、ろくに学校にも通ったことのない末端の母親です。しかし、結局は権威の方を信じてしまった。この粉ミルクは事件後、長らくアルタイマザールの倉庫に放置されていましたが、ネズミの食害は皆無です。猫も舐めない。人間だけが、物化された知性を信じた。
 民衆のいけないことは、誰かが高等数学を引き合いに出して証明すると、単なる四足演算の結果さえ放棄することです。そういう自分の知っている小学校で習った最低限の真実さえも信用せずに、ちょっと孤独にしてやって、つまり集団の中に投げ込んで脅しをかければ、何も信じれなくなって、簡単に引っ込んでしまう。それが極まれば、時には己の五感でさえ信じなくなるということです。彼らは、背広を着て、ネクタイを締めて、柔和な笑みを湛える者が正しいことを言うと思っているのでしょうが、詐欺師は大抵同じ格好をしています。そう。私の敵は、私と同じ姿をしているのです。今日ここにいる私が本当にイーサー・エルクであるか、君たちを殺しに来た悪霊なのかは、私に訊ねても無駄です」
 ホームの大時計が二十二時の鐘を突いた時、イーサー先生は笑った。話は半分ぐらいしか解らなかったが、イーサー先生が一人で笑っていたのはよく覚えている。
「ああ、そうそう、私は飛行場に急いでいる時、枯れた木の虚に逃げ込んでゆくハムスターを見ました。本当に久しぶりで、あれが、最後の一匹だったとしても私は驚きはしない。野生のハムスターは今や、そのくらい少なくなっている。連中はまだそこに誰もいなかった時代、アレクサンダー大王と共にハムスタンまでやってきた」
 イーサー先生は、共産主義革命の旗手というその立場上、熱心な共産主義者だと思われることが多かったが、生涯土着のイスラム世界を捨てきれない人だったと思う。
 この日のイーサー先生は、酷く疲れているように見えた。



 一〇 * * *

 夜、私がお便所に行くから、ナカノセについて来てもらったのだ。時刻は既に〇時を回っていた。
 猫崎も一緒だった。ナカノセは、イーサー先生が暗闇の講堂に残っていることに気付いた。先生はもうハムスター王国へ帰っているはずだったのに、そこにいたのである。恐ろしかった。実を言うと、死んでいるように見えた。

「どうしてもと言うのなら、インドだ。山を越える」
「インド山? 先生、寝ぼけてる」
「待て! それは危ない」
「先生の敵は誰? クルタなのでしょ?」
 イーサー先生は様子がおかしかった。
「先生はまた戦争に行くの?」
 やめた方がいい。危ない。
 ナカノセは寝言を言っているイーサー先生と会話しようとしていた。
 私がそれを止めさせようとすると、イーサー先生は、はっと目を覚ました。
 ナカノセが「私も行きたい」と言いかけた瞬間に、イーサー先生とナカノセは、何か凄まじいものに吹き飛ばされて床に転がっていた。
 テュルク語で捲くしたてるイーサー先生は私の知らない人だった。
「私が撃ち殺した兵士には明日はやって来ない! 君はどうだ。君も戦争に行きたいというのか! 愚か者め! 君の友達は今の一撃で死んでしまったのだ!」
 私は何て答えたのだろう。覚えていない。とんでもない剣幕に竦み上がっていた。
「そっちの君はどうだ?」
 猫崎が、何と答えたのかはよく覚えている。私の元から危機が去っていた。
「私、悲しい世界は好きじゃない……」
 猫崎はそう言って、ベソをかいた。
「……君はいつか、悲しい世界でも生きてゆける人間にならなければならない」
 私達は随分長い間何も答えられなかった。
「正しくなくても生きてゆけ」
 イーサー先生は咄嗟にナカノセを守ろうとしたのだと思う。しかしナカノセは冷ややかにもイーサー先生に殴られたと断じた。私と猫崎はそれを認めたくなかった。
 イーサー先生がナカノセをぶったことはショックだった。だが、それだけではなかった。ナカノセは立ち上がるとイーサー先生を叩り返そうとしたのである。泣いてさえいなかった。ナカノセが普通じゃないのは、そういうところだ。しかしナカノセの拳はイーサー先生に押さえ込まれて当ることはなかった。
 翌日、このことを大岩先生に話すと、忙しげに朝食をかき込む箸を止めてこう言った。
「そうか……。君たちそれは内緒にしてくれるか。イーサー先生は、命を狙われているんだよ」
「誰に? クルタが?」
 大岩先生は首を横に振る。渋い表情をしていたが、声だけは優しげだった。
「イーサー先生の仲間たちは、戦争が終わった後、会談に向かう途中で消えてしまった。殺されたんだ」
「それは、上海に向かう時の話でしょ?」
「それもだ。そういうことが彼には何度もあったんだ。イーサー先生が今日まで生き延びてこられたのは、本当にたまたまだ」
 イーサー先生が去った翌日の夜も、私たちは講堂を確かめに行った。夢であったような気がしていたのだろう。
 当たり前だが、この日はイーサー先生はもういなかった。
 私は、その後、イーサー先生が夜の飛行場からハムスター王国に帰ってゆく夢を何度か見た。
 夜のホームの廊下は独特の気配があって、赤い常夜灯が光っており気味が悪い。ナカノセは、常夜灯を確かめるために、夜中に職員室を覗くことがあった。ナカノセが夜にお便所行こうと言うのは、トイレに行きたいのではなく、ほとんどの場合、まだ寝たくないのである。
 一度、夜中に誤まって、ナカノセはブチっと非常ベルを押したことがある。ナカノセは暗闇で、一人だった。ちょっと鳴らしてみただけで、すぐ止めるつもりだったというが、まあ散々怒られた。先生たちも、ナカノセのそういうところには手を焼いていたと思う。ナカノセは一人で突き進むことに躊躇がない。恐怖感が欠落している。
 その後、イーサー先生に国際郵便で手紙を出すということが何度かあったが、それが届くことなかった。






§ 一一 フォルチュネ医療団

 イーサー先生がこの時、当事者として関わっていた戦争というのは、第二次ハムスタン紛争という名があるが、一般には中ソ紛争の中の一コマとして埋れている。彼は第一次ハムスタン紛争においてハムスタン革命を率いた人物でもあり、そのことは私たちの存在にとっては決定的である。
 上海でイーサー先生とママちゃまが出会っていなければ、ナカノセという人物は形成されなかったかもしれず、エリザベス・サンダース町田分園も存在せず、ママちゃまもいなかったかもしれないからである。ひょっとしたら、ナカノセも死んでいて、ハムスタン革命自体も潰えていたのではないかとさえ思うのである。
 ママちゃまの口にする昔話が、現実のものとして現れて以後、二つ記憶は私の頭の中で静かに手繰り寄せられ、そのうちに区別をつける意味を失っていった。

 一九四〇年秋 上海。 
 ハムスタン革命前夜。私たちはまだいない。最後にもう一度、ママちゃまに主人公として登場してもらおう。彼女は思わぬ成り行きで、フランス赤十字、ジャック・フォルチュネの医療団に加えられることになった。面接に当たったフランス人医師のジャック・フォルチュネは、青白い貌に口髭。年の頃は五十ほどで、神経質そうに櫛目の通った頭は既に白髪が多くほとんど灰色である。欧米人にしては小柄で痩せているが、典型的な欧米上流階級である。
 フォルチュネは、ろくに訊ねることもなく、じっと真贋確かめるように美保の瞳を覗きこんでいたが、銀の万年筆をくるっと回すと、素早い筆跡でMiho・Matubauraと名簿に刻んだ。uが一つ余計であったが、美保は黙っていた。
 ジャック・フォルチュネ医師を団長にした五十余名の赤十字団は看護婦たちの強い要望で当初予定の三倍以上の物資を持ってゆくことになった。支援受け入れ側の代表を務めたイーサー・エルクは、看護婦たちの言い分を信じ、これでも足りないぐらいであると主張していた。フォルチュネ医師は、イーサーの無分別な要望に少々嫌気していたものの、長年の信頼厚いマルガレッタ婦長と、愛娘のように可愛がっていた看護婦のコルドアンに押し切られて最後には折れた。
 監督と警護を務める日本側代表の羽賀大尉は予算の都合や作戦行動が鈍ることを理由に最後まで過剰な荷物には反対していたが、物資の豊富だったフランス側が、看護婦とイーサーの言い分を満たすだけ調達してしまい、結局はこれも折れた。
 最終的に日本側の負担した経費や予算はフランス側の四分の一程度で、力関係で圧倒されることが予想された。羽賀はこの事態を補うために、護衛用の武器弾薬を赤十字の規約よりも多く集め、普段は「外套とナイフ」を地でゆく部下達に自動小銃や機関銃を持たせた。羽賀の部隊は閒機関(けんきかん)と呼ばれていたが、日本陸軍に籍を置いていたのは羽賀とその同士将校及び従卒の数人だけで、他は軍属のようであった。諜報・工作機関にあっては、武官然としていることが仇となるので、その風体は、七三別けで、中折れ帽やカンカン帽を頭に乗っけている出張商社マンのようなのが多い。とはいえ嘘臭さは付き纏うもので、お仕着せのような黒服は悪目立ちする。美保はそのことを忠告し、羽賀たちの前で、新品の背広を丸めて土足で踏み、洗い晒しにしてみせた。
 彼らは、どうしてもインテリ臭さが抜けず、何よりも問題なのは、軍人が一番偉かった時代において、正々堂々正真正銘の軍人ではないスパイという立場は、彼らにとっては並々ならぬコンプレックスであり、無意識なのであろうが、そのために、会社員に扮装しろと言うと、エリート社員を気取ろうとする気配があった。事実、様々な経歴ではあれど、行商や丁稚から成り上がった者は皆無であった。

 羽賀は、実家への仕送りと、場合によっては家がヤソ臭いことを理由にしてしょっ引くという脅しの二つでもって美保を徴用し、諜報部の末端につけた。
「ちゃんとした女のスパイはいないの?」
「用意は出来るが、バカ過ぎてつかえん」
「バカね。逆なのよ。出来そうなフリをするのは小物のやることよ。凡庸なフリを出来るようじゃないと」
「良いことを言う。反感をもたれる人間になるな。侮られる人間にこそなれ。私はそう教わった。真っ平御免だがね」
 美保は食堂の隅のあたりで、軍の御用紙であった大陸新報や、トマスクック社の鉄道時刻表を熱心に読んでいる羽賀の部下達に目を向けた。
 羽賀は言う。
「解ってはいる。あいつらは士官以上の教育を受けている。一人でいるなら、そこまで不思議じゃないが、集まり過ぎると不自然さが拭えない」
「実はオカマとか」
「なんだと?」
「実はオカマとか、そういう訓練をさせれば、怪しまれないわ」
「くだらん」
「本当よ。人は相手が何を隠しているのか素性を知りたがる。隠してあるものが解れば、それ以上は追求しなくなるわ」
「参考にはしておくが、日本人は嘘が下手だ。ユーモアなどと嘯いて息をするように嘘ばかりつける欧米人とは違う。やつらは、科学を駆使し、奴隷を鞭で叩きながら、神を信じているとか言うんだ。我々には到底真似しきれんのだから、他のやり方を考えた方がいい」
 こんな石頭がスパイをやっているとなると、羽賀の言い分は尤もである。
 ママちゃま。もとい女スパイ美保は「派手に蹴躓くフリ」という、妙な特技をもっており、他のスパイたちに、同じことが出来るかと試したが、美保以上に上手に蹴躓くフリが出来る者はいなかった。そんな下らん遊びは必要ではないと過小評価されたが、本質的に美保はそういう芸当が得意だったし、そういう嘘を見つけるのも上手で、後々の土壇場においてはバカにならないことが多かった。
「じゃあ、こういうのは出来るかしらん?」
 美保は唐突「チリリリーン」と声を発し、診療所にあった、配線の切れている電話から受話器を取り上げ、長々と友達のみっちゃんと電話をしているフリをしてみせた。一人で瞬く間に作り話を構成出来ないとこれは長くは持たないのであるが、羽賀はそのやかましい電話を切らせた後、少し目の色を変えて「お前の弟が特高にしょっ引かれた話をやってみろ」と言った。
 ぞっとすることを言う。官憲の高圧ぶりに腹が立つ。
 美保自身は、あまり納得の行く出来ではないと思ったが、憂鬱になったのが功を為したのか、周りからは「イヤな女だ」とお褒め頂いたという。
「テュルク語は出来るか」
「いいえ。只今勉強中です」
「違う。テュルク語で、さっきのみっちゃんだか何だかと話しているのをやってみろ」
 美保は、仕方なく滅茶苦茶なテュルク語で、ハムスター王国の友達と会話をしているフリをしてみせた。意味を考えないで良い分、むしろこれは簡単だった。
 羽賀は、美保の過剰な器用さに人間としての不信さを覚え、眉に青筋を立てる。
「なんだお前は。いい加減にしろ。看護婦はみんなこうなのか」
「それは、偏見です」
 むしろ看護婦達は歯に絹着せる暇もない。何にも増して肝っ玉と腕っ節が勝負どころなので、小細工は小児科などにでも行かない限りは洗練されていない。
「芝居じみたやつらだ。女は化粧で塗ったくったような、宝塚のような、うそ寒いものが好きなのだろう」
 美保は少し首を捻ってから、ふと思った。
「スパイ学校では演芸部はありますか?」
「あるわけないだろう」
 看護学校では演劇クラブがあった。実習が忙しくて時間がとれないので、全くもって下手っぴではあったが、それでも年間で二演目やるのが慣わしだった。女学校では、演芸部が二つもあったぐらいで、女たちは、みんな芝居が好きだった。

 早朝。美保は身に余るほど大きいトランクを手に、けたたましい音を立てて出立した。上海に来た時にもこれを使った。矢鱈にうるさい音を立てるので、どうにかしたかったが、ものがよく入るので他で代用し難い。それに高い靴音が合わさる。もったいなくて五年間も使わずにあったぽっくり下駄が一足あって、売って二束三文になるぐらいならと履き潰すことにした。履き心地はさほどではなかったが、音は良かった。
 友人に連れられてダンスの講習会に出て行き、うっかり買わされたシューズやドレスが四畳一間の小さな和箪笥の中に入れたままになっていたが、織り目がついてそのままとなった。美保は白い息を吐く。天楼と石畳の街もこれでお別れだった。
 長崎の港から太洋丸に乗って上海に来て四年経ったらしい。この任務は仕事柄、実家には手紙を出せないらしい。これから自分はとんでもない所へ行こうとしていることに気付いた。
 美保は三六年、時局が悪化し始める直前の上海を目に焼き付けている。そして翌年の第二次上海事変には激しい空爆を見た。近代世界の明暗を一つの街で見たと言える。太平洋戦争が始まるまでの三年間は暗殺の時代でもあった。
 漠然と世は平和ではありえないと思う。秋も深まり寒さも一段と厳しくなった夕暮れのフランス租界で、擦れ違ったロシア人の楽師達の丸けた背を見てそう直観したという。
 上海におけるロシア人というのは、日ソ不可侵条約において中立国民の白人という立場であり、素養が高い貴族的な人物が多かった。ただし、彼等にはもう一つの顔があった。ロシア革命から逃げて来た人々が多く、祖国を追われた根なし草として生きてゆかねばならない落人としての姿である。
 日本としては、上海の先進性や中立性を演出するために、貴族としてのロシア人を尊重していた。
 上海は日本軍の侵攻により、反文化的な軍政下の街として、華やいだ様子を急激に失ってゆき、それを補うために、文化的で教養のある白ロシア勢は必要な要素だったのである。彼等はフランス租界の新たな住人となったが、一つ間違えれば、暗殺、投獄という世界の裏の顔を知っていながら、日本人の作る稚拙な文化的なパロディーに愛想笑いを浮かべていなければならない。
 上海に来れば、崇高な理念を掲げる先進的な病院で働けて、毎週末には社交会で踊るような日々があると聞いてきたのに現実は違った。日本の田舎顔負けの狭狭しい診療所で、時には日曜日がお預けになる。聞いてない夜勤も徹夜も日常茶飯事。診療代はほとんど受け取れない。それでも薬代は鬼になって払わせねばならないので、患者と感情剥き出しの戦いをする羽目になる。そういう卑しい仕事は兵隊看護婦の務めだった。
 一緒に行こうと熱心に誘った上、ナイチンゲール宣詞を唱和させた友人は、上海に来て三ヶ月で限界に達し、泣きべそで国に戻った。しかし、美保は勘当同然で出てきた手前、易々として戻るわけにもいかなかった。自分の人生から立ち去ってゆくその友には、それまでのよしみで労って送ったが、その後は連絡も途絶えてしまった。
 青春は苦い。そして一瞬で終わる。
 好きだった学部の若先生にいたいけな胸のうちを明かそうかと考えたこともある。今ではそんなことしなくて良かったと思う。老鉄山は、若先生の話に及ぶと、あの男は学部生を何回堕ろさせたか知れないと冷ややかに告げた。
 美保はイーサー・エルクほど悲惨ではないにせよ、一人、行く当てもなく上海をうろつき回った日々がある。イーサーや羽賀が祖国にかける思いを女である自分が持つのには、限界があるだろうと思っていたが、それにかわるものが必要であることは明白であった。

 羽賀は出立の一週間前に、靴を買ってやると言い、美保にブーツを新調させた。フランス租界に門を構える靴専門のオート・クチュール店である。
 経費で落としたわけでもないようで、美保は、何か裏があるのではないかと警戒するも、「必要になる」との返事が返ってきただけで、羽賀には何の企みもなかった。
 フランス人の看護婦たちには「実際のオート・クチュールは庶民を入れてはくれないわ」と窘められたが、どのみちそんなものは一生関係ない。その店は最高に面白い場所で、金さえ出せば色々と注文が出来た。どんな靴でも作ってくれる夢のような店だ。見本棚には子供靴とは思えないほどに美しく高価な靴がずらりと並べてあり、見ているだけで我を忘れる。箱根寄木の底が打ってある靴や、翡翠の粒で甲をびっしり覆っているようなものまであって、その予想もしない無意味さに衝撃を受ける。恐らく客引き用なのだろう。翡翠の靴を履くことが許されて足を通す。毎年一粒づつ売って生きて天寿を迎えて尚余るのだと接客のマダムは誇らしげだった。
 美保は思わず吐息を漏らす。
「まるで楊貴妃になったような気分よ」
 羽賀はそれを聞くと、すかさず目を怒らせた。
「そんなものがあるから、裸足で死んでゆかねばならない民草が増えるんだ」
 羽賀は大概この通りで、こういった代物はごく順当に嫌悪していた。虚飾が嫌いというか、細々した装飾自体が嫌いで、我慢ならない性質である。
 堅物過ぎる羽賀の様子は明らかに浮いていて、生まれてこの方オーダーで衣服を揃えたことなどあろうはずもない美保は完全に浮れていた。こんなんでスパイとして成り立つのかと、双方で疑念が過ぎる。
 羽賀が指定したのは、セミ・オーダータイプのフエルトブーツで、とにかく丈夫で足に合ったのを作ってくれればいいと、そればっかだった。
 ナースには登山靴じゃなくて、サンダルも必要なのだと文句を言うと、野戦だから、便所下駄なんぞで仕事は出来んと釘を刺された。靴下は多目に持て。ゲートルは自分で手に入れろとも言う。
 羽賀は野戦靴と思い、少々の時間は仕方ないと思っていたが、美保は端から、ブーツのデザインや色の方が気になって悩んでいた。
「まだ決まらんのか」
「……ちょっときついけど、こっちの色の方がいいかしら?」
「色は関係ない。少し大きい方にしろ。靴下を二重に履くことを念頭に置け」
「買って頂けるのはあり難いのですが、自分の靴ぐらい自分で選べます」
「……お前は本懐も遂げずに雪山で死にたいのか?」
 不安になってきて、自分も何か武器を持っていった方が良いのかと訊ねると、羽賀は人でもブッ刺しそうな表情で「靴の悪い軍隊は勝てない」と小洒落た音楽のかかる店内で場違いな科白を吐いた。

 フォルチュネの医療団はフランス租界、サン・メアリー病院で団結式を行い上海駅から満州行きの汽車に乗り込むことになっていた。美保と同じように、トランクをガラガラ鳴らしてフランス人看護婦たちが集まってくる。職業柄で分不相応に自分用の懐中時計を持っている者も多く、病院の鐘が鳴ると、マントの内側から唯一質入れ可能な財産たるそれを、いそいそと取り出してぜんまいを巻いていた。
 間もなくフォルチュネとイーサー、そして羽賀少佐らが病院から出てくる。
 整列して、挨拶や訓辞がなされるが、仏日混合で、通訳は高畑という青年医師が行っていた。高畑医師は羽賀の知故であることが祟って抜擢された不幸な青年である。
 彼が通訳をする時は、数少ない日本人団員の美保の方をちらちらと見るので、彼女は緊張した。最後になって「歩調トーレ!」と羽賀少佐の従卒であった笠井の掛け声がかかると、そこはフランス人看護婦たちもまた集団行動には慣れているので、全員、塵一つ残さぬ調子で整然として門を出てゆく。
 この駅は第二次上海事変の時には、日本軍機による爆撃を受け、血の土曜日として知られる世界で最も有名な戦争写真の一枚を生んだ場所だったが、四年も経っていたので、皆けろっとしていた。






§ 一二 シベリア鉄道

 荷物は膨大だったが、二等の寝台車は居心地がいい。ベッドが柔らかいし、ささやかながらテーブルが設えてあり、最低限のすまし顔を可能とする。何よりコンパートメント――部屋割りになっており、スリや痴漢の心配はないし、強烈な異臭を放ち、そこらじゅうに痰を吐いたりするようなのと鉢合わせることもない。心なしか車両に伺える他の客たちの顔も気品に満ちている。こういうところでケチケチしないですめば、気の塞ぐこともなかろうというものである。
 フランス人看護婦たちは、日のあるうちは、食堂車に集まって学生さながらに大はしゃぎして喋り通していたが、夜勤の多い職分の性か、日が暮れれば巣に戻った鳥のようになって、しんと静まりかえる。寝台車には中国人のボーイが給仕にやって来るが、機密が漏れる事を危惧し、イーサーや羽賀等はこれを非常に警戒していた。基本的に中国人、とりわけ漢族は信用していない。そのくせ、何故だか解らないが、戦時中でも女はあまり、どうとも思っていない節がある。
 美保は旅ともなれば、乗り合わせの客ともよく喋る手合いであったが、勝手なことをすると羽賀たちが怒るので、どうすることも出来ない。もってきた看護学の本ばかり見てガリ勉ちゃんになるしかない。飽きてきて、隣の老鉄山に話し掛けて、クスクス笑ったりすると、羽賀の部下である笠井と佐竹にとんでもない目で睨みつけられるのだった。先日は老鉄山がこれに抗議して、ついにスパイ尋問が始まり、次の駅で降りる降りないの問答となり、老鉄山は、危うく汽車の窓から投げ捨てられるところだった。
 フランス人看護婦たちは、英語は軽い挨拶程度しか喋れなかった。寝台車は一部屋につき四床で、美保は必然的に老鉄山と同じ部屋割りにされ、上には羽賀と笠井がいて、木の上の猛禽か何かのような表情で、一挙手一投足を終始監視している。老鉄山と看護学校時代の話で盛り上がってくると「おい」と牽制され、夜はすぐに寝ろと厳命された。昼は食堂車に移るも、やはり目の前には羽賀とその部下たちがいて「勉強せい」とうるさい。確かに彼等は猛烈に勉強した。我こそが日本を背負っているという自負が非常に強い。主にテュルク語の勉強で、イーサーは彼等の熱意に応え、元教師だったこともあり、的確な指導をして、カード式の小テストを自作してきて羽賀たちに配ったりもした。この小テストの紙は、馬糞紙という黄色っぽい藁半紙の厚いやつで、ペンを走らせれば黒い亀裂が走り、小さく書くと字にならない。水がつくと一瞬でささくれ立つし、鉛筆で書いて消しゴムを使うと黒く伸びた。
 そんな中で美保は瞬く間に看護婦の鏡という立場を獲得した。日本人は勤勉で真面目であるとの評を得つつ、羽賀らは、それに気をよくしている様子も見て取れる。
 最低限のテュルク語を操れるようになってくると、イーサーも一目置くようになり、いつまで経ってもフランス語以外を使おうとしない看護婦たちをよそに、美保には信頼を寄せるようになり、後のホーム設立の縁を結ぶこととなる。
 出立して三日後の昼には満州に入った。配られた弁当は気が利いており、美保は生まれて始めてキャビアを食べた。ブリヌイというロシア風クレープの具材に入っていたもので、知らぬ間に飲み込んだ後になってそう言われたために、どんな味だったのかあまり記憶にない。五割ほどは味わい損ねた。
「今更そんなこと言われたって、食べちゃったじゃないのよ」と怒ると、フランス人看護婦たちは何を言っているか解らないので、皆キョトンとしていた。老鉄山がひどくお堅い表情で、この不幸な顛末を通訳すると、一斉に大爆笑されて、何故か寄って集って頭をばしばしと叩かれた。
 恐々と遠巻きにされていたのが一転、なめられ始める。西洋人に囲まれる中で東洋人で言葉が通じないと、これは避けられない展開である。フランス人の娘達は、箸が転げたぐらいで笑うのではなく、フォークが転げたぐらいで笑うということも知った。
 美保は老鉄山に温情してもらった一かけのキャビアを、すましてフォークで掬い取り舌の上で転がしながら心中に誓った。見返してやる。
 旅程当初の生活面を中心とした好待遇は任務が大きかった労いでもあるが、出発間もない満州領内では実験的な流通開放政策が敷かれ、全般本土より恵まれていたためでもある。とはいえ、それはあくまでも日本人にとってはという意味である。
 五族協和という理念上の体裁があるので表立った差別はないことになっていたが、実情は経済格差を根拠にした差別が罷り通っていた。平等主義者でありながら自分は支配民族であるという矛盾した自己愛が日本人の心中にあったことは差し引いて理解せねばならない。そうでなければ欧米列強とその植民地国家群を含めて、大きな意味での帝国主義という時代の気風は分り得ないであろう。
 ハムスター王国に入って以後、そこらじゅうにいるハム人をよそに「白人の女でこんな所に来たのは私たちが初めてである」というフランスの女たちの感銘を美保は幾度となく耳にすることになる。もちろん、そこには博愛主義的人道主義に基く懸命の医療活動が同時に存在しているのだ。博愛は与えるものであることを決意するならば、上から下への不公平を前提とせずにはありえない。その問題が元より解消しているのであれば、平等、不平等というもの自体が存在しないのである。

 機関銃や弾薬の入ったトランクは、ソ連国境の関税を回避するために、羽賀の部下三人がハイラルで降り馬で運んだ。ハイラルは上海には至らないが、それでも大都会だ。日本側の軍事拠点としては最もソ連に近い。関東軍が要塞を構え、街を囲む五つの高台には城砦が築かれている。
 街から少し離れると、もうそこは一面の荒野で、うっすらと雪を覆っている。疾走する車窓からはモンゴルの遊牧民の姿が見えた。乾いた冬の大地に風が吹き、地球の彼方まで走ってゆく。人や家畜のあまりの小ささに、思わず、わあと声が上がる。
 それから満ソ国境の駅である満洲里を経て、シベリア鉄道ザバイカル線を更に北上する予定であったが、警戒のために仮線を幾つか乗り換えることになった。その途中で、一悶着起こることになった。
 汽車の扉が開くと、大陸の乾いた冷たい風が吹き込んでくる。
 四十キロ先の森林地帯で戦闘があり、線路が破壊され、まだ回復の目処が立たず、小さな仮設駅で停車することになったのだ。線路脇には雪の積もった畑があって、更にその向こう側には家屋が並び、多少の日用品などを売る店が見えた。この先で戦闘に巻き込まれることの危険を誰しも憂いたが、それでも状況をひとたび飲み込めば、看護婦たちは我先に汽車を降りようとする。ずっと狭い列車内に閉じ込められており、外の空気を吸いたかった。
 羽賀はその中を強引に掻き分けてゆき、一人の看護婦の肩口を捕まえる。羽賀が止めたのはやはり老鉄山だった。
「どこへ行く気だ? 勝手に動くな!」
 突然物騒な雰囲気になり、何人かの看護婦がそれに抗議する。
 件のコルドアンという看護婦がこれを庇う。コルドアンは、カード大会では、マルガレッタ婦長やフォルチュネ医師以上に、フランス人看護婦を束ねて取り仕切っていたので、羽賀たちとはそれ以前から険悪なムードになっていた。
 男たちは有無を言わさぬ調子で看護婦たちを全員車内に押し戻した。
 上海にいた時から解っていたことだが、日本の男たちはノリが悪い。そのため不必要なまでに悪く思われてしまう。何より面目を気にするので、ギクシャクしやすい。
 美保は自分にまで尋問が及び興醒めした。そして、団の中の形勢が枢軸的ではないことも確信した。
 美保に政治的なポリシーはない。何であれ生きて戻らねばならない。
 隣の席にいた笠井は窓の外を見ようとする美保の頭を押さえつけて、伏せていろと言った。その右手には南部式拳銃が握られている。何があったのか知らないが、美保は北に向かっているのに南部式で大丈夫なのかとそんなことを思う。守られているというより、人質にされていると見た方がいい。どうやら彼等は、最初から老鉄山が沖ノ島の手先であることは重々承知の上のようであった。ひょっとして、自分もそう思われているのか。美保は青くなった。
 羽賀と老鉄山が揉めていると、落ち葉を踏みしめる音と共に誰かがやってくる。沖ノ島だった。葉を落とした白樺の林の中を、ちらちらと影を掠めながら出現する。この女の神出鬼没は伊達ではない。
 沖ノ島は、警戒して待ち構えている羽賀の目と鼻の先までやってくると、藪から棒に、医療団の物資を半分置いてゆくように言った。
 羽賀は憮然として、何故そんな話に従わねばならんのかと一蹴する。
 沖ノ島は「赤十字に請う」などと言う。
 沖ノ島はちらっと周囲を見渡す。
「無益な戦いは避けたい」 
「寝ぼけたことを。貴様コミンテルンの命令を受けているのだろう」
 羽賀は外気の寒さに顔を顰めていたが、沖ノ島の方はワンピースにコートをかぶっているきりの軽装で、寒さなど問題たりえないという調子だった。
 コミンテルンというのは当時あった共産党の国際組織のことで、世界各国の共産党はソ連共産党の指令を受けて活動していた。帝国主義の時代において、これが違法になったり、処罰の対象となるのは必然で、当時の日本でもその存在自体が治安維持法に引っ掛る。沖ノ島はコミンテルンとは関係ないと言っていたが、日本国内や中朝の共産党員とは連絡を取り合っていた。

 沖ノ島は続ける。
「仮に半分失っても、無事に目的地にまで到着出来るのならば、それで十分ではないですか。今の半分でも当初予定より多いぐらいです」
 イーサーが汽車から飛び出してきて初対面の沖ノ島に誰何する。
「何だお前は!」
 沖ノ島は臆面もなく自分は赤十字であると答えた。
「赤十字ならばここを通せ。これは医療物資であり、日本政府とフランス政府の善意によって、運ばれている!」
「どこに運ばれているというのですか?」
 沖ノ島はフォルチュネ医療団の行き先のみならず、旅程もほとんど正確に把握していたが、すっとぼけてみせた。
 遅れてフォルチュネ医師が出てくる。
「物物しい! 何の騒ぎだ?」
 沖ノ島はフォルチュネの叱咤もどこ吹く風で、また一から説明し始めるも、羽賀がそれを遮った。
「もういい黙れ。この非国民め。何をやっているのか解っているのか。分際を弁えずに医者にまでなっておいて、よりによって、アカの手先をやるとは。国の為に尽くそうとは思わんのか。貴様は奨学金を受けていたはずだ。恩を仇で返すような真似をしているのだぞ?」
 通り一遍の聞き飽きた罵りに沖ノ島は、辟易した様子で突っ返す。
「日本の文部省はまーた変な歌を作りましたよ。僕は少年赤十字。重い務めを負うている。からだを鍛え智を磨き、御国のために生きましょう」
「何もおかしくないではないか。お前などより少年赤十字の方がよっぽど赤十字の務めを弁えている」
「赤十字は中立性が理念であり、お国のためと話を曲げた時点で、それは赤十字の精神に反します」
「御託はいい。逮捕する」
 振り向くと、焦れて外に出たがっている看護婦たちが窓から出ようと試みていた。
「看護婦は全員戻れ! 出てはいかん!」
 そこまでのものではないと苦笑しつつ、沖ノ島は言う。
「フォルチュネ先生。赤十字は敵味方を問わない。そうでしょう?」
「それはそうだが、お前は何だ?」
「私も赤十字です」
「ならば、本部に連絡せよ! これは確たる任を帯びたフランス赤十字の物資であり、他へ譲渡するわけにはいかん!」
 沖ノ島は実際には中国の準赤十字結社である紅卍会の雇われ医者である。
「私はあなたにお願いしているのです。ドクタ・フォルチュネ。あなたには団長権限がないのですか?」
「ならば私の権限で言おう。何者だか解らないような者に、物資を譲渡することは出来ん」
 イーサーは、まだ癒えきらない体を震わせながら口を挟む。
「沖ノ島と言ったな。現実的な話がしたい。もしもこれを断ったらどうする気でいる?」
「闘争が避けられないことに」
「どこの軍閥だ」
「違います。私の独断です」
 ばっと地吹雪が舞った瞬間に、羽賀は沖ノ島を取り押さえようとするが、沖ノ島は隠し持っていた雪球をびしゃっと投げつけて距離をとった。
 こんな小娘に手玉に取られてたまるか――。
 羽賀はカッとなって、拳銃を抜いて、あっさり撃ち殺してしまいたい衝動にかられたが、辛うじて押し留めた。もしもそんなことをしてしまえば、後が危うい。
「もしもここで狼藉に及べば、我々は物資を焼き捨てる。お前達の好きなようにはさせん!」
 イーサーは「それは契約が違う!」と激昂し、羽賀の方を見た。そんなことをされれば、これだけの一大計画であるのに、ハムスター王国には一切の利益が齎されないことになる。
 沖ノ島は尚も言う。
「半分です。それならばあなたたちも納得するだろうという目論見で計画を練りました。これは双方にとって決して不合理なものではないはず。私はこの物資が無事に満州を通れるよ う、出来うる限りの手を尽くし、心を砕いてきた。無益な戦いで、民に届かないことを何よりも憂います」
 羽賀は苦々しく思う。ここを切り抜けたとしても、行き先はばれている。その後の馬旅で襲撃を受ける羽目になろう。そうなれば自分は戦闘に巻き込まれるのか――。沖ノ島などは、程度の分からん跳ね返りの女道化であって、そのうちに自滅するだろうと思っていたが、これはどうやら想像以上に面倒な相手だった。
「お前などに物をくれてやれば、国益にならぬばかりか、世界のためにならない。無益な戦いが増えるばかりだ」
「何故そう思われるのですか? 面白い指摘ですね」
「何も面白くないわ。この女を車内に連れてゆけ」
「連れて行った方がいいとお考えなら、私は抵抗しません。しかし、あなた方は後悔することになる」
「汽車を脱線させる気か?」
「脱線させるも何も、既に線路が寸断していると言ってるでしょうが」
「貴様」
「正直、また関東軍かと」
 羽賀は、沖ノ島が満州事変のことを皮肉ったことに腹を立てる。沖ノ島一人相手に、完全に手玉に取られていた。
「あの事件はソ連の略謀だ。馬鹿なことを言い触らすと許さんぞ」
 フォルチュネが額に拳を当てながら「少し時間をくれ」と言った。
「時間はあります」
 そう言って沖ノ島は踵を返した。
「待て。どこへ行く気だ。止まらんと撃つぞ!」
 沖ノ島はくるっと振り向いて戻ってくると、掌におさまるほど小さく折りたたまれた紙を羽賀に押し付けた。
「これを、羽賀さんにあげる」
 それはソ連軍のものと思しきハムスター王国の全図だった。羽賀は不承不承、取引をせねばならない状況に追い込まれていた。看護婦たちが制止を押し切って羊の群れのようにぞろぞろと出てきた隙に、沖ノ島は白樺の林の中に消えて行った。






§ 一三 臨時停車

 沖ノ島の言った通り線路の復旧工事は長引いた。二日後の正午に、ハイラルで分かれた羽賀の部下たちが驢馬で大陸を横断する行商のような素振りで合流した。彼等は積み藁や、時にはカボチャなどをくり抜いた中に、分解した機関銃や弾薬を隠しもっていた。
 都会ではないので振り替え輸送もままならない。朝の外気は耐え難いほど冷え込み、窓の外は粉のような雪が舞っていた。手に息を翳すと白く凍りつく。ハムスター王国は朝夕の寒暖差が激しく、スイカを食べながら火鉢を囲むと言われる。それ故、最初はこの寒さもいい訓練になると肯定的にとらえていたが、その後の燃料不足を案じて汽車の中ではストーブも弱められてしまい、皆縮こまっていた。おしゃべりな看護婦たちもひそひそ声になる。体温計を取り出して見ると、赤い玉もこれまた見たことがないほど小さく縮こまっていた。石炭をどこかで入手しようという話をしていると、沖ノ島が再びやってきてコンコンと窓を叩いた。林の奥に教会があって、使用許可が下りたから来いという。
 遅れて、鼻水を凍りつかせたモンゴル族の少年が駆けつけてくる。少年の掌は何やらピンク色に染まっていた。聞くところによると、何にでも効く「万能薬」だという。少年の指先を沖ノ島は拭って、列車内に備え付けられた黒板に塗りつけた。どうやら万能薬は、赤い色をつけただけの石灰だった。
 沖ノ島は羽賀たちに事情を説明する。
 漢族の商人に騙されて村を上げて買い込んでしまったらしい。
「事実を明かしたら支那と蒙古の間で殺し合いになるぞ」
 羽賀はそう言って苛立った。
「連中はすでに、ドンパチやっていますがね」
 佐竹が鼻先で言うと、少年は言葉が通じぬにもかかわらず、他人事のように言いやがってとじろっと睨んだ。
「気の毒だが、余計な争いに巻き込まれるわけにはいかない。我々が出立する時になったら、騙されていることを教えてやれ」

 羽賀が村を見に行っている隙に、沖ノ島は看護詰所にあてがわれた客車にやって来て、緑青の吹いた予鈴用のハンドベルをカランカランと鳴らして看護婦たちの注意を引いた。そして、自身のことを、キリスト教単立教会「沖ノ島会」の牧師であると紹介した。
「十時よりミサを執り行います。皆にはこれから本格的にこの広大なる東洋世界で医療活動に従事するために、説明しておくことがあります。看護婦たるからには自明のことのように聞こえることもあるやも知れませんが、あらためて初歩から話をしたいと思います。我々の理解とフランス赤十字の理解を確認しあっておくためにも必要です。本作戦の活動地域は西北アジア域であり、ロシアを通じて西洋との混交が見られる独自の文化を築いております。また、イスラム教文化圏でもありますが、これは、アラブ世界とは全く様相が異なります」
「あなたは?」
 黙って聞いていた看護婦たちの中から声が上がった。
「先にも言った通り私の名前は沖ノ島。本業は牧師で、紅卍会では医者をやっております。皆さんよろしくね」
 沖ノ島は壁にかけてある毛皮の帽子を手に取ると、器用に指先で回して軽く辻芸を披露してみせた。
「我々の目的地となるハムスター王国は帽子の国です。帽子の種類は千を数えます。あなたぐらいの若い女の子たちは年齢が上がるごとに、三つ編みを一本ずつ増やしていき、結婚すると、その後は大抵、二本のお下げにします。何かにつけ羊の脳味噌料理で歓待を受けると思いますが、美味しいのでありがたく頂いておくように。あ、でもフランスではセルヴェル料理があるものね。この中で、馬に乗れる人はどれくらいいますか? 馬に乗れる人、挙手願います。馬に乗れる人、誰もいないの?」
 突然の闖入者が酷い発音で教師の真似事を始めたので、皆、戸惑っていたが、挙手を求められると、そろそろと手が挙がりだす。
「そう。なんとかなるでしょう。全員乗れるようになってもらいます。あなたが、皆に教えてあげて」
 まだ看護学校を出て一年か二年と思しき若い看護婦が突然指名されて慌てふためく。
「なんで私なんですか?」
「あなたは、それだけじゃなくて獣医もやってもらうことになる。覚悟なさい」
「そんなこと言われたって、私はそんな経験はありません!」
「大丈夫。あなたなら出来る。老鉄山。慣れるまで一緒にやってあげて」
 隅の方で一人でいた老鉄山は文庫本から目を上げて、戸惑っている看護婦に小さく手を振った。
「皆もうこのまま教会まで来てくれるかな。何もないけど、暖房は入れてあります。ここよりは暖かいでしょう。お茶ぐらいは出します」
 沖ノ島がコルドアンに目配せすると、彼女はまあ行ってみようかと肩を竦めた。マルガレッタも同じようにして肩を竦める。
 えらいことになった。看護婦達はそれぞれマントの隙間から手袋の指先だけ出してトランプなどをしていたが、いそいそと片付けはじめる。医者か婦長が有無を言わさぬ態度で号令をかければついてゆくのが習慣化しているので、誰も不平を言わなかった。看護学校の場合、学生時代から実務訓練が多忙なので、その気風は女学生とも職業婦人ともつかず独特である。看護学校を卒業しても、そのまま同じ社会性を持ち越してゆく。
 俄にざわつき、美保も急いでコルドアンの背に続いて廊下へと出た。看護婦たちは、沖ノ島のことを話では知っていた。無論それは仙女の類と目されていた。ついでに言うと彼女は中国人なのだと思われていた。
 信仰が始まる気配があった。沖ノ島は大衆が好む性質を凡そ全て兼ね備えている。高畑医師は諦め顔で、その後を追う。羽賀に連絡するために笠井が雪の中を駆けて村の方へゆくのが見えた。

 教会は短い翼廊を持った白樺の丸太造で、基礎部が石組。簡素な十字架の乗った切妻の屋根は北国特有の急勾配である。
 沖ノ島は、牧師が配るホスチア――聖餐用の板状の小さなパンのかわりに、乾いたチリメンジャコを一つまみずつ配った。看護婦たちは警戒しつつも、婦長のマルガレッタが毒味するのを見届けてから、皆同じように食べる。沖ノ島は英語で説法を試みたが、そこは流石にコルドアンが出てきて、英仏で通訳を買って出た。二人はここに来る以前、旅順の紅卍会で知り合っているとの話だった。
 沖ノ島と縁がある――コルドアンは本業が看護婦ではないのは最早明らかだった。これは羽賀少佐に知らせねばならない情報なのだろう。しかしこれは暗に、自分がどう振舞うかを沖ノ島たちに試されていることにもなる。美保は困った。羽賀少佐は才能がない。間違いなく沖ノ島の方が一枚上手だ。もうこうなると、この医療団に何人スパイを入れ込んでしまっているのか解ったものではない――。
 この時の沖ノ島の講義内容全体がどのようなものであったか、詳しいところは解らないが、その一部はママちゃまから聞いたことがある。赤十字とは、元々「軍属の医」なのではなく、「戦場の医」なのであり、その根幹に戦争そのものをやめさせる意図をもたねばならないと沖ノ島は説く。
 アンリ・デュナンの創始した赤十字は、ナイチンゲールによって手厳しく批判されたのだという。ナイチンゲールの批判とはこうだ。赤十字が有志によって、戦場で傷付いた兵士を救うことは、交戦主体である国家がその被害を自ら拭わないでいることを許し、その片棒を担ぐことにしかならぬというのである。ナイチンゲールらしい冷静さである。
 しかしそれでも沖ノ島は赤十字として立つことを選んだ。何故であるか。これは彼女の戦いの根幹にかかわるテーゼなのであるが、沖ノ島は人間として当然の態度を、政治理論や経済原理に従属させることに対して強く反対していた。
 また沖ノ島は「上医は国を直す」とも言う。彼女の医療思想は医療の垣根を越えてゆき、人と人とを取り成す課題にまで手を伸ばしており、それは、必然的に、宗教祭儀となって体現せざるをえない。
 沖ノ島は言う。
「看護婦は医者の召使ではなく、患者の弁護士でなければなりません。看護婦であるからには、あなたたちはまず自らの良心に信を置かなければならない」
 厚い雪雲に包まれた教会の中、沖ノ島はその並ならぬ自信と信念でもって、見る間に看護婦たちの注目を集め、結束を固めさせた。
 この後、看護婦たちは、沖ノ島の持ち合わせた一本のギターで申し合わせたように幾つかの賛美歌を歌った。当時の流行歌であったオーバーザレインボーを挟むと更に調子が上がる。
 村の視察に出ていた羽賀とイーサーが戻ってくる。
 看護婦たちは菓子を齧るでもなく、お喋りに興じるでもない。サン・メアリー病院の団結式でも見られなかった非常な厳粛さが、うらびれた教会内に満ちており、彼らは何ごとかと警戒した。看護婦たちは敬虔にもナイチンゲール誓詞を唱和していたのである。それもテュルク語で。一瞬の出来事ではあったが先の働きが期待が出来た。
 最低でも看護婦たちは労を惜しみはしまい。看護婦であることに関しては――。

 この後美保は羽賀に呼び出されて、こうなった顛末と沖ノ島の講義内容を尋問された。美保はこちらでもやはり「どの程度使えるのか」を試されていることになる。フランス人看護婦たちとは上手くやっていかねばならないし、かといって日本の特務将校たちに睨まれたらそれこそ身にかかわる。美保は暫くの間この板挟みで苦労した。 
 看護婦はお茶くみ等の雑用もやらねばならない。沖ノ島が謳う理念がどうであれ、現実的には看護婦は医者の召使に限りなく近い。フォルチュネ医師は外科も内科もこなす器用な医者だったが、看護婦たちはマルガレッタ婦長の方が取りまとめており、美保は暫くそのお茶くみに使われていた。
 美保はお茶をもっていく途中で、会議室にあてられた車両の前を横切る。その瞬間、足音で勘付かれ「おい」と部屋の内から羽賀に声をかけられて吃驚した。
 恐る恐る顔色を伺うに、どうやら話がついた様子だった。日本勢にはあまり芳しくない方向で――。結局、フォルチュネ医療団は仕方なく、物資の半分を紅卍会に引き渡すことに決まったのだった。
 羽賀の声が聞こえる。
「お前の赤十字とは何だ。アカいヤソだから、赤十字か」
「羽賀さん、冗談を言うんですね」
「冗談ではない。上海で鉢合わせていたら、お前はとっくに捕まっていた」
 お茶をもってゆくと、羽賀と沖ノ島は殺伐とした相容れぬ立場を保ちながらも、どこか談笑しているような雰囲気があった。ただしイーサーだけは間違いなく沈痛な面持ちでいた。何より体調があまり良くない。イーサーはまだ完全に回復しているとは言い難かった。
 赤十字がどのように振舞うのか見せてみろということになり、停泊中の村に対して、少々の分配があった。羽賀はモンゴル族の村長に、この物資が日本政府の好意であることを強調し溜飲を降ろす。
 イーサーは物資が半分に減ることを刺すような眼差しで見つめていたが、モンゴル族の村長には、いざという時は互いに亡命先にしようと抜け目なく約束をかわしていた。






§ 一四 騎兵襲撃

 翌早朝、雪は止んだ。窓を叩く風も比較的穏やかになり、遠くで無線用発電機の回る微かな音とストーブが火を保つ音だけが響いていた。
 羽賀少佐は、窓の外に迫る不審な気配に気付いて、カーテンを小さく開けた。何も見えない。結露を拭きとって目を凝らすが、殺気で目の縁を黒くしている凶相が映るばかりで窓の外の様子はほとんど見えなかった。
 しかし地響きは空耳ではなかった。馬だ。数が多いことだけは解った。すぐに書類を片付けて鞄に突っ込んで鍵をかけた。どこかの騎兵部隊が暗闇の平原の向こうから迫ってくる。
 羽賀が部屋を飛び出した瞬間、大砲を撃つ音が連続して聞こえた。
 この寒さの中、脂汗が滲んでいた。羽賀はこれまで都市部での暗闘が生業で、いわゆる戦闘はこれが初めてだった。
「敵襲だ! 敵襲! 全員起きろ!」
 高畑が、ほとんど同時に廊下に飛び出してきた。
 状況を誤認した誰かが空襲だと叫び続けている。
 羽賀は言う。
「高畑、お前は看護婦をまとめて一先ず列車を出ろ。列車向かって左手から降車し、土手に伏せて待機。命あるまでは絶対に動かすな!」
「危険です。この状況で外へ?」
 砲弾が後方の車両近くに着弾し、炸裂音と共に激しい振動が伝わってくる。
「至近弾だ。次は当たるぞ。列車の中にいても無駄だ。土手へ降ろせ。看護婦の中に拳銃を隠し持っている奴が何人かいる。勝手な真似はさせるな」
「外なんか出たら――」
「うるさい! このままでは、的になってしまう!」
「安全なんですか!?」
「この暗闇だ。両翼から撃つ可能性は低い。間違っても敵正面に出すな。落ち着いてやれ!」
 各々の部屋の人員がベッドから飛び起きて、遽しく動き始める。
「笠井どこだッ! 投炭を手伝えッ!」
 羽賀は通路で鉢合わせた沖ノ島の髪をがっと掴んで引っ張り上げた。
 沖ノ島は髪を縛ろうとして、口先にリボンをひっかけている。
「貴様! 貴様が呼んだのか!」
「違う! はやく出して! 線路は回復している!」
「出そうにも出せんのだ! 貴様のせいで機関は止まっている!」
 問答する間もなく近くに砲弾が命中して、窓が飛び散り、電球が動揺する。
 裂けた壁の外側を覗くと騎兵の百余りが、間近に迫ってくるのが見えた。
「クソッ 何者だ連中は!」
「国民党、民兵団!」
「支那奸ども。目にものを見せてやる!」
「少佐。いいから、あなたは出立の準備をなさい! ここは私たちがやる!」
 拳銃を手にイーサーが駆けてくるのを羽賀がひっ捕まえる。
「イーサー・エルク! 貴様には機銃を任せる。こっちへ来い!」
 イーサーは黒光りする機関銃の砲列を見て、どうやって持ち込んだのかと驚く。ロシア人の車掌は日本側の協力者で帝政ロシア軍の軍人である。当初彼は羽賀たちの計画の全貌や装備内容を知らされていなかった。
 イーサーは外へ出てゆく看護婦たちを見つけて怒鳴った。
「看護婦は何をしている! 汽車は出せないのか!」
「退避だ。機関がまだ動かん!」
「どうするのだ! 線路は寸断されているはずだ!」
「三十キロ先まで回復した」
「何故私に教えないんだ!」
「無線電報が入ったのはついさっきだ」

 羽賀は、一瞬の隙を突いて、ばっと背後に手を伸ばして沖ノ島を地面に捻じ伏せ、拳銃を取り上げた。それから、間髪入れず棍棒で殴打しようとしてきた男に銃口を向けて牽制した。
 双方の殺気に満ちた視線がかち合う。
 この男は元々上海にいたプロレタリアの車夫だ。阿Qなどと呼ばれている。最近は沖ノ島会で用心棒紛いのことまでするようになったらしい――。
 男は手に持っていた鳩を放り投げて棒を構えた。放たれた鳩は前方に飛んでいって、ストーブの上に止まろうとしたが、もう一度舞い上がって、パニック気味に天井にぶつかったりしながら、最終的にコルドアンの差し出した袖口に逃げ込んだ。老鉄山がすぐそれを引き取って、二人とも外に飛び降りた。鳩は一見して手品用の銀鳩だが、足に通信管をつけている。伝書鳩だ。
 羽賀は思う。コルドアンはフランス人じゃない。物腰のそれがフランス人らしくない。恐らくはイギリスのスパイだ。殺すなら今だが、仕損じれば今度こそ収拾がつかなくなる――。
 その時、また砲弾が降ってくる甲高い音がして、列車を飛び越えて、看護婦たちが身を伏せているすぐ近くで炸裂した。
 モミの茂みから人影次々と飛び出してきて、列車の左右に散らばる。羽賀が慌てて拳銃を抜くと、沖ノ島がそれを止めた。
「あっちは味方よ!」
「解るものか! 誰の味方だというのだ!」
 彼等は迫ってくる敵騎兵を容赦なく撃ち始める。手際がいい。見るからに錬度が高い。恐らくは紅卍会の戦闘部隊なのだろう。中国人の農夫らしき者が多いが、服装からして元日本兵と思しき者も混ざっていた。
 羽賀は冷ややかに言う。
「お前の信じるお題目がなんであれ、貴様のやっていることは共産匪と同じだよ」
「衛生材料の防衛の是非を問う必要はありません」
 表情を失って拳銃の遊底を引いた羽賀に鋭く反応して、車夫の阿Qが、わけのわからないことを叫び散らしながら立ちはだかった。阿Qはいかにもみすぼらしい。赤いリボンで貧相な辮髪を結び、食いしばる歯はほとんど一つとびずつで抜け落ちて、無産者を絵に描いたような男だったが、羽賀の威圧的な視線に射竦められることもなく、凄い剣幕で、ジュネーブ条約のお題目を唱え始める。
「左記の事実は衛生上の部隊叉は営造物が第六条に依り保障せられたる保護を喪失すべき性質のものと看徹されるべし! 一つ!  部隊又は営造物の人員か武装しその武器を自己又は傷者及び病者の防衛ノために使用するの事実!」
 阿Qは完全に暗記しているようだった。羽賀は心のうちで舌打ちをする。
 信仰を獲得してしまった人間は自分の死や屈辱さえも肯定して疑わない。
「俺は赤十字のためならいつでも何度でも死ぬ!!」
 阿Qはこの風采で、その信にかけて日本帝国と決闘せんとしていた。
 羽賀は同時に、沖ノ島の瞳に微かな動揺――人間的な弱みを垣間見せるのを見逃さなかった。信仰に挫折しているのは沖ノ島の方だ。
「馬鹿どもが。伏せていろ」
 騎兵集団は散開し始めており、機関銃をばら撒くもそうは命中しない。このままだと、包囲されて背後を突かれる。
 しかし騎兵たちはその後、状況を見誤り、機関銃の火線に自ら飛び込んでいった。相手が機関銃を持っているとは思わなかったのだろう。彼らは一人残らず死ぬ羽目になった。
 機関銃の掃射音が鼓笛隊のドラムロールのようになって腹に響く。
 汽笛が鋭く響き、連結器が引き合って鈍い金属音を立てた。汽車の車輪が僅かに前進したのを見ると、退避していた看護婦たちが、慌てて飛び乗ってくる。
 汽車が勢いをつけ始め、人と馬の打ち乱れる殺伐たる千年史を切り離してゆく。人の命が一瞬のうちに消えてなくなり、灰色の雪原の中に混ざりこみ見えなくなっていった。その十分の後には看護婦たちは汽車の中で、皆、方々に興奮して生き残ったことを訴え、ボルシチを食べた。マルガレッタが嗜めるまで、今しがた百人あまりもの人が死んだことを看護婦たちは忘れていた。
 イーサーは看護婦たちを押しのけて凄い勢いでスープを三杯飲み干し、ちょうど運ばれてきたところの茹で上がったマカロニを無茶苦茶に頬張り、酒壜を一口呷ると、苦しそうに小さく涙を滲ませ、そのままぶっ倒れるようにして眠ってしまった。






§ 一五 ユーラシア雪中行軍

 ノヴォシビルスクからカザフのセミパラチンスクを経由しようやく南下するが、ここからが難所で鉄道がなかった。支線のトルキスタン・シベリア鉄道のアヤグズという侘しい木造駅を最後に馬橇になる。
 駅を降りた時には「もうすぐだ」などと声をかけあったが、むしろここからの方が険難であった。
 アジアの東岸からロシアの中央部まで到るのに鉄道で八日かかったのに対し、そこからほんの少し南へ下るだけだけに馬橇で十三日かかった。広大な大陸の中にあって距離感覚が狂ってくるが、アヤクズからハムスター王国の首府、アルタイまでは東京青森間よりも長い。そして過酷である。
 シベリア鉄道は電化された以後も、客室の暖房は石炭ストーブである。電気故障があった場合の危険が拭えないためである。冬のシベリアは氷点下四十度はありうる。中央アジアでも氷点下三十度を越える地域は珍しくはない。真冬に事故があれば凍死者が出る。そのような自然環境の中に、馬橇で繰り出してゆくことになった。万が一の遭難全滅という事態を避けるために三組に別けて出発したが、美保の加わった第二組は運悪く猛吹雪のさなかをゆくことになり、旅の途中で、まだ二十歳にもならぬ看護婦見習が肺炎を拗らせて命を落とし、馬も二頭死んだ。途中の馬車駅で弔うことになったが、命の脅かされるような厳しい環境では感情も消えてくる。涙は流れなかった。悲しいという高尚複雑な感情はなく、ひたすら辛いばかりで、気を抜いたら凍てついて死んでしまうという思いだけが支配していた。
 途中からハムスター王国の使者が合流し、その案内によって、轍を逸れて道ならぬ道をゆくことになった。国府軍や中共軍、ソ連軍も含めて、全ての敵対勢力に勘付かれてはならないからであり、これが状況をより困難にさせる原因でもあった。何よりハムスタンを実効支配している盛世才の軍閥にみつかれば全てが水泡に帰してしまう。盛世才は日本軍の侵攻を警戒しており、またそれを口実に国民党政府の支配から独立した政治を行っていた。
 時期も悪く無茶な輸送をしている。中央アジアの冬に戦力に足り得るだけの人員と物資を引っ張り込むのは並大抵のことではなかった。

 雪の中に埋もれるようにして存在する馬車駅は、積雪のせいで半地下のようになっている土壁造で、扉はフェルトを何重にも打ち付けてある。中に入ると低い天井の真っ暗な空間に沢山の馬が犇いており、犬や羊がその隙間に敷き詰っている。その合間を縫って人の部屋に入るのであるが、全員は入れないので、貧乏くじを引いた者は長椅子のようなベッドを持ってきて馬の中に混じって眠る。ベッドを作るのは、そうしないと馬に踏まれてしまうからである。
 もちろん生きることが優先されるので、目の前をぼとっと音を立てて落ちてゆく馬糞などはもはや問題にならない。人間用のトイレなどはあるだけ上等で扉もない。汲み取り穴に間違って落ちようものなら、尖った氷山と化した糞に刺さって死ぬ。そんなことよりノミと虱に南京虫、少しでも火のある場所に入ると、必ずやその歓迎を受けることが屋内においては一番の問題だったという。黒パンと豆のスープを毎日食べ続けたが、飽きはしなかった。無論美味しいわけでもないが、飽きるなどという感覚が麻痺して、純粋にエネルギーだけを尊ぶ人間になれる。この話をする時のママちゃまは、自分のもう一つの正体を思い出したように、人間性などというものが、人間の本質ではありえないとまで言うのだった。
 一行は途中で戦闘を二回やった。一回目は狼の群れだった。狼は行き倒れになった人間や動物の凍った肉をペンチで毟り取るように食い千切ってゆく。狼は雪原の鮫である。
 二回目は野盗である。彼等は自分達の領域に紛れ込んだ外国人は、鹿や山羊を射るのと同じ感覚で仕留めている。盗賊団はろくに言葉が通じないし、通じた所で話にならない。殺されなくても、全部もってゆかれてしまうので、自ずと雪原で凍死する羽目になる。羽賀が激を飛ばし、男たちが機関銃で容赦なく蹴散らかしていた。
 圧倒する火力で三〇あまりの野盗と馬匹を滅殺すると、軋む橇の中でじっとして固まっている看護婦たちの間から何の飾り気もない勝ち鬨があがった。
 ハムスター王国の首都アルタイに到着しても氷点下を二桁で割り込んでいたが、それでも随分暖かく感じたという。屋内においては火編に亢と書いてカンと呼ぶ床暖房を使う。朝鮮のオンドルとほぼ同じものであり、煮炊竈の廃熱を床に通して暖を取る。
 割れてしまった一ケース分の牛缶を火にかけて、暖房の効いた部屋で待つ時の看護婦たちの表情は、これまでに見たこともないほど歓喜に満ちていた。この時点で看護婦が更に二人死亡していた。
 感情が引っ込んでしまい、仲間が死んだことにさほどの悲しみはなかったが、夜になって毛布に包まると、涙腺が緩んで涙が止まらなかった。凍っていた涙が解けたようであった。美保は自分だけ余所者だからかとも思ったが、夜中ふと目を覚まして耳を澄ますと、どこかで誰かがしくしくと泣いているのが聞こえた。




















§ 第三部
















§ 一六 砂川闘争

 ママちゃまはあまりハムスター王国に入ってからの話をしようとはしなかった。私たちも子供ながらに、戦争の話は聞いてはいけないのだろうと察していた。
 砂漠の灼熱を避けて、夜間に一〇〇キロを超える薬箱をもって駱駝や蒙古馬で移動した話は、それを写した写真もあったために、猫崎の漫画の中で頻繁に描かれることになったが、当の傷病兵の姿や、戦場の様子は描かれる事がなく、ママちゃまは余裕の佇まいで静静と砂漠をゆく。その様子はほとんど、行幸するお姫様のようであった。
 ハムスター王国の特産品であるスイカやメロンを切って、泥レンガで出来た家の軒先に置いておくと、気化熱を奪われて信じられないほど冷えることや、もっと放置しておくと、完全に乾いて干しメロンになるので、保存食にしたこと。それらの逸話も度々描かれた。私たちも真似しようとして、何度もやってみたが、日本の夏は湿度が高いので、乾燥しないばかりか、半日も経てばハエとアリの天国になってしまう。
 他にも看護婦たちで協力して子供たちのために小学校を作ったり、皆で井戸を掘ったりしたことや、朽ち果てた回教寺院を探検したり、青々とした岳に踏み入って未知の薬草を探したりしたこと等々。異国情緒溢れる珍奇な話題にはこと欠かない。
 ママちゃまの語るそういった話だけを聞いていると、さながらそこは「臨海学校」のようで、戦争が楽しそうにさえ聞こえてくるのだった。
 またこれはハムスタン紛争をある程度客観的に見た場合に、重要になると思われる話なのだが、紅卍会は伝書鳩を使っていた。紅卍会が使っている鳩はシルヴィスキー種と言う。シルヴィスキーはロシア革命後に亡命ロシア人が建設しようとしたシルヴィスキー公国に由来するもので、マリ・アントワネットの使っていた伝書鳩、ラ・ネージュの末裔である。信憑性は薄いが逸話としては面白く、猫崎が知っていれば、特に好むところだったと思う。
 しかしシルヴィスキーの凄みはその由緒ではない。特定の旗や建物、人を覚えて、その間を行き来することの出来る往復鳩であるということだ。これは、ビタミンAで強化され夜目が利き、夜空を飛ぶことが出来る。シベリアの空の上も飛べるぐらい寒冷地にも強い。ただ、致命的に繁殖能力が弱く、子育ても下手という困った特徴があり、生まれてくる雛も、人間の手を介さないと育ちあがらなかった。銀鳩と似た姿をしており小型。白色固体が普通である。長所も短所も非常に尖った性質を持つ幻の伝書鳩であるが、人にはよく懐いた。
 シルヴィスキーは、その後のハムスタン革命で活躍し、勝利に導く秘密兵器となったが、この話は私が大人になってから知ったもので、猫崎の漫画に出てくることはなかった。
 なんらかの機密と関っていたと思われ、ママちゃまは、まだ戦争の余韻も覚めやらぬ当時それを、語るわけにはいかなかったのだと思う。

 ママちゃまから取材した漫画は、猫崎にとっては三年来の最大のテーマだった。それはいつしかハムスター王国ないし、ハムスター王国戦記という名で呼ばれるようになっていた。
 ハムスター王国戦記は、後の絶筆であるチュンカベル戦記のプロトタイプ版とも言える作で、チュンカベルは主人公でないものの主要人物として登場する。
 小学校四年の一学期の段階で、既に五百枚を越えており、それは鉛筆と藁半紙だけで出来ている。また、それは一続きの物語として破綻なく読める代物である。ホームの皆が猫崎の漫画は別格ということを当然視してはいたが、それが正味のところ、どれほど凄いことであるのかは、まだ誰も解ってはいなかった。猫崎自身、ホームの中で一番の描き手であるという自負以上のものはなかったので、これを、割と平気で、床の上にポンと投げてあったりした。
 ツルツルの紙で表紙が作ってみたいというのが猫崎たっての希望で、ママちゃまも、あまりよく解っていないので、言われるがままに、本当にツルツルの印画紙を手に入れてきて、猫崎にやったりしていた。
 あともう一年残っていたならばこれは、きっと錦糸社の編集者に発見されて、製本されるとこまでいったであろう。しかし、残念ながら、猫崎のこの漫画は消えてしまった。原因は火事である。
 ボヤ騒ぎ程度で、火はすぐ消し止められた。猫崎の漫画はストーブの近くにあったため、以前から石炭で汚れたり、薬缶の水で濡れたりという危険な兆候を見せていたが、原稿を厳重に管理したり、コピーをとったりということが出来る環境ではなかった。また、それだからこそ、皆の目に触れて、世界観を共有することが出来た。
 火はストーブの上の天井を焦がすほど大きくなって、床も少し焼けたが、部屋はその後特に修理する必要もなかった。猫崎の漫画が完全に焼けてしまったのは非常に運が悪かったといえる。洗濯物を乾かして放置しておいたら、隣に積んで放置してあった石炭の山に火がついたのだ。
 こういう少々のボヤは年に一回や二回はあったから、巻き込まれる可能性は元々高かった。
 漫画を喪失したことを知った猫崎は一頻り泣いた後、茫然自失となった。それから数日の間、思い出すたびに、火事の跡をじっと睨んだまま動かずに、しゃがみ込んだりしていた。
 ママちゃまは見兼ねて、その背に近付き、頭を撫でた。
「猫崎が燃えてしまわなくてよかった。あなたの漫画に出てきた人たちは、今はもういない人が沢山いる。あなたの漫画は、きっと彼らの元に届いたと思う。私はあなたの漫画も、あなたの情熱も忘れはしない。これからもまだ描けるというのなら、紙と鉛筆は私が用意するわよ」

 東京で戦争がある――。ナカノセがそんなことを言って興奮気味に飛び込んできたのはそれから間もなくのことだった。戦争とは左翼用語で政治闘争のことを指し、真顔でそう言う大人や学生がしばしばいた。
 ナカノセは拾ってきた煽動ビラを手に、私を探していた。自分も行くのだと言い出すに決まってる。ママちゃまに連絡すべきかどうかを私に相談しようとしているのだ。ママちゃまがダメだと言ったら、ナカノセはきっと単独でも行ってしまう。それを阻止するために、ママちゃまは私をナカノセの見張り番にさせることがよくあった。
 その時私は愛子たちと一緒に長縄をしており、ホームの教室の中できょろきょろと私を探すナカノセを遠くから見て、まるっきり彼女の所作は漫画だと思った。
 ナカノセは、教室の隅の床で猫崎をみつけると、集めたビラをその目の前に置いて、この裏に漫画を描けと指導していた。
 当時は大体がいい加減だったので、ビラなどは往来に平気でばら撒いてゆく。私たちは熱心にそういうビラを集めた。だいたいB5かA4サイズの紙で裏が印刷されていないので、これらは絵や漫画を描くのに最適だったのである。
「ハムスター王国」の焼失後に残っていた猫崎の漫画は、必然、草稿や短編が中心となって、手探りの状況にあった。
「ハムスター王国」の後編に予定されていた分はある程度まとまった形で残っており、革命家イーサー・エルクの戦いにスポットが当てられている。
 猫崎の漫画がナカノセの行動に基いてその影響を受ける一方で、ナカノセは漫画からの影響を受ける関係にあったと思う。
 ハムスター王国後編の革命描写は、ほとんど情報が得られないにもかかわらず、ナカノセになみなみならぬ一家言があって、猫崎はナカノセの扮するイーサー・エルク像を非常に参考にした。猫崎の漫画もそれに合わせて「革命もの」に照準を合わせてゆく過程にあった。
 火事の監獄から脱出するイーサー・エルクは私達の直近の火事の経験と相まって劇を極める。一月分連続で火事。会話がない。燃える炎の中を突き進むイーサー・エルクは一つ間違えれば即死という中を持ち前の機転の良さと運の強さで乗り越えてゆく。
 何故猫崎がここまで戦争を知っているのか。これは東京空襲に他ならないではないか――。日本の大人達は猫崎のもつ炎の再現力に目を見張る。猫崎とナカノセの間には、世界に対する共通認識があった。血と炎に彩られた世界が彼女達の記憶に存在するようなのである。
 ただ、今の私のもう一つの視点から述べさせてもらえば、この「革命もの」は「探偵もの」の同工異曲である。
 当時、私達が読んでいた漫画には「探偵もの」というのが流行り始めており、それは元々少年漫画が震源であったが、これが結構スリルがあって、ホームきってのアクション志向であったナカノセは、完全にはまっていた。その描写の中にも戦時の炎は紛れ込んでいたと言えるかもしれない。
 その後少女漫画にもその流行が伝播し「少女探偵もの」が従来の「姫もの」に変わる一大ジャンルを築こうとしている矢先の話である。
 然るに私達にとって、革命家と探偵はほとんど同じものと化した。主人公の少女探偵たちは大抵、赤いベレー帽などを被っており、非常に勇敢で物怖じしない。ナカノセは彼女たちの洗礼を受けたというよりも、それら少女探偵たちと同じ時代に生きて、同じ結論にたどり着いた存在だった。ナカノセは自分のことを革命家であると自負していた以外は、漫画の中の少女探偵たちの造型と一致していた。
 探偵たちに怪奇事件が必要なように、革命家であるナカノセには激しい闘争が必要であった。
 ナカノセは将来革命家になって、戦うことを意識し始めていた。当時の学生運動はナカノセの革命漫画にリアリズムを与えていたのである。彼らは現在進行形で、本当に巨悪と戦っているのである。ナカノセはそれを心から羨ましく思っている様子だった。
「はやく大人になって戦いたい」
 彼女はそんなことをよく口にしていた。
 ナカノセが最初に参加した戦いは、東京、砂川町の基地闘争で、現地農民と日本政府及びその背後で糸を引いている米帝との戦いである。成田闘争の前座みたいな事件で、彼女は劇作家の石倉友永という人と知り合いになり、それが縁で渦中の砂川へと冒険に行くことになったのだった。



 一六  * *

 私達が駅前で「よその子」たちとビイダマ弾きをして遊んでいると、件のビラ撒きが再び出没した。彼らは、オートバイでやってきて駅前でギャンギャン演説しながらビラを撒くと警察に捕まる前にどっかにすっ飛んでいってしまう。私や猫崎などは当然途中で引き返したが、ナカノセはそのまま走って追いかけていって、お堀の部落跡に出た。休耕田が広がり、鬱蒼とした木々の向こうには傾しがった朱塗りの鳥居が見える。
 その日の夕飯はカレーだったので、ナカノセはビラ配りのアジトを突き止めると、そこで切り上げて戻ってきた。ホームでは、御飯に間に合わない子には、おかわりの権利がなくなる決まりで、ナカノセのようなのを定時に帰宅させるために作られたルールだった。カレーの地位は今とは比較にならない。ルーは貧弱であったし、肉のかわりにチクワが入っているようなものであったが、当時のカレーは歴とした洋食で、ホームでは、それを介して、ちょっとした統制の出来る、重要な一品だった。
 その翌日の放課後、今度は三人で同じ道を行った。一つには漫画用に古いチラシをもっともらえないかと思ったのである。水晶の混ざった土砂が崩れているお堀の崖を下り、顔にかかるほど高いススキの中を掻き分けてゆく。地面は浅い沼状になって、アオミドロが大量に繁茂し、その網目の向こうにはヤゴやオタマジャクシが沢山見えた。当り一帯静かなのに、ウシガエルが低い声でグウと鳴き声をあげるのが不気味である。まだ春だったが、堆肥の匂いが草の匂いと混ざって、太陽は私たちの頭をカンカンに照り付けている。水筒を持つのを忘れた。そういえば帽子も忘れた。猫崎が倒れたらまずいと私は気掛かりだった。
 靴を泥に入れるわけにはいかなかったので、裸足になって進んでゆくと、一メートルはあろうかという黒いヘビが目の前をサーッと駆け抜けていった。私と猫崎は顔を見合わせて立ち竦み、やはり、ナカノセにはついてゆくべきじゃなかったと後悔した。
「もうやだ」と立ち竦む猫崎を私は「ここまで来たんだから行くの!」と自分を奮い立たせて、彼女を背負って葦原を抜け、ナカノセを追いかけて行った。何でそんな似つかわしくない科白を吐いたのかと思うに、やはり、その時読んでいた探偵漫画が少しばかり私の判断を変えさせたのだと思う。

 休耕田の対岸にたどり着いた私たちは、結局泥まみれになってしまった靴をがぽがぽ鳴らしながら古い家屋に向かう。
 白木戸を控えめに叩き、細い声でごめんくださいと呼ぶも沙汰なし。縁側に回り、立て付けの悪いぼろぼろの障子の戸を開けて、人が住んでいないと思って忍び足で踏み込むと、畳の上で、男の人がうつ伏せに倒れ込んでいた。眼鏡が片足だけ立てて畳の上に転がっている。部屋の中は乱雑で、何者かに荒らされたようにも見えた。
 恐る恐る声をかけるも、不自然な姿勢のまま凍ったように動かない。死んでいる――。そう察した私と猫崎は酷く動揺した。ナカノセはそんな気も知らずに、勝手に上がりこんで、指先で、男の頭を突っ突く。
 ナカノセはひとしきり検死を終えると「ご臨終ね……」の一言。これは、どうすればいいのか。来なきゃよかった。その途端、死んでいるはずの男ががばっと起きて私たちは一斉に退いた。
 男は私たちが期待通りの反応をしたのに喜んで、けらけら笑っていた。
「君たち、人の家に勝手に入っちゃダメだぞ」
 ナカノセはそんなこと全く気にせず「オバケ! フランケンシュタイン!」とか言って、初対面の相手を指差して罵っていた。よっぽど驚いたのだろう。
 石倉さんとの出会いはそんなだった。彼とは、ナカノセが日本にいる間、数年の間交流が続き、ナカノセが海保高校で秘密裏に学生運動をする上で必要な知識も石倉さんから学んだ。高校二年の秋にナカノセが日本を去る直前には、その準備もしてもらったものと見られる。
 当時の石倉さんはガリ版印刷のチラシを刷って糊口を凌いでいる人で、アジ看板などの製作も手掛けていた。彼は青共。青年共産党員だった。狭い廊下には赤旗の古新聞が山済みになっている。障子戸にまで新聞が張り当ててあり、伊達に無産者気取っている訳ではなさそうだった。
 一応の肩書きは劇作家で、アングラ劇とかをやっている。
 宝塚歌劇みたいに? お姫様一杯で、こうやってわーって。と私達はあり合せの知識で、演劇に対する、フワフワした思いに夢を馳せた。
「違う違う。そういうのじゃないんだ」
 石倉さんは、目の前にいるのが子供であることを忘れたかのように、一転、非常に迷惑そうな顔を見せた。アングラ劇はその演劇を通して、鋭く社会の暗闇を抉るのだという。
「誰か刺すの?」
 ナカノセは神妙な表情で腕を組む。
「劇によっては刺すこともあるだろうが、そういうことじゃない、つまり」
 その後、何言ってるのかさっぱり解らなかった。しかし、アングラ劇というものが、子供にはつまらなそうな代物であることだけはよく解った。
 石倉さんはまだ随分と話の通じる手合いで、彼の襤褸屋に出入りする人の中には、もっと「前衛的」で、どうしたらいいのか解らんような、社会が持て余してしまうようなインテリ崩れみたいな人たちが沢山いた。彼らはまだ若いのに、同じ日本語を操っているとは思えない、怒ったロボットみたいな言葉をよく使った。
「なんで石倉さんはびんぼーなの?」
 ナカノセがデリカシーのないことを平気で訊ねる。
 石倉さんは、知識階級と富裕階級は別物であるという趣旨のことを言っていたが、その平静な表情の裏には、決して自分の現状に満足しているわけではない様子が滲む。うちの滝沢先生よりは吹っ切れていない様子だった。彼はまた少々の関西弁のイントネーションで喋った。聞けば生まれは大阪であるという。
 石倉さんには彼女がいて、これで案外上手くやっている様子だった。石倉さんは女子供のご機嫌取りが上手い。私達も、何となく暇を持て余したりすれば、石倉さんのところへと遊びに行くようになった。
 彼は死体役を演じることが好きだと言う。お得意は死んでると見せかけて、あるいはマネキンの中に混ざって横になり、突然生き返るコントで、それは、アングラ劇とは関係ないが、彼流の客寄せの常套手段だった。
「役者としては僕はからきしだって皆が言うんだよ。悔しいから驚かせてやんのよ」
 ナカノセは胸ポケットの眼鏡を見ながら言う。
「眼鏡見たい」
「眼鏡はダーメ」
「眼鏡外してて目見えるの?」
「見えるよ」
「じゃあ、何で外すの?」
「眼鏡は勉強してる時だけだ」
「なんで?」
「文弱みたいで、かっこ悪いから」
「文弱って?」
「青白いインテリのことだよ」
「それって石倉さんのこと?」
「言ったなこの野郎。これでも気にしてるんだぞ」
 彼はおまけに少女漫画に意外と詳しいということが発覚し、私たちはますます仲良しになった。

 石倉さんが「本物の闘い」を見に行かないかと言い出したのは、それからすぐのことだった。
 ナカノセはよし来たとばかりに食いついて膝を詰め寄せた。私はこうなるのではないかと予め警戒してはいた。猫崎に「やめやめ」と言い含めるものの、思いもかけず猫崎まで「本物の闘い」を見に行きたい様子で、私は二対一で折れてしまった。これはママちゃまに言わないといけないと思っいた。
 私達が砂川闘争に行ったのはちょうど夏休みだった。一応の名目は「農業体験」である。農家は石倉さんの友人の実家であった。
 私は、防災頭巾か陣中笠でも被っていった方がいいかとも思っている一方で、猫崎は麦藁帽子にひらひらのワンピースというおよそ砂川闘争にも農業にも相応しくない姿で行くことになる。ナカノセは農具と嘯いて、とっておきのアルマイト製の天秤棒を持っていきたかったようだが、もちろんそんな許可は下りない。私は万一猫崎に何かあったらすぐに連絡するようにと、ママちゃまから言い付かっていた。ちょっとした救急セットを持たされて、気分は看護婦さんである。
 ママちゃまからは、もしも猫崎に何かあったら、あなたたち二人の責任。そう言われているので無茶は出来ないはずだが、ナカノセは行ってはいけないと言っても、一人で行ってしまう。前線に出るなと言えば、尚のこと前線に出てしまう。これは職員会議になるほど悩みの種だった。
 ママちゃまは、預け先の農家に連絡をとらせて、まずナカノセ自らに事情を説明させた。ナカノセは農地簒奪がいかに身勝手な押し付けであるかを、農家に向かって語る語る。ママちゃまに換わって、畑仕事と家事を手伝わせるという条件、闘争の現場には近づけない等の諸々で、二泊することになった。
 砂川の闘争は私が想像していた合戦のようなものとはだいぶ違う代物だったが、その物物しさと集まった人々の多さには圧倒された。
 私達は、石倉さんや、他の大学生たちから、日本政府に法解釈を与えた田中耕太郎とかいう下衆に対する批判なども講義された。ナカノセにとっては非常に意義深い闘争であったことと思う。しかし私が、今になって一番思い返さざるをえないのは、猫崎がぐらついたことである。あとは、せいぜい、私という人間は政治や闘争にはほとんど興味がないということを知ったことである。
 二泊三日の大冒険の帰路、私達は、農家の小母さんから沢山の野菜をお土産に持たされて、猫崎はよろめいてしゃがみこんだ。一度、不愉快そうに、むくっと立ち上がるも、ぐらついてまともに前に進めない状態だった。
 呼吸が早い。
 私はママちゃまに言われていた通りに急いで猫崎を日陰に運び、横に寝かせて水を口に含ませた。ナカノセが来た道を駆け戻り、報道相手に集まっていたハイヤーを拾って、そのまま病院まで直行した。ママちゃまは、その時横須賀にいて、米軍から何らかの事情聴衆を受けていた。それが何であるのかは、まだ私達は知らない。夜の十一時頃になってからママちゃまがようやく駆けつけた時には猫崎は既に回復していた。あっさり夕飯を食べ尽くすとそのまま眠ってしまい、その日は私もナカノセもママちゃまも皆、その部屋で眠った。






§ 一七 動機

 その年、以後はこれといった問題も起きずに恙無く過ぎた。私たちが、お年玉で少女グラフの早春特別号を買ったのはその年明けのことである。お年玉と呼んではいたが、これはホームの書籍購入費から割り当てており、購入書籍が被らないように、事前に申し合わせておく必要がある。毎年十二月に入ると、六人一班で何を買うのか会議をすることになる。年末が近付くとホームの子供たちが、近くの小和田書店に足繁く通って買う本に目星をつけにいく。店主の小父さんはホームと契約を結んでいるが、愛想はない。ハタキならば客を叩いてもいいと思っており、普段ならばほとんど立ち読みが出来ない。
 実際、万引きをする奴もいて、これが私たちの評判を一発で落としてくれる。ホームの出身であるということが仇となって、一人が悪さをすると、全員そういう目で見られてしまうので、その重大さを解りえない者は、子供ながらに不心得者であり、単なる万引き犯以上の制裁が加えられることになる。外部の子供との喧嘩は、対外試合みたいなものだと思われて、とやかく言われることはなかったが、万引き犯が出たとなると、これは、ぞっとした。万引きが悪いことなどよりも、万引き犯の裁判と魔女狩りが恐ろしいのである。
 今でも万引きという言葉を聴くと、私の心は穏やかではいられない。
 ともあれ、年末の私たちには買う本を探しているという大義名分があったので、少々の立ち読みが出来た。
 自分たちで買いたいものがどうしても二冊以上になったりすると、他の班に交渉して、買うものを押し付け合うことになるので、喧嘩になる原因でもあった。上級生は特に、下級生に向けて買うものを指定してくるので、これには皆、非常に腹を立てていた。
 先生の中にも漫画容認派と否定派があって、最後までよく揉めていたが、ママちゃまが漫画容認派だったので、漫画を是とする一線は守られていた。万一漫画を買えないとなったら、これはもはやお年玉とは思えなかっただろう。
 だいたいにおいて、学年が上がるごとに、何を買うかで意見が割れ始める。中学生のある寮では多数決で何票集まったらその本を買うという方針をとっていたが、問題を引起していた。これは上手いようで上手くないのだ。班毎で決めるのならば、そこそこに分権が成り立つが、多数決順にすると、強権的な人間が、その寮内に割り当てられた購入予算を全部使って、自分の欲しいものを買うように圧力をかけたり、根回しをしたり、あらゆる手練手管を使う。その皺寄せを受けた弱小班の不満分子たちには、下の学年に買うものを強制させるよう嗾けて、実質上権利を奪うことになる。
 小学三年生の班に明らかに、年齢不相応の文庫が割り振られており、それを押し付けたかどで、中学一年生のある班の者達はママちゃまに強く叱責されていた。しかし彼女たちはその元凶ではない。むしろ第一の被害者である。ママちゃまがその実態に気付かないわけもなく、私達が小学四年の時に中学二年生だったK子を手打ちにした。
 こういう時のママちゃまは非常に恐い。しかしK子はK子で、とても恐い存在だった。刺青してきたり、外で知り合ったヤクザもんをホームに連れてきたりする。
「こいつ今日から、みんなで無視だから」とか、気に食わない子をホームの外に引っ張り出して「かまととぶってんじゃない」とか言って殴る。皆にも叩かせる。そういうことをしょっちゅうやっていて、今思えばスケ番の走りみたいな子だった。不幸中の幸いは、ナカノセはK子とは仲が悪く、その子分になる気は更々ないことだった。二人は時に取っ組み合いの喧嘩をした。K子は同学年の中でも大柄だったし、ナカノセは同学年でも小柄な方だったから、頭一つ分以上の背丈の差があったが、どういう結果に終わっても、ナカノセが泣いているとこは見たことがない。

 K子はママちゃまがナカノセをえこひいきしていると思っていた。実際、ママちゃまとナカノセは信念が似ているので、気が合う以上の信頼を置いていたのは事実である。それがK子にはどうしても許せない様子だった。彼女が一貫して指摘するのは「偽善性」である。拙いので、理屈の上では簡単にやり込められてしまうのだが、それがK子を更に憤怒させる要因になっていたと思う。
 ナカノセは言う。
「Kって、自分の気に食わないものは、とりあえず全部偽善じゃん? お前が偽善て言えば偽善になるのかよ?」
「そんなこと言ってるんじゃない」
「じゃあなんだよ。説明してみろよ」
「まあ、しょせん、どのみち私は、先生とか看護婦とか大嫌いからねえ。そこんとこ解ってもらわねえと話にならない」
「話替えるなよ。今、お前にとって偽善じゃないものは何かって聞いてるんだよこっちは」
「うるせえ。この世は弱肉強食なんだよ!」
「だったらジャングルに行けバカ!」
 だいたいこんな調子であり、ナカノセは、こういう場合多数決を受け付けず、一切において物怖じしない。それが却ってナカノセは強いという評判を揺ぎないものにさせていた。
 ナカノセは中学生に取り囲まれても動じないで丁丁発止やりあう。ともすれば大人でも歯が立たなかった。
 何より、どうしてあんなにも凄まじい勇気があるのか解らない。ナカノセとつるむと、目を付けられてしまうのが私と猫崎の悩みの種であった。しかし、ナカノセの方が巻き込まないように気にしていたので、騙し騙し、なんとかやり過ごしていた。K子がホームを卒業してくれた時には、私は胸を撫で下ろし、密かに喜んだ。同じことを思っていた者は他にもいたはずである。
 Kはスケ番であると同時に、ある種の売女だったのだが、しかし彼女をそれに駆り立てたのには、それなりの理由がある。というのは、私たちは断種法の標的にされていたのである。「経済的な理由による断種を実行せよ」などと書かれた張り紙がホームの入り口に張られることがあった。法的には「経済的な理由による中絶」であるが、どっちみちそういう話である。政財界や宗教界をも巻き込んだ熾烈な理念闘争があったのだが、この件に関して私はこれ以上陳べる気はない。
 優生保護審査会や、町内会の普通の人たちを含むヤクザ連中の侮蔑には応じないというホーム全体の意志があり、彼女の放蕩には、ホームがある限り消えることのない理念上の大義名分があった。
 K子とはホームを出た後、ばったりと会ったことがある。既に二男二女の母親であった。やけに老けていたが、気性は随分と丸くなっていて、懐かしそうな表情で微笑みかけてきたのが印象に残るのみである。

 お年玉の話に戻そう。早春特集号は、普段にも増してオマケがつくので、非常にお買い得である――と皆信じており、その購入権を巡って他の班と争った挙句、同じものを三冊も買うという不毛を見せたことがある。この年も折り合いがつかづ、この状態に陥ったのだが、いざ正月三ヶ日を明けて小和田書店へと足を運ぶと、少女ブックも少女クラブも売り切れになっているという予想外の事態が発生した。私達は雀の涙ほどのお年玉を手に途方にくれていたが、結局、錦糸社から出ている少女グラフというマイナー誌を買って、他の二つの班は創刊間もない集英社のりぼんと、ちょっと予算オーバーだったが、色んな宝石の載っている鉱物図鑑をそれぞれ買って帰った。
 うちの班が芋引いたということなのだが、押しの強いナカノセが居ながら、どうしてうちの班が遅れをとったのかというと、猫崎が迷い、また私達は、猫崎の意見を無視することは出来なかったためである。
 この時、国男も一緒にいた。国男は少女漫画をホームにある分は全部読み、その反対に、猫崎は少年漫画を全部読み、この頃の二人は何か珍妙な意見交換をしているのをしばしば見かけた。
 女の子が少年漫画を読む分には比較的問題がなかったが、男の子が少女漫画を読むと、大変バカにされて、不名誉とされる傾向があったと思う。
 国男はそういう世間体はあまり意に介さずに、片っ端から本を読むので、博士になったのだろう。その国男が、少女グラフの頁の端をぺらぺらと捲り「少女グラフ・子供漫画賞募集」と地味なページを発見してきて猫崎に見せる。その一瞬、猫崎の瞳に炎が走ったように見えた。
 私達の班はその帰りには、漫画の内容をすっとばして、既に子供漫画賞の話で持ち切りとなった。
 ホームに着く頃には、猫崎がそれに応募するのは決定事項になっていた。ナカノセはママちゃまに、どうやって応募すればいいのかを教えてもらうために職員室へ向かい、事情を説明し始める。
 猫崎が日々精力を傾けて漫画に取り組んでいるのはそれまでと変らなかったが、具体的な目標が出来たことによって、彼女は変った。それは猫崎にとって、幼少期の終りを意味した。

 私たちは検討を重ね、石倉さんに依頼されていた漫画「砂川漫画戦記」を大幅に増補して完成させる方針をとった。
 砂川から帰ってきた時、石倉さんが猫崎の見舞いにホームまで来たのだが、その時、猫崎が砂川闘争を描いたスケッチが石倉さんの目にとまり、石倉さんは猫崎の漫画を自分たちの機関紙に乗せたいと言ってきたのである。
 二十四頁で無事完成させ、彼等の機関紙に掲載された。二千五百枚の上質紙とインク壺三つが報酬だったが、猫崎にとってはこれが漫画家としての初仕事であった。そして、報酬を受けとる形の仕事としては、最初で最後の仕事となった。
 応募稿である増補版の砂川漫画戦記の製作にあたっては、資源となる紙が二千五百枚もあったので、重ね書きを駆使して、消しゴムをほとんど使わないで仕上げることが出来た。だが普段の一発描きの二倍以上の時間を要した。流石に描きなれているので仕事はお手の物だが、何度も粗筋に戻って一からやり直すということになり、完成時には紙束を半分近く消費していた。
 熱が入りすぎて、かえって描線がごちゃごちゃして硬くなっているようにも見えたし、色々の展開がくどいようにも感じられた。猫崎は「ためしに出してみよー」とか言っていたが、本気も本気、今までの全ての成果を盛り込もうとさえしていた。
 猫崎は時間の許す限り手を加え続けたので、締め切りに間に合うのかどうか、私は不安になってきた。
 私の考えとしては、猫崎の漫画が普段の状態で力を発揮できれば、それでいいというものだった。それで無理なら、ほんの一二ヶ月色々やったところで大差ないばかりか、かえって普段よりもいいものに仕上がらないのではないかと思っていたのである。
 しかし、猫崎は、どうしても賞が欲しいようであった。
 ナカノセやママちゃまが言うように、仮に入賞出来なくても、こっちから出版社の「会社員」の感想ぐらいは聞くことは出来るだろうし、聞いても恥ずかしくないぐらいの完成度には達しているという見解にも耳を貸さなかった。
 猫崎は本当に漫画家になりたいんだ。
 でも、どうしてそこまで拘る?
 プロの漫画家になるだなんて、大人になってからでも十分じゃないか――?
「何で今じゃないとダメなの?」
 猫崎は「別にそういう意味じゃなくて、本気で描きたいだけ」と嘯いた。嘘ではないのだろうけれど、それなら今までと同じでいい。全力を傾注している砂川漫画戦記は申し分なく完成度の高いものであるが、何と言うか、活きの良さというか、彼女の持ち味である素早く鋭い筆跡や科白回しが殺されている。非常に丁寧だが、むしろ普段の猫崎の会心の作からしたら、これは七十五点ぐらいだ。
「私、もっと上手くなりたい……」
 猫崎はそんなことを呟く。
「……漫画って、なんというか、下手でも売れるぐらいじゃなければ、上手くなっても売れない気がする」
 不意に口から出た私の言葉に、猫崎は、それはどういうことかと、驚いて目を見張る。
「そもそも砂川漫画戦記じゃないとダメかな? ああ、でも、もうあんまり――」
 そこまで言いかけて私ははっと言葉を飲んだ。私は砂川の帰りに猫崎が倒れたことを思い出して、猫崎の不安を、予期せず覗き込んだのである。
 この頃から猫崎の漫画には何某戦記という、仰々しいタイトルがつくことが多くなった。「ハムスター王国」に「戦記」がつくようになったのを皮切りに、何でもかんでも戦記である。朝ご飯戦記やら、ヒヨコ組み戦記やら、お花畑戦記などというのもあった。戦記即ち漫画である。そのギャップ自体がこの頃のちょっとした笑いの供給源でもあったのだが、これは少女漫画らしからぬタイトルである。少女漫画と言っても、それまでは「少女たる猫崎が描いている漫画だから少女漫画だ」程度の認識でしかなかった。
 猫崎は既に焦り始めていた。漫画は猫崎自身の闘いの記録であり、自分のタイムリミットとプロになるのとどっちが早いか。小学生四年生の春にして、既にその闘いは始まっていたと言える。ひょっとすると、私たちが気付くよりももっと前から、そうだったのかもしれない。



 一七  * *

 私と猫崎は、夜になってベッドに入ってからも、どうあるべきか、何を求められているのかの分析で込み入った議論を続けた。
 テスト対策のような意見は私の得意とするところであり、学問的興味はないが、山当ては得意な人間だった。
 私は、会社の人が求めている漫画は、少女漫画に載せて売上の出そうな漫画であり、戦記ではほとんどの女の子にとっては、あまり興味がないのではないかと率直な意見を述べた。
 戦記というタイトルで解り合えるのも、うちのホーム限りでの話ではないかとも言っただろう。
 面白いことは重要だけど、もしも、その漫画が完全にこれ以上ないほど描けたとしても、その題材が抱えている顧客人口を超えて売れることは考えられない。どれだけ凄いものを作ろうとも、題材そのものが抱えている天井を突き破ることは、あらかじめ限界があるのではないか。
 よって、女の子しか買わない漫画で戦記を売るのはあえて逆風という状況を選んでいることになる。まったくらしからぬ物言いだが、私は、子供の頃からこうだった。自分でもなんでこうなってしまうのかよく解らない。
 猫崎は思案しながら答える。
「でも、砂川漫画戦記でここまで来ちゃったんだから、今更変更するのは無理だって言ってるじゃん」
「私もそう思う」
 もしも砂川漫画戦記がアピールする可能性を秘めているとすれば、女の子たちじゃなくて、担当の会社員の人だ。
 猫崎が、他にも色んな世界を描けるということが解るようなものでさえあれば、定番を描かずして、定番も描けるということが解るかもしれない。一番の目玉である女の子が上手くさえ描ければ、それ以上は王道の少女漫画が描けるかどうかという点は問題にならない。すると、競争のしようのない凡庸なスタイル画や、花の装飾をこれ以上増やすよりも、いっそ飛行機のぶち抜きを描いたらどうか。小さなコマの中に広大な空間を描き出す天賦の表現力、移ろいゆく日々を見事に刳り貫く自覚なき決意。漫画が面白いことにも増して、猫崎は他の応募者とは違う種類の才能を持っているということを解らせないとダメだ。
「男の子って飛行機とか好きだと思う」
「そっか。ううん。でもなあ……、会社員は男だけど、もう少し大人なんじゃないの?」
「でも女ではないよ」
「でも少女グラフは少女漫画じゃん?」
「応募規定読んだけど、少女漫画を描けとは書いてなかった」
「そんなの当たり前じゃん! だって、少女グラフだよ?」
「少女グラフは、兄弟誌の少年グラフも出しているみたいだから、少年グラフの方の会社員にも見てもらえると思う。少年グラフの方の意見が聞きたいって」
「そうか」
 猫崎はそんな打算でものを考える奴がいるだなんて信じ難いという様子で私の顔を見ていた。
 私は言う。
「漫画が面白いかどうかは、半分以上はそれを囲んで、皆で感想を言い合えるかどうかにかかっていると思う。砂川漫画戦記がそのまま少女漫画として通用するとは思わないけど、とりあえずの読者は女の子じゃなくて、会社員の男の人たちだから。砂川漫画戦記にするのが絶対なら、少女漫画という路線は、もう気にしない方がいいんじゃないかと思う。これだけ描けるのだから、誰も猫崎が少女漫画を描けないとは思わないよ。少女漫画であることを気にしてスタイル画を入れるよりも、大きな飛行機の姿や、乱闘の様子を入れないと、砂川戦記が何の話なのか解らなくなってしまう。砂川少女漫画戦記は、商品としてはそう名乗りたいところだけど、少女である意味はないよ。砂川は空港建設を巡る闘いであって、少女であることは関係ないもの。お寿司もケーキも美味しいけど、寿司ケーキは美味しくはならないんじゃない?」
 最後の駄目押しで、雑誌の切り抜きを集めたり、服飾史の図録を描き写したりして、ファッション画や唐草装飾のネタを膨大に仕入れ始めていた猫崎は、ううん、と唸ったまま暫く悩んでいたが、意外なほど素早く「解った」と返事をした。逆に私は、意見を飲まれてしまって、動揺した。これで外したら責任重大だ。
 私は一人、深夜遅くまで、少女という要素を切るか切らないかで考え続けた。
 売れるかどうかというのはつまり、自分以外の誰かが面白いと思うかどうかだ。だけど、それだけじゃ済まない。商品である前に、コンテストであり、最初の審査員は会社員で、次の審査員が読者たる女の子たちなのだ。趣味が捻れている。二回性質の違う評価を潜り抜けねばならないのであり、会社員の評価を大きく取る方針を考えているライバルは少ない。そして、猫崎の描こうとしている漫画は、そういう部分での優位が大きく狙える内容である。むしろ少女という要素は猫崎自身が、彼女の視点そのものが十分満たしているのではないか?
 ――行ける。これで行こう。主人公の少女の説得力は、生身の猫崎自身が満たしている。それにかなうほどの女の子を描くことは、どんなに上手くても困難なはずだ。砂川漫画戦記は、不利じゃない。場違いな戦場に猫崎がいたという事実が、決定的な説得力を与えている。非凡な実体験を描くことは限りなく有利だ。砂川に猫崎が行った段階で勝ったようなものだ。これ以上のことをしている少女はそういないはずだ。そのように至って、私はようやく眠りにつくことが出来た。 

 私たちの寝室は十畳間に陸軍の木製三段ベッドが六本入っている。一人一床はないので、小学校四年生までは二人で一つのベッドに同衾し、小学五年生に上がるとベッドが独占出来る決まりだった。そうであるから、小学五年生になった時のことはよく覚えている。たぶん中学校に上がった時の感慨よりも大きかったと思う。
 私たちより上の学年の生徒は中学生になると、二段ベッドが二本入った四人部屋に行けたのであるが、それはこれまで中学生が少なかったから可能だったのであり、私たちの代は特に人数が多く、中学生になったからといって、四人部屋になどは行けるべくもなかった。
 私は小学四年生までは猫崎と同じベッドで寝ていた。ナカノセはどこでも寝れる手合いだったので、学年飛び越えてベッドの調整要員になっていた。それが時折自分の同衾相手を連れて私たちのところに遊びに来るので、狭いベッドで寿司詰め状態になる。そして碌なことにならない。猫崎の描き途中の漫画が破れたりして、主にナカノセと猫崎の間で喧嘩になって、夜中に見回りにきた先生に叱られることになる。そうでなくても夜にナカノセが来ると、いつまでも暗闇でふざけて遊んでいるので、その周辺のお隣さんまで含めて私達は寝坊する羽目になった。
 小学四年まで同衾というのは今でこそ少々無理を感じるものだが、当時の小学四年生というのは、その大半が身長一二〇センチメートル程度しかない。私は小五で一三〇センチメートルを超えていて、大柄な方である。ナカノセは小さかったが、それよりも更に小さかった猫崎は一一〇センチメートルあったのかどうか。その後の日本は高度成長期にあたり、日本人の身長もそれに合わせて急激に伸びた時期である。新旧で同年齢の児童を比較して、全体、五センチから十センチ以上の身長差があり、我々小さかった。

 毎晩議論し、私は猫崎の宿題を肩代わりをする。猫崎は授業中も漫画のことばかり考えていたし、ナカノセは男の子たちを連れてきて、乱闘時の再現をして見せたりして、喧嘩と思ったママちゃまに怒られたりしていた。そういう日々が二月ほどあって、砂川漫画戦記を描き終えて、願をかけて郵便ポストに投函したのは、三月末、締め切りの二日前だった。
 それから、私達はそれぞれのベッドへと移った。独りになった小五の新学期の夜は、横に誰もいないのが少々心細かった。そして、一人でいると寒かった。ナカノセが絶対に来ると思っていたのだが、ナカノセは来なかった。ナカノセは猫崎の様子を見に行っていたのである。そうして、しばしば、彼女はその足で、夜の散歩に出かけた。その頃、便所下駄が汚れているので、最初は、誰かが糞でも踏んだものと思ってうんざりしていたのだが、それは実際のところ、ナカノセのお散歩シューズになっていたので、外の泥土で汚れていたのである。
 下駄箱を代用した南京錠のかかる木箱も一つ与えられて、最低限のプライベートが実現する。しかし依然として自分のものを隠す場所はそれぞれにあって、ナカノセは、アリジゴクの住んでいるガード下の隙間に拾ったクルミや銀杏の類を隠していた。私は下駄箱のほかに、猫崎と一部共有している箱があった。職員室に置かれた煎餅缶の中に、文房具や描きかけの漫画、使いかけの無地の便箋などが入っていた。最初はみんなのものだったが、実質上猫崎の漫画用品入れになっており、私は彼女の漫画の字入れをやっていたので、私のものも一緒に置いてある感じだった。
 ママちゃまや先生たちに中身を覗かれてしまうという欠点はあるが、盗まれないという点では最も優れている。私設箱は中のものを盗まれても公の問題にしてもらえないという弱点があった。
 自分の箱や隠し場所を持つことは、ホームの生活を充実させるために必須であり、皆それぞれ工夫を凝らして、そういうものを持っていたのである。
 国男などはネジまわしを持ち歩いていて、それをカギ代わりにしてピアノの底に、傍目には何の変哲もない石ころを幾つも隠していたし、七生などは箱主をやっており、他の者にも共有させていた。上級生の権威が備わっているので、そこに一緒にしておけば、先生たちには見られたくないが、かといって自分だけで持っているには心許ないという程度の代物を保管するのに適している。
 砂川漫画戦記を書き終えた後三ヶ月ほどは陽気も暖かくなり始め、私達は箍が外れたようになった。ホームの手伝いをすっぽかして逃げ回ったり、そのくせ年甲斐もなくおままごとをやったりして過ごした。猫崎も、応募原稿のために気力も体力も相当消耗したと見えて、寝起きして食べるものを食べる以外は、滝沢先生のピアノに耳を傾けているだけの、瞑想するような日々を過ごしていた。
 滝沢先生のピアノは直接的には漫画の中に描かれることはなかったが、その楽曲は漫画を描く上での源泉になっていたものと思う。
 猫崎が一番好きなのはベートーヴェンの「悲愴」である。
 滝沢先生の弾き方のせいでもあるが、第一楽章はアップテンポで勇ましく、前のめりの果断さがある。第二楽章は落ち着き払っており、切ない。
 第三楽章は、猫崎曰く「いらない」
 第三楽章も味わい深いものと思うが、猫崎にとっては完全なる蛇足でしかないようで、滝沢先生の弾き奏でる至宝の第二楽章を聴き終えると、彼女はどっかへ行ってしまうことすらあった。






§ 一八 猫崎の夏

 初夏。その朝、ママちゃまが猫崎のベッドへと向かうのを私は見ていた。
 まるで私はその場面を待ち構えていたように目を開いていた。
「でかした猫崎。皆にも見てもらいなさい」
 そう言ってママちゃまは足取り軽く嬉しそうに厨房へと戻って行った。
 ベッドの中の猫崎は、苦しげな表情で、固まっている。
 私が自分のベッドから飛び出してゆき、ひょいとその手元を覗き込むと、猫崎は、気だるそうに、嬉しさを誤魔化すように中途半端な表情をして、私に葉書を見せた。そしてすぐにそれを掛け布団の中にしまいこんだ。
 砂川闘争の漫画が入賞したのだった。猫崎は特別賞だった。紙面発表という話だったので、通知が先に来るとは思っていなかったが、後にそれが普通だと知った。
 猫崎は血圧が低く、起きて一時間ぐらいは完全に目が覚めるまで慎重にしている。下手に飛び起きようものならば調子を崩して一日が台無しになって、学校も途中で引き上げる羽目になる。
 私はそれをよく心得ていたので、はやる気を堪えて、布団に潜り込んでいる猫崎をそっとしておいた。たぶん猫崎は既に目を覚ましていただろうが、彼女は非常に体裁を気にする。どんな表情をして今日一日を過ごせばいいのか思案しているようで、出てくるまでに時間がかかった。
 漫画賞では学校部に連絡するわけにもいかず、私的に祝うことになった。しかしこの反響は大きかった。
 ナカノセは一学年下の寝室で寮長をやっていたので、私たちとは同じ部屋にはいなかった。私が呼びに行くと、ナカノセ以下四十名全員が駆け込んできて、食堂はごった返しとなった。この日の朝食は鳥そぼろだった。味噌汁の種はナスである。おかずは佃煮とチョロギだった。
 窓の外を見ると、ホームの庭先にはピンク色の立葵の花が既に咲き始めていて、遠くの山並みは濃淡のある緑の木々で覆われて、とても美しかった。世界は光で満ちている。

 どういう理由の人選だったのかは覚えていないが、正月に少女グラフを選んだ私たちの班員の他には一つ上の七生と二つ上で中学生の洋子姉さんがついていくことになった。私たちはまだよちよち歩きのような幼児から、もう来年には中学を卒業する者まで、一緒くたになって生活していた。
 その月の少女グラフに載せられた編集長コメントを読むと、記者たちに混ざって蕪をマイク代わりに矢継ぎ早に状況を報告してゆく猫崎の描写がウケたらしいことが解った。興奮した挙句、蕪は最後食ってしまい、農家にカネを払えと頭を叩かれる場面が掲載されていた。
 皆、我がことのように喜んでいて、K子まで姉さんづらしに来て、猫崎を労うようなことを言った。何て我々は朴訥であったであろうか。
 少女漫画にしてはかなり粗暴な仕様なので、一言言われつつも、途切れる所のない絶妙の展開で受けは相当良かった。絵も応募者全体と比較してもかなり上手い方だったようである。更には応募者の中で原稿枚数が百枚超えていたのは猫崎だけだった。完成してみて思うに、やや予想外の方向に出来上がったものと思う。私がその当時何度も笑った箇所は、以下。棒持って暴れているのがいるから逃げてッ! と、ナカノセの方に向かって猫崎が金切り声をあげて伝えるも、よくよく見てみたら棒を振り回して暴れてるのはナカノセ自身。私達は慌てて止めに入る。言葉で説明してしまえばそれっきりであるが、間の取り方が絶妙に上手いのである。何より、ここまで落ちを取っていこうという姿勢は初めてであった。私としては、猫崎がこういうものも描くことが出来るとは知らなかった。猫崎の漫画は漫才ではなく、その詩性と叙述性に真価があると思っていたからだ。
 砂川闘争のその社会的位置付けに関する見解や風刺性は大してなかったが、今思えば、それはかえっていい方向に働いたであろう。「子供には大人たちの都合など関係ない。楽しく生きてゆきたいんだ」風刺性はそれで十分だった。主人公の決め台詞だけがその物語のテーマなのではない。何気ないその立ち振る舞いが、作者の価値観や世界観、その社会的立場を反映してしまう。そういう意味で、漫画とは自分の身から出るものではあるが、自分の意志でコントロール出来るものではない。猫崎の才能とはそれだ。
 私たちは砂川闘争を百姓と警察の単なる土地取り合戦との認識が拭えなかった。実際それ以外の何ものでもない。しかしそう描けるのは猫崎が猫崎だからだ。
 漫画の中の私はこれといった役回りがなく、単に二人と一緒にいるだけ。猫崎が蕪を齧ったお代を、がま口財布から払ったりするので、編集者たちからはお姉さんなのだと思われていた。何をしても何を見ても無表情で事務的な様子である。
 実際、ここまで自分が無表情だとは思わないが、無事帰りたいというのが何よりで、闘争の内容自体には反応が薄くなっている場面は多かったと思う。大人には、そんなことも面白かったらしい。
 大人たちは、私たちの意図せぬ、その時の事情まで読み込んでいた。実際の私たちを見てみたいと思ったのが最後の決め手だったらしい。

 編集の佐藤さんに砂川はどう思ったかと訊ねられた猫崎は、頭の中真っ白になって、考えあぐねた後、一言こう言った。
「人のものは取っちゃだめだと思います」
「僕もその意見には賛成。でも、それがみんなのためになるものだったら?」
 猫崎がハキハキと喋らないので、ナカノセは、猫崎を差し置いて、砂川闘争のその意義や見解を色々と述べた。
「君は猫崎ちゃんの友達かな?」
「私は、このマンガの主人公です!」とナカノセは満面の笑みでそう答えた。
 恥ずかしいので私は急いでそれを窘めた。
「モデルになったのが君ということかな?」と真顔で言われて赤面は収まる。モデルにおいてナカノセが中心にあるのは事実だが、今度は彼女ばかりが主役ではないのだということが言いたくなって、編集の佐藤さんを前に、私達はこそこそと議論した。
 ナカノセが、ぬけぬけと自分がこの漫画の主人公であると言えたことは、それなりの事情がある。探偵ものというジャンルがあったのは前に述べた通りで、私達はそれを指向していた。漫画ではなく主に実生活の面で。
 私たちのホームにおいて、猫崎の描く漫画は虚実入り混じりの特殊な位置付けにあったが、この頃の少女漫画の事情として、ジャンル自体がそもそも実写と混ざっていたという点がある。
 後にミネラル麦茶のCMで有名になった松島トモ子は少女アイドル出身である。彼女は少女雑誌の花形アイドルで、探偵や姫に扮するトモ子が主役を演じる実写と作画の入り乱れる形の漫画は、トモ子に限らず珍しいものではなかった。私達はナカノセを主人公に、そのシステムを同人レベルで実践していたと言える。そういう自覚があったわけではないにせよである。
 私達のホームでは、猫崎がいたために、その運用が非常に充実していた。
 編集の佐藤さんは、私達の様子を面白がりながら訊ねる。
「猫崎ちゃんは、自分の漫画の長所をどこにあると考えるかな。一番表現したかったことってどんなとこかな?」
 猫崎は緊張しながらも、自分の漫画家としての長所を訊ねられて、今度は割とあっさりと「物語を終わらせることが出来ます」と言った。
 なんだそりゃ。一瞬、皆気が抜けたが、果してそれが出来る漫画家は実はプロでも少ないのである。編集の佐藤さんは猫崎の言い分に鋭いものを感じ取って、今度は企むような笑みを浮かべる。気に入られたようだった。
 招かれた編集室は狭く、煙草の煙が充満し、机の上には、本や原稿が山のように積みあがっている場所だった。
「ここじゃなんだね。一緒に下の食堂へ行こう。君の漫画を幾らでも説明してくれないか?」
 猫崎は力強く頷く。砂川闘争自体はともかく、彼女には漫画に関しては言いたいことは幾らでもあるのだ。私は、子供ながらに、猫崎の才能や求めている高みは並じゃないのだろうなと、身贔屓なしに思ったものである。



 一八  * *

 佐藤さんは言う。
「猫崎ちゃん、問題は三章だよね。みんな三章が描けないんだぜ」
 ナカノセは何か笑わせないといけないものと勘違いしており「サンショウウオは描ける」などとバカなダジャレを言ったりしていたが、猫崎と編集の佐藤さんとの間に流れる空気は真剣そのものだった。
 ナカノセは、出てきたオレンジ・ジュースをものの五秒で吸い上げ、四角い氷を口の中で転がしていた。壁にかかった時計はもう正午を回っている。
 こまめに水分補給をすることと、ママちゃまに言い付かっていたので、私は猫崎にジュースを飲むように勧めたが、一口つけただけである。いつもだったら、そっちに気が向いてしまっただろうが、猫崎はとてもそんな雰囲気ではなかった。腹が減ったと言いたげなナカノセに、私は、しっと指を立てて牽制した。
「三章が描けなくてね。最後の最後、拍子抜けや、腰砕けに終わるんだ。これは何でだと思う?」
「解らないです」
「何も考えていないからさ。論文と同じなんだ。論文って言うのはねえ、大学生や博士の書く作文かな。小学校でも読書感想文って書くだろう。問題は擦れ違ったものが他とは何が違うのかを見抜く論理だよ。論理、論理的というのは、どういうことか解るかい? ちょっと難しいかな……。応募者の九割九分は主題がない。上手いだけなんだ。上手いことは重要だし、凄いことなのだけど、プロは皆上手いのが普通なんだね。すると、プロになった途端、もう前に進めないって人が結構多い」
 十歳の応募者にはちょっと難し過ぎるのだが、彼は、その講評でまあまあ面白いことを言っていた。
 論文というのは、論理的な文章のことではないのだ。
「犬はワンワン吠えてうるさい」というのは論としては特におかしいところはないが、一般通念を述べたてただけで意味がない。論理的なだけでは論文にはなりえないのである。
 一方で「犬はワンワン吠えてうるさいと思われているが、レコードで聴く音楽はそれよりも遼に音が大きい。うるさいというのは、本質的には他者に押し付けられた情報のことであり、音の大きさのことではない」
 こうなると、一般通念における「音の大きさ」と「うるささ」というものを独自の見識で分割してみせるので論文たりうる。つまり、彼には言いたいことがあるのだ。
 三章には言いたいことが集結する。論文と漫画はほとんど同じものであるというのが編集の佐藤さんの主張であった。
「猫崎ちゃん。テーマとコンセプトって何が違うか解るかい?」
 猫崎は「テーマとコンセプト……」と鸚鵡返しして、困った様子で固まっていた。
 佐藤はそれを見てちょっと笑う。
「テーマというのはその作品の中でその人が一番言いたいことなんだよ。愛とか正義とか。一方でコンセプトというのは、ファッションのことで、ヨーロッパ風とかSF風とか疑似江戸風とかね」
「へえ」
 返事をしたのは私だ。
「何であれ、面白くなければイカンって言っている作家は多い。子供のためであるべきだって言う人もいる。中には売れればいいんだって言い切る先生もいるよ。作家それぞれに考えはある。編集者としてもそれぞれ考えがある。どの程度作品に意見したり、手を出したりするかについてからして違いは大きい。でも、とりわけ主題、つまりテーマを書くのは、普遍的に難しい。僕は編集者としては君には主題が描ける漫画家になってもらいたいと思う。まあ、だけどね、ああ。そうだ。焦る気は解るけど」
 佐藤さんは煙草に火をつけようとしたが、私達が注目しているのに気付くとすぐにそれを仕舞った。
「アハハ。焦っているのはこっちだな……。君は中学校を卒業したらすぐにでもプロになれるぐらいの力を持っているかもしれないけど、高校へは行くといい。……学校はどう、楽しい?」
 猫崎は漫画に没頭するあまり、勉強はからっきし出来なくなっていた。
「学校はそんなに面白くないかも……」
「面白いということと、楽しいってことは別だよ。笑えればいいだけなら、脇を擽ってやればいいんだ。廊下に立たされている時のことだって、体育の授業を見学していなきゃいけない時のことだって君の漫画ならきっと面白くなる」
 この後、佐藤さんは、漫画一つ一つの内容ではなく、漫画雑誌としての少女グラフについて話をしようとしたが、私達はまさか、あれ以来、少女グラフは買っていないとも言うわけにはいかないと思い、しどろもどろした。
 佐藤さんは宙を仰いで苦笑いする。
「あちゃあ、こればかりは漫画家のせいじゃないからな。もっと僕らが頑張らんといけないなあ。普段はどんな漫画を読んでいるんだい? やっぱり、少女クラブのリボンの騎士か?」
 私達はお互いに顔を見合わせる。名前ぐらいは知っているが、今、巷で大人気だという手塚治の作を猫崎はチェックしていなかった。私達はもぐりだ。
 佐藤さんは少し驚いて私達の顔を見渡す。
「リボンの騎士を知らないの? 君たちは普段どんな雑誌を読んでいるの?」 
 去年のお正月に少女グラフを買ったきりで、それ以前となるとやはり、一昨年に買った少女ブックだけだった。後はだいぶ昔の姫もの漫画が中心で、それはその頃は既にブームを去っていた。
 ホームを出た先輩の渉兄さんが寄越してくれる漫画は、劇画調のハードボイルドなどが多く、それらの影響も受けた猫崎の漫画はキャラクターの統一性に欠くという指摘もあったらしい。猫崎の描法は、全般やや古いスタイルに属しており、描かれる内容は、漫画から吸収したものよりも、実生活から得たものが多くなっていた。もちろん出来る限り最新の情報を得るために、ホームにやって来る漫画と名のつくものは、新聞のコマ漫画でも全部見に行く。これは上手いと思ったら、猫崎は、それこそ指の跡がつくほど読み返していた。それが当たり前だった。ただし限界もまたある。意外に思うかもしれないが、これだけ漫画を描かねばならないとなると、漫画を読む時間さえ猫崎には限られているのであり、猫崎より私の方がまだ読んでいる方だったはずだ。
 猫崎と漫画の関係性というのが、本質的に変りつつあった。猫崎は漫画が大好き。猫崎は漫画が好きというよりも、没頭するのが好きなのだ……。好きというよりも、彼女には、それ以外に選びようがなかったのかもしれない。
 その日の帰り、私達は心地よい疲労感に満ちて上機嫌であった。
「あー、そうかもしれないなあ」
 猫崎は西日の差し込むバスの中で呟く。
「何が?」
「私が描くなら、描かれた人物が主人公なのであって、私は主人公じゃないんだね」
 疲れきっていた私は「そういう話もないではないよね」と曖昧に応じた。猫崎は目が冴えきっており、佐藤さんに貰った今月号の少女グラフを読み回して、ケラケラ笑っているナカノセたちを、初めて見た人たちのように見つめていた。






§ 一九 電話帳の向こう

 石倉さんのところに猫崎が漫画賞をとったことを報告に行くと、彼はふんふんと嬉しそうに頷きながら、「今度は新聞に載せる漫画を頼むかもしれない」と言った。
 凄く褒めてくれてひょっとして小遣の一つでもくれるのではないかと私は密かに期待していたが、割とあっさりしていた。石倉さんは漫画は好きな方だが、たぶんそれが大したものだとまでは思っていない。
 それよりも彼は新たに据え付けた電話を私たちにお披露目した。石倉さんのぼろ屋は、プロレタリア研究会書記局、通称「プロ研」の事務所に改装されることになり、電話線を引いたのである。家屋の外に出ると、琵琶の木の陰に隠れて、屋根の上に「プロレタリア研究会」と黒の地に黄色で描いた看板が掲げられていた。ホームから電話をかけてみる約束をして、私たちは急いでホームへと帰ったが、ホームの電話は職員室にあり、子供たちが勝手に使うわけにはいかない。「連絡を取りたいのなら、お手紙を出しなさい」とママちゃまに窘められて、暫くの間忘れていた。またちょっと経って「プロ研」に行くと、石倉さんは、電話で右翼の「神州璧血会」と戦っており、逆探してやると息をまいていた。電話設置後早々に、何者かからの嫌がらせ電話が、夜な夜なかかってくるようになったのだという。
 しかし実際には石倉さんの方が警察に盗聴されており、通話の一部始終を聞かれていたようである。
 それから暫くの間、彼は姿を消す。
 官憲か殺し屋か、追手を逃れて彼が雲隠れしている間、私達は石倉さんの家に勝手に上がりこんで、普段以上の悪ふざけをして羽目を外していた。探偵ごっこをするのだが、その逆に、敵役としての悪玉ごっこもしていた。アジトを作るのは、非常に面白い。
 男の子たちは秘密基地を作りまくっていたが、私たちはそれをアジトと名乗って、一味違うものと認識していた。違うのは、遊びの種類がチャンバラやターザンごっこではなく、お絵かきや地図作成が中心だっただけのことであるが、より本格的である気がしていた。私達は漫画賞をとって随分と浮れていた。自分ではなく猫崎のお手柄であるのに、まるで自分の将来が光に輝いているかのような感覚を共有していたと思う。自分もひょんなところから漫画家として声がかかる日が来るのではないかなどと馬鹿げたことを思っていた。
 ナカノセがどっからか二級酒なんぞを引っ張ってきたのをきっかけに、宴会をしようという話になり、私達は数日間食糧調達に奔走した。私はこの遊びが好きなようで、特に熱中した。私はかねがね自分も食べてみたかった羊羹を猫崎のために奮発した。ナカノセがどうやってお酒なんて手に入れてきたのかこの時は検討つかなかった。漠然と鉄屑で溜めたお金を使ったのだと思っていたが、彼女は既にこの頃には、もっととんでもない資金調達法を編み出していた。クラスの子たちも呼び寄せて、醤油をつけた刺身やワカメ、紐のついた羊羹を投げて、待っている方が口でキャッチするという宴会芸の物真似をして、私達は死ぬほど笑い転げていた。
 男子までやって来るようになると、勝手に石倉さんのバイクに乗って、泥沼の中を飛沫をあげて走り回ったり、障子にわざと穴を空けたりと、やることが段々とエスカレートし、通称バカキンで呼ばれていた、バカキングの裕次とナカノセが取っ組み合いの喧嘩を始めたあたりで、知らない小父さんがやって来て、大目玉を食らった。「プロ研」は借家だったらしい。
 バカキンは「シツケ」と称して口の中に入れた墨汁をブタやニワトリに吐きつけたり、カエルやおたまじゃくしを壁に叩きつけて「バクハ」したりと、羽目の外し方がキチガイかと思うほどに半端じゃないのだが、怒られると簡単に意気消沈する。しかしほとぼりが冷めれば、またいずれ同じところまでエスカレートして、大目玉を食らうという、愚かな生態をもった存在だった。
 ナカノセはバカキンとは気質が違うものの、やはり、したたかなクソガキであったので、大目玉の一つや二つ程度は何でもない。
「石倉さんの家を片付けないといけない」などというもっともらしい大義名分を作って、猫崎と私を引き連れて、今一度「プロ研」に上がった。

 問題を引起すこととなった電話帳を見つけたのはその時のことであった。
 猫崎が、不意に手に取った電話帳を捲り、何とはなしに「手塚治虫」と探したら、かくしてその名は掲載されていた。私たちは驚いて、手塚先生に電話をかけるかどうかで揉めた。他にも、何人かの有名漫画家の電話番号が載っていることを知った。時代が時代であった。
 押しも押されぬ稀代の有名漫画家たちと話が出来る。いずれ猫崎は自分に将来漫画家になる芽があるかどうか聞かねばならないから、緊張していた。
 だが、私たちは、それだけでは済まなかった。自分の苗字があるかどうかを探すという、もっと恐るべきことを思いついてしまったのである。
 誰が最初に思いついたのかは覚えていない。しかし、一番最初に頁を捲って、自分を探し始めたのはナカノセであった。ナカノセという苗字は電話帳にはのっていなかった。安堵も束の間、私の苗字であった稲取を探すことになる。ない。載っていない。色々と恐いことはあった。仲間の死も身近な問題であり続けた。しかし、私をして、この時ほど恐かったことがあるだろうか。私は、自分の苗字が電話帳に見つからなかったことに胸を撫で下ろしていた。
 ナカノセは言う。
「こんなの別にびびることじゃなくない? 佐藤や鈴木なら幾らでも載ってるじゃん?」
 無論。稲取が載ってたとしてどうだったというのか。どうせ他人だ。たぶん――。
 猫崎の番になって、当然、猫崎だって、載っていないだろうと思って、三人とも気を緩めていた。しかし、猫崎の苗字はあった。一件のみ。確かに猫崎家は存在していた。
 ナカノセが電話をかけようとすると、猫崎は「やめて、やめて」と何度もそれを阻止し、涙目になっていた。ナカノセがふざけて不意をついてかけようとすると、ついには猫崎はハサミを持ってきて、電話の線を切りかねないほど真剣な表情をした。猫崎の手にしたハサミが電話ではなく、ナカノセに向いているような気がして、私は、悪ふざけと紙一重のところにある、知られざる危険を感じ取って「今日は帰るよ」と呟いた。
 私たちは、薄暗がりの「プロ研」から逃げるようにして飛び出した。ホームの児童にとって電話は身近な存在ではなく、今や魔術を帯びて見えた。私達の過去と未来が、同時に雪崩打つような衝撃的な可能性が潜んでいた。そんなことが起きたら、自分はどうなってしまうのだろう? 想像もつかなかった。
 事態はこれで終らない。
 猫崎家の電話番号と住所を、ナカノセも私も覚えてなどいなかったが、猫崎は覚えて帰ってきていた。私が見ていない間に、いつも持ち歩いていたスケッチブックに書き取っていたのかもしれない。彼女は、それから何の気もないような素振りで、猫崎家を見に行こうと言い出したのだった。探偵ごっこだ。それは次の作品のテーマでもあった。猫崎がそれでいいと言うのなら、もちろん私は構わない。当然ナカノセも乗り気だった。
 考えが甘かったと思う。
 見つけるまでの経緯はこれといったものではない。猫崎家は、東京の多摩にあった。
 猫崎はそこで幸せな家庭を見ることになった。そこで猫崎は腹違いの妹がいることが解った。この子はちょっと見ないくらいの可愛いらしい女の子で、それが玄関口にフワっと飛び出した瞬間を記憶している。キョロキョロと周囲を見回す様子は一層美しく、スカートを翻してお城の中に戻る様はまるで漫画だ。もしもこんな巡り合わせでなかったならば、号外で漫画になってたはずだ。次の短編でヒロインに決まりだった。そしてその後も重要な役回りを貰って、登場し続ける幸せなキャラクターとなったことだろう。猫崎は恐らく彼女を描いたはずである。嫌でも描けてしまうのは才能のなせる技だ。しかし残さなかった。
 今すぐにでも訴え出ようかとも思ったが、同じような立場にあったホームの卒業生が自分の肉親を訴えたり、襲撃したりする事件がしばしば起こっていることを思い出して躊躇した。こじれることが多く、結局は取り返しが付かないままうやむやになって、また他人同士となることが多かった。
 私達はママちゃまに相談しようかとも考えたが、猫崎が首を縦には振らなかった。
 戦後の事情がある。どうであろうとも、一度ホームに入った児童はホームの教師たちが育てる。そのために安易な親権の委譲には同意出来ない。一方で、新たな人生を歩み出した、子供の元の家族や家庭を壊さないようにすることも尊重されなければならない。「元の家族、ホームの児童も含めて、我々には人間としての自負と誇りがある。その両方をお互いに満たせるというのなら子供たちが大人になった時にお会いしましょう」それがママちゃまの考えであり、ホームの意志でもあった。
「私は漫画家になってから会いに行こうと思う」
 猫崎の力強い台詞に、私は安心し、その逞しさに感銘すら覚えた。彼女は弱くない。彼女はきっと素晴らしい漫画家になるだろう。彼女の人生そのものが漫画のようにドラマに満ち溢れている。
 しかし、その予感は空回りし始める。これ以後猫崎は、呆れる他ないような、べたべたのお姫様を描くことに熱を上げ始めた。小学校低学年の頃に沢山描いた姫の帰郷の物語が否応なく再燃したようであった。私はその様子に困惑した。私はそれを素直に楽しめるほどにはもう幼くはなかった。猫崎だって同じはずなのに。
 彼女は、その苦味にあえて向き合っていたかもしれない。彼女にはそういうところがある。それが彼女の原動力でもあった。病状も悪化していったが、目は爛々として、以前にも増して精力的に描いた。猫崎は、肉体的な疲労ばかりではなく、心労も出来る限り避けろとお医者さんから言われている。彼女は、自覚的に命を燃やし始めていた。
 無論、私たちはそれ以後、自分達の過去を探そうとはしなかった。
 ナカノセは少々興醒めしたような口振りで言った。
「私たちに過去なんて必要ないよ。別にびびってるわけじゃない」
 しかし、猫崎の青春を襲ったこの事件は、その時想像していた如何なる形にも終結しなかった。五年の後、私たちの想像を遥かに越えた形で展開することになったのである。そのために、私は自分が猫崎の漫画の中の住人であるという妄想を生涯捨てることが出来ないでいる。






§ 二〇 もはや戦後ではない

 猫崎の新たな漫画原稿を受け取った編集の佐藤さんは、暫く彼女の漫画を観た後、何を言おうかと思案して宙を仰いだ。
 たぶん今一つに思ったことだろう。少なくとも私にはそのように見えた。あの時の猫崎の漫画をすれば当然の反応だ。佐藤はやや鋭い目付きに変わって講義を始める。
「漫画家には、描きたいものと、描けるものがある……。描けるように描いて、描きたかったものだけを残せ。でも、そこからが本当の勝負だぜ。絶対に描かないといけないものは、ほとんどの場合、今の君には描けないものだ。だけどそれをいつか描くんだ。それでこそ漫画家だ。君は本当に漫画家でありたいかい? 売れる売れないなんて二の次だ。僕は商品じゃなくて作品が読みたいんだね。誰に何と言われようと。どうしても必要だというのなら、売れてるものをなぞりがきすればいいんだからな……。猫崎ちゃん。魂は細部に宿るなんて嘘だよ。魂の宿らない細部の方が圧倒的に多い。細部は魂の原因ではなくて結果に過ぎないんだ。一生懸命頑張りました。許して下さいなんて作品は、どれだけやっても、やはり、大したことないぜ」
 佐藤は「これはうちの坊主が描いた漫画だけど――」と言って、彼の九歳になる息子の描いた漫画を抽斗から取り出してきて私達に見せた。
 よりによって少女漫画だ。はっきり言って上手い。九歳としては上手過ぎるぐらいだ。プロと比較して、これは十分である。けど、足りない。彼らが求めている漫画はそんなものじゃないのだ。
「彼は、売れ筋の漫画を真似るのがとても上手いんだ。でも、それが欠点だ。手塚治虫は手塚治虫にしか似ていないんだよ。描くのは速いほうだし、絵も上手いけど、どうしても決めないといけない、決定的な瞬間を、重要なコマを描く力に乏しい。目的の不在、他人の作品を借りてガワを変えているだけの姿勢がそれを生み出す。あいつは君をライバル視している。自分の息子を誉めるのもなんだが、少なくとも見る目はあると思う。でもダメだ」
 彼らは密かに手塚治虫に挑戦することを誓って集っていた。弱小出版社から女版手塚治虫を輩出するという野望と、その戦略をもって彼らは立ち上がった。佐藤は「自分は、気付くのが遅かった」と言ったことがある。この時、少女漫画の世界では、手塚治虫のリボンの騎士が一世を風靡していた。佐藤少年九歳の漫画はそれの焼き直しである。
「実を言うと、僕も昔はそこそこ描けた。出版社から声がかかったこともある。けど、やめた。僕は自分の漫画が描きたいのじゃなくて、究極の漫画を読みたいだけなんだよ」
 私情である。しかしそれが、編集者佐藤の並々ならぬ熱意でもあった。漫画家に天才がいるならば、編集者にも天才がいるであろうと私は思った。
 彼らにとって手塚治虫の弱点は明白である。リボンの騎士においては、少女漫画を大人の男である手塚治虫が描いているということだ。主人公のサファイア姫は妖精チンクのいたずらによって、男の子の心を植え付けられている。この物語上の設定が、現実の捻れに対して調整された要素である。そしてこれがリボンの騎士をリボンの騎士たらしめている最たるものであるが、手塚治虫をして、女が女であることまでをも奪ったという面は拭えない。言ってみれば最初の本格的少女漫画の名誉を、医学部を出たようなインテリの青年が、いや、その彼を育て上げた、その背後にある資本力でもって、奪ってよいのかという問題だ。少女の心を少女じゃない者が語ることはどこまで許されるか。
 たとえばあの当時において、原爆の受難をアメリカ人が描くことが許されるであろうか。あるいは原爆の直接の被害者でない者が、それを訴えることは許されるであろうか。言うまでもなく程度ものではあるが、この場合、何が程度ものなのであろうか。問題となるのは主観の程度だ。漫画は主観的であることが多い。こと少女漫画は主人公の一人称視点が多い。主人公の視点から世界が語られるのである。そういう媒体において他者を描くことの問題点は手塚をして気付かなかったなどということはなく、むしろ最大の問題として立ちはだかっていたであろう。

 副編集長は、手塚治虫は、リボンの騎士の宝塚歌劇からの影響を認めることによって「宝塚の女優が男役を演じることと同じことをやり返しているだけである」という言い訳を担保していると見抜く。そして、彼は手塚治虫がやっていることや、その言い訳をギリギリの線で「不味いことをしている」と断じていた。副編集長はそれをこのように喩える。
 「私は、知識人であり、権威者であり、君自身のことを君以上に語れるのだ。君はただ私に囀ってくれさえすれば良いのだ。そうすれば私が、もっと素晴らしい形で君の心のうちを皆に説明してみせよう――。こんなこと許されていいと思いますか? 僕は、それは、やってはいけないことだと思います」
 ただし、副編集長の意見はよくよく聞いていると捻れているのだ。彼自身のそういう思想的配慮が、漫画を描く上での律法として、それ即ち、介入しているからである。
 私の大急ぎの頭の中を飛び越えて、編集の佐藤はすかさず、このように反論する。
「僕はそこまでは思わないな。だって、当事者ではないからと言って、描いてはいけないとするのならば全ては私小説になってしまいますよ。漫画は私小説しか描けないほど、幅の狭いものであるはずがないでしょう?」
「いいや。漫画における自由主義的態度によって、何でも自由であることが許されるという発想が誤りなのですよ。発言は自由であるが責任を伴う。責任について言及出来ないならば、その自由は横暴としてしか機能しないですよ。これは思想家が漫画家をリモコンにするとかしないとかの話ではないはずです。そもそも、私の言い分がリモコンであるというのならば、それはもう編集者そのものを否定しているに等しい。編集者をただ単に出版事務であると考えるのであれば、編集者というのは、そのうちにいらなくなる。漫画は大いに自由に描かれるべきだけど、自由はただ、それ自体、無制限に自由であっていいわけではないでしょう。私が言っていることを佐藤君はちゃんと理解していますか?」
 私たちは漫画のことで丁々発止になって本気で口論する大人たちにびびっていた。
 ……でも、少女が少女であるままに漫画を描くという客観性は成り立つのであろうか。自分をそこまで客観視出来るならば、それはもはや、少女ではあるまい。すると少女とは単なる無力なバカな存在でしかないのか。もしそうだとすれば、少女が完全なる少女のままで、漫画家であるということは、そもそも成り立たないのではないか――。
 何を言っているか、その時の私には半分ぐらいしか解らなかったが、私が何の気なしに「見ないと解らない奴は見たって解らないと思う……」と言うと、皆が一斉に私の方を向いて焦った。
「どういうことかな。君は、前もそういうこと言ったよね?」
「す、すみません」
 たぶん、私はきっと、「猫崎は少女じゃなくて天才だ」と言いたかったのだ。天才は出自や身分を選ばない。
 佐藤は、ますます難しそうな表情をしているが、目の前にいるのが子供であることを思い出して取り成す。
「……ううん。君はまた冷静なんだなって。つまり、君は、漫画を描くに当り、当事者かどうかは関係がないと言いたいのかな?」
 私は、時折、冷たいと言われる。だが、親切だとも言われることもある。これは真逆のことを言っているのではなく、むしろ、同じことを言い方を変えたに過ぎないと気付いたのはもうちょっと後だ。私はどうやら、誰にとっても他人なのだ。そもそも私は少女と呼べるような存在であったことが一度でもあったであろうか。私は今一、情熱に欠く。高校で知らぬ間に、ロボ子という仇名がついて、気付いたことである。私は間接的に、大人の意見の代理人として機能して、猫崎をコントロールしようとしていたのではないかとも思う。

 副編集長は議論を再開した。
「僕はねえ、最初に担当した漫画家と一緒に、医者の話を描いていたのですよ。手塚治虫とは立場が逆です。これが、会議で散々に批判されてボツを食らったんです。ある編集者などは、学歴詐称であるとまで言った。しかし、漫画家って、自分と違う立場の人のことも描きますよね。あそこまで目くじら立てることもないのにと今でも思っています。少女漫画における少女像においては、教育的見地も相まって、実に勝手に教育的な少女が描かれて、反論されることもないのに、手塚治虫が自分勝手な、少女像を描くことに何の歯止めもないという、その不公平さを僕は指摘しているんですよ。中立であることよりも、公平であることが重要だと言っているのです」
「誰が、公平性を担保するんですか? 編集者ですか? 公平を決める人がいるのなら、それは既に特権があるんですよ」
 二人の編集者は、漫画はどうあるべきかを巡って、また一段と語気が強くなってきていた。
 さっきまで、ほとんど一人で菓子皿に集中していたナカノセが、残り僅かになったのに気付いて、やべえと私に耳打ちしつつ、切り上げて、不意に口を挟んだ。
「問題は面白いかどうかだよ」
「誰にとってですか?」
 問い返したのは佐藤さんと副編集長で同時だった。
「それは、猫崎じゃん?」
 違うの? とナカノセは珍しく動揺気味に、猫崎の表情を伺う。
 佐藤は言う。
「たぶん、それを決めるのさえ、猫崎君だ」
 副編集長は大きく唸ってから、猫崎に向き合う。
「確かに自分が面白くないものはよした方がいい。早々に限界に達するよ。それで次々と新しいものに挑戦してゆけるならいいけど、大抵は行き詰まる。それは案外辛いことだ。編集者としても。漫画家は、自分が漫画描きには向いていないって、もう一つの真実を思い知る日がある。僕はね、誰でも漫画家になる才能はあると思っている。それは、言い換えれば、漫画家じゃなくても、漫画ぐらい誰でも描けるってことです。続けなくていいのなら、人間、何にだってなれるんだな」
 副編集長はそう言って、黒板に田川水泡ののらくろ、倉金章介のあんみつ姫、長谷川町子のサザエさん、武内つなよしの赤銅鈴之助の四人のキャラクターを一気呵成に描き上げて、チョークの粉を払った。
 これが学校の先生だったら、生徒たちの間に歓声とどよめきが上がったことだろう。
 それから不意に侘しい笑みを浮かべると「僕は、自分の漫画が描けなかったんですねえ」と呟き、自分が漫画家を断念した身であることを明かした。彼は元々売れない赤本漫画家の出で、編集者としては変り種だった。
 彼は手塚治虫嫌いでもあった。その理由は「手塚先生はその上漫画家が副業で、自分は医者であると言って、それを恥じないから」理由はどうあれ手塚治虫を嫌う漫画家は珍しくない。漫画の神様とまで言われてしまう者ならば、避けては通れないことでもある。
 編集室の窓の外の往来を眺めながら、彼はまたこんなことを言っていた。
「僕は、平和になれば幸せになれると思っていたんですよ。だけど、戦争がなくても僕という人間は幸せになれないことに気付いたんです。戦争に縛られているから本当の漫画が描けないんだって、ずっと思ってきたのに。ついにそれが本当のことかどうかを試される日が来てしまった。君達の生まれた年のことです」
 彼の周りには、彼の言っていることを解る人間は一人もいなかったのだと言う。戦後において漫画は思想闘争の一つの前線となっており、戦中において軍記漫画を描いていた者たちは自由主義者たちによって悉く断罪され、職を追われていた。
「でも、僕が言いたいことはそういうことではないんです。漫画は戦争でも平和でもない。漫画は漫画なんです。僕が最後、どうしても言いたいのはそういうことです。しかし、君の漫画が戦記でなかったら、僕は振り向かなかった。君は漫画が戦いの記録なんでしょう? そうであれば、僕と同じです。嵐ヶ丘のエミリ・ブロンテはその生涯において一作しか残さなかったのです。君もまた一作しか残せないとしたら、何を描きたいですか。
 僕は正直に言います。描きたいものは幾らでもあるはずだったのに、戦争が終った。いざ心行くまで描かんと思ったら、最早描きたいものはもう何もなかったんだ。命懸けで漫画を描きたいのに、描きたいものが結局、一つも思いつかなかったんです。僕が一つどうしても後悔しなければならないのは、嵐の後に人生が始まると思っていたことです。今思えば、嵐の日々こそが僕の青春だったのです」
 砂川漫画戦記は、重役会議に回された時、最後の最後、そのタイトルから落とされそうになっていた。しかし副編集長がそれを拾った。これが漫画でないなら、何が漫画なのかと、我がことのように抗議していたという。これらの議論の是非がどうであれ、猫崎は非常に情熱的な編集者に囲まれていたといえる。彼女の憑依するような並々ならぬ描きぶりを、彼らは見抜いていた。ひょっとしたら猫崎が大人になる前に死んでしまうことすらも。



 二〇  * *

 四月の休日。近所の果樹園では梨が花をつけていた。果樹園はホームと契約をしている。私は受粉の手伝いに狩り出されていた。猫崎はもうこの頃には食台のついた特別のベッドで寝かされていた。風邪を拗らせているでもなく起き上がれない日が増えてきていた。一方でナカノセは、どっかすっ飛んでいって体よく仕事から逃れることが増えた。
 私はその日、果樹園の手伝いから戻ってくると職員室に呼ばれた。
 ママちゃま直々であったので、何かあったなと直観した。
 胸中を何度すり抜けたかも知れぬ、不安定が渦巻いて、私、稲取元子は努めて気のない表情をしていた。
 仮に肉親であろうとも、ホームの子供にはすぐには会わせない。生き別れになった子供を探しに来た場合ならば尚更である。トラブルを避けるために、市役所の取り持ちを経てから連絡が行く。
 知らないおばさんがホームの応接間でソファにも座らずに立ち尽くしていた。彼女は私を見ている。私が思わず目を逸らすと彼女は私を追いかけようとするので驚いた。一目見て解ったというのか。そういうことらしい――。
「あの女の人、あんたのお母さんじゃないの?」
 昼御飯に戻って来たナカノセと居合わせてしまった。彼女はまるで、授業参観で顔見知りの親子を見つけたかのように、私の顔と、その女の人の顔を見比べて爆笑していた。
 応接間に入ると、彼女は申し訳なさそうに、暫く私を眺めたのちに、何ごとか言った。私は上の空だっただろう。その時私が考えていたことは、猫崎に持っていく新聞の切り抜きのことであったが、世界が壊れた。何が何だか解らなくなってしまったように思う。
 私はそれから、ホームを出ることになった。中学生になってから里親が見つかることはほとんど希だったし、近いうち私はどこかに、恐らくは区役所か法律事務所のお茶くみとして就職する気だった。進学も考えてみるといいと勧められていたが、それよりも私は自由に使えるお金が欲しかった。ママちゃまは、たぶん私には看護婦を目指してもらいたがっていた。それを思うと私は申し訳なく思う。ママちゃまのこともあって、ホームの女の子たちは看護婦にはちょっと特別な思いがあるのは事実だったが、私には向いていないと思っていたのだ。
 ホームに来たことが確実ならば、何だかんだ言いつつも、ほぼ間違いなく特定出来てしまう。私の母という人は驚くべきことに、私と同じ癖を持っていた。たとえば後退する時に、ほんの少しの間ならば振り向くよりも、ザリガニのように後退りするようなことをする。父に言われて初めて気付いた。母とは声も似ている。声というより喋り方が似ているのだった。
 父とは表情や笑い方がそっくりで、酢の物が苦手なのも同じだった。柑橘は平気なのだが、酢の物を食べると気が遠くなる。両親の要素を半分づつ引き継いでいる弟は、私によく似た風貌をしていた。万一取り違いだったらどうしようかと一人で苦笑いをする私をよそに、誰しもが、そんなことはありえないと、笑うのだった。
 私の元々の名前は桐原朋子という。私は桐原になることは承諾したが、朋子になることは拒否した。それによって、新たに桐原元子という人間が誕生した。
 私が私である事には、確たる必然性がない――。
 ナカノセは、学生運動にますますのめり込んでおり、単なる炊き出し要員や、使い走りなどには飽き足らなくなっていた。ナカノセが海上保安官を目指すと言い出したのもその頃で、その経緯や理由は色々あれど、学生公務員として給与がもらえるというのが大きかったろう。
 女三界に家なしと私が動揺していると、ナカノセは「桐原、稲取ご両家の皆様方、本日はまことに、まことに、おめでとうございます。ああ、うちの元子が嫁に行く日が来るだなんて……」とホームから人が出て行く時の定番で茶化す。どのみち、あと一年で皆バラバラになるのだからと、皆して同じことを言ったが、私にとっては一大事だった。「あんたの家は私のアジトにするから心配ない」という冗談とも本当ともつかない、ナカノセの言だけが救いだった。

 かつて私たちがチューリップを描いていた壁のある空き地は、この頃には大方均されて、吹き曝しになっていた。新しく団地が建つという話で、その一角として取られたのだ。私たちは、ホームの先生達も含めて、あの空き地を半ば私物として使っていたので、大きなシャベルやドーザーがやって来て、大した説明もなしに取り壊しが始まった時には反感を覚えた。瓦礫の山は盛り土が施され、歩道が巡らされて、春には芝桜が咲き乱れる美しい丘となっていたが、全て撤去されることになった。皆でただなんとなく「昔は良かった」とか言い合うことしか出来ない。
 戦争による破壊でこそないが、そこには同様の残骸が残る不思議に、この時私はまだ説明がつけられなかった。
 壁が取り払われると、山の向うに燃えるような景色が見渡せた。セイタカアワダチソウが群生している。この野草は、戦後の日本を代表する光景で、戦前にはなかったのだという。進駐軍と共にアメリカ大陸からやってきて、彼らが去った後にも日本に残った。
 自家中毒を起こして一気に衰退する日まで、火の原を燎くがごとく田畑を飲み込んでゆく。この光景は沿岸都市圏から始まり、復興の勢いと競い合うようにして九十年代半ばまで続いた。
 粉々に粉砕された山の脇で、猫崎はスケッチをしていた。
「あともう少しだから、邪魔しないで」
 彼女はつっけんどんな態度でそう言う。
 ナカノセが学校から帰ってきて、具合が悪くなるから寝ていろと猫崎を嗜めたのだ。
 猫崎は咳を繰り返した。
 その後、ナカノセと猫崎は取っ組み合いの喧嘩をして、もつれ合って、詰み上がった瓦礫の山の中に突っ込み、ナカノセは瓦礫の中に潜んでいた金棒で眼を切った。言うと入試に差し支える上、こんなことで病院へ行くと猫崎の治療に余裕がなくなると思い、ナカノセはそのままに放置してしまった。猫崎がもう先が長くないのは薄々皆解っていたことだった。猫崎の病気は、病院に行ってもどうにもならない。こともあろうか、ナカノセは、それを殴ったのだ。どうしようもない死の不安が常に私達の間に満ちており、拭いきれなかった。
 「どうして言わなかったの!」と怒鳴り散らすママちゃまの声で、私は不幸な状況を察した。ナカノセ自身は、右目がほとんど見えていないのだから、傷が深いことぐらい解ったはずだ。しかし、傍目には赤く腫れているぐらいにしか見えなかったのと、例の如くナカノセは平気な素振りをしていたので、大きな問題と認識されずに数日が過ぎていた。
 猫崎はその後、案の定風邪をひいていて、熱が出て咳きが止まらなくなった。
「病院へ行って猫崎の病気を診てもらうから、ナカノセも看てもらいなさい」と言うママちゃまにナカノセは生返事を返した。ナカノセは翌朝にはまた消えており、ママちゃまの激憤を買い、病院へは私と福地先生が付き添いで行く事になった。
 三日間入院したが、熱が下がると、猫崎は勝手に病院を抜け出して帰ってきてしまい、これもまたママちゃまに叱られていた。ママちゃまは職員室で突っ伏していたが、泣いていたと思う。
 私は、ホームを卒業するに当り、鉄屑の始末に困った。国夫よろしく「あげる」と言ったら、金屑の入っている缶を猫崎が蹴っ飛ばしたことはよく覚えている。私はバカだ。そして、私達はもう終わりだ。この時のことをよく夢に見る。
 実家が見つかる前からであるが、私はナカノセと猫崎の二人の間柄に比して、自分のことをちょっと仲間外れだと思ってきた。今でもその思いは否めないが、別にそれでもいいと思っている。それこそ私には相応しい。
 意外だったのは「それは私でしょう」とナカノセが言ったことである。「ひょっとして、猫崎もそう思っていたのかもね」とナカノセは面白そうに笑う。
 少し前に、商店街のお祭りがあって、猫崎はそれを最後の思い出にして死んだ。
 小さな商店街のお祭りを見つけると、私は今でも辛い。
 もはや戦後ではない。なんてひどい言葉なのか。無数の雑誌が発刊されるのにその中に猫崎はいない。

 問題は黄金の自由こと「アウレア・リベルタス」の扱いだった。
 ママちゃまは言う。
「元子。これはナカノセに持たせようと思うけれど、いいわね」
「私はそれで構わない。だけどどうしてそれがいいと思うの?」
「理由はない。考えたって答えのないものはある」
 そう言ってママちゃまが、ベロア地の小さな宝石箱を開くと、アウレア・リベルタスは炎を上げて私達を鋭く睨んだ。
 私達は、どこかの段階で、黄金の自由に傷が入っていることに気付いていた。
「ナカノセ。お前は、一瞬で決めねばならないことがあることを知っておきなさい」
「……知ってるってば」
「おだまり。お前はこれを猫崎に押し付ければ、話が丸く収まるかもしれないと思っていたのでしょう? 甘いわ」






§ 二一 秋の原野

 そうして私は、アワダチソウの繁茂する秋の原野へと投げ出されたのだった。精霊バッタがキシキシと羽音を立てながら大きな円を描いて飛び去って行った。まだ青いオナモミが密集している。私はそれを毟り取って手の内に集めた。何の気なしに一山になるぐらい集めて家に帰ると、「お姉ちゃんは変なものばっか集めている」と弟に笑われた。学校の校庭の脇には大きな公孫樹の木があり、秋になると銀杏が鈴なりになって、鼻をつく匂いでいっぱいになる。思わず、ばっと駆け出して、落ちている銀杏を拾おうとすると、そんなもの拾わない方がいいとクラスの友人たちに咎められた。クルミやキノコも集めにいきたくていたのだが、そういうことはしない世界に私は来てしまった。学園祭や音楽祭の用意に追われて、瞬く間に時間が飛び去ってゆく。
 私は、あれ以来、時間に対する感覚がとても鋭くなった。ホームの皆で、河原の防波堤に行ってタニシを集める夢を見て、満足ゆくだけ集めて、帰ろうとするところで決まって目が覚めた。自分が家に帰るという段階になると、夢の中でさえ現実に引き戻されてしまい、どうにもならなかった。私は夢の中でこそ逡巡を繰り返していた。
 黒板にかっかと白墨を叩きつける音を耳にしながら、毎日ぽつねんとしていたが、私はある日、教師の誤訳から、少々哲学めいたことに気付いた。
 Time flies like an arrow.の訳は光陰矢の如しである。
 これを、うちの英語教師は「時は金なり」と、ありがちな誤訳をつけていたが、誰もその誤りを指摘せずに授業を終えたのである。
 時間をお金に交換することは自由であにせよ、時を金と見なすのは誤解ではないか。お金ではなく時間こそが人間にとっての真のリソースだ。
 資本主義は、儲けたお金を可能な限り再投資に回すことを志向する。即ち、資本主義とは強欲なのではなく、一種の禁欲主義なのだ――。この物言いはマックス・ウェーバーのものである。ただ、私は自分でこのことに気付いたと思う。ウェーバーはキリスト教のピューリタニズム、カルバニズム的禁欲主義を、そのまま、お金のための禁欲に摩り替えたと指摘するのである。
 鐚一文、休む間もなく戦わねばならない。かといって、堪えきれずに放蕩しようとも、それは散財にしかならないので、結局は、ちっとも面白くないのである。これではどっちを向いても雁字搦めではないか。帰る場所を知らぬ人間は、いかなるものを与えても帰ることが出来ないのだ。お金は飢えを凌ぐためには役立つが、そこから順番に役立たなくなってゆくのである。
 宗教的禁欲主義は名目上、天に宝を積むためであったが、その化けの皮をはいだ所で、救われるわけではない。私は自分の帰るべき場所を失ってしまったのかもしれないと憂鬱になった。
 私は不意に滝沢先生の人となりを思い出していた。何であの人があのようであるのかを察することが出来るぐらいには私も大人になっていた。あの人は単に風変わりな、音楽が得意なピエロとして、ホームに招かれていたわけではあるまい――。
 何の巡り会わせか、彼とは一度、桜木町の音楽堂で出会う機会があった。

 滝沢先生はかく言う。
「自由は、実の所、何でもすればいいということとは正反対の意味をもっていると思うよ。数ある自由な選択のうちから、幾つかの不自由を選び取ることでしか成立しえないのだから。自由が一番というのは案外奇妙なことで、まだ真にはその一番を決めていない。
 自由というのはそれ自体には意志としても、内容としても実がない。ケーキがある。ボールがある。ハムスターがある。どれか一つ選べるとすればそれは自由だけど、決めない限りは、ケーキでもなければボールでも、ハムスターでもない。選ばないことには何も起きないから、自由というのはそれ自体では人生を紡ぐことが出来ない。
 自由というのは原理から降りて、その本質を挫かないことには受け取れないということだ。これは自由に関する一つの盲点ということが言えると思う。僕は、常識というのは守らなければならないものではなく、知っていればいいものだと思っているのだけれど、常識が、選ぶということを許されないものであるのならば、それは法律だよ」
「……自由はそれ自体に価値があるわけではなく、選んだそれに価値があるということですか?」
「選んだその能動性に価値があるのではないか」
「……たとえ、それが痛みであったとしても?」
「貨幣は鋳造された自由である。この警句はドストエフスキー。自由を鉄屑に変えて、もう一度自由に戻す業は、案外素人技じゃないのではないかと思う」
 滝沢先生は続ける。
「今の若い子たちは『自分の好きにやらせてもらう』という発想が好きだけど、その根幹を築いた民主主義法制の本質というのは、JSミルの他者危害則だ。その意味は他人に危害を与えない限り好きなことをしてよい。であり、またの名を『愚行権』と呼ぶんだよ。
 民主主義とは国民が何もしないことを理由に逮捕、処罰してはいけないと言っているんであって、その前提から開始されるものだ。日本においては四七年の新憲法の施行から採用された。勤労の義務『すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。』これは法律ではなくて、憲法なんだけど、憲法解釈以前に民主主義憲法はまず『主権在民』だ。従わねばならないのは国家であって国民ではないという前提がある。法律はその逆に、国家が国民に命ずるものなんだね。
 そして、国民の三大義務である、教育・勤労・納税のうち教育と納税には『法律の定めるところにより』という前文がつくのだけど、勤労にはそれがなくて、勤労の権利と義務を負うと、自分で自分に向かって言ってるんだよ。憲法において、つまり、国民は、自分が自分に対して勤労の義務を持っているのであって、事実上、最初から義務が義務になりえないように設計されているんだ。
 よって、それはあくまで個人の矜持の問題としてしか問うことが出来ない。おまけに、新憲法の十八条にはかくある。『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。』つまりはこういうことだよ元子君。労働の義務は、稼ぐ義務じゃない。どうしても国民の義務が果たしたいという向きは、花に水でも撒いとけばいいんじゃないか?」
「はぁ……」
 滝沢先生が想像していた以上の左翼人士で、私は呆気にとられていた。
「競争社会と自己責任を肯定する者が、フーテンの肥やしになっているとすれば、それは、それこそ自己責任に過ぎなくなるという皮肉な状況になってしまうと思うんだよね。しかし、実態、ピンはねしてるのは僕ではないし、肥しという発想自体が、搾取を当然視した蓄財を肯定しており、それは社会正義に悖ると思うんだ」
「滝沢先生って、そんなこと考えていたんですね……」
「むしろ、君がそういう年頃になったんじゃない? 人は僕を見ると、いいとこのボンボンが、家の財産を後ろ盾に好き勝手に生きていると思うみたいなんだね。まあ、好き勝手やってるのは嘘ではないが――。自由というのは本能の枠の外に出ているのであるから、本来、反自然的で、人工的なものだ。ちょっとやな物言いではあるけど」
 滝沢先生は右手で遮断機の音を再現しながら、左手で救急車のサイレンが歪んで夜の街へ消えてゆく即興劇をしてみせる。
「……音楽みたいにですか?」
「そう。良かれ悪しかれ、それが僕の選んだ自由。でも実際のとこ、僕の生家はあまり裕福ではなくてね。ピアノなんてなかった。紙の上の鍵盤を十年ほど弾き続けてピアノ科に入ったんだが、僕は生まれてこの方、自分のピアノを持ったことがない。子供の頃は、やはり欲しくて仕方がなかったんだが」
「今は?」
「ピアノは、僕のものじゃないね」
 滝沢先生はそう呟くと、右手を振って、八十八鍵の外にある和音を力いっぱいに叩いてみせた。
 どんな音が聞こえるのだろうか。そこに本当に鍵盤があったところで、私には聞き分けられないのだろう。
 滝沢先生は自分は絶対音感はないと言うが、それは、十二音階を絶対視しないというだけの話であり、彼には幾つか好んで使う微妙な不協和音がある。調律がずれていると、それらの微分音をネタに楽曲を編み出すようなことをしていた。
 滝沢先生は音叉を集めるのが趣味で、音の鳴りそうな鉄屑や陶器片を見つけると、ひょいと拾い上げて、ねじ山のバカになった小さなネジまわしで叩いてみる。五歳頃からの習慣らしく、最盛期にはピアノの全鍵を超えるガラクタを千幾つもっていたという。共産主義者として最初に警察に掴って尋問を受けた十八歳の時にそれを全て失ったのだ。彼は指を折られることを脅され続けたが、終戦の日まで獄中で耐えた。
 滝沢先生は続ける。
「元子君。巨人の星って漫画あるだろう。あの漫画の絵を描いた人はね、野球をやったことがないんだ。プロットを考えた原作者は梶原一騎といって別にいるんだが、絵を担当した当人は、野球をしたことがない。バットもグローブも触ったこともなかったし、友達とも遊んだことがなかったんだよ」
「なんでですか?」
「貧しかったんだ。毎日子供の頃から仕事に明け暮れていた」
「どうして、それで、野球の漫画を描けたんですか? どうして、その人は漫画を描こうと思ったんですか?」
「それは、君たちの方が知っているんじゃないの?」
 猫崎は、最後、自分のいない未来を描こうと決意していたのだろう。
 私は猫崎の並々ならぬ覚悟に胸が一杯になった。当時の漫画は今とは比較にならないほどその社会的地位が低かった。彼女はそれを一切不問とした。自分の愛している世界を、一切の躊躇もなく愛していたのだ。そんなことが出来るなら、彼女はもう幸せであったとしか言いようがないのではないか。さもなくば、彼女は幸せになることではなくて、愛することを人生の目的としたのであろう。彼女の描くキャラクターは、最後、己の限界を自覚した死生観を秘め、否応なく強烈なドラマを紡ぎ出す存在へと育っていった。その最後の主人公の名をナカノセという。



 二一  * *

 夜。私は自分の部屋で新聞のコマ漫画を切り抜く習慣が出来た。大抵は家族の皆が寝静まってからの作業になる。我が家は日経新聞と毎日新聞をとっており、読売と朝日は父が会社から持って帰ってきた。父は毎日、四紙に目を通しており、且つそれ以外にも業界誌や趣味の本を読む習慣がある。私はそれらを掻き集めてきて、切り抜きの作業に勤しむ。彼は私にとっては父である以上に、インテリである。インテリというよりは、インテリ家庭に生を受けた存在であり、私の父の父はちょっとした経済学者だった。でも、彼が何のためにそんなに新聞を読みまくっているのかは解らない。自分でもよく解っていないのではないか。すると彼は私と同じ部類に入るだろう。滝沢先生や猫崎とは違う。「元子は漫画が好きだよね」とか、友達に言われても、私は自信をもって好きだなどとは言えない。
 私は、何故漫画を読んでいるのかと突きつけられたようで、私じゃなくて、私の友達が好きで、好きというか、それが彼女の人生だったのだというような訴えが、口元まで出かかるのだが、すると、それは、私が漫画を読んでいることの理由にはなりえない。
 ホームでは、朝日新聞の朝刊しかとっていなかったので特に手間でもなかったが、我が家に来てからは四紙分の漫画を切り抜くので忙しくなった。机の上には、私が来るよりも先にあったクレーンのような電気スタンドがある。青色で二本の鉄骨が伸びて、私の頭の上に、電球を向けている。武骨なスイッチを捻ると、オレンジ色の光が四畳半に大きな陰影を伸ばした。
 机の上に立ててあったトランペットの陰が、大きなゲジ虫のような影を投げているのに気付いた。
 何だこりゃと私は漫画のように首を傾げてみる。
 何だって、何だ。自分で始めたんじゃないか。私はそうやって、今度は冷淡な把握を試みる。
 どうしてこんなに奇妙な代物に見えてしまうのだろう――。
 私は私の「我が家」に来てからというもの、最初は何の覚悟もなしに色々と手に入れるのだが、その後で意味が解らなくなるということを、幾たびも経験していた。
 学校の友達に引っ張られて吹奏楽部に入ると、あっさり自分用のトランペットが手に入り、母からはピアノ教室にも通うように熱心に勧められた。ピアノを習っていることは、ママちゃまにも、滝沢先生にも言っていない。新たに生活を始めるにあたり、服も相当買ってもらった。母は十余年の溝を一気に埋めようとするかのように、私に何でも買い与えてくれた。
 衣紋掛けが部屋の四方を埋め尽くし、それらは暫くの間、宛がわれた部屋の押入れに収まりきらないほどであった。
 カーテンの隙間から窓の外を眺めると、暗闇の中に砂金を撒いたような一帯があり、街灯に照らし出されて、光を放っていた。セイタカアワダチソウ。戦後自由主義の浸透と足並を揃えて私の住んだ団地を一気に取り囲んでいった。

 私は喉の奥で呟く。
「黄金の自由よ私を導け、そのために私は、生涯を捧げよう」

 とぼとぼと机まで戻ってくると、広げた新聞の中に見覚えのある人物がいることにはたと気づいた。
 この時の驚きは、トランペットが部屋にあることの驚きとは違った。よく知らないものじゃなくて、よく知っているものだが、今ではずいぶん遠のいていたものだった。
 ああ、この人、どうなったのだろう? 
 さっきまで紙面にはいなかったはずなのに、顕現したように思えた瞬間、私は物語に絡め取られることを避けられなかった。
 ハサミを開いて、その小さな事実を切り抜こうとして私は固まっていた。この人は漫画じゃない。本当に実在するのだ。
 記事には「ハムスター王国独立の父イーサー・エルク」とあった。この人こそはイーサー先生だ。小学二年生の時に別れてそれっきりだ。
 この人は近いうちに死ぬ。若かりし日にママちゃまはそう予言したが、彼は祖国の独立戦争を導き、そして生き延びた。
 猫崎。猫崎だって実在したのに。なんで死ななければならなかった。自分のいない未来が、彼女にはかなり早い時期から見えていた。砂川の頃にはもう彼女は自分の結末に勘付いていたに違いないのだ。
 十五歳で終わる生涯を決意するには、どうあるべきかを、一人で決めねばならないのだ。
 私は、自分がその未来に生きていることを思って絶句した。沸沸と暗い恐怖が込上げてきて、もう一度窓の外を見る。
 黄金の自由よ私を導け、そのために――。
 そのために? そのためにって何だろう。よく考えてみると、よく解らない言葉だ。
「そのために」が、自由にかかっているものと思っていたが、導けにかかっている。何に導くのか。黄金の自由は頼んでいる相手なんだから、私を何に導いているのかはわからない。
 ナカノセは何を思って、こんな仰々しいセリフを吐いた? 
 ナカノセにとってこの問題は私の比ではない。彼女は猫崎の描き出す漫画の最後の主人公だ。
 ナカノセに報せないといけない。イーサー先生が新聞に載っている。この人は私たちの物語の背後にあり続けた。このまま戻ってこないなんてことがあるわけない。私は、この切り抜きを手紙に貼り付けて、ナカノセ宛てに送ることにした。
 記事は小さい。イーサー先生がソ連の核実験に抗議する内容で、新聞は読売だった。同日の朝日の新聞を捜してみても載ってはおらず、アメリカの核実験に抗議する社説が大々的に載っていた。
 十五歳の私は、新聞は平然と自分の載せたい内容の記事しか扱っていないということに気付いた。
 ふと、ナカノセがイーサー先生と合流する光景が思い浮かぶ。万一、そんなことになったら、どうなる――? そう思い到った時には、封筒は私の指先から離れて、郵便ポストの底に落ちていた。
 既に私はナカノセの残りのプロットが見えていた気もする。万一死ぬということが、彼女をしてありうるのだろうか。現実の話として、彼女にこの新聞の切れ端を送ることは、決していいことではなかった。危険をそそのかしているようなものではないか。
 だが、これは彼女のものなのだ。命より大切なものがある。あるいは、命よりより大切なものはない。私は口先でどのようなことを言おうとも、この二律背反のテーマのどちらかを彼女が選び取る時に、私はその戦いに反対しないと予感していた。

 一週間後に届いたナカノセの手紙は、シャチホコばった字で、右に思いっきり傾いて、米軍の洋上核実験の追跡調査についてゆくことになった旨が記されている。イーサー先生とは連絡がとれないかどうか、試しているところだという。もちろん、保安学校には内緒である。学校と名のつくところではどこも学生達の政治的な活動には神経を尖らせていた。保安学校ならば尚更のことであっただろう。思想調査は普通の学校よりも入念であるが、点数足りているのに、児童擁護施設出身ということで下手に落とせば、差別問題になりかねない。火中の栗を拾うのに長ずるが如く、ナカノセは受かるべくして受かったと言える。
 第五福竜丸が犠牲となった五四年のキャッスル作戦以後、米軍は同、太平洋核実験場において、五六年のレッドウィング作戦を、五八年にはハード・タックⅠ作戦を行った。
 ナカノセの加わった調査は最後のハード・タックⅠの事後調査であり、まだ学生であるナカノセが調査に参加出来た経緯というのは、たまたまの幸運によるものであった。
 どうやら、日本政府は某科学者に内偵をつけたかったようなのであるが、某科学者こと、犬吠埼先生はこれを察知、にべもなく拒否した。この調査クルーズはキャッスル作戦調査時の研究者たちの主導であり、報道枠は、ますます左派陣営で固められており、日本政府の入り込む余地はなかった。
 以後、どういう経緯だったのか詳しくは知らないが、よりによって若干十六歳、ナカノセが「内偵役」に選出された。
 ナカノセはその当初においては、保安学校の教官たちからの見覚えが良く、同期の中でも目立った存在だったと思われる。
 高校一年の春先に貰った手札版のモノクロ写真では、桜を背景にナカノセが初々しく敬礼していた。オーバー・サイズの制服に身を包んで、さももっともらしく畏まっているこの少女が後後にやらかすことを考えると、私は一読者として胸が弾む。
 この写真は広報のパンフレットに載ったようで、ナカノセをマスコット的なキャラクターとして使いたい雰囲気だが、彼女はとんでもない食わせ物だった。
 私の手元には、この頃のナカノセの様子を窺い知ることの出来る写真がもう一枚ある。それは新年度早々の消火訓練である。ダミーの巡視艇の船先で燃え上がっている炎を四人一組の一斉放水で消しにかかる。訓練とは言え、身の丈を越えるほどの火柱を前にすれば、目も開けられぬほどの熱気を浴びるので、大変に苦しく危険を伴うものであるという。
 この写真を撮った朝日新聞の特派員のTというのが、ナカノセの知り合いで、プロ研の石倉さんの友人で元々知り合いだった。この伝手でもって、数少ない学生枠に潜り込んだようである。
 いかに推薦があっても、犬吠埼先生が許可しないことには、ナカノセとて採用されはしなかったであろうが、以後は犬吠埼先生の直々の指名であったという。
 一月に及ぶ研究クルーズで、船の中で部屋割りが同じだった犬吠埼博士は、二十代そこそこで、地球物理学や、大気組成の研究などで重要な論文を書き上げた才嬢である。新聞や一般誌などでも見る名前で、その発言は国内の核問題に対してかなり影響力があった。

 犬吠埼先生は、米軍や内閣調査室の息のかかった人選に非常に警戒しており、押し切られて「胡散臭い奴ら」に同室されるぐらいならばと、あえて学生を選んだようである。海上保安局側でも、当初はナカノセ以外の女性海上保安官を宛がう予定でいたが、犬吠埼側が学生に限ると言ってきかなかった。
 ナカノセの方の認識としては、稀代の女学を一杯六〇円の学食のラーメンで釣った。それが決め手だったと思っている。俄には信じ難い話ではあるが、知る限り、これは出鱈目とも言い切れない。
 ナカノセの背後には誰もいなかったからである。ナカノセはその究極において一介のナカノセとしてしか動かない。きっとそれが犬吠埼先生をして認めることの出来る人間の条件だったのだろう。ナカノセはこの時、核廃絶の署名を八百人ほど集めてはいたが、ある意味その程度である。国民的運動となった反核運動グループからは一線を画している。自ら率いている組織のこともあっさり話したが、彼女の率いる橄欖会は上位組織をもたなかった。
 そして犬吠埼先生も、ぼんやりしているようで、案外に一匹狼、否、野良犬めいた美学があった。もっとも、このめぐり合わせは、犬吠埼先生にとっては、人生の上でのとんでもない誤算になったのではあるが。

 犬吠埼先生――犬吠埼の置かれていた状況をもう少し説明する必要がある。犬吠埼は、その上司にあたる猿橋らと同じ研究グループに在籍していた人物である。猿橋勝子教授はことの発端となった第五福竜丸事件の当時において、日米における測定値の差を海流の解析によって説明した研究者であるが、海水で希釈されるので放射能汚染の心配はないとして核実験の安全性を主張していたアメリカを筆頭とした科学者らからは猿橋らの測定は誤りだとして批判が起こった。
 結論としては猿橋らの測定が正しかったのであるが、その後、反米運動に繋がる批判を掻き消そうと米国主導で日本国内に報道管制がかけられた。新聞もテレビもソ連の日本海への核廃棄物の投下や、北海道内戦の報道が中心となって、相対的にアメリカの核実験の批判は一時トーン・ダウンした。
 実際の影響において、ビキニ環礁の近隣海域は、明らかに憂慮すべき汚染実体があり、死の灰を直接に浴びた者達に死者が続出しているわけで、ソ連の核廃棄物投下よりも、はるかに重大な事件であった。
 公平な報道になっていないことに猿橋ら研究グループは不信感を覚えており、再三の米軍の核実験をきっかけとして犬吠埼を中心に再調査をしようとする動きがあったのである。
 また、犬吠埼には個人的な秘密があった。彼の父親である犬吠埼正樹もまた、戦直後、長崎広島の核汚染状況と健康被害に関して、米軍や日本政府から口止めを迫られ、資料の破棄を要求されていたのであるが、その後過労死している。戦直後の要人暗殺事件の相次いだ世相において、自分の父親も暗殺されたのではないかと彼女は疑っていた。
 核に関する世論はこのように各々の国家規模の思惑が入り乱れていたのであるが、更にここに追い討ちをかけるように、中ソが競い合うようにして核実験を決行した。これが、当時の日本の核議論を根底から揺るがす事態となり、また、以後の世界情勢に激震を与えることになったのであるが、この話はまた後で述べることにする。






§ 二二 ママちゃまの失踪

 その後の状況であるが、ママちゃまが消息を絶った。猫崎が世を去ってから、およそ二年。ママちゃまから一度だけ「心配しなくいい」との電話がホームに来たようだが、何故、突然失踪したのかも告げられない。解ったことはその身が無事ということだけだった。
 ママちゃまは猫崎を死に追いやった原爆症を巡って日米両政府を相手取って訴訟を起こしている最中のことである。従軍看護婦の戦後保障裁判にも肩入れせざるをえない状況で、ママちゃまは、ホームの第一線から退いている。
 私としてはナカノセにせよ、ママちゃまにせよ、真相を告げようとしないことが不満だった。当時、社会的に何らかの立場を表明するのであれば、安保闘争の話とは無関係ではいられなかったのであるが、彼女たちは、私がそれに巻き込まれることを望んでいなかった。
 ホームの生徒たちは、報道取材や物見の野次馬を避けるために、本家の大磯に引越しており、私たちの町田分園の方は少々の職員と、手伝いをしに来ている何人かの生徒が残っているのみで、閑散としていた。
 私は、ママちゃまが消えた旨、福地先生から連絡を受けてホームへと飛んで戻った。事情を読み込む間もなく、休日には大磯で子供のお守と炊事洗濯をすることになった。ナカノセと連絡が取れたのは、それから一週間後である。
 ホームに戻って来たナカノセの顔は、鉄条網を潜った時に作ったとの擦り傷。両膝には赤チンのこびり付いた包帯が巻いてあった。ナカノセは北海道戦線から帰ったばかりだった。
 ナカノセはついに実戦に参加していた。北海道内戦は学生が中心となって戦っていたが、もう学生運動ではない。国際的には紛争と報道されていた。渡航制限はあるものの、青森県と北海道を隔てる津軽海峡は最短二十キロもない。その気になれば無免許で乗れる二馬力ボートで越境出来てしまう。中には海峡を泳ぎきって参戦するという猛者もいた。
 本土の学生たちは北海道で戦ってきたというと、これ以上ないほど箔がついて、自分の属しているセクト内で幹部になるというのが慣わしとなっていた。不思議とその戦果の程は問われない。
 ナカノセは二週間の停学処分中で、下手をすると保安学校を除名される危機とのことである。
 ナカノセは言う。
「でも、北海道に渡ったからじゃない。うちの応援団が先月の代々木のデモで無茶して全員処分受けたから。私は連座して停学してた」
「まさかその間に、北海道に行ったっていうの?」
「そう。そしたら、バレた」
 なんてことだ。
 それでもナカノセは相変わらずの調子で、どこ吹く風である。
「応援団の奴らったら、もう少し骨のある連中だと思ってたのに。除籍ちらつかされたら、一発でゲロりやがって。 ……あんたは元気にやってんの?」
「元気よ。ナカノセほどじゃないけど……。なんであんたはいっつも生傷が絶えないのよ。私はあなたの命が心配よ」
 私がどれだけ心配しようと、ナカノセは笑うだけである。
「それより、ママちゃまはどこ行ってしまったのよ?」
「ナカノセこそ何か知らないの?」
 知るべくもない……。ナカノセはママちゃまからは自立しようとしていたので、あるいは単に生まれいずる性分たる放浪癖の延長だったか、何にせよホームにはあまり連絡を取っていない様子だった。
 ナカノセは「はい、お土産」と言って、マルセイのひとつ鍋モナカをポケットから一個取り出して私に寄越した。

 それから、ごく当然の成り行きで職員室に上がったのだ。誰もいない部屋の中には黄土色の西日が差し込んでいた。私のホームはこんなところだったか。えもいわれぬ違和感を覚えた。閑散としており、先生たちの机の上をごった返す本やバインダーがない。窓の外には小さい頃、散々水遊びをした角柱の水道がぽつねんとしていた。
 私達のホームはこんなに寂しい所だったか。私はふと、イーサー先生の言葉を思い出す。悲しい世界でも愛せる人間にならなければならないのだったなと。猫崎は随分早く逝ってしまったが、私とてあっという間だ。自分は何で生きてるんだろうと、愚図な世迷いごとを思うようになり始めていた。
 それが私の孤児という出自によるものではなく、凡庸な思春期のご多分であると認めるまでには少々時間がかかった。
 私とナカノセは、職員室の奥の方まで進み、振り返ったあたりで、ほぼ同時にそれを見つけた。この状況は長らく何故だかよく解らなかったのだが、三人称視点で思い返されるのである。自分の視点を覚えていない。そのかわり、私とナカノセがどこからか見られているような図で何度も思い返されて、それが何であるのかが解った時、私は全身に鳥肌が立った。
 その手帳が、どうしてそこに置いてあったのかということに気が回ったのも後のことだった。手帳の中に記されている言葉の一つ一つが、不協和音となって頭の中に飛び込んでくる。
 最初に現れたのは「横浜北子」あるいはただ「北子」だった。これで人名らしい。猫崎の墓参りに「北子」が来た日のことが書いてあったと思う。内容をきちんと確認する前にこの手帳は、どこかのタイミングで消えてしまったのであるが、私たちの背後に何かがあったことはすぐに解った。経歴を見ると、同じ時、同じ場所にその子はいたことになっていた。
「誰これ」
 かすれた西日が差す薄暗がりの中で、ナカノセが私の方を向いた。
 ナカノセの声が部屋の壁にぶつかって、かすかに跳ね返る。
「灯台局って何?」
 ナカノセのぶっきらぼうな声が私の耳朶を打つ。そこには灯台局という単語が何回も出てくる。どこかで微かに聞いたことがある気もした。
 私たちの背後にある世界のことを誤魔化しきれない。
 私たちを取り囲んでいる園の外側が、どうなっているのかはずっと曖昧模糊としていたが、在ることだけはもはや確実だった。私たちがホームで妖精のように現れたという暗黙の共感覚や共同体としての意識を保障する沢山の話が、全部なかったことになる。そんな予感がした。
 ホームが自分の家であっても、自分の家ではありえないこと。血が、出自を、絶対的なものを約束していないということを、常にどこかで突きつけられてきた気もする。
 猫崎は、特にそれに敏感だったのだろう。猫崎はそれをどうにかしようとずっと悩み続けていた。
「元子。誰か来る」
 ナカノセが私の袖を引っ張ると、黄土色に照り返す床の上で自分の影が頼りなく撓るのが見えた。

 私たちが羽賀少佐と出会ったのはこの時である。ママちゃまの昔話に出てくるだけだった件の羽賀少佐である。
 ママちゃまが消えたことを知って彼と、もう一人、その戦友と思しき男の人が駆けつけていた。羽賀少佐はグレーの背広姿であった。頬の肉が落ちている。眼鏡の向こうで眼光だけが鋭く浮かび上がり不穏。もう一人の小沢という中肉中背の中年男はPXの払下げのような革のジャンバーを着込んでおり、肌は日に焼けて浅黒かった。ひな祭りに甘酒を振舞ってくれる酒屋の小父さんと少し似ていると思ったが、彼のように気安く笑わないことは一目してわかる。公安や刑事と同じ風情の二人組みだった。
 羽賀は言う。
「なんだ、なにも知らんのか。ここの生徒なんだろ」
 私はがらんとした抜け殻のようになっているホームを見回していた。大事が起きそうだと直観して、私は動揺を悟られまいと努めて黙っていた。私たちが一緒にいる時は大抵ナカノセがよその人と応対する。常にそれでは情けないと、自分なりの応対をしてみようと試みるも、どうしても相手の方がナカノセに向かって話す。そういうのは恒例であった。
 二三質問して、瞬く間に話が済んでしまうと、彼らは「じゃあな」と踵を返した。
「どこへ行くのよ。灯台局に行くんでしょ?」
 ナカノセが冷えた声色で訊ねると、羽賀と小沢はピクっと足を止めて、すぐに振り返った。
「学生運動をやっているのか」
 羽賀は擦り傷だらけのナカノセに向かって、あらためて胡散くさげに視線を向ける。
 ナカノセはそれを睨み返す。
「あんたは何をやっている人。刑事さん?」
「煙草屋だ」
「たばこや?」
 ナカノセは、どうせどっかの犬なんだろうと意地悪そうに目を細め、口の端は挑発していた。
「何だ。文句あるのか」
「煙草屋さんって暇なの?」
 ナカノセはそんなことを言った。
「失敬な子だね」
「思い当たる節は。灯台局ってのは何」
 ナカノセの尋問口調は恐い。突いて出る時の素早さと、恐喝的な視線はある種の悪しき才能をさえ感じさせる。
 思わぬ鋭さに羽賀と小沢は互いに目配せして、妙な笑い方をした。だが、その目はやはり笑ってはいない。
「お前たちは、灯台を知っているのか」
 知らない。知るか。そんなものは全然知らなかった。私がこの時に思い返したのは、小学校の時、毎年夏の遠足で行った横須賀の観音崎灯台だ。たわいもない思い出だ。それが何か妙な形でひっくり返ろうとしている。
 ナカノセと羽賀との間で探り合うような応対があって、羽賀の言う灯台というのが岬の灯台とは違うことが端々から感じられた。ナカノセの瞳がますます研ぎ済まされてゆくのが解る。
 羽賀はナカノセがまるっきり何も知らない様子なのに、灯台局の名だけは知っていることが気に食わない様子だった。彼は部屋の中を見渡した挙句、鋭い直観で、ナカノセの鞄を見た。
「お前、ここで物色していたな」
 どんぴしゃである。しかしナカノセは、動じない。
「物色も何も、ほとんどモノがないじゃない?」
 羽賀は、どう思うかと相棒の小沢の顔色を窺った。
 ナカノセはそれを遮る。
「今大磯に引越している最中で、ただでさえ忙しいのよ! 灯台局にママちゃまは軟禁されているの? それが解らないのなら、」
「灯台局、あるいは――」
「灯台局っていうのはどこにあるのよ!」
「出雲だ」
 出雲ってどこだとナカノセは私にアンチョコを求める。
 鳥取県、違う、島根県か……。やっぱり鳥取か……。ナカノセと違って凡庸な高校二年生でしかない私にとって、大阪以西は地の果てだった。
「今から行く。案内して」
「もう見に行った。だが既に閉鎖されていた。移転先は調査中だが、もう一箇所気になるところがある」
「私も行く」
「必要ない。帰れ」
 その後、何かの弾みでほとんど口論のようになって、ナカノセのにじり寄る様は、ただものではなかった。
 私は、何でさっき二人の男が笑ったのか解った。きっと、ナカノセの中にママちゃまを見たのだ。若い頃のママちゃまは、こうやって、私たちを守ってくれた。
 私は春休みが終わって学校が始まってしまったので、後のことはホームの先生たちと羽賀少佐に任せることにした。ナカノセは謹慎期間が解けても保安学校に戻らず、羽賀少佐たちと行動を共にすることにした。
 解ったことは、ママちゃまは、戦後灯台局というところに勤めていて、その灯台局というのは、件の沖ノ島が局長を勤めていたということだった。沖ノ島は聞き馴染みのある名だ。ママちゃまの話、そして猫崎の漫画に登場する仙女、あるいは預言者。
 沖ノ島は、長崎の修道会の奨学金を得て戦前に帝国女子医専を首席で卒業した才嬢で、女だてら一代で開業医である。その後の足跡は、例の如く東アジアでの紅卍会を間借りした布教活動であるが、戦中は医師免許を剥奪されている。その身分を回復したのは戦後のことで、暫くのあいだ福岡港の引き揚げ者の療養施設で働いていた。それから間もなくしてGHQの調査部に「保護」された。ママちゃまが、彼女との縁で灯台局に入ったのも間違いないであろう。
 私は戦中のハムスター王国の話は一通り知っているつもりである。そしてこのホームの設立の経緯も知っているはずだった。ただ、よくよく考えてみると、私の遡れる記憶は辛うじて三歳ぐらいまでで、ママちゃまが日本に帰国して以後の動きに関しては、あまり聞いたことがない。ママちゃまが戦直後に灯台局にいたという三年間というのはすっぽりと抜け落ちているのだった。



 二二  * *

 ナカノセは羽賀少佐に言われた通り東京駅の丸の内北口で待っていたが、彼らはやって来た途端、予定変更だとナカノセを駅から離れた駐車場へと連れていった。
「どこから調べるの? 他に当てがあるの?」
「沖ノ島だ」
「沖ノ島はどこにいるのよ」
「福岡沖合いの玄海灘にそういう島がある。一般の立ち入りは出来ない。地図から消えている閉鎖地域だ。あそこは戦前までは国防上の拠点だった。今でも変らないがな」
「何よそれ? 沖ノ島が沖ノ島にいるっていうの?」
「ただの事実だ。今はどうなってるか解らないが、戦直後には国防高等研究所管轄の放送局があった。高等研は灯台局と関わりがあったから、人が行き来していた。沖ノ島は高等研に飛ばされて、その後連絡を絶っている」
「沖ノ島って何者なの。何でそんなところに」
「かつて日本軍が台湾航路上の島嶼間通信に伝書鳩を使う計画を立てていたことがある。海底ケーブルの建設によって立ち消えになったが、沖ノ島は何故かこのことを知っていて、民間でその計画を実現させた。あの島は暫くの間、伝書鳩の検閲拠点だった」
 羽賀は終始、どこか遠くを見据えていた。ナカノセはその瞳を注意深く覗きこむ。
「ママちゃまもそこにいるのね?」
「確証はない。あいつが広島を突っついているのはそう問題ではないが、灯台に矛先を向けるとなれば、大目には見てもらえないだろうな」
「灯台って何なの? 灯台業務なら海保の仕事じゃない」
 ナカノセが黒いバンの後部席に滑り込むと、そのジャケットの内ポケットから拳銃が覗いた。僅か一瞬のことだったが、羽賀はその瞬間を見逃さなかった。
「おいお前」
「何よ」
「ピストルだろう。どこでそんなもんを手に入れたんだ」
「通販」
 ナカノセは一瞬だけ拳銃を取り出して見せびらかすと、すぐに内ポケットに戻した。
「何が通販だ。本物じゃないか」
 運転席の男は、苛ついた表情で後ろの様子を窺った。助手席には先日の小沢さんがいたが、彼は疲労困憊という様子で鼾をたてて眠っていた。
「なんだ。美保は何を育てているんだ?」
「ほら、こっち寄越せバカ野郎!」
 羽賀がナカノセを押さえ込もうとするも、ナカノセは反射的にその指を掴んで押し返す。
「何であんたに寄越さなきゃなんないのよ、幾らしたと思ってるのよ!」
 羽賀はしかめっ面で首を振る。
「……活動はまあいい。お前達でも一応の考えがあるんだろう。だが、銃だけはやめとけ。捕まってでもみろ。将来を棒に振るぞ……」
 羽賀はうんざりしたようにそっぽを向いて、窓の外を見る。運転席の男は相変わらずの表情で、ナカノセを鋭く睨みつけながら羽賀の言葉を継いだ。
「お前、撃ったことは?」
「……ある」
「何撃った。犬か」
「いぬぅ? 人以外に撃つものがあんの?」
 男は後部座席に向かって、迷惑そうな調子でぼやく。
「羽賀さんよ、嫌なの拾っちまったな」
 ナカノセもフンとそっぽを向く。
「……マトしか撃ったことないわよ」
 車窓からは秋が見えた。黄金の穂を揺らすアワダチソウの中に鉄塔が並び、羽賀とナカノセを乗せた車が高架橋を渡ると電線が波打って背後へと走り去ってゆく。
 羽賀はナカノセから手を離して、尋問を続ける。
「マトって何だ。保安学校の訓練か」
「そうよ」
 羽賀は紙袋から齧りかけのアンパンを抜き去ると、紙袋の方をナカノセに渡す。自分の分もあると思ったナカノセは、空の紙袋を見て不服そうな表情で羽賀がアンパンを食い尽くすのを見ていた。
「包んでおけ。そんなもん持ってると、いずれ人を撃つぞ」
「大丈夫よ」
「みんなそう思ってて撃っちまうんだよ。ヤクザ撃つぐらいなら娑婆に出て来れるが、人間撃つと、下手すりゃ一発で死刑だぞ」
「私はまだ未成年だし」
 ナカノセは抜け抜けとそう答えた。
「まったく。余計なことになった」
 羽賀は、パトカーと鉢合わせにならないことを願いつつ、溜息をついた。それから、手のパン屑を払いながら、改めてナカノセの旋毛から爪先までを見回す。
「本当にまずいんだぞ。自覚あるのか」
「大丈夫だって。私、そこまでバカじゃないもん」
「どこで手に入れた?」
「警察に垂れ込んだら……」
「するかバカ。面倒は御免なんだ」
「面倒に巻き込んでいるのはどっちなのよ!」
「いいから言え! どこで手に入れた。言わないなら降ろすぞ!」
「……歌舞伎町。ヤッちゃんが道で寝んねしてたから借りただけよ」
「それは、新聞に載ったぞ」
「ええ、載ったわね」
「お前が殺ったのか?」
「ちがう。何か知らないけど道で血へど吐いて寝てたから、銃は引っこ抜いておいた。警察に捕まらないようにしてあげたんだから、少しは感謝して欲しい。ヤクザって市民表彰とかしてないの?」
「バカな事言ってるんじゃない。何か勘違いしているようだが、俺たちはヤクザじゃないぞ。だいたい、お前はどうして歌舞伎町なんかにいた?」
「警察みたいなこと言わないでよね。尋問する気なの?」
「先は長い。話さないんなら降ろすぞ。怪しい奴とは一緒には行動出来んからな」
「ショッピングよ」
「ショッピングだ?」
「私はただ、ウィンドー・ショッピングを楽しんでただけよ」
 ナカノセは努めてモガぶったことを言ってみせる。
「ウィン、歌舞伎町でショッピングたら……、何買うんだよお前」
「ルイ・ビトンの、ドレスとか」
「ルイ・ビトンって、財布のメーカーだぞ?」
「うるさいわね。そんなの知ってるわよ!」
 革命家として化ける直前のナカノセが歌舞伎町を拠点に実際に何をしていたのかは知らないが、何故そこにいたのかは解る。歌舞伎町は難物件は多いものの、その分のディスカウントが大きい。また審査が簡単で誰でも入れた。犯罪件数は全国平均の四十倍。凶悪犯罪に到っては二百倍という。当時は大太刀を背負った物騒なお兄さんや、頬傷のある典型的な極道さまが肩で風を切って歩いていた。数十メートル歩くたびに声をかけてくるポン引きも五月蝿い。しかし新宿駅まで徒歩十分圏内。三越も伊勢丹もある。山手線沿線は学生運動の拠点校も多かった。連中さえ問題とならなければ、非常に住みやすい街でもある。というより、ナカノセがそういう連中の範疇だ。新宿の伊勢丹は昭和二八年(一九五三年)まで、GHQの第六四工兵基地測量大隊が使っていた。解放されて以後、その一帯は東洋一の繁華街を誇った。威圧感のあるゴシック建築は、新宿のランドマークとして今に至るまで鎮座し続けている――。
 ナカノセの足取りは上海の話を彷彿とさせるものがある。彼女の生き様はママちゃまとよく似ていた。






§ 二三 海の正倉院

 その週のこと、私は秋分の日と日曜日を挟んで高校の創立記念日で、三連休になることに気付いた。私は学校の友達の家に泊まると家族に嘘をついて、横浜から寝台特急に乗り込み、ナカノセたちのいる出雲の旅館で落ち合うことにした。ナカノセが旅館からかけてきた電話一本で、ろくに場所も解らないのに飛び出していったのだ。私にしては決断が早く大胆な行動だった。
 宿泊費や食費は羽賀さんに出してもらったが、旅費だけでも当時高校二年生の私にはばかにならない。長距離往復で一割引きしたところに、学割で二割引き、二等車の三段ベッドの一番上で、切り詰めて六千円ぐらいだった。帰路は、思いも寄らない展開になって、生まれて初めて飛行機に乗ることになった。よって、帰りの切符は無駄になった。払い戻しが出来ることを知らなくて、損をした。
 学校の友達ではなくナカノセと会っているということがばれると、お母さんにはいい顔をされない。学生運動に参加しているのではないかと勘違いされるのだ。
 家族にはママちゃまが消えたことは、忙しくて連絡が取れないでいる程度の話と思われていたので、そのままにしておいた。ママちゃまが何者かに拉致されたやもしれないことや、何かホーム設立に関わる只ならぬ話が出てきてしまったことに関しては、知られるわけにはいかない気がした。
 後でばれたら叱られると思って少々悩んだが、一つ妙案があった。私はその頃、学校の友人の一人にちょっとした貸しがあった。その子はマセた感じの子で、大学生の彼氏と夜遊びしたり、旅行をしたりと、いわゆる「不純異性交遊」をしていた。私はそのアリバイ工作のためにたびたび片棒を担がされていた。
 友人にホームのことを話す気にはなれず、私は全てを伏せて、彼女に頼んだ。
 気は進まなかったものの「まだ誰にも言わないで」 一つだけ聞かせて。片思いなの? 「……解らない」等等、自分でも柄じゃないなと思いつつも乙女ぶった応対をしていると、彼女は色恋沙汰の話を神聖視している関係で「絶対言わないわ」とえらい乗り気で請け負ってくれて、あっさり嘘を作ることが出来た。彼女にとっては現実味のある話だったようで、私のような野暮天が禁断の恋に手を染めているという、話が罷り通ってしまった。
 すると、これは失恋も演じないといけないのか?
 私は正直者なので、否、横着者なので、どうにも取り繕いというのが苦手だ。
 その後、日常に戻されて、自分の家族なのに言えないことってあるんだと、彼女にぼやくと「そんなの当たり前じゃん。元子だけじゃないよ!」と言われた。
 彼女は物知り顔で、細かいことを根掘り葉掘りするでもなく、失恋した私を慰めてくれた。
 自分が普通の距離感で社会に接しているのか、それとも私は結局どこかで線を引いているのか、自分でもよく解らない。目の前の事なのに、正味の所は確かめようがない。それこそ私だけではないという話なのだろう。

 旅館のガラス戸を押して出てきたナカノセは渋い表情をしていた。明日には沖ノ島まで行く予定だと言う。
 私はナカノセに訊ねる。
「これまでに何か進展はあったの?」
「まだ解らないけど、たぶん面倒な話になると思う――」
 私もそう思って飛び出してきた。ナカノセが面倒と思うからには、きっとよほどのことに違いないと腹をくくった。そういう話が飛び出してきてもおかしくない。私たちのホームはどうしても、政治的に翻弄されやすい立ち位置にあった。今までは自分が守られている側だったこともあって、そこまで深く考えたことはなかったが、今度何かあったならば、何があっても動こうと思っていた。私に出来ることは知れている。それ以前の話として、私は、ママちゃまやナカノセのように躊躇なく動けるのかが個人的な課題でもあった。ナカノセは近いうちに、私の声の届かないところまで行ってしまう。そういう気配を感じてもいた。ホームの存立もそう長くはない。そうなったらママちゃまとも更に距離が出来るだろう。猫崎が死んだこと以上に、猫崎と視線を合わせることが出来なかったことこそを私は悔やんでいる。あの時、ナカノセはその瞳を一つ失ったが、後悔はしていまい。
 私は思い返す。「砂川漫画戦記」を描くにあたり、猫崎と私は面白い物語の黄金律を探って、議論を重ねていた。一緒に漫画を描くはずだったのに、ナカノセがいつも手伝わないことを猫崎と私は、その当初不満としていた。三人で行ったのだから平等に出番を描くべきだと私は思っていた。猫崎は猫崎で、自分がほとんどを描くのだから、主役は自分にすべきだと思っていた。しかし、猫崎の才能は私の凡才ばかりか、彼女のエゴさえも許しはしなかった。出来上がってみれば「主人公がその話の主人公であることに疑いの余地がないこと」という発見に私たちは同意せざるをえなかったのである。私と猫崎はナカノセを主人公に選び、ナカノセもそれを受け入れた。猫崎の天才は既にこの時には自分の欲望や体裁を超えてしまっていた。

 その夜、夕食の時間になっても羽賀さんたちは戻ってこなかった。ナカノセは二人で四人前食べるから、そのまま寄越してほしいと言うも、仲居さんは「そんなの無理よぉ」と口を窄めていた。決まりで出来ないのではなく、私たち二人でそんなに食べるのは出来ないと言ったのだった。ナカノセはそれならばと、時価のイセエビを注文しようとして、ついには、ピシャリと額を叩かれていた。
 広い卓袱台でナカノセと向き合って、地のものの鯛や烏賊の華々しい盛り合わせを無心に突っ突いていると、もう一度仲居さんがやって来て連絡があった。羽賀さんたちは今日明日は戻れないかもしれないから、宿代を先払いしておいてくれと言われ、金庫の封筒からお金を取り出して一階フロントに向かう。
 結局、零時を回っても、羽賀さんたちは戻ってこなかった。
 ナカノセは気が立っているらしく、浴衣に着替えようともしない。何か一声あったらすぐにでも飛び出して行ってしまいそうだった。そんなだったから、私も夜通し学校の制服のままだった。私はだいぶ疲れていたので、その日は温泉にも浸かれなかった。
 深夜一時半頃に一回目を覚まして、歯を磨かなければと思って布団から這い出ると、ナカノセは、広縁のテーブルに置いたラジオに耳を澄ませながら、自作の天気図を覗き込んでいた。
 ナカノセが半暗がりの向こうから話しかけてくる。
「元子。明日チェックアウトまでに羽賀さんが帰ってこなかったら、私たちだけでも沖ノ島まで行くわよ」
「どうやって?」
「漁船をつかまえる」
 勝手にそんなことしていいのかとか、そういう発想はナカノセにはない。
「でも漁船って、そんなこと出来るの?」
 漁師の朝は早い――。
「何とかする。明日も晴れるって」
 寝息を立てているナカノセの背中を見ていると、ふっとその背に弾が当って、あっさり死んでしまう光景が浮んだ。ナカノセに死なれたら私はきっと辛い思いをするのだろう。それでも抑揚のない性格が災いして、得心するところもないまま、ずっと適当に生きてゆかねばならないんだろうと思った。こうなると、私は人間などではなくて、風景みたいなものだ。
 そんなふうに納得しないで生きてゆくぐらいなら、ナカノセは自分の信じる道を突き進んで、どこかで銃弾に撃たれてあっさり死んでしまう方がマシだと思っているのだろう。
 翌朝、私達の予想を裏切って、羽賀さんたちはボートを一艘手配して戻って来た。疲れて居眠りしていたので、よく覚えていないが、江津か浜田あたりまで車を飛ばして、そこから島伝いに響の荒波を越えて沖ノ島にまで行くことになったらしい。羽賀さんと小沢さんがボートを舵取りし、もう一人の高畑という男はアマチュア・カメラマンのふりをしていた。当時はまだカメラが貴重品だったので、重い一眼レフを首から下げているだけで報道関係者か郷土史家か、とにかく何らかの肩書きのある信用出来る人物と認識された。彼らはそういう人々を安心させる小道具を上手に使いこなした。
 私たちは旅館で待っているように言われていたが、ナカノセは、いい子にお留守番が出来るような性質ではない。彼等を見送った直後に漁船を自前して、思いもかけず両者は波の照り返す海上で合流することになった。
 ナカノセはしてやったりと悪党のような笑みを浮かべ、頬にかかる波飛沫を手の甲で拭った。

 沖ノ島は既に十年近くここに軟禁されているという話である。彼女は近隣の漁民にも目撃されていて、島に見える白い人影は噂されていた。島の船着場にはGHQ統治時代に米軍が立てた歩哨所があったが、事前に偵察に出ていた小沢さんが言っていたように、今となってはその警備も厳重ではなかった。
 少々不審に思いながらも私たちはそのまま山頂に見える白い建物に向かった。山腹の途中には、鬱蒼とした木々に囲まれて意外なほど大きな社が鎮座しており、手水鉢は普段から使っている様子だった。ここは古代のタイムカプセルのような島で、海の正倉院とも呼ばれていたが、その手の学者と地元の漁民以外ではほとんど認知されていない。
 どこにでも見られるような木々と羊歯の類にオオタニワタリ等の南国特有の植生が入り混じる原生林の中を進んでいくと、道が開けてきて小高い一帯に出た。退息所と思しき背の低いコンクリート造の建物から、ちょうど人か出てきて、鉢合わせとなった。赤ら顔で白髪混じりの欧米人。
 羽賀らは自分たちのことを海上保安官であると名乗るも相手は信用しない。どうして海上保安官だなんて言ったと、ナカノセは羽賀を睨む。
 鉢合わせになった欧米人の彼に道案内をさせようとしていると、ついには押し問答になった。島の米軍を排除しようとする地元の右翼と思われたらしい。鹿の角の柄のナイフを取り出して、アメリカ人は助けを求めて叫び始めてしまう。高畑が、彼を黙らせようと手拭をその口に突っ込もうとする。
 ナカノセに到っては、彼の腕を締め上げて「観念しろジジイ」と完全に悪党丸出しである。
 荒っぽいことはないはずだったのに。なんだこれは。スパイはこんな簡単に馬脚を現すものか。血の気の多いやり方に私が動揺していると背後から声が響いた。
「その人は考古学の先生です。米軍とは関係ないから、放してあげて下さい」
 沖ノ島だ。疑う余地もなし。
 袴を揺らし、カッカと歩み来る様子は得体の知れない威厳を帯び過ぎており、同い年ぐらいの女からすると少し恐い。同い年。私は胸の中でそう呟いたことに気付いて唖然とした。
「その子たちは?」
 沖ノ島はそう言って私の方に視線を向ける。
 怒っていたからかもしれないが、眼光に射竦められる思いがした。その声は、ママちゃまが真面目なことを言う時の声色にそっくりだった。一見明るいが、本人の背後から追いかけてくる暗い何かがある。
 羽賀は口を開く。
「何をしている。こんなとこで」
 沖ノ島は最初から私たちがやって来たことに気付いていた様子だった。
「そっちこそ何をしに来たのですか」
「仕事だ。俺自身の」
 羽賀がそう言うと、沖ノ島は一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに陰を帯びた表情に戻った。
 沖ノ島と羽賀との間で何ごとかやり取りして、暫くの間、私の知り得ない人の話をしていた。それが一段落すると羽賀は、私とナカノセにとって一番大切な質問を発した。
「ここに美保は来なかったのだな」
 思い当たる節はないと沖ノ島は言ったが、ナカノセが割り込んで今起きていることを話すと、沖ノ島は既に状況を理解している様子で、小さく頷く。
「それよりも、もうそろそろ先生を放してあげて」
 小沢は老博士の腕を未だに捻り上げたままであった。キラキラ光る鹿角柄のナイフは既に小沢の手に渡っている。
 羽賀が訊ねる。
「ここの警備はどうして薄いんだ。昔はこうではなかったはずだ」
 小沢は老博士の腕を放すも、ナイフは返さない。
「あなたたちがこの島に入ったことは、そこに見える小屋島を過ぎた段階で確認されているはず」
 羽賀が沖ノ島を連れ出そうとするも、彼女は首を縦には振らなかった。
「私は近いうちに釈放される予定。今自分から島を出るのは得策ではないわ」
「状況次第でまた来る羽目になる。巡回の日程を教えてくれ」
「予定通りならば今日は十七時までに米軍の巡視艇が来ます。最近はもう週一です。私も、今やその程度ということでしょうね」
 羽賀はすっと腕をあげて、逆光の中、目を凝らして腕時計を覗いた。
 ナカノセが慌てて訊ねる。
「ママちゃまは、美保先生は、ここにはいないの?」
「来ておりません。あなたは?」
「横浜北子。ナカノセ」
「ナカノセは十六歳になるのかな」
 沖ノ島はほとんど表情を変えなかった。私たちを知っているんだ。この人は私たちの出自を知っているのだ。訊ねたいことは幾らでもあると思っていたのに、私は風に煽られているばかりで、何も訊ねることが出来なかった。
「あなたは?」
「この子は稲取元子よ」
「そう」
「稲取元子で解るんですか?」
 最後の最後、私も辛うじて訊ねる。
「ええ。はじめまして元子ちゃん」
 猫崎のことに関しては、触れる時間がなかった。






§ 二四 変る過去

 帰路。山陰道で事故があり、なかなか前に進めなかった。そこで私は核心に到る話を聞かされることになった。ナカノセに追求されて、ついに羽賀は重い口を開いたのだった。
「元はと言えば灯台局が受け持った戦災孤児の符丁だった。コードネームで世に出す訳にはいかなかったので、中ノ瀬から、猫崎にかえた」
「どういうことよ。私は、」
「中ノ瀬というのは、広島の中ノ瀬灯標のことだ。広島で被爆していたので、最初は広島の灯台、岬のコードを与えられていた」
「私はだって、」
「また、同じ名前の灯標が東京湾にもある」
「でも猫崎という岬はあるでしょう?」
「ある」
「どういうことよ」
「当時は、広島から離れていれば、それでよかった。名前から推測されなければ良かったということだ」
「何が?」
「被爆者であることと、未承認薬の投与がだ」
「だって、灯台局ではママちゃまが――」
 どういうことだ。何が何だかさっぱりだった。灯台局と殴り書きしてある以外は何が入ってるかわからない箱を全部ひっくり返されたようだった。
「質問は後でまとめて聞く。まずは説明させろ」
 羽賀はそう言って、斜め読みしていた熊大の紀要を閉じた。この頃、熊本では日本チッソが引き起こした水俣病を巡って紛争になっており、紙面には戦前から報告されていた「猫踊り病」で生き絶えた猫の写真が載っていた。ビキニ環礁水爆実験で被爆した第五福竜丸の報告も続いており、それは、四十五年の広島・長崎の記事と地続きに論じられていた。

「……まず猫崎みさき。一番最初は、中ノ瀬みさきだった。みさきというのは、灯台局版の名無しの権兵衛さんだ。男子は海舟や鉄舟だった。書類が形だけ必要な時に、灯台の姓にみさきとか海舟の名をつけて、済ますことが多々あった。ホームに預けることが決まって、中ノ瀬はちょっとまずいということになった。今となっては解らんことだが、さっきも言った通り、被爆した事実は社会的に不利益を被りやすかった。そして、何よりも未承認薬を投与したことは、明るみになってはならなかった。しかしそれは倫理上の問題というより、GHQの指針で機密事項だったからだ。それで、爆心地から離れた所で命名することになった。猫崎の名が選ばれたのはたまたまだろう。当時の猫崎には灯台もなかった。そして、中ノ瀬みさき――君は、元々、横浜北子だ」
「横浜港に来たからとか言うんじゃないでしょうね。そんなダジャレを」
「ダジャレだ。支那から遠路はるばる横浜港に来たので、横浜北の符丁で呼ばれた。それ以前の話として、神奈川県には、横浜北水堤という古灯台がある。ただ君に接種した未承認薬というのは癌ワクチンではない。ただのBCG、判子注射だ。ほとんどの日本人の腕にあるのは東京一七二株という種類だが、NP株、ニュー・プロジネーターというのが既に完成していて我々の手元に幾らかあった。針の形が違うだけで、中身はほとんど変わらん。むしろ、NP株の方が東京株より、安全で効果も確実だった。問題は単価が東京株の六倍もすることだ。日本人全体になんて使えっこない。これを特例的に使うと言った場合、万一、後々、面倒なことになったら、誰が責任を取るのか。
 ことはワクチン自体の問題ではなくて、NP株を政府の許可なく打つことによる法的問題だ。人間は医療だけで事足りるわけじゃない。かなり揉めたが、悩んでいる暇はなかった。時間がない中議論をし尽くして、挙句、いざ打ってみたら、それ以前に物議を醸した癌ワクチンと同じペケ印の針型だったんだから、笑うに笑えない。これまでの議論は何だったんだと。
 打ったのは老鉄山だ。中国では予防接種なんてなかったから、あるもの打てるだけ羨ましいぐらいにしか考えていない。この子が大きくなって、何で自分の腕の注射跡は他の人と違うのかと疑問に思われたら非常に面倒くさいことになる。実際、今がその状況だ。出来る限りそれを避けたかった。お前達が騒ぐのなら簡単に訴訟になって、新聞を賑やかすだろうよ。下手に物資に恵まれていることが仇になって、方針がぶれやすくなっていた――それで、ああ。それでまた問題がぶり返した。ホームに預けるのに、横浜来た子じゃダメだ。不自然過ぎる。いいや、コードを変更して世に送ることの方が問題。またそういう話で揉めた。コードに限らず暗号というのは、内部には理解可能で、外部には理解出来ないようにするために用いられる。ただのニックネームでさえ、内と外を別けるために使われるわけだが、子供を社会に送り出すということは、内と外の関係が崩れるわけだから、個々の符丁自体に問題が内在しているのではなくて、命名方針自体が、内部機密と社会に送り出した後の両方を念頭に入れていないことが根本的な問題だったんだ。
 東京湾の中ノ瀬の名前が、もう一度候補に上がったと思うが、詳しいことは知らん。どのみち、沖ノ島が混ぜたんだとは思うがな。偶然にしては出来過ぎている。もしも後で説明のつかないことになったらまずいから名義変更をしようとしていると批判していたんだ。出自を追跡可能な形でしか世に出さないとな。尚不自然であると問題視されていた猫崎の名は沖ノ島が押し切る形で戸籍登録されてしまった。猫崎という苗字は全国的に見てもかなり少ない。それも広島に多い苗字だ。厚生省の役人に共産党の息のかかったのがいて、GHQとしても、日本国内というより、国連やアメリカ世論への漏洩を恐れて覆せない。猫崎の物心がつけば、それこそ覆すのは不可能だ。
 もしも、ランダムに抽出した名前から……、そう、マシンルームがあった。マシンルームというのは、実験用の機材を製作するための部屋で、欧米の大学の研究室なんかにあるものだ。灯台局には、それと同等のことを出来る機械があった。沖ノ島の助手が機械いじりが得意で、日本中の苗字と名前を便覧にして、スイッチを押すと乱数で日本人の名前がスライドに出てくるようなものを作っていた。
 一番最初に使った名簿が退息所に置いてあった灯台表だ。その暗号生成マシンに植字を全部組んだ。架空の兵士名簿を作るためのプロトタイプだった。連中は、GHQは、何らかの統計を誤魔化そうとしていた。恐らく最初の核実験であるトリニティ作戦だ。米兵の被曝被害状況において、欲しい値が出なかったんだろう。日本の医者に仕事が回ってきたことも奇妙なことだった。俺が灯台局を抜けたのは、その頃だ。俺はC級戦犯として裁かれるところをある交換条件で不問になっていた。条件飲まなくても、連中の知られたくない話を掴み返していたから、黙っている限り、これ以上訴追される可能性はなくなっていた。灯台局の女たちは、異様なほど倫理原則に拘る奴が多かったが、あんまり物分りの悪い真似をするのなら、消される可能性があった。お前たちの名前は、あいつらが揉めた名残だ」
 羽賀は私たちの目の色をちらと伺うと、その瞬間、何か話を端折ったように見えた。
「とにかく、沖ノ島は疚しいことがないのなら、名前を変えるな。そうでないならGHQには追跡調査をさせないと言っていた。――最初は灯台局のメンバーで臨床試験をやった。完全な薬を使おうとすると、救えるものも救えなくなる。灯台局は、幾つかの未承認薬を使うことを決断した。お前たちのNPワクチンはそのうちの一つだ。しかし、日本政府もGHQも信じていなかった沖ノ島は、ある時点からこの方針に鋭く反対するようになった。実験が主たる目的になっているとな。嘘とは言えない。室戸は……、室戸というのはちょっと特殊な経歴の外科医で、戦地の経験が長い。アカ狩りが始まって以後は、医局トップだった沖ノ島よりも、機関上層部に対して信頼が厚かった。室戸は使える薬が日本で承認されるのを待つ気などはなかった。当時は、薬は全部ストップしていて、欠配、遅延も酷かったからな」
「猫崎は、何度も注射を打つために職員室に引き摺りこまれていたわ。あれは何だったのよ」
「お前たちが物心つくのはその後の話だ。追跡調査は、投薬の作用よりも、幼児被爆者の追跡という面が大きかった。猫崎以外にもいたが、早い段階でほとんど死んでいる。それは薬のせいではない。ほとんどは猫崎と同じく、結局は血液癌だ」
 生存率はどのくらいなのだろう。どこまで意味があったのかの検証は必要だ。何らかの形で疚しいことがあるからこそ、隠蔽してきたんじゃないのか。怒涛の勢いで解き明かされる過去に翻弄されるばかりで、この時はそんなことを考える余裕もなかった。気分が悪い。私の心は猫崎が血を吐いて死ぬまでの間に舞い戻っていた。彼女はプロの漫画家になったら、それを手土産に家に帰って見知らぬ家族に、無心する必要もなく、引け目を感じることもなく再会してやる予定だったのだ。自分の漫画で世に認められて、それで食ってるから、物質面では何の心配もないと報告してやるつもりだった。
 自分に非はないのだから、思う存分家族に泣きついて、詰って、甘えて、すればいいと思うであろう。違うのだ。私たちにもプライドがある。ただの小さな見得かもしれない。その思いがなんであれ、私たちはただの孤児のままでは会えない。私はホームの優等生だったことを解ってもらえるならば少しは気が安らいだ。私たちのホームが、惨めな吹き溜まりのような場所であったなどとは断じて思われてはならなかった。私たちが手にいれなければならないのは同情ではない。同じ人間としての敬意だ。
 なのに、猫崎家。あれはなんだった。いつか見返してやるはずの彼女の家。猫崎には、これでは結局、帰る家がないことになる。あの日の失望さえも儚い幻だったということになる――。
 待て待て。この話は他人事じゃない。だいたい何なんだ。お前こそ何だ。辛うじて最初の疑問に舞い戻ってくる。
「……私は?」
 その時の私はどこにいた? 私はどこから来た?
「君は関係ない。猫崎と中ノ瀬と仲が良かったから、報告書内で、神子元島のコードが与えられた。君の名前は稲取元子だが、コードから変形させたのじゃなくて、名前から類似した灯台局のコードを付与された。順番が逆だ」
「私は、だって、」
 私がしどろもどろに言おうとしていることを、ナカノセは横取りするようにして声を上げる。
「猫崎と私には十字の接種痕がある理由をもう一度言って」
 羽賀は落ち着けと素振りして、私たちを宥める。
「だから、言ってる通りじゃないか。猫崎には癌ワクチンを打った。お前にはNP株を打った。注射針の形は共通だ。医療上の問題は起きなかったが、社会的問題が起きた。それが今の状態。元子は腕に×印の注射跡があるか? ないだろう。あるわけないんだ。当時の灯台局とは何の関係もないからだ。ただ、たまたま二人の友達になって、その後の報告書類で、たびたび名が上がることになったから、灯台局の符丁がついた。同年齢の普通の女の子として、非被爆対象者として参考にはされていたと思うが、それだけだ。もうこの頃には沖ノ島はいないし、GHQも撤退していた。子供の学級日誌を読んでいるようなものだったろう。ナカノセの放浪癖に気を揉むとか、猫崎の絵の才能の話とか。ほとんど研究とは関係ないことばっかだ」



 二四  * *

 運転席の高畑が口を開く。
「その×印のワクチンは、フラワー・ヒルと呼ばれていた。政府の認可はおりていないが、灯台局で使用を許可していた。華岡青洲の苗字から来ているように、それは倫理規定の歯止めとして、最終的に灯台局の医師が自分に接種して、安全性を確かめることが自主的に義務付けられていた。
 四十七年に制定されたニュンベルク綱領の第五条が参照された。医師自身が被験者となる場合はこの限りではないってね……。だけど、無駄とは言えないまでも、科学的ではない。議論が拗れたまま中吊りになっちまって、如何せん、ただの根性だめしになってしまっていた。時間がなかったんだ。それでも一応の臨床試験だった」
「臨床試験って何よ」
「……臨床ってのは英語のクリニックに相当する訳語だ。クリニックは語源を遡れば名詞でベッド。動詞で横たえるだが、十七世紀頃には死まで洗礼を先延ばしにする者という、今から見れば、やや奇妙な含みを持った意味で使われていた。つまり神父を呼ばないで、医者を呼ぶ者のことだ。
 ヒポクラテスを祖とするギリシア医学と、キリスト教の癒しの概念をその根源に持つ赤十字思想というのは、歴史経緯的に見て、実は対立する一面を持っている。
 ギリシア医学というのは、人類にとって科学的診療の基礎となったものだが、脱呪術であることを重んじ、ビオス、肉体としての生命を救済することに長じてゆくことになった。
 臨床というのは言ってみれば、足掻いて、足掻いて、どこまでも、死を回避しようとするものだ。医療が究極的に目指しているものは不死ということになる。そうならば医療が極限まで発達した社会では人間の生と死を司る宗教を事実上追い出すことにもなる。
 一方で、赤十字というのは、創設者のアンリ・デュナンが、ソルフェリーノの戦いにおいて、国家権力に使い捨てにされてゆく兵士達の惨状を見て、敵味方なく救済することを目的に出発したものだ。無論近代に入ってからのものであるから、科学的知見に基づく医療行為を軸にして行われるが、もう一つ重要な理念として、ゾーエー、精神としての生命の復権という重要な課題があった。
 紅卍会の沖ノ島派というのは、その理念において、赤十字にキリスト教の精神をより強く復活させていて、宗教的倫理に基づく教義体系を持っている。
 人間は最後死んでしまうことは避けられない。どんな薬があっても、どんな先進医療を用意しても、最後には手のうちようがない時が来る。医療というのはいかに進歩しても最後は敗北する運命にあると言えるだろう。その時に医療は効率的な話から、その人間を見捨てる。そうしないと、他の確実に救える者がむざむざ死んでしまうからだ。
 医療は救える者は救うが、救えない者は救おうとしない。それをちょっと後ろから押してやれば、いらない人間は人間としての権利を一切絶って、出来ることなら、社会の肥やしにしようという、優生思想に踏み切ることになる。
 沖ノ島はGHQから借りた薬を使って、上手いことやって、上手く行かなかったらアメリカや日本政府のせいにするという欺瞞的な論法が我々のうちに存在することを見透かしていた。
 しかし状況は緊迫している。宗教は医者の仕事ではないから峻別すべきだと言う医者たちが出てくる。僕もそのうちだ。GHQから供給されるあれだけの薬があれば、出来ることは格段に広がる。沖ノ島の言っていることが解らないわけではなかったよ。しかし彼女の言い分に従ってばかりいたら可能な医療は大幅に削り込まれてしまう。こんな宝の持ち腐れはない。
 本格的に灯台局の活動が始まって、徐々に、上手く行かないことが増えていった。倉庫に入りきらないほどあった医薬品が信じられない速さで消耗してゆく。世界規模で見れば医療は常に劣勢だ。医業が優勢を維持していると思うのは、単に恵まれた世界に生まれ落ちた以外に理由なんてないんだよ。耐えられなくなって、姿を眩ますのが出始めた。
 残された患者は襤褸雑巾みたいなもんだ。散々いじり倒した挙句、ボロボロになってからその家族に投げ出す。そうでもしないと到底回せない。家族がいない場合、本当に投げ捨ての状況になる。
 医は仁術などと口にするのは簡単だが、そんなものが仁術なのかと。宗教は医者の仕事ではないからなどと、ことここに至って言うことが許されるとでも思うのか。責任買って出て、死を直視しない権利を要求しているのではないか。沖ノ島はむしろその時にこそ人は救われねばならないと檄を飛ばしていた。
 判断に迷う時間はない。しかし、その物言いを常にしていれば、何も考えなくてよいことになってゆく。そのうちには何も考えられない秀才が出来上がる。それが第二次世界大戦だったじゃないか。彼女はずっと、それを言っていた。
 しかし、現場でそんなことを気にしている暇なんてありっこないから、沖ノ島が神懸りの調子で話し出すと、よく知らない人たちは、困ったお嬢さんが、浮世離れしたことを言っているようにしか見えない。一応は上司だし、愛想もよかったから、最初のうちは許されていたが、だんだん目の上のたんこぶみたいになっていった。沖ノ島が灯台局のトップに座った最大の理由は、クリスチャンだったからだ。灯台局を監督していた上部機関のアメリカ人幹部たちが気を許したというのがある。でも沖ノ島は命懸けで帝国主義と戦ってきた人だ。日本じゃない。帝国だ。元々非常な反権力志向だったから、GHQの差し出す薬には警戒していた。安全基準に最も厳しい条件を要求したのは彼女だ。
 広島と長崎から集中して子供を集めることには当然、核の効果を研究したいという意図があった。でもこれは物言いだ。核の被害状況を一刻も早く研究せねばいけないとも言える。
 そんなの自分の知ったことじゃないというタイプの医者は、すぐに抗生物質を使おうとするんだよ。あれは流石に目に余った。奴等は、大局的なことが理解出来ない。それを問題とする気さえない。感染症が広がるから、注射を煮沸せずに使いまわすなと幾ら言っても訊く耳をもたない。なまじベテランだから、生意気だとか、頭が高いだの何だのそういう話になってしまう。あいつらは、表面的に優秀であることを装うのは上手だが、問題が後に残って、とんでもないことにしてくれる。責任逃れにかける情熱は信じがたいものがある。若手で、そこらへんの旧弊に関する問題意識が共有出来ていたから、辛うじて対話が出来たけど、そうでなかったら沖ノ島はもっと早い段階で島送りだったろう。
 七三一部隊の石井中将や戦時中の広島大の教授連中の人体実験を追跡しているうちは上手く行っていたが、最後にはGHQが追跡を中止させた。アトミック・ソルジャーの問題を突っ突いたのが最後だった。アメリカは世界最大の帝国だ。反りが合うわけがない」

「高畑。そのくらいで十分だ」
 羽賀はそう言って高畑の後を継いで話を切り上げた。
「美保が孤児院を作ることになった経緯を少し話そう。沖ノ島には、美保みたいな戦前から縁のある看護婦が多かった。最初の頃の灯台局はそれで回していたと言ってもいい。
 素性がばれるにつれ、灯台局を運営するGHQ士官たちの見覚えはだんだん悪くなっていったが、逆に看護婦たちの根回しには成功していた。手の打ちようがない患者を看取るのは看護婦の役目だったからな。ダメになってから放り投げられても困るという沖ノ島の言い分は看護婦たちの実感を代表している面があった。
 治療に限界があっても看護は必要だと言う沖ノ島の論旨は明瞭だ。あいつが言う看護というのは、信仰の立場から繰り出してくる癒しの概念だ。
 国民を煽るだけ煽って敗戦を迎えた仏教界を中心に、宗教自体信用が薄い中で、本当に宗教に癒しが可能なのか。本当の癒しは家族にしかなしえないのではないかと切り替えしてくる室戸との間で、議論が進められていた。
 孤児に家族はいない。宗教を押し付けるのではなく、きちんとした孤児院を作らねばならないのではないか。そういう方向で話がまとまっていった。灯台局は、優生保護法の世相に反して、堕胎を禁止する方向で命令が下っていたが、ただ禁止と言うだけでは実行性がないし、無責任だというのが、室戸からの意見として出てきていた。
 ちょうどその時に、退局した美保が東京で孤児園まがいのことを始めて、我々は出資を申し出る羽目になった。たぶん沖ノ島や室戸たちとの間で話がついていたんだろう。あれだけ忙しい中で、美保がすんなり退職出来たことは不自然だったからな。とてもじゃないが、そんなこと言い出せる状況ではなかった。こいつが、高畑が倒れたのをきっかけに、防衛線は破綻した。業務の大幅見直し。沖ノ島更迭」

 頭の芯がずきずきと痛んだ。酷く疲れていた。この時の私は、砂川闘争から戻るバスの中での記憶と混濁し、あの頃が、楽しいばかりであったように思えて、一方で、子供だてら、猫崎がいつか死ぬ不安を常に抱えていたことを思い出して、心が荒んだ。
 猫崎が多摩の新築一戸建てから飛び出してくる幻想は本当の幻になってしまった。そればかりか、猫崎が引き取り先を探して盥回しにされた過去すらも幻なのかもしれない。
 猫崎とナカノセが仲良くなったのは、偶然じゃない。猫崎は、ナカノセの左腕に刻まれた十字傷を見つけたのだ。私はそれを言おうかどうか迷ったが、言わなかった。そんなこと誰に言えばいい。猫崎が、時にナカノセと自分を同一視したのは、単に仲が良かったからではない。猫崎は、ナカノセに自分と同じ痕跡があることに気付いた。そして、ママちゃまにもあるはずだと思った。そして、それはあった。猫崎はそれを内心、誇りとしていたと思う。やはり私は猫崎にとって他人だったのかもしれない。私は、自分の家がみつかり、ホームを出て行くことになった時の猫崎の鋭い瞳を思い出していた。







§ 二五 沖縄

 沖ノ島の言っていた通り、私たちは既に米軍に尾行されていたらしい。朝、松原美保という人が面会をしたいと言っていると、仲居さんから連絡があった。急いでロビーに下りてゆくと、そこには見知らぬ女が待っていた。私服だが足元は一見して制靴。ママちゃまではない。羽賀が誰何すると、女は答えずに背後に目をやった。休めの姿勢で待ち構えていた欧米人の男が流暢な日本語で割り込んでくる。米兵だ。
 羽賀たちはさっと目を動かし、逃げられないと見積もったようだった。
 差し出された名刺には、日本語で、アメリカ合衆国海軍第七艦隊、憲兵科、何何……、ジョン・ペイン少佐とあった。
 ペイン少佐が話を切り出す。
「言い付かっているのですが、ヒギンズ先生のナイフを返してあげてくれませんか。息子さんからのプレゼントだそうで」
 羽賀は観念してソファに座って、通りかかった給仕にコーヒーを頼んだ。そして、聞えよがし、私とナカノセに言う。
「逃げるなら今のうちだぞ。お前たちは明日から学校だろう」
「本日中に飛行機で横須賀まで送ります。君たちにも聞きたいことがあるから、一緒に来てほしい」
「それは、拒否出来るのかな」
「それは可能です。しかし、この子たちの家のインターフォンを押しに行く手間が増えるだけです」
「生憎だけど、私の実家はエリザベス・サンダースよ。インタ~フォンなんて洒落たものはないわ」
 ペインと名乗ったアメリカ人はナカノセを見て少し思案するように腕を組んだ。
「ナカノセ二等補とはバーターかな。保安学校には秘密にしておいてもいいですよ」
「秘密って? 何を?」
「橄欖会はあなたの作った組織ですね。メンバーは本人含めて二七人。準構成員はその倍近い。ノンセクトの単一の学生運動組織としては大規模だ。封鎖工作――バリケーディングに特化している。先日のメーデーでは、北海道赤軍から直々に声がかかって支援要請に応じている。さしずめ工兵部隊といったところだ。ハイスクールの女の子にしては大したものですが、海上保安学校では、そういう政治活動は禁止されているはずです。あなたは、まだ学生の身ではありますが、国から給与を貰っている公務員でもあります」
 これは全部筒抜けのようだった。プロはプロなんだろう。そして、私の知らないナカノセを垣間見た瞬間だった。ナカノセは本当に活動をしているんだ。五十人前後の組織を率いている。学校の一クラス分だ。まあ、ナカノセには不可能なことじゃないだろう。
 コーヒーを飲み終えると、私たちは沖縄まで飛ぶこととなった。
 羽賀は飛行機の中で、シートに隣席したペイン少佐に訊ねる。
「灯台局の移転先はコザか」
「羽賀さんは退役軍人会に出ていらっしゃらない。それは何故ですか。会いたい戦友もいるでしょうに」
 ペイン少佐はそのように質問で返して、羽賀の詮索には応じなかった。
 機内食はハンバーグだった。妙に薄っぺらく、ビニールパックの形に固まっている。喉を通らないでいると、ナカノセのフォークが横から出てきて、私の残りもさらってゆく。
 私は前の方の席で米兵に挟まれる形で座っている小沢と高畑を見やった。
「小沢さんは、何であのナイフを盗んできたの? プロのスパイだったのに、どうして泥棒まがいのことを――ひょっとしてあれが原因で――」
 そんなことを私がゴニョゴニョ耳打ちすると、ナカノセは「指紋でしょ」と即答。ああ、そういうことか。
「でもだったら、どこでも捨てられたはずじゃ?」
「まあ、あの場合別件逮捕の小道具じゃない。あいつら、途中から捕まる予定で動いていたと思う。沖ノ島への上陸がなかったら、米軍は面会そのものを拒否して、相手にしてくれない。けど、沖ノ島と何か話したとなれば、米軍の方から接触してくる。こういう動き方はむしろベタ過ぎるぐらい。三日で少佐釣れたら上々。正面から交渉に出るより、はるかに早いもん」
 これはもう、私の知らない世界だった。

 再会したママちゃまはケロっとしていた。お縄になって出てきたらどうしようと思っていたら面会室に連れて行かれるところで擦れ違って、ピースを振ってくる。セッティングされた部屋に入ると、第一声「窓開けられないのに、扇風機もない」などとグチる。
 アメリカンな歓待で、真っ黒いコーラと、とんでもなくけばけばしい色のお菓子が差し入れられる。ナカノセはガキんちょの頃に戻ってしまったかのように、躊躇なく鷲づかみしてお菓子を平らげてゆく。
 お菓子なんて食べてる場合じゃない。
 どうしてママちゃまは拉致されたのか。まずはそれだ。お菓子なんぞにつられているナカノセをよそに、私は途切れ途切れの質問を始める。先日の目まぐるしいショッキングな話の数々を思い出して、私は涙ぐんでいた。しかしママちゃまは、拉致されたんじゃなくて、同意の上だと言って、少し寂しそうな表情をして笑っていた。私が沖ノ島に会ったことを言うと、ナカノセは「録音されてるからね」と釘を刺してくる。
 ナカノセは沖ノ島に会ったことをママちゃまに告げると、ママちゃまは、沖ノ島は元気そうだったか、羽賀と出来てるんじゃないか、美人とは言っても、もっとキレイな人は他にいたとか、下らない話をしていた。
「バカでしょあいつら。昔からなのよ。皇国不滅の魂みたいな連中だったから、ああいう地球を幾つも背負っているような人が好きなの。元々は敵同士だったのにね」
「ママちゃまにとっては沖ノ島さんは、上司? 友達?」
「何かな……。そんなこと考えたこともなかった。最初は若先生って感じだったけど、今はもうずいぶん離れてしまっている。沖ノ島は、私にとっても感慨深い人なのだけど、羽賀さんたちとは違うわ。今思うのは、私、沖ノ島が捕まっていたこと自体を知っていたということ。ホームが最優先で、そんな暇がなかったとも言えるけれど、全く手を出せないほど機会も暇もなかったわけじゃない。彼女はたぶん、何で私が助けに来ないんだろうなんて思わなかったと思う。そんなタマじゃないもの。沖ノ島はやること派手だから、どこかで死んでしまっても全然おかしくない。究極的な部分では誰とも手を組めない人でもあるわ。軟禁されてるぐらいじゃ、たまには暇が出来て良かったんじゃないかとさえ思う。私も……、そう。私も、あんたたちのことしか考えていなかったけれど、助けに来てくれるとは思ってなかった。心配かけてごめんね元子。こんな勇気のある子に育ってくれてママちゃまは嬉しい」
「私じゃなくてナカノセだよ」
 そう言うと、ママちゃまは椅子を前に詰めてきて、私の頬と耳を両手で撫でた。
 頭の中でふとお母さんに悪いのではないかという気がして、私は少し身を引いた。母は過剰なぐらい甘い時があり、私とお母さんの間にある十年の空白を拭うにはまだ時間が必要だった。母と子の間にあるべき幼少期の思い出がお互いにないというのは不自然である。何より、ママちゃまに置かれていた母の印象をお母さんに移すことも、抵抗を感じた。
「あなたはそんなに荒っぽいこと得意じゃない。無理させてごめんね……。だけど元子、これはいつか言っておかなければならないと思っていたのだけど、もしも、ナカノセが一緒に戦おうって言っても、私はあなたは無茶をするべきではないと思っている。人には向き不向きがあるんだから。ナカノセに協力するのは構わないと思うけれど、もしもナカノセがやらないのなら、自分一人では戦わないって思うのなら、ナカノセと同じだけ戦っちゃダメよ。ナカノセにもこのことは重々言い含めてあるつもりだけど、それこそ、あなたがしっかりなさい。ナカノセ、訊いてる?」
「そんなことより、ママちゃま、私の頭も撫でてよ」
 ナカノセはそんなことを要求して不満げな表情をしてみせた。
「お前はそういうとこ素直でよろしい。ナカノセ、どうもありがとう。あんたにも、心配かけてしまったわね」 
 ナカノセはママちゃまに頭を撫でまわされて嬉しそうに笑っていた。
 ママちゃまは平静を装っていたが、この時はまだ悩んでいるようだった。戦直後の生徒の多くはホームを巣立ち既に自立している。以前からホームの児童数の減少によって、米政府や厚生省からの支援は段階的に減らされていた。
 その頃は安保闘争真っ盛りで、時代のせいもあって、ホームではそれに組する教員や卒業生は少なくなかった。それで心証を損ねたのか、ホームの支援打ち切りを速めるという政府通達を受けて、その不足分を埋めるようにホームは市民団体の支援を受け入れるようになった。それがちょうど、猫崎の死んだ時期と重なっていた。
 猫崎の死が原爆症が原因ではないのかという噂がホームの外にまで流れて、幾つかの週刊誌で取り上げられていた。まださして大きな記事ではなかったが、政府は警戒し、ホームに連絡を入れた。ママちゃまは、週刊誌の取材に応じることはしなかったが、また一方で、日米両政府からの機密保持指導や、情報を流したと思われる教員の情報提供にも積極的には応じようとはしなかった。真実を明かさずにホームを継続することが猫崎を始め、同じようにして死んでいった子供たちに申し訳ないという思いは拭えるものではない。灯台局のことはともかく、原爆症児童のことに関しては隠しきれるものでもなかっただろう。 
 しかしそれは今まで支援を続けてきた米国政府への忘恩の態度であった。政府批判をしながら経済的に政府に依存することの矛盾を解消するには、そるべしの方針がなければならない。
 覚悟を決めねばならない時期に来ていた。
 反核運動をやっていた原水協や原爆症訴訟をやっている被団連に打診を始めたところで、ママちゃまは、厚生省の担当官を超えて、米国の外務官僚から、何か大きな交渉を持ち出されていたようだが、私たちが沖縄でママちゃまと再会した時はその内容を明かさなかった。それは、あまりにも大それた内容であり、まだ語ることが出来ない話だった。
 ナカノセは怪訝そうに睨みつけながら訊ねる。
「ママちゃまはどうしたいと思っているの?」
「あはは。ママちゃまはどうしたいか――。まだもう少し、決めかねてるところよ。でも、ホームと核の問題とは切って考えようと思ってるの。今抱えている生徒を無事卒業させることが第一。それと、私がどうしたいかは二の次。その後の自分は、ママちゃまをやめることも考えているわ」
「どうして? ママちゃまはママちゃまでしょッ?」
「もちろんそうなのだけど、ママちゃまであることが目的化してしまってはならないでしょう。つまり、自分がママになりたいという理由で、哀れな子供を探し回ったり、立派なホームを存続させようとするのは、本来の目的に反するということ。目的に反するばかりか、行き過ぎればいいことではないわ」
「ママちゃまらしくない。ママちゃまを必要としている子は世界中に幾らでもいる」
「ナカノセ。私は原則、ホームの卒業生は大人として扱う。もちろん法律の上での成人年齢になるまでにはまだ時間があるから、その分は配慮する気でいるけれど、あなたみたいに、革命家を目指すような人の場合、年齢よりもその意志を尊重しようと思っている。まだ十代で結婚する子も同じ。本人の意志を尊重する。私が出来るのにやれていないことは、有無を言わさず頑張ってやるべきことだと思うわ。だけど今の状況は、私には出来ないことと、出来たところでいいとは言い切れないという二重の意味でやるべきではないことになりつつある。いずれ私は、ホーム運営のノウハウを教える方に移っていった方がいいと考えているのよ。看護学校とか保育科の講師とか、私はあまりやりたいとは思わない。私は現場の方が向いてる。けれど――」
「ママちゃま私ね」
 ママちゃまは、ナカノセの言葉を遮る。
「相応しい振る舞いというのはあるわ」
 そして、ナカノセの額に自分の額を寄せて呟いた。
「ナカノセ、あなたハムスター王国の紛争に手を出そうとしているって訊いた。本当なの?」
「ママちゃま。一緒に行こう」
 ママちゃまは首を横に振る。
「私がさっき言ったことをよく思い出して。猫崎のことは深追いし過ぎた。もちろん忘れられることじゃない」
 ママちゃまはそうは言ったが、むしろ私に言い聞かせているようだった。ママちゃまは私が、この話に巻き込まれることは絶対に許さない様子だった。






§ 二六 イデオロギー

 私はナカノセを幼馴染としては知っているが、革命家としてはあまり詳しくない。ただ、ナカノセがハムスター王国へ向かった経緯において、ナカノセという一人の人間の動機において、私の知らないそれ、核に纏わるそれは必然的に現れる文字通りの核心であり、追えるだけ追わなければならない。核の戦後に纏わる事項に関しては、触れねばならぬことが膨大にある。私はそれを十分に語りうるだけの資質をもたないが、これから先のために、少々、その背景を説明しておかねばならない。
 特に、核のイデオロギーとしての側面を。
 国内において核の問題は「日米安全保障条約」の中心的な課題として扱われた。その本質は、「核の傘」の問題でしかありえないのである。それを巡って戦われた「安保闘争」は、「学生運動」と呼んで同一視して差し支えない。
 戦後の厭戦、反戦的な気運は大きなものであったが、核大国であるアメリカに追従する大多数――左派的なファッションや素振りを纏うようになった親米保守勢力は結局、核を許容しているのである。もしも核を国民が許容していないのに、採用されているというのならば、そもそも日本国民には自由意志がない。それもあながち出鱈目とは言えない話であり、戦後左翼はそういう主体性なき大衆を解放しようという強い熱意をもって教導した。しかしこれは失敗に終る。
 今や隔世の感であるが、その当初、日本共産党は、日本が独自の軍隊をもつことを否定していなかった。むしろ、憲法9条に反対しているのだ。憲法9条とは、正確には、第二次世界大戦後の一九四七年五月三日に施行された「日本国憲法、第2章 戦争の放棄 第9条」のことであり、以下の文言を言う。

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 戦後の憲法草案際し、当時の共産党党首であった野坂参三は、戦争を侵略戦争と防衛戦争に別けて、後者の防衛戦争における軍備は許されるという考えを示し、完全なる戦争放棄を主張していた自由党の吉田茂とは対立していたのである。
 左派と反戦主義者は本来別物であるが、それにしても、その後には、共産党が自衛隊を憲法違反であると批難し、自由党の後を引き継いだ自民党が憲法改正を目指して自衛隊を軍にせんとして努力してきた構図は一度捻れていると言って差し支えない。
 共産党のそれは、独自の軍備を用意するにしても、自衛隊を批判するにしても、その動機において、アメリカを敵に回して、ソ連の衛星国に下るということを志向していたことを意味し、彼らの趣旨に沿えば、日本を亡きものにしようとしているのではなく、日本を支配する偽りの主から日本の主権を奪還するのである。
 後の北朝鮮や東欧諸国の惨状を考えれば、先見性はない。ただし、日本という国家が、戦中はアメリカと戦っていたこと、戦直前に、日ソ不可侵条約を頼りに戦局を打開しようとしていたことを思えば、日本共産党の対敵姿勢は、奇妙にも、太平洋戦争時の日本の軍国主義のドクトリンに重なってしまうのである。
 学生運動が下火になった以後の、左派の挫折と変節というのは枚挙に暇がないほどであるが、一方で、太平洋戦争期において対米決戦を覚悟していた日本の右派主流は、そもそもにおいて、対米追従という形で変節をしているのであり、日本の戦後憲政史というのは、社会主義圏と自由主義圏との陣取りゲームであったことがはっきりするだろう。
 国益は飾りである。常に自派を中心とした、自分を中心とした日本を企図して日本を奪い合っているのであり、その実体は、それ以上でもそれ以下でもない。
 羽賀少佐は言う。
「安保反対を唱えつつ、非武装を唱えるのはただの馬鹿だ」
 彼の言わんとするところはこうだ。
 アメリカの子分として守ってもらうかわりに年貢を納めるか、自前で武装して身を守るかどっちかであって、両方とも必要ないという現実が現に存在していない。
 右派主流、親米保守という立場は「その両方をやる」というスタンスである。一方で反米保守とは「アメリカを突っぱねて、自力武装する」というスタンスであり、羽賀少佐はその立場に立つ。戦前から一貫して彼のスタンスは変わらない。アメリカは百歩譲って敵でないにしても、味方ではありえないと言う。
 また彼はアジア主義でもあり、実際に会ってみると、思っていたほどには中国を蔑視してはいない。むしろ中国文化に精通している。日中戦争当時、彼は中国を正敵ではなく、同じアジア同胞における不心得者であると考えていた。阿片戦争以来、アングロサクソンこそが主敵であることを、中国人は何故解ろうとしないのかと、彼は憤っていた。羽賀という人物の輪郭を知る上でこれは押さえておく必要がある。戦後保守勢力においては少数派であるが、真保守を自負する者の中には、反米主義者は決して珍しくはない。奇妙なことだが、一周回ってアジアを主戦場とする左翼勢力と意見が一致してしまうぐらいで、ハムスター王国義勇兵に馳せ参じたナカノセの存在がそれに該当する。
 極右、極左勢力は、現行体制そのものを否定しており、少々の調整程度では納得しない。羽賀やナカノセは、その不満を実際に解決しようとしている点、真にイデオロギストである。
 国際派右翼、国際派左翼という一面も見出せるグローバリストであり、国際的問題にまで意識が肥大化しているという点では、非常なインテリ肌でもあり、その虚妄性と視野の広さは両義的である。私は彼らのことを浪漫主義者。あるいはもっと端的には漫画好きな連中だと思う。

 核の話に戻ろう。
 国内での反核運動の動きにおいて重要な契機となったのは、一九五四年の第五福竜丸事件であるのは先にも述べたが、第五福竜丸事件以後、原水爆禁止日本協議会という組織が発足した。
 これが通称、原水協である。最初のうちこれは、核実験、核兵器全体に対する批判姿勢をとっており、自ずとその主敵はその第一人者である米帝、アメリカ合衆国に向けられていた。原水協を支える主勢力は当然ながら日本における反米左派勢力となる。
 戦中、違憲政党として名指しされながらの戦いを経て、戦後には、反戦、反帝国主義的な民意を受けて、一気に三五議席を獲得するまでに大躍進をした日本共産党が、この原水協を強力にプッシュしていた。
 この時の共産党は史上最大に輝いていたと言っても過言ではあるまい。
 しかし、一九六一年、第七回原水爆禁止世界大会、ここに来て、雲行きが怪しくなる。ソ連がツァーリボンバとして知られる史上最大の水爆実験を行ったのである。その後、一九六四年には続いて中国が初の核実験を成功させる。日本の共産党はソ連、あるいは中国の衛星政党であり、それらに逆らうことは出来ない。そのため「社会主義の核はきれいな核である」などという、子供でも解る大法螺を吹き出したのである。
 実際には文書に残る形でそのように明言されたわけではなく「きれいな核」は共産党への批判において用いられる右翼用語であり、自称されるものではないが、彼らは実際そうとしか要約しようのない理屈と態度を展開していた。
 長崎や広島、福竜丸の被団連の人たちは、ただ核兵器の根絶と被爆者の救済を訴えているのであって、共産党の内内の都合などは知ったことではない。
 このような共産党の言い訳を飲めるわけもなく、原水協から離脱する形で、社会党を支持勢力とする原水禁が誕生することになる。一九六三年、第九回原水爆禁止世界大会において、運動は以下、真っ二つに分裂したのだ。

共産党系 原水協「原水爆禁止日本協議会」(戦後初の全日本統一的反核運動団体)
社会党系 原水禁「原水爆禁止日本国民会議」(共産党のきれいな核以後、前者から独立)

 学生運動というのは同じ左派ながら共産党とは、右派以上に敵対する立場であり、共産党の裏切りに憤る若者たちからなり、新左翼という。彼らは、ことによっては体制と妥協的な姿勢を見せる社会党さえも断固許さない立場であり、ようするに暴力革命において日本を一からやり直そうという急進勢力である。中核派や革マル派に分裂しながら、最終的には浅間山荘事件他をやらかした連合赤軍なども生み出す。反政府主義を飛び越え、反社会勢力へと成り果てていった。六十年安保闘争の終局において、国会を十万人規模の怒れる民が囲み日米安全保障条約を阻止せんとする熱気は凄まじいものがあったが、ナカノセはこれに参加しなかった。彼女はその時、私と共に横浜埠頭の小料理屋貝塚にてテレビを見ていた。
 一九六〇年の岸政権は、日米安全保障条約を永続化することを目的として動いており、即ち日本がアメリカの属州化することを示唆し、左派のみならず右派勢力からも反発が強かったのであるが、仮に安保を阻止できたとしても「その後どうするのか未来が見えない」ということをナカノセは常々零していた。その頃に彼女の手元にあったのはオーウェルの一九八四と、ナイチンゲールの看護覚え書きであったと記憶する。
 ナカノセの書斎は(そういうものが彼女をしてあるとすればだが)、当時の学生運動家たちとは若干ラインアップが異なる。丸山眞男や吉本隆明、あるいは黒田寛一、トロツキーやルカーチ、それらの理論の孫引きでは自分の闘いが太刀打ち出来ないものになりつつあることを彼女は既に痛感していた。
 この頃から彼女の関心は核の問題に絞られてきており、ハムスター王国のこともあり、国内問題よりも国際問題の方に関心や危機意識が強かった。
 学生運動のトップ層の中には豪遊してスポーツカーを飛ばし回っているようなのがいて、不審に思っていたという。無論、その背後でそんな大金を仕込んでやっている者たちがいたのであり、田中清玄という日本戦後史におけるフィクサーがその一人である。
 まず、田中清玄というのは戦前において共産党員であったが、戦後においては自民党の人間であって、共産党の回し者でも、社会党の回し者でもない。獄中で転向したのだ。その経緯は省くが一筋縄で行くような人間であるはずもない。その後はヤクザの親玉となった。同じく戦後のフィクサーであった児玉誉士夫とは敵対関係にある。
 それぞれ実働部隊として、山口組と住吉連合を囲っており、その二つが日本の暴力団を二分する勢力である以上、日本の政治はヤクザが作ったと連中に豪語されても、仕方のない面がある。ナカノセなどは「警視庁は山口組の指揮下にある」と言って憚らない。安保闘争が深まるにつれ、そうとしか言えない動きをしていると指摘し続けていた。

 この田中清玄が六〇年安保において、左派勢力を分断させるために、左派内の若手不満分子を育てていた。また、もう一つの事情として、自民党内では、日米安保を成立させようとしている岸派とそれに反対する吉田派で対立しており、ようするに親米右派勢力と反米右派勢力で割れていた。むしろこれが本筋のシナリオだ。
 田中清玄は反米右派、吉田側である。もっともそれがどこまでイデオロギー的なものであるかは不明である。非常に微妙なバランスであり、吉田派が共産党のように公然と反米姿勢を見せているわけではない。
 だが、何とかかんとか言いつつ、最後には単なる御山の大将争いである。私はそれを決して忘れまいと肝に銘じている。
 反岸を掲げる吉田派も覇権を握れば安保を締結させようとしたのではないかと思う。もっと言うと、私は共産党や社会党のみならず新左翼の連中とて、覇権を握ったのならば、アメリカと安保を結んだのであろうと思う。イデオロギーというものは、その真実において存在しない。
 この余りにも捻じ曲がった関係を整頓すれば、学生運動と警察とヤクザが全部グルというとんでもない図式が浮上するのだから、言い逃れは出来ない。
 この世は右か左かではない。上か下かだ。イーサー先生の冷たい言葉がまざまざと思い出される。その十年後「学生運動は革命じゃない」と言い放って、日本の「革命」を捨てたナカノセの最後の総括は、私のその認識を駄目押しした。






§ 二七 ダイヤモンド地下街

 沖縄から戻った翌週のこと、ナカノセは喫茶店にいた。
 横浜のダイヤモンド地下街。キー・コーヒーの青い看板を目印にして、私が近付いてゆくと窓の向こうの犬吠埼先生と目が合った。「来たよ」と口が動くのが解る。ナカノセの頭が素早く振り返るのが、私の目の端に映った。私の高校の制服はセーラー服ではなく、紺のブレザーだったので、この頃はまだ目立ったと思う。薄暗い店内にカランと音が響くと、皿を拭いていたマスターが目礼する。私はナカノセと犬吠埼先生の座っている席を指差して奥へ行った。
 ナカノセにとってみれば、場末の飯場が宴会用なのに対し、喫茶店というのは、随分襟を正している。ナカノセ個人の身振りに影響するような話をする時は喫茶店だ。
 私は特に意見を出さないのだが、ナカノセは直接的な政治集会ではなしに、地球の議論となると、組織メンバーよりも、私を同席させるのが慣わしだった。

 私が椅子を引いて席につくと、二人は、既に議論を始めていた。
「中国の核開発を糾弾するのは、おかしなことだよ」
「何で?」
「だって核保有のバランスからいったら、米ソ合わせて九割以上なんだよ? それを無視して、中国の核実験を咎めるのはおかしいと思う。それに、中国はまだ核実験を始めてもいない」
「その意見を言うと、あなたの立つ瀬がないんじゃないの?」
 ナカノセがそう言って頬杖をつくと、犬吠埼先生は「そういうことが言いたかったわけじゃない」と少々沈み込んでいた。
 この時のナカノセの主張は、ざっくり言って「中国の核実験を阻止せよ」である。犬吠埼の反論は、上述の如く「中国よりも、アメリカだ」である。しかしそれはともすれば共産党の言い分ではないか。との批判を犬吠埼先生は受けているのだ。
 犬吠埼は科学ジャーナル紙上で、アメリカの核実験を批判していたが、ソ連核実験時点でも、ソ連核実験に触れず、その主張を変えないというヘマをやらかしている。本人には特にソ連擁護の意図はなかった。しかし、それが原因となって、ソ連政府か共産党からカネを掴まされているのではないのかと怪しまれていた。
 政府からは、民意を煽動しないよう、客観的な意見だけを述べて欲しい――との圧力をかけられていた。どこからか脅迫文なども届いたという。
 ビキニ環礁水爆実験の追跡調査との公平性等の批判を受け、彼女が訂正論文を載せようとするも妨害工作を受けた。しまいには、中国の核実験の調査に向かうことになって、間が悪いことに、そこで戦争が起きた。滞在中の中国国内で戒厳令が出て、なし崩しでナカノセの戦いに巻き込まれる羽目になった、ちょっと運の悪い人である。
 犬吠埼先生は言う。
「私は何度も言っている通り、ナカノセと同じく、核武装には全面的に反対の立場なんだわ。私の背後には誰もいない。私が一人の人間としてそう思うだけ。キレイな核なんて詭弁ありっこないもん。だけど、そうなると、アメリカもソ連も飛び越えて、中国の核を批判するのは、イデオロギーの片棒を担いでいるだけなんじゃないのって聞いてるだけだよ。あまり指摘されないことだけれど、最初にキレイな核ってことを言い出したのってアメリカなんだよ。それこそナカノセは、アメリカ政府の手でいいように踊らされる羽目になるんじゃないの?」
 今度はナカノセが口を噤んで不機嫌そうにしていた。
「続けて……」
 犬吠埼先生は、熱心に眺めていたラミネートのメニューを不意に閉じて、テーブルのスタンドに戻すと、少し、困ったような表情をした。
「保安学校で警察比例原則って話は聞いたんじゃないかな。これは、よく、大砲でスズメを撃ってはならないって、表現されることだけれども、比例原則っていうのは、警察に限った話ではないと思う。中国の核を批判するのは間違いじゃないけど、アメリカがまず手を引くこと。次いでソ連。それからようやく中国の核を論じるべきであることは、認めるべきことだよ。そういう順番で核を保有しているんだから」
 犬吠埼先生は穏やかな人間だったが、彼女の指摘は明快で、時に鋭い。これが案外敵を作る。
 ナカノセは言う。
「でも、核実験はハムスター王国で行われていることなのよ。証拠は幾らでもある。黙ってなんていられない。実際に被害も出ているのよ!」
「ナカノセはハムスター王国の人間じゃない。怒る権利がない」
「怒る権利?」
「正当性の問題と言ったらいいかな。全ての侵略は助太刀を理由に行われる。アメリカが日本の学生運動を重く見て、『日本人の身の安全を守るために軍事介入をする』とか言ったら、凄い反発を受けると思うんだ。それと同じ」
「あんたの言ってることはよく解るけど、現実的には介入の出来る余地のある戦いをするしかないじゃない」
「虎を叩けないからって、猫を叩く気?」
「違う! 解んないかな。私にとっては、原爆の数や大きさが問題じゃなくて……」
「それじゃ国会前でジグザグデモやってたのと同じになっちゃう」
「そういう示威行動はいい加減意味がないパフォーマンスに過ぎないけれど、実際の中国を見るのは意味があるじゃん。中国は第二国連構想を持っているけれど、その条件として非核国であることが必要よ。中国の国内状況はその宣伝に反して、飢餓状態にあると私達は推測しているのだけれど、もしそれが事実ならば、中国はほんと核など作ってる場合じゃない。アメリカが先か中国が先か順番の問題に過ぎないのだから、私の言い分は非難されることではないと思っている。対等に核を増やしても腹は膨れない。それに、歴史を見返してみれば、軍縮条約で日本が戦艦保有率を上げたら、結局欧米の戦艦保有率の方が増したんじゃなかった?」
「筋が悪い。その理屈で行くと、ナカノセはきっと、利用されてしまうよ」
「でしょうね……」
 ナカノセは、ハムスター王国を他人の物語だとは思っていない。だが、彼女の仲間は、そうは見てはくれないだろう。ナカノセの組織が六〇年安保の国会突入を前後して、方向性を失い始めていた。
 国内戦を重視する派閥と、世界戦に出ようとする派閥で割れていたといえる。ナカノセは後者だった。そしてそれは少数派である。
 ナカノセは国会突入時に、任されていた高校生部隊を指揮しなかったことで批判を受けていた。
 何故ナカノセは国会突入時に寝ていたのか――。
 ナカノセはこう答えた。
「戦える範囲内で戦うことに拘泥する結果、今はもう、手段と目的が逆手になってしまっている状況にある。手段ありきというのは、結局、物象化である」
 国内戦というのは、結局は、単なる政権与党の党首叩きであり、動員力欲しさに問題を愚民化して岸下ろしで盛り上がっているだけではないか。論点を一つに決めるのは賛成だが、それが反岸であるわけがない。岸がなんだ。岸の次なんて幾らでも出てくる。その度にいい加減な批判を繰り返して、何かやった気になるつもりか。内部抗争と、程度の低い意見の一致でジグザグ行進して、最後は官僚や教授の席に早い者勝ちで座る。やっていることが馬鹿げているではないか。解ってやっているのならば、もう私は付き合いきれない。彼女はそう喝破していた。
 私は、結局はどうあろうと、ナカノセがハムスター王国に降り立つことを予感していた。ナカノセは、ホームのことで、アメリカの支援を受けることを検討して動き始めている。まだ十六歳だが、自ら交渉の席について、込み入った実務的な話を可能とするので、まだ二十歳そこそこのホームの若い先生たちでは代用が効かない。ナカノセは高校を卒業したらすぐにでもホームの教員になって戻ってくることを望まれている。しかしナカノセは、まだホームに落ち着けるほど大人でもなかった。
 ナカノセがアメリカの支援を引き出すのも選択肢のうちに入れているということが、彼女の仲間たちや、左派運動家たちからは、自分本位の裏切りと映ったのは言うまでもない。権力に頼りながら権力闘争をする気か――。ナカノセが批判していた内容をそっくりそのままで返されていた形になる。
 この時のナカノセの再反論は、エビフライ演説として人々に記憶されて、はやくも伝説と化していた。
 彼女は敵意に満ちた三百人あまりの聴衆を前に自己批判を迫られる中で、あっさりと言い放った。「国会突入なんてどうでもいい」と。前後の経緯は解らないが、八ミリフィルムの中のナカノセの声は、野次と怒号の合間を切り裂いて響く。
「どうすべきかってのは、どう終るべきかという意味じゃん。あんたたちの言っていることは、そこが全然解んない。私にはホームがある。あんたたちには家がある。理想はその程度でいい。どんなに東京が凄くなったって、ホームのない理想なんて私には考えられない。ロケットなんて飛ばなくていい。月に人が立つことなんかどうでもいい。そんな下らない夢、私が潰してやる。ホームの子の皿の上にたまにはエビフライが一本ずつ乗ってることの方がはるかに偉大だってことを解らせてやるのが私の革命だ」
 ぱちぱちと様子を見るような拍手。そして、はちきれんばかりの拍手。
「いいぞ!」
「もっと言ってやれ!」
 怒れる人々はこの突拍子もない演説に態度を翻し、ギロチン台にかかっている若き革命家に無条件の敬意を示した。人間としての信憑性を彼女はいささかも失ってはいなかった。何より、彼女の揺るがぬ勇気が人の心を打たずにはいられなかった。
 共産党は自民党以上に学生運動諸派の主敵であるが、ナカノセはこの時、共産党青年部である民青の支持によって救われた。民青というのは学生ではないが、同年代の若い労働者が多く、中卒集団就職組である。貧困層が多く、共産党は全学連と決裂して以後、大学生たちの支持を集めることを諦め、若年労働者層を組織していた。それと、もう一つこの集会を見ていた集団がある。青年警察官たちだ。当時の警官はおよそ高卒層で占められていた。民青、警察、学生と、三者揃い踏みになると学生運動の階級闘争としての面が見えてくるのだが、ナカノセ自身、海上警察の端くれであり、警官からは「クビになっても知らんぞ!」と、諌めるような声をかけられる。彼女の立場というのは特殊だった。一人野に立つ覚悟とばかり、ナカノセは言い返す。「あんたが正しい時、あんたは一人でも正しい!」
 ナカノセに希望を託していた人たちは少なくない。

 私はこの時、幼馴染がそんなことになっているとは露知らず、放課後の音楽室でトランペットを吹いて、青春の侘しさに音色を添えていた。男子校の野球部の先輩が私に思いを寄せているという。話したことすらなかったが、彼のことは私も好きだ。
 私がホームを出た後に飛び込んだのは女子高で、提携を結んでいる男子校とは合同の授業を受けたり、インターハイの応援に出かけたりと、伝統的に交流がある。暗黙の了解で、その二校の間でのみ、ささやかな交際が許されていた。
 これで垢抜けぬ少女も面目飛躍。私などが少女漫画の主人公の真似事を出来る日が回ってこようとは。しかしナカノセや猫崎のことを、彼とは話せはしないだろう。彼の方から近付いて、彼の方から別れを告げた。私はうかれめどもの嫉妬の腹癒せに、幾らか笑われたが、人に言えない、抜き差しならない、ホーム出身のシリアスな彼氏がいることになって、何かの面目と、ある種の同情を保った。

 斑の入った観葉植物がからまった植木と、オレンジ色の派手なアール・デコスタイルのランプの灯るカウンター席の間を縫って、私やナカノセとそう変わらないぐらいの齢格好の給仕がコーヒーを持ってくる。そう言えば、沖ノ島も髪を随分と高いところに結んでいた。
 ポニーテールをふりふりしながら給仕が向こうへ行ってしまうと、不意にナカノセは「犬吠埼に話していいか」と私に訊ねた。何の話をする気なのか検討がつかなかったが「任せる」と私が言うと、ナカノセは、唐突、灯台局の話を切り出して肝を冷やした。
「私の先生がね、灯台局ってところに昔いたの。そこの知り合いで、沖ノ島、ううん。違う。エディストーンって人がいて、その人はヨーロッパで反核運動をやっているんだけど」
 犬吠埼先生は、燻らせていたコーヒーカップを下げて、ちょっと待ったと手を翳して咽た。
 ナカノセも驚く。
「知っているの?」
「……どうしよう」
「どうしようって、何が? ひょっとして、エディストーン博士とは知り合いなの?」
 ナカノセは犬吠埼の目の動きを逃さないようにしながら、私の作ったスクラップブックを開き、在日英人向けのミニコミ誌でみつけたエディストーン博士の講話と次の予定日を示す。
「この人、近いうちまた日本に来るんでしょ? どっかで会う予定とか、あるんじゃないの?」
 犬吠埼先生は、周囲をさっと見渡した後、コーヒーカップを宙に挙げたまま固まってしまった。
 灯台局は非公開組織で、相応の秘守義務がある。エディストーンの名ではなく、灯台局の名がナカノセの口から出たことに慌てたようであった。
「……ええ?」
「何よ。観念した方がいいわよ。先生」
 犬吠埼先生は、灯台局の科学スタッフだったのである。しかし孤独だ。ナカノセ流に言わせれば、独鈷者である。独鈷者とはヤクザ用語であるが、一匹狼のことである。
 ナカノセも犬吠埼先生も、似たような立場に置かれていたのだろう。大舵を切らねばならない時期に来ているが、僉議すべき相手がいない。日本の核問題を巡る時流が二人を引き合わせてしまったと言える。
 灯台局という組織は、日本の核問題の原点に限りなく肉薄している。これはもう間違いないことだ。
 エディストーン博士の旧名はコルドアンである。ママちゃまと共にフォルチュネ医療団に加わって、ハムスター王国まで行った看護婦だ。彼女は当時はイギリス海軍のスパイだった。その後国連職員を経て独立。反核NGO、イースター・エッグズの代表を務めている。
 ナカノセはもはや後戻りは出来ないところに乗り上げていた。






§ 二八 チュンカベル

 それから私たちは、国際気象学会フォーラムの入場札を犬吠埼先生に別けてもらい、二百人ぐらいが集まる会議室の隅っこの方に沈としていた。
 三組のグループが一つ三十分で研究を発表して、全部で一時間半ほどの講演を聞く。エディストーン博士がやって来ると、全館に連絡が行き渡って、私たちも大ホールへ移動した。
 通路を間違えたことに気付いて焦っていると、ますます会場から遠のいてしまった。階段を登ってゆくと屋上に出てしまい、夜風の中には赤々と光る東京タワーが見えた。
 戻る途中で、ジュースの自動販売機に出くわして、そこではコーラを一瓶買った。

 ナカノセは私に言う。
「廊下、暑くない?」
「暑い」
「カネないの?」
「あるけど……」
「財布もってたじゃん」
「お札しかない」
「うわ、金持ち。何枚入ってるのさ?」
「……あんた、手ぶらで、どうやって来たのよ?」
「回数券」
 最初、小銭がないので二人して指をくわえていたが、ナカノセが自販機の底をあさると五〇円玉が出てきた。彼女はそれを失敬した。折畳式のナイフをポケットから取り出して王冠をすっ飛ばす仕草は、危うさを全く感じさせない。
 ようやくして暗がりのホールへと入ってゆくと、公演のはずが、はなから論戦と化しており、共産党の筋かヤクザか知らないが、彼らは公演妨害をしに来たことが解った。さほど大きい宣伝をしていたわけではないのに、ここまで人が集まっていることに驚いた。私たちは知らなかったが、エディストーン博士は原子力問題では有名人であった。彼女はイギリスの核軍縮キャンペーンCNDの流れを汲む論客の一人である。

 暗闇から野次と寸分変わらぬような恫喝的な声が上がる。
「あなたはフランスの核開発を批判しているが、イギリスの核に関してはどう思っているのか」
「許してません。先にも述べた通りです」
「どう許さないのか? あなたはイギリス軍のスパイだそうではないか」
「スパイではありません。情報将校です。しかし、私は既に随分前にイギリス海軍を退官しています。近いうちに国連も出て行くことになるでしょう。出て行くというよりは追い出されるようなものですが――。常任理事国に限って核保有を許すという結果に向かっているのですから、国連というのは結局、ただの核クラブなのです」
 少し前後するが、キューバ危機を受けて六三年に部分的核実験停止条約があり、中国とフランスが不参加であった。エディストーンが展開しているフランスの核開発批判とはその伏線にあたる。
 まだ核兵器を手中におさめていない中国と遅れをとっていたフランスは核開発を禁止するための条約などに応じるわけもなく、その前哨戦が既にこの時点で繰り広げられていたのである。
 尚、日本共産党はこの時はまだ中国共産党のリモコンである。中国の核実験をあくまで擁護する姿勢をとっていた。
「あなたは第二次世界大戦中はイギリス軍のスパイだったそうではないか。信用出来る人物であることをどう証明なさるのか」
「――噂で難じられても困ります。私がどういう主張をしているかで理解してもらえれば結構。まずは私の見解を述べさせて下さい。欧州の核兵器配備というのは、相互に自爆的です。米国やソ連、中国ほどの国土がないので、撃ち合った場合、自国への影響は全く避けられない。戦略として見れば、完全に壊れているのです。毒ガスと同じです。効果と影響が限定出来ない。狭い欧州地域で核弾頭を打ち合うようなことにでもなれば双方に致命的な被害を齎すことは言うまでもありません。繰り返しになりますが、仏中が核開発をすることではなく、米英ソが核軍縮を合意することでバランスを保つこと以外に選択肢なんてあるわけがない。アメリカ人が持っている核兵器は邪悪だが、平和を愛する中国人の持つ核兵器は正義であるというのは、何の根拠もない人種差別でしかないでしょう。自分は特別の善人だから、凶器を持つ権利があると主張する人間のどこらへんが善良なのですか。馬鹿げている」
「それをやっているのはそっちじゃないか!」
「そっちとは?」
「知らんようなフリをするな! 何ぼ掴まされてるんじゃ毛唐!」
 暗闇の中で何人かが立ち上がり取っ組み合いが始まる。
「おいお前! いい加減にしたらどうだ! 話を聞く気がないのか? 帰れよ。帰れ!」
「そうだ帰れ!」
「帰れ!」
「この青犬!」
「意見は意見だろうが」
「うっさい!」
 ガッガガ、ズズズ、ガラ、ガラン……。

 その後暫く静かになったが、今度は懐中電灯がエディストーンの顔目がけてぐるぐると走り回った。彼女はいい加減辟易した様子で眉を顰め、それから一言「ティンカーベルがいるようですね」と溜息をつく。
 議題と全然関係のないことであったが、その瞬間、私とナカノセは同時に目を見合わせた。猫崎が鏡の破片で光を飛ばしてチュンカベルごっこをしている記憶がふと過ぎったのだ。チュンカベルとはティンカーベルのことなのではないか。そうにちがいない。
 長年の謎が解けた。
 なんということだ。十年以上もの間謎のままだったチュンカベルの正体が、こんなところで、あっさり明らかになってしまうだなんて。
 チュンカベルの話はひょっとすると、ハムスター王国にフォルチュネ医療団が向かった時にまで遡ってしまうのではないか。
 私はこの瞬間に立ち会っただけでも、この場にいた甲斐があった。これほどのネタは滅多にない。早く猫崎に知らせに行こう。そう思ってナカノセに何か言おうとしたが、猫崎が既にいないことに気付いて世界が暗転する。
 憂鬱な気分になってしまい、あとのことはあまり覚えていないが、また何人かの観客が、あまりに食って掛かる上に、私の目から見ても、流石に下らな過ぎると思われる難癖ばかりを口にしていたので、今度は警備員につまみ出されていた。
 ナカノセによれば、ああいうのは「自分の組織向けのアピール」である。「必死に妨害したこと」が重要であって、実はさっさとつまみ出されたいのである。「世界の話をしているようでいて、世界の話なんて一寸たりともしていない。使っている言葉が同じだけ」
 その後、同様のことを社会党の反原発議員たちもやっているのを見ることになった。右派陣営とて同じことだろう。三島由紀夫が女帝制の必要性を訴えても、一向耳を傾けない。かといって左翼も耳を傾けない。昭和天皇は広島へは行くが靖国には行かない。ナカノセは「天皇は左派」と言い切る。日本の保守論客はこれに関してどう思っているか見解を聞きたいが俎上に上げることすらない。
「何故って、敵は常に自分と反対の意見を言っていることになっていないと、おまんま食い上げだから」
 私はこの時期、政治ではなく人間というものを学んだと思う。

 一時間ほどの公演の最後、質疑応答があって、ナカノセが挙手。当てられる機会があった。
「基本的な質問かもしれませんが、核実験ってすると何が解るんですか? 実験なんてしなくても、たとえば火炎瓶は火炎瓶だと思うのですが」
「石や火炎瓶を投げあうわけじゃないですからね」
 エディストーンは説明を試みようとしていたが、そこで会場から笑いが起きて、打ち切られてしまった。
 ホールを出て一階に下りるとエントランスの時計の針は夜九時を回っていた。雑踏の中で、ナカノセと私は、先日作っておいた手製の腕章をつけて、橄欖新聞の記者であると言い張って居残り、大手マスコミの記者たちに混ざって、会場を出てくるエディストーン博士を捕まえようとしていた。
 ふと裏手口の方を見ると、誰かが出てゆくのが見えた。中年の男だった。なんとなく捨て置いてはならないと思った時には、ナカノセはもう駆け出していた。記者に囲まれて困っている犬吠埼先生が助けを求めるような目を向けたが、それどころではない。
 ナカノセが駆け出すのに続いて私が追いかけると、他の記者たちが騒然となって、確かめもせずに何人かがついて来た。その隙にエディストーン博士がエントランスを飛び出し、記者たちは慌てて踵を返した。しかしそれでもナカノセは、向きを変えなかった。
「誰なのッ?」
 まさか、イーサー先生が来ていたのか。そうなのだ。それ以外に考えられない。ナカノセは暗闇の会場をずっと探していたがイーサー先生は見つけられなかった。しかし彼女の勘は当った。
 大通りに出ると、イーサー先生は、タクシーを捕まえようとしていたが、先客に取られて路頭に迷っていた。
「イーサー先生!」
 ナカノセが叫ぶと、イーサー・エルクは、ふとこっちを見て、それきりで雑踏の中に消えていこうとした。
 随分追いかけたところで、建設中のビルの裏通りに出た。高い板塀で囲まれた狭い空間に足音が反響する。踏み破られた水溜りが街灯の光を跳ね返し、暗闇の中をいつまでも揺れ動いていた。
「何で逃げるの? イーサー先生でしょう?」
 来ていたのに何故演壇に上がらなかったのか。会場には、随分変なのが紛れ込んでいたから、万一のことを考えて上がらなかったのだろう。そう思った。
 臭い。生ゴミの臭気が肺臓に染みた。走る横を見やると、朽ちた屋台が犇きあっている。東京オリンピックに向けて、脇へと追いやられている小汚い戦後の世界が裏通りには凝縮されていた。
 ナカノセが「エリザベス・サンダース! 町田分園! 中ノ瀬みさき!」と金切り声で名乗りを上げると、ついに逃げ切れないと諦めたのか、イーサー先生は振り向いて立ち止まった。そして、こちらへと向かってくる。居直ったように見えた。
 私はしばしばイーサー先生が恐い人であると思う時が子供の頃からあった。
 このまま背広から拳銃を取り出して、撃ち殺されても何ら不思議ではない禍禍しさを帯びて見えた。
「大きくなったな。ナカノセ」
「先生は何も変わっていないね」
「……日本は変わった。ここまで復興しているとは思ってもみなかった。おめでとう。我が国は、何も変わらないばかりか、更に落ちぶれてしまった。今はもう、中国とソ連に食い荒らされて風前の灯火だ。再会を喜んでいる時間が私にはないんだよ」
 どうしてこの人が恐いのか解る。どんなに笑顔を作ってみせたって、常に死の淵を覗いているからだ。民族全体の存亡を背負ってしまっている。
 これは決して大袈裟ではない。そういう人間もこの世にはいる。それが彼の抱える人生だ。イーサー先生はいつの日か闇に葬りさられる典型的な少数民族指導者の一人だ。






§ 二九 映画館

 その日私は学校をサボった。ナカノセとイーサー先生が、日を改めて落ち合うことになったのだ。放っておけば、ナカノセはこのままイーサー・エルクと共に旅立ってしまいかねない。ナカノセはもうずっと学校にも行っていない。このまま学校をやめてしまうのだろう。事実そうなった。彼女は退学届も出さず日本を去る。
 私たちは、関内の小劇場で『ダイドーとイニーアス』を見ていた。ナカノセがポップコーンを頬張る音が響いているだけで他には誰もいない。途中からイーサー先生がやって来て、私たちの後ろに座った。
「どうして人が悲劇を見たがるかわかるか」
 背後からそのように問われた。ナカノセは一見、聞こえなかったように見えたが、随分経ってから彼女はこのように答えた。
「面白いからじゃない?」
 その声はまるで独り言のように響く。微かに猫崎のことを思い出しつつ。
「自分の人生は泣くに値しないからだ」
 イーサー先生はそう言った。
 耳が痛い。人間にとっての真の不幸とはそれだろう。
 イーサー・エルクが殺伐とした人間になってしまったことを感じて、私は残念に思った。イーサー先生はそれでも、もう少し優しかったはずだ。
 そう思って回想するも、イーサー先生が面白くて夢に溢れていた情景は、ハムスター作戦とかモモンガ作戦だの言っていた時ぐらいしか思い出せなかった。ナカノセをこの人に預けることを、私は良いとは思えなかった。彼はナカノセを遊園地にも映画館にも連れて行ってはくれまい。
 私たちは、死に絶えたカルタゴの女王の上に赤い花弁が降り積もるのを見ていた。それをよそにイーサー・エルクは呟く。
「憐憫は許されない。何故だかわかるか」
「そんなの、つまらないから」
「憐憫に酔っ払っているうちに、惨めであれば惨めであるほど正しいことに置き換わってしまうからだ。必要なのは弁護だ。革命家は命ある限り戦うのが使命だ。弁護を可能とする時、その言葉は、自らの立脚する世界の限界まで守ることを契約する。後続はそれでしか続かん。私は地上の仕打ちでは挫けない」
「イーサー先生。私、」
「こっちへ来てくれ。見せたい物がある」
 そう言ってイーサー先生は席を立って、映写室の方へ私たちを案内した。
「エディストーン博士は?」
「来れなくなった。京都で公演が入った。犬吠埼は来る」
「先生は犬吠埼とは知り合いなの?」
「さほど。しかし協力はずっとお願いしていた。いい加減、腰を上げてもいい頃合だろう」
「先生、私ね、」
「ナカノセ。君は随分、学生運動にのめり込んでいるそうだな。しかし、私は君を連れて行く気はない」
「じゃあなんで!」
「羽賀と会ったそうだな」
「先生こそ羽賀さんと会ったんだ。何で?」
「羽賀は戦友だ」
「沖ノ島は?」
「まだだ。しかし既に島を出た」
「今、どこにいるの?」
「お前はどうして、関わってくる?」
「関わってくるんじゃなくて、関わっているんだよ。最初から。子供だっただけで」
「お前の友だちは死んだと聞いた。原爆症だったそうだな」
「そうよ」
「それで関わろうとしているのか?」
「それもある。だけどそれだけじゃない。私は先生を放ってはおけない。違うな。ハムスター王国を放ってはおけない。先生、私はこれでも革命家よ。ばかにしないでよね」
「本気で言っているのか」
「先生、私のこと子供だと思わない方がいいよ。私はあと三年もすれば二十歳になる。それから先には三十歳になっている。それまでにことが解決しているほど状況は甘くないでしょ」
 すえたような匂いのする狭い部屋の中で、映写機のフィルムがザーと単調な音を立てて回ってた。モニターには、エディストーン博士が映っていた。昼日中の暗い室内からは黄緑色に光る草原が見える。ずっと人間のわめき声が響いている。土の壁に沿ってカメラが向き直ると、ベッドの中に倒れ込んでいる少年は見慣れぬ欧米人たちを前に、パニックを起していた。重度の自閉症だという。先天性の奇形で、頭形が歪んでいる。
「ソ連のセミパラチンスク周辺では既に奇病が相次いでいる。共産党は核実験の人への影響を否定しているが、嘘だ」
 イーサー先生の断じる声は強い。そして、暗く冷徹だった。
「いずれ、ハムスタンもそうなる。中共はスターリンと同じ道を。毛沢東は世界で一番恐ろしい人間だ。あの男は、スターリンを超えていくだろう。自身それを標榜している。史上かつてあのような人間が出てきたことは一度もなかった。下手をすればあの男は世界すら滅ぼす。あの男は核戦争を侍さない。核兵器に対する異常な執着心と、億単位の人間を平然と捨駒に出来る精神を兼ね備えて、世界を狙い続けている。私たちは、その最初の実験台に選ばれた」

 犬吠埼が来ると、イーサー先生は同じ映像を見せて、彼女への協力を迫った。
「核兵器の保有規模だけが問題じゃない。実験による汚染状況の方が無視出来ない問題です。それは未来の問題ではなく、現在進行形で起こっている。先生の警察比例云々の手紙は読みましたよ。しかし、アメリカやソ連にまるで歯が立たないのならば、それは中国政府への批判は未来永劫巡ってこないことになる――」
「でも、私はただの科学者で――」
「科学者とは何だ?」
 イーサー先生は犬吠埼に畳み掛けるように詰め寄る。
「あなたには科学者としての誇りはないのか?」
 長らく神学校以外の高等教育機関をもたなかったハムスター王国において、科学者という言葉は、数少ない国費留学生、国を背負っている人間のことを意味する。科学者は、ほとんどの場合、特別の問題がない限り「革命的科学者」と呼ばれるのが慣わしであった。イーサー・エルクの同志であったムハマド・セメディは革命戦争の最中に倒れたが、彼はモスクワ大学の工学部で学び、ハムスター王国を代表する「革命的科学者」として名を知られていた。この場合「革命的」とは「正義の」あるいはもっと言えば「人民のための」とほとんど同じ意味合いを持っていた。
 犬吠埼が躊躇を滲ませた表情で言う。
「私が間違っている可能性もある」
「いつだって目を瞑る限り世界は平和ですよ先生。あなたが心の奥底で思っていることは正しい公算の方が大きいじゃないですか」
 イーサー先生がどうしても連れて行きたいのは犬吠埼だったろう。
「人の望むような解答が出来るとは限らないではないですか。それだけです」
 犬吠埼は珍しいほどに渋い表情をしていた。
「それだけとは、怖気づいているということですか」
「母を一人残して行くのがいやなんです。万が一のことがあったら、私の父は殺されたのではないかと思っている」
 イーサー先生はGHQのアジア人の専門家部会において、台北大学の物理学部の教授であった犬吠埼の父親と若干の面識があった。犬吠埼の父親の葬儀は家族抜きで行われ、当の犬吠埼一家が駆けつけた時には灰になっていたという。これは明らかに謀殺を臭わせる。同僚であったイーサー・エルクにコンタクトして、父の消息の調査協力を頼んだのは、犬吠埼一家の方が先だったという。
 イーサー先生は言う。
「亡き父の遺志を引き継ぎたくはないのですか先生」
 その時、階段を何者かが上がってくる足音がして、イーサー先生と犬吠埼は会話を中断して殺気立つ。ナカノセは素早くテーブルの上に置いてあった六角レンチを手に取ってドアの脇に張り付いて外を伺った。その様は、まるでスパイ映画でも見ているかのようだった。
 階下から女の声が届く。
「イーサー。専門家は私たちの方で用意することも出来る」
「公演はどうした?」
「中止です」
 階段を上がってきたのはエディストーンだった。あともう一人、中年の見知らぬ男がいたがすぐ帰ってしまい、誰だったかは解らずじまいである。
 公演は、会場が何者かの放火で炎上したために延期になった。すぐに鎮火されものの、水浸しで復旧の目処は立っていないとのこと。



 二九  * *

 戻って来たエディストーンを加えて話は再開され「原子雲の高さによる核戦争後の状況の違い」だとか「どうして気象学者が、宇宙戦理論や原爆医療において、鍵を握ってしまっているのか」等の難しい話が始まってしまい、私は「食べかけのポップコーンを階下に置いてきてしまった」とか「昔はポン菓子砲が出てくると、地面に落ちたお零れを皆、我先に拾って食べた」とか思って、一人場違いの寂寥を感じているだけだった。
 エディストーンは相変わらず流暢な日本語で語る。
「五十七年のウィンズケールの原発事故は英国政府がどれだけ隠蔽しようとも証拠は揃っている。ソ連のウラルでも同様の事故が起きており、お互いに見て見ぬふりです。私の立場は反核であり、反原子力です」
「反核と反原子力は何が違うの?」
「……核兵器と原子力発電所の違いで、前者が戦争利用で、後者が平和利用。繰り返しになりますが、私は両方に反対している。すなわち日本であれば、共産党とも、社会党とも、多くの場合、学生運動家たちとも組めない。核と原子力というのは、本来同じものを指している。にも拘らず違う言葉で言い表すというのは、ダブルスピークです」
「オーウェルの?」
「そう。戦場において『敵勢力の無効化』という表現を使うことがありますが、これは『敵勢力の殺害』と同じことを指します。敵をやっつけた時は『倒した』なのに、仲間がやられたら『殺された』と言い換えてみせるメンタリティです。日本軍においては『退却』のことを『転進』などと呼んでいました。同じことをあえて言い換えるということは、それだけの都合があるということです。クリーンなエネルギー、平和利用とわざわざ強調しないといけないだけの都合がある」
「でも犬吠埼は、原発事故で地球は滅びないって」
「個別ではそうでしょう。しかし、それ以上のレベルでは、核兵器と原発は破滅の両輪です。最後手を下すのが、核兵器で、原発ではないというだけの話です」
「でも、そんなこと言ったら、自動車と戦車は両輪じゃない。戦争反対なら、自動車もこの世からなくす気なの?」
「類比的にはその指摘は正しい。しかし、それは類比的というだけです。煙草と阿片は共に嗜好品であり、害毒は程度ものでしかないから、阿片貿易も自由化すべきであるというのは、果して正しいと言えるかです。私は、煙草と阿片の間には一線を引くべきと考えます。
 二十代の全てを私は軍人として過ごしましたが、車と戦車は共に存在を認めるべきだと考える。一方で、核兵器と原発は、車と戦車とは違い、共に存在を許すべきではないと考えているのです。
 この世のすべての物はどこか似ているのですが、必ず違うから個別でありうる。AがBに似ているから良い、ないし、悪いという判断、あるいはその逆に、AがBに似ていないから良い、ないし、悪いという判断には、その良し悪しの判断を素通りして、似ているとか、似ていないとしか言っていないのに、正しいとか、正しくないと決める短絡を犯している」
「じゃあどうすれば正しいと思っているのかを説明して。私は原発は許すべきと思っている。使い方を間違えなければいい。原子戦争ではなく原子力的家庭を築く方向に――」
「あなたたちはオブニンスク原発の実態を知らないからそんなことを言っていられるのです。何の躊躇も持たない利潤追求によって平和利用という観点が捨て切れない。それが問題の本質です。クリーンなエネルギーなどという発想は一体何が根拠なのですか。あなたは、晩成被爆によって友だちを失っているのでは? まさか、政府と産業界との主張を素朴に信じているとは思わなかった」
「原発を厳重管理すれば?」
「私は、巨大な原発を慎重に使うことよりも、省力政策に切り替えることで乗り越えられていくと思う。その見解においては犬吠埼先生とも一致しているはずと思ったけれど」
 ナカノセは、エディストーンの核と原子力の全面禁止論には反対で、そんなことを言えるのは、イギリス人は金持ちだからだと皮肉っていたと思う。しかし、この時から既にイーサー先生はエディストーンと同見解であった。
 
 イーサー・エルクはかく言う。
 共産主義とは、その実践において、革命による民主化と社会の電化を目指すものである。それこそがマルクス主義を実践に移し革命を成功させたレーニンのテーゼであり、私たちも同じ道を歩んでいた。社会主義は貧しいが故に、命を脅かす自然を憎み、電化された社会を夢見ていた。社会主義の半分は「革命」であるが、もう半分は「電気」で出来ている――。
 マルクス主義者だけが、マルクス主義の理想を信じていたわけではない。彼らもまた「維新」とか「近代化」と称して「革命」と「電気」という同じことを求めていた。他者が誤まったのではなく、負けた者が他者となるに過ぎない。
 科学は宗教より正しいというのは浸透した価値観であるが、それ以前に、科学は幾らでも失敗しているのであって、当たった部分だけかき集めて、それを科学的と呼び、当たらなかったものを疑似科学だとか、非科学的であると呼んでいるに過ぎない。そのような科学主義は権威主義の中でも最も卑しい。自らの信念が正しいかどうかを試す勇気がないにも拘らず、正しかったことは全て自らの予言であったように吹聴して回るのは、偽予言者と同じである。偽予言者とは誤った予言をする者のことではなく、勇気と知性をかけて目の前の世界と闘うかわりに、臆病と無知を消し隠し、自らが預言者にも等しい予言をしてきたという嘘を書き残して土に埋まる者のことである。革命家はたとえ全てを誤っても嘘はつかない――。
 社会主義とは資本主義に敗北した現代社会の一形態であり、喧しく戦われて、その本質は見失われがちだが、思われるほど真逆の原理を採用しているわけではなく、むしろ共通する部分が大きい。ソ連は連合国の一員として、ファシズムと戦ったのである。日本人は第二次世界大戦におけるロシア人の払った犠牲の膨大と、その貢献の度を知らない。ナチスドイツを倒したのは何を差し置いてもソ連軍であり、にもかかわらず、戦後世界における欧州世界が共産主義一色にならなかったのは、アメリカの核兵器による牽制があるからである。アメリカの核を、核兵器を肯定する理由とは、そこから導き出される。彼らは核兵器こそが核戦争を抑止しているというのだ。抑止出来なかった核戦争とは対日核戦争であり、彼らの理屈は一応筋道が通っている。だが私はその意見に断固反対する――。

 イーサー・エルクは同時代に生きたインド建国の法相、憲法学者アンベードカルを引いてこのように語る。
 聖アウグスティヌスは歴史は聖なる御心の現示にすぎず、英国の歴史家バックルによれば歴史は地理、物理的所産である。マルクスによれば歴史は経済力の結果である。これらが言っていることは、全て、人間の感情は原因ではなく結果であるという表明に他ならない。
 人間の意志が世界を作ってきたのではなく、世界が人間の意志を形作ったという立場である。科学が発達してきた時、それは、物質と力学こそが世界を形作ると帰結される。そうであれば、軍事学と金融工学こそが世界を制すると解され、その現実に対し、否やを唱えることの出来る人間は限られるであろう。
 色々なイデオロギーが唱えられ、試されたが、最後に残ったのは、資本至上主義であり、その背後に潜むテーゼは、いかに敵対者を合理的に殲滅するかである。奴隷制が終ったとすれば、それは奴隷や苦力が機械ほど必要ではなくなったからである。近代化の本質とは人間が働く必要がなくなり、考える必要がなくなり、最後には、存在する必要もなくなることである。核兵器というのは資本主義の必然であり、人間の魂を持った人間が欲っしたものではないからこそ、本来マルクス主義においてこそ否定されなければならなかった。
 人間は人類に対して責任があり、種としての本質、自らの出自と戦う存在である。そうではないと言える時、それは自らの出自と戦った先人の前提を必要とするのであり、ニヒリストは人間の置かれている真の前提を解らねばならない。サルトルの言うところの実存は本質に先立つという話は、つまり、種としての人類の本質よりも、文化としての人間の感情が優先されると言っているのであるが、何故そんな勝手なことが言えるのかといえば、そもそも人間の脳などは本質的に文章を読むために作られたのでもないのに、文章を読み、言葉を話すために使われるに至ったことが一つの根拠になる。これは、コーランに依拠しようとも、種の起源に準えようとも、どちらにせよ動物的本質を逸脱している。そうであれば、人間はある意味で動物よりも電算に近い存在であり、電算が鉄の塊の上に立脚するように、人間は肉の塊の上に立脚する。実存とはそれだ。信仰はその前提を要求する。
 人間とはこういうものだ。と安易に断じる時、その反対のありようが断じられているのであり、実存は本質に先立つのではなく、実存と本質は対立しながらでしかどちらも成立しないのである。鉄の塊も肉の塊も、それを認識する者が介在しない限り、存在することを認識、確証することが出来ない。人間が土片であると同時に精神であるというのはそういうことだ――。
 イーサー・エルクが、共産主義革命の旗手として生きながら、尚もってアラーを裏切らないということの真意は、恐らくそこらへんにある。

 ナカノセは呟く。
「核兵器がダメなのは解る。解んない奴はそもそも仕方がないとして、問題はどう軍縮するかでしょ。私はその策がないとも、それをすることが必ず危険であるとも考えない。それが必ず危険だというのならどう詭弁を弄したところで核兵器を増やすことも最低限、同じだけのリスクを見積もらなければいけない。だったら、残るのは損得の話ではなくなる。道義の問題よ。理解できない奴は一生理解できないんじゃないかと思っていて――。何か、この話をするといつも、問題が核の是非の問題ではなく、人間の考え方に何か絶対に相容れないものがあるか否かという、ぜんぜん関係ないところに話が飛んでしまうのよ。だけど、原発の方は上手く行って欲しいじゃん。私の保安学校の同期に長野の大鹿村って言うすっげえド田舎から来た奴がいるんだけど、そいつの実家では未だに電球一つない生活をしているんだよ? 庶民はこれ以上の赤貧になんて耐えられない」
 エディストーンはナカノセのその言をにべもなく一蹴した。
「そこを願望の話に摩り替えていては仕方がない。それに、電球ぐらい核エネルギーじゃなくても灯せる」
「たとえそうであっても、分配がおかしい!」
「そうです。そういうことじゃないですか。現代経済は総量の問題ではなく、分配の問題なのだから、総量増やしても、大食らいがますます食べるだけで意味などない。核は存在自体が問題。影を捨てて、光だけを取ろうとしている。火力や水力の類比で使えると思う方がおかしい。誤った時に勝手に止まってはくれないし、止める方法もない。それなりによく切れる単なる菜切り包丁ではなくて、キッチンからリビングまで微塵切りに出来るほどよく切れるけど、どう動くのかはっきり解っていないような包丁を使う必要はない。そこまでしなければならない料理なんてありえないし、いらないし、そこまでしなければならない人の幸せなんて求めるべきじゃない。コスト主義は必ずやリスクを踏み抜くところまで行く。それを試す気?」
「ナンセンス」
「ナンセンスじゃない。実際に極端なことをやっている」
「それにしたって、まず自分が使うのをやめてから言うべきなんじゃないの?」
 ナカノセはエディストーンの両耳にかかっているイヤリングをじろじろと見ていたが、エディストーンは意味が解らないと言いたげに、ナカノセが首から下げている金色の粒を睨みつける。恐らくナカノセはこの時、自分がアウレア・リベルタスを持っていることを忘れていた。

 エディストーンは言う。
「私が電気を使わなくても、原発は止まらない。ならばやはり問題は、原発自体を止めるか否かでしかありえない。ロジック的に正しい野次は『原発に反対しているのだから原発を使うな』でなければおかしい。そして、それを主張しているのは私。ジャガイモが嫌いならジャガイモを食べるな。という理屈は一定の正論に値するけれど、ジャガイモが嫌いなら食事をするなという理屈は飛躍でしょう。はっきり言っておく。私は核兵器も原発も反対だと。代替案というのは出さなくていいものがある。彼等の言い分はこういうことよ。『毎日三回ステーキを食いたいのに、一食にしろと言ってやまない人たちがいる。代替案も出さずに、やめろと言うなんておかしい――』これが個人の話なら、勝手にすればいいということもにもなるけれど、ことは個人の話ではないのだから、交換条件なしで拒否されるに相応しいものは存在する。何にでも権利があると思うべきじゃない。私は、認めることが困難ではあるけれど、実は誰もが知っているごく当然のことをはっきりと言っているに過ぎない。その姿勢を貫く。それに私は、話がどのように転ぼうとも『原発推進派は社会的な恩恵を受けるな』等幼稚な意地悪を言わない。公共インフラはそういうものであってはならないのだから。電球一つない生活を強いられている彼の家の天井に電球が灯ることを私は望んでいる」
 エディストーンはこの道の学者だ。通俗的な反論は知り尽くしている。
 彼女はこんなことも言っていた。原発推進派の主張に「火力発電の方が原発より死者数が多い」というものがあるが、常識的に考えて、そもそも分母が違うわけで、火力発電と原発の数というのは比較にならない。これは、脱原発派が「原発を、火力発電に切り替えるべきだ」と主張することに対して「火力発電の方が死者数が多い」という反論として登場したのであるが、中国やインドのあるいはブラジルやロシアの、とにかく旧態的な火力発電所が全部原発に切り替わったとしても、安全にはならないし、むしろ危うい状況がいや増すわけで「火力発電と原発、現状、どっちが犠牲が多いか」という議論自体がミスリードの原因である。死者数なら交通事故死者数の方が多いわけで、年間自然死者数はあらゆる災害の犠牲者数を越えているのであるが、これをもって、原発事故なんて大した問題ではないと帰結するのであれば、その人にとって、恐らくは自分の命以外は、問題という問題は何も存在しないので、そういう人と話をしていても仕方がない――。
 ナカノセは不満げな表情をしていたが退いた。
「時間がない。核兵器廃絶のところまでで一先ず手を打たせてもらうわ。そこは意見が一致しているでしょ?」
「そうよ。それが賢明よ。あなたの身振りにおいてもそれが相応しい。私がこの問題に関して妥協すると思わないでほしい……」
 ナカノセの頭の中にあったのは恐らく、B17爆撃機を作り変えたローズ・ピアノや、大砲を流用して作られたポン菓子砲である。私たちが幼少の頃には、軍事兵器を溶かして平和社会の建設に役立つものを続々と作り出すというイメージを描いたポスター画をよく見かけた。
 今思えば、原子的家庭とかキュリー夫人が原子力の母であるとか、そういった理想や認識を掲げた文脈も平然と存在していたのであり、こと原子力においては、疑うことは容易ではなかった。「風邪にピカドン」とかいう風邪薬のコピーや巨人の「原爆打線」等のフレーズで平然と使われていたのである。極みつきは漫画「ピカドン姫」や「ピカドンくん」だろうか。全部事実である。
 それにしてもナカノセは、気鋭の科学者や国家指導者のような人たちの話に半分ぐらいはついてゆけるようだった。ナカノセはいずれ大物になるんだろうな。とか、すると何の才能もなかったのって、私だけだ。とか、そういうことを思わなくもない。
 犬吠埼先生とて、まだ若いのにこんな面倒に巻き込まれてしまって、才能があるってことは、そんなに幸せではないかもしれない――などと思って、分際ながら哀れんでいると、聞き捨てならない科白が飛び出してくる。
「出発はいつなの?」
 躊躇する犬吠埼先生をよそに、ナカノセは既に決断してしまっている。
「私は、いつでもいい」
「ちょっと、ナカノセ……」
 私にもっと止めろと合図するイーサー先生をよそに、エディストーンはナカノセに訊ねる。
「あなたはまだ若い。二十歳にも満たないのでしょう? 何故なのかな」
「決断は一瞬を譲らないから。理由なんかよりもずっと重要な覚悟というものがある。私たちはそれを重んじる!」
「何言ってるの? そういう思い上がりが、安保だったじゃない?」
「私は全然思い上がってないじゃん。国会に飛び込んだバカな奴らは知らないけど」
「だからそういう態度が!」
「私の誤りは、ろくなことしてやれずに、むざむざ猫崎が死ぬ日を迎えたことでしょうね」
 そう言ってナカノセは、更に何か言おうとする私を鋭く睨んで黙らせた。
 エディストーンは、はっと気付いて、ナカノセの瞳を覗きこむ。
「そういえば、あなたのこと、知っているわ。確か、火炎瓶。そう、核実験は何で必要なのかって聞いて来た子じゃない。暗闇でよく見えなかったけれど」
「ええ。だけど、私はもっと前からあなたのこと知ってた」
 ナカノセは、その後、イースター・エッグズに加わることになる。なってしまう。
 このイースター・エッグズというのは、ハムスター王国での最初の親睦会がイースターで、人々を集めて卵探しゲームなどをやったことに由来する。以後「卵祭りの奴ら」と認識されてイースター、あるいはイースター・エッグズで呼ばれていた。それがそのままNGOの名前となったのである。
 エディストーンは、既にメンバーから死者や行方不明者が出ていることを隠さなかったが、それはかえってナカノセの覚悟を決めさせた。犬吠埼先生がハムスター王国へ行くことになる最後の決め手はナカノセの決心に突き動かされたものと思う。犬吠埼を連れて来るという条件で、イーサー先生もナカノセを認めた。






§ 三〇 ナカノセ漫画戦記

「仮に世界を救うことをやめても、依然として自分の世界を救わなければならないのにはかわりがなく、世界をどのように分割しても、切り取ったそれがその人の全てである限り、世界の重さは軽減することは出来ない。私は私であるが故に、私の世界を選び取る最後の責任主体である。まだ若い君に忠告すべきは、荒野には安全というものはないということである。誰でもなく、常に君が世界に対峙しているのである。命を燃やすことによってしか君は進めない。革命家のかわりに燃えてくれるような薪は存在しないのだ。自らを燃やして生き抜く。孤塁に残された傷ついた兵士に、尚も戦えと励ますのが革命家としての私の務めである。怠慢は許されず、無理解は死に至る。あらゆる種類の隔絶した才能と勇気を要求する。それを知って尚行くというのなら、中国へ来い。何が起きているのかが解るだろう。私が示せるのは革命家としての誠実だけである。革命の地であるこの大陸が、君の墓場ではなく、青春の地となることを祈っている」

Y.M.B.E.    




 ナカノセが日本を去る日の朝、私たちは猫崎の墓の前で待ち合わせて、朝焼けを見ていた。火を放ったように赤い空に蝙蝠が掠め飛び、その遥か彼方には金星が輝いている。これが同じ世界の出来事であることを謳うのは科学の力ではなく、詩の力である。ナカノセの出奔には申し分ない。
 私たちは世界の禍禍しさをも、いいや、世界の禍禍しい姿こそを愛していたであろう。悲劇をどうして見たがるのか、私も知っている。どう詰ったところで、私たちの故郷は瓦礫の中にしかないからだ。猫崎が苦しんで死ぬことも、私たちは了解済みである。
 猫崎とナカノセはその覚悟をもって生きざるをえない。そうでもなければ私とて、死ぬに死ねない。夏が過ぎて、自由や正義を思う時、どうしようもない苦痛が私を襲う。猫崎の命日反応は強烈で、毎年、私に耐え難いほど膨大な夢を見ることを強いた。しかし私はいつしか、その苦痛を忘れていったのである。私が死ねないということはそういうことだ。正しくなくても生きてゆけ。
「猫崎。私、あんたの敵を殺しにいくよ!」
「猫崎は戦っていたけれど、誰かを恨んでなんていなかったでしょ」
「じゃあ、私は私の敵を殺しにいくんだ」
「ナカノセ。私は解らないわけじゃない。だけど、やはり納得はしていない。そんなことしなくても、あなたは幸せになれる世界に生まれてきたはずだよ」
「もしも人生が幾つもあるのなら、私も一度くらいはお姫様を目指してみたいものだわ。自分の家族があるのも、面白いかもしれない。私が知らない大切なことが一杯あるんだと思う。だけど一つしか選べないのなら、私は革命家になる。私には私の戦いが必要」
「ナカノセ……」
 ここしかないとばかりに「見送りヒロイン」を演じる私は、漫画めいていたであろう。私の正体は凡庸な少女漫画モドキであるため、これ以上を体現する才能や出番はありえないのである。
 その実私は、最早ナカノセを止めようとは思っていなかった。ひょっとしたら私は最初からそうだった。猫崎の死を救えなかった。ナカノセの旅立ちを拒めなかった。そうやって、出来ないことが解りきっている時に、何もしようとも思わないないのが正しいとするならば、私にはもうすることがない。解りきっている虚しい未来に対してどういう態度を取れるかは私の生涯の課題となろう。私は一つも選べない。それ故に私は小市民になる。そして、仮に選べたとしても、私はそれほどの自由なんて欲しくはいないということが、最早よく解っていた。
 ナカノセは続ける。
「猫崎が死んでよく解った。私の想像力そのものに限界があるみたい。私の心は紙一重で戦場の方に残ってしまっている。だから、いつだって怒りが込上げて来る。どんなに素晴らしい思い出があっても、どんなに人に優しくされても、隙さえあれば戦おうとしている。自分の性格に問題があるのは重々承知している。だけど、たぶんそれは、私の心の空白を埋めるためにあるんだ。おかしいのかもしれないけど、私にとって怒りは一番大切な感情なんだね。どうしても。それを常に押し殺して生きてゆくのには限界がある。だったらなるべく、世界のためにそれを使いたいと思ったんだよ」
 ナカノセは情けなそうに笑っていた。
「日本の革命運動はこれから退潮してゆくんでしょうね。ここまで平和になってしまった世の中で革命を志すこと自体が間違いだから。目覚し時計はいつまでも鳴っていれば、いつかは叩かれるわ。皆、どうしたらいいのか解らなくなってきて、意地だけに縋り付いて無茶苦茶なことばっか言い始めている。こんなんじゃ限界は見えてる。残念ながら、時代から逃げ切れない連中なの」
 ナカノセはこれを見ろと、歌舞伎町で拾った拳銃を取り出して、弾を込めた。
「私は平和が憎いわけじゃない。だけど私、これからの日本に居続けたら、最後にはとんでもない凶悪犯になってしまうと思う。流石に、私もそういう人間にはなりたくない。ママちゃまはそんなふうになるために、私を育ててくれたわけじゃないし、イーサー先生だって、そんなことを願っていたわけじゃない」
 パンッと乾いた音が響く。
「猫崎と私が一番結束されているのは怒りだと思うんだ。チュンカベルは記憶を喪失してたどり着くことが多かったでしょ。だけど、最後には戦争を思い出したわ。禊が済んでいないんだって……。チュンカベルは、戦いの苦痛には耐えられるけど、きっと、平和の作り出す苦痛には耐えられるようには出来ていない」
 ナカノセはそう言って、もう一発撃った。意外と小さくて、虚しい音がすると思った。
「チュンカベルは、ハムスタン王国の人間ではないんだね。ハムスタン王国に匿われている妖精であって、自分の生まれた妖精の村は戦争で失われていたじゃん」
「そう言い聞かされていただけでしょ?」
 チュンカベルはハムスター王国の客人で、いつの日か妖精の村に帰る日のことを楽しみにしていた。しかし、妖精の村などというものは本当はなくて、その正体は、ハムスタン王国の研究所で生まれた魔法生物だ。身寄りのない存在であることに薄々勘付いていたのである。
 チュンカベルは悪い奴ではないのだが、トラブルばかり起こしてしまい、平和社会に適合するのが難しい。チュンカベルは、戦死した子供たちの怨念で作られているのだ。
 ある日チュンカベルは、ハムスタン王国の研究所が、大陸の到達不能域にある戦場跡に繋がっていることを知ってしまう――。
 猫崎が世を去ってしまったので、そこから先のことはよく解っていない。
「これは、若気の至りじゃない。もう、一生拭えない私の性格だ。ジョージ・オーウェルがスペイン内戦の義勇兵に志願したように、ママちゃまがハムスター王国の戦争に従軍したように、私もこのままでは死ぬに死ねない。戦争に行かないと、私の中の猫崎は消えてしまう」
「ナカノセ。猫崎は」
「そう。違うね。猫崎の問題じゃない。私が消えてしまうんだ」
「ナカノセ。ナイチンゲールだって戦場にいたのはたったの二年だよ。オーウェルだって、ヘミングウェイだって、スペインにいたのはたった一年足らずよ。あなたは、どこへ帰ってくる気でいるの? ちゃんと予定は立てているの?」
 私の口振りはまるで、砂川へ遠足に行く時のママちゃまのようになって響いていた。
「そうなんだ。そっか……。そういうことは考えたことがなかった。でもイーサー先生は、一生戦争から帰ってくることが出来ない気がするんだ。私がどうなるかは状況によるわ」
「ホームを残しておけば、ナカノセが戻ってこれるとも思ったけど、私、考えが変ったの。ママちゃまも言ってたじゃない。エリザベス・サンダースは、戦災孤児院。戦災孤児が皆、社会に戻ってゆくことになれば、うちのホームは、その役目を終えることになる。関心も薄まっている。それは寂しいことなのだけど、厚生事業である以上、それは望ましいことなんだよ。うちのホームの経営が傾いているのは、時代の宿命だよ。ナカノセ。ハムスター王国の戦争は不幸なことだと思うし、私たちが他人事で済ませていい話でもない。でも、私たちがハムスター王国の戦争の受け皿にまでなってまで、エリザベス・サンダースを存続させようとするのは、大きな間違いかもしれないって思うんだ。それって、私たちのホームを維持したいがために、戦争を利用しているのじゃないかな? 今ならまだ問題はないし、良いボランティアだとも思う。だけど、それは今のところだけだよ。次はどうするの? 難民受け入れを政府を飛び越えて、勝手に推し進めれば、社会の協力はますます得られなくなってゆくし、私たちがどれだけ頑張っても、限界は目に見えている。ハムスター王国の総人口は二百万人もいる。いくら日本が平和だからって、無制限に難民を受け入れるような正義を標榜すれば、それは戦争を呼び込むことと全く変らないことになるし、その時にはもう、責任とってやめますなんて、虫のいいことは言えない。愛の力で黄金の自由がピカーンって光って、みんな幸せになっちゃうようなことは出来ないよ。ママちゃまの言っていたことってそういうことだ」
 私は言おうかどうしようか迷っていたことを口にしていた。
「ナカノセも猫崎も知らないかもしれないけど、ママちゃまがどうして、ホームの先生になろうと思ったかって、上海にいた時に、ゴミ箱に生きてる赤ちゃんが捨てられていたって。一度助けたけど、元居た場所に戻したって。どっかから話が漏れて、散々罵られて、看護婦やめようかと思ったって。村八分になって、梶木先生のところに転がり込んで、働き始めたのはその後の事だよ」
「そんな話、いつ聞いたのよ?」
「この話は内緒よ。ママちゃまは負けることもあるの。この話はホームの理念を揺るがしかねないから、ずっと内緒だったんだと思う。私は、それでもママちゃまのことが好き。本当は内緒なのよこの話は。だけど、あなたには言っておかねばならないと思ったから言っておくことにしたの。ナカノセは、一瞬の正しさを信じていいほど、簡単なことに取り組もうとしているわけではないでしょ」
「本当は、あんたには顔を合わせないで出て行こうかとも思ってたんだ。足引っ張ってでも止めにかかるかもしれないってね。でも、あんたも変わったよね。あんたの話は、聞いておいてよかった。元子。私のこと、革命家だと思ってる?」
「それは、思うよ。私は結局、あなたみたいな人間を他に見たことがないもの。近年の私はあなたに影響を受けたと思う。ママちゃまや、イーサー先生じゃない。あなたよ。物事を考えるようになった。自分の口振りが、考え方が変ってしまった。ナカノセも、猫崎も、私の親友や幼馴染、もしくは姉妹、そういうのとは違うんだって、解ってしまった。それは確かに掛け替えがないことなのだけど、どうも、客観的に見ても、あなたたち二人は、それ以外の部分が大き過ぎる。でも私、革命や戦争なんかとは関係のない、単なるナカノセと単なる猫崎をこそ尊重すべきだという思いは決して揺るがないわ」
「あんたは私の良心。普通の女の子も悪くないって思わせてくれる。必ず戻ってくる」
「はあ。結局行っちゃうんだね?」
「今日の元子は、ほっぺにチュッチュしたいぐらい好き」
 ナカノセは、タコみたいな口先をつくって、私に押しつけようとしてくる。
「やめてよ。そんなキスいらない!」
 思わず平手打ちをかますと、ナカノセは歯で唇を切って、こんな大切な時に、ヒョットコみたいな表情をして固まっていた。
 ナカノセだって花の十六歳なのに。その昔接吻映画と称されて、年齢制限があったので、彼女は依然としてキスをバタ臭い茶番ぐらいにしか思っていない。どっかで下世話な愛情表現であると見なしている。ナカノセにしてみれば、品のないじゃれ合いぐらいにしか思えないみたいだった。学校の女の子たちは、恋愛を性別さえ飛び越えるものとして神聖視しようとして、非常な努力を重ねて変な方向に極まっていたが、ナカノセはこの期におよんで、拍子抜けするほど単純な犬のような愛情を示す。
 ナカノセにはこれしかないのかもしれなかった。
 どうして、こんなふうに育った?
「それで、いつ、戻ってくるの?」
 私が威儀を正すと、ナカノセは細めた瞳の中に、朝焼けの炎を湛えながら、ぺっと血の混ざった唾を吐いた。
「解らない。私が革命家である以上、譲歩出来るのは、ここまでよ」
 去ってゆくナカノセの背中は、ホームに来た時と同じ姿の赤い粒に戻っていった。
 彼女には生命としての独自のエネルギーがある。猫崎が最も参考にしていた戦火の情景は常に、生身のナカノセから導かれた。
 ナカノセが監修に入った後の戦闘描写は、まるで違うものに化けた。紙と墨で出来ていることが信じられないような代物に。それはエルンスト・ユンガーの鋼鉄の嵐だ。セルバンテスのドン・キホーテだ。
 止められるわけもない。私は火の粉が世界に戻ってゆくのを最後までは見送らなかった。

 ナカノセはママちゃまと長崎港で落ち合った。ママちゃまはこの時既に被団連の役員となってホームには園長としてその名を留めるだけの存在になっていた。二人は一緒に昼食をとる予定であったが、上手く時間が合わず、本当に数十秒のことであったという。
 長崎―那覇連絡船の乗降客がごった返す中、二人は擦れ違うようにして別れた。
「ナカノセ。私は成り行きは一行に構わないと思う。だけど、成り行きで死ぬことだけは許さないわ」
 声を探して振り返るも、人垣の向うに、カモメ達が欄干の果てまでずらりと並んでいるばかりで、その姿は見えない。ナカノセは重く濁った海風の中、揺れる強い日差しの中で帽子を振った。
「私は絶対後悔しないよ。ママちゃま。いつか、皆で何か食べに行こう!」
 いつもみたいに鋭く輝く瞳で、はにかんでいただろうか。笑ってなどはいなかったかもしれない。
 燃えるような人生は天与だ。彼女以外に、猫崎の残した世界で主人公を務めることの出来る存在はいない。
 どれだけ正しくても、どれだけ強くても、置換えは効かない。
 ナカノセはナカノセ。
 だからこそナカノセはナカノセ。
 私は、そういうものの観客に与れたことを幸せに思う。
 ナカノセの人生には劇的な場面が多いようなのだ。
 ナカノセは仕方ない。
 チュンカベルめ。
 ナカノセめ。
 ナカノセの抜けた後のホームは、主人公のいない漫画のようだ。

 私はいつの日か、あれから随分と時間が経ったことに気付いた。猫崎もナカノセもいない。自分が、自分だけがホームに戻ってきていることが不思議だった。ラジオ・ピアノの微かな音色と共に、滝沢先生の背中が視界に入った。
 彼は電源の入っていないラジオ・ピアノを弾き倒して、独りの世界に没頭している。
 彼は下界の話なんて一切受け付けない。
 この人はまるで渡り鳥だ。目に付いたピアノに舞い下りるような人生を送ってきた。
 ピアノは楽器ではなく神殿だ。バイオリニストやギタリストとは違い、ピアニストは究極的には自分のものと言えるようなピアノを持てない――。
 電源を入れずとも微かに音階は響いている。外で渦を巻く風の音と合わせているのが見て取れる。時には深夜の貨物船の警笛の音や朝の小鳥の鳴き声に合わせたりする。蚊の羽音は真ん中のソのシャープとラのフラットの間にあるとか、実にどうでもいいことを考えている。この人は、そういう生涯が決して退屈ではないらしいのだ。
 鼻水を垂らした小学生の男の子が「電源入ってないでしょーが!」と怒鳴ってすっ飛んできて、その足下に潜り込んで、ブチンと電源を入れた。
 同時にマイクスタンドにも電源が入って、声がこっちにまで響いてくる。 
「このピアノ音はいいんだけどなあ……。待機電力が冗談効かないんだよ。まるで誰かさんだ……」
「だれかさんって、だあれ?」
「滝沢」
「それ先生じゃん!」
 チビっ子たちは相変わらず滝沢先生が面白いので大喜びしていた。
 電気代なんて、全く気にしている様子は見られない。この先生は、電源入れるのが面倒だったのだ。
「えー、あー、諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、我々は、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように不安である。今日はそんな感じのセッションをやりたいと思います」
 滝沢先生は、小学生や幼稚園児童たちに埋もれて、ほとんど永久であるかのようにピアノを好き放題に弾き倒していた。
 滝沢先生は言う。
 音楽には、表題音楽と、絶対音楽がある――。
 中央アジアの草原は、こう。草原をゆく馬や駱駝の足音を弦楽器のピッチカートで表象する。アルプス交響曲は山の中の激しい嵐を表現するために、わざわざ吊るした鉄板をオーケストラ構成に入れる。音楽は何でも表現出来る。しかし、それらは言ってみれば、何かの真似ごとに過ぎない。そういうものがなくても、音楽には音楽としての実存がある。
 それが絶対音楽だ。




















§ 第四部
















§ 三一 羽賀少佐

 この年、保安学校を二回生でやめたナカノセの行方は一般に知られることがなく、忽然と消えたために、自死したという噂が流れていた。
 しかし、一見全く当てにならないようでいて、その実、信用に値する理由のあったある記事によれば、ナカノセは、高校での生活を代替するようにして、台湾にある工作員養成を目的とした地下大学に入ったと書かれていた。右派転向したという分析と、逆スパイであるという分析が並ぶ。
 誰かに口外することもないが、大学生になっても、私は依然としてナカノセの行方に気を取られていた。コンパの席でも、ろくにお酌をしない女として、ちょっとした変人扱いになってしまっていた。退屈になると、アントニウスが角つきの車で地中を掘り進んで中国まで行く話を思い出したりして、現状のナカノセの動向と重ねる。その方がよっぽど充実してしまう。
 無数のスイッチに囲まれた研究室に怪しい面々が集まり、排気ダクトの陰では猫崎が息を詰め、麦藁帽子を噛み締めながらその様子を盗み見ている。その時、後ろから手が伸びてきてその肩をちょんと叩く。猫崎は危うく声を上げそうになるも、ナカノセは、手際よくその口にビシャリとガムテープを貼り付ける――。
 ついぞ私は漫画を描くことはなかったが、そういう光景が次々と脳裏に浮び、そのイメージを維持するために渉猟を試みることがしばしばあった。どこかで役に立つという思いが消えなかった。
 工学部生の自主ゼミで、機械いじりの話をするのを聴きに行ったことがあったのだが、これは案外、その独特の言い回しを含めて、耳を傾ける余地があった。鉄腕アトムをちょくちょく見ていると白状すると、随分と気に入られて、SF倶楽部やハム研だとかで、淡白な感想文を寄稿したり、申し訳ないほどの棒読みなのに、ラジオ放送のパーソナリティをやったりもした。自分が本質的に快活な方ではなく、間違いなく根暗な性質をもった側であることも知った。
 とはいえ、私には、彼らが好むような、映画や漫画のような修辞があるわけでもない。なんとかニャンみたいな言葉で喋る猫人種がいてぶったまげたのであるが、よく忘れずに習慣化出来るものである。
 アングラ劇団の人たちからオファーがあって、舞台に押し上げられそうになったこともあったが、無茶である。言葉は間違えないが、風情は話にならない。結局、早々に照明やカメラの係にさせてもらった。そしてそれは、私の価値観において、ジレンマというか、ちょっとした問題でもあった。
 というのは、私は、自分が下手でも何でも、最低限度のヒロインをすることは礼儀。礼儀というのがおかしければ、人生における一つの責任であると考えるようになっていたからである。上手くは説明出来ないが、とにかく私はいつまでも猫崎の客のままではいられなかったのだと思う。
 そんな退屈いざ知らず、ナカノセは避けられぬ宿命でもって、猫崎なき後の世界を進み続けていた。

 断続的に地鳴りが響いてくる。薄目を開けて見渡すと、そこは六畳ほどの三和土で、部屋の中央には木製の事務机を合わせて作ったテーブルに椅子が二脚据えてある。入り口の扉から見て、部屋の右奥には何も入っていないスチル製の棚があった。取調室のようだった。
 天井からは裸電球がぶら下がっていて、地鳴りがするたびに電圧に触るのか、電球が微かに明滅した。砲弾が撃ち込まれているのである。
 この時ナカノセは金門島の地下壕にいた。
 金門は中国福健省の岸に浮ぶ、分銅のような形をした島で、大陸側の廈門地区からは毎日のように砲弾が撃ち込まれていた。金門島は四九年の砲戦から約三十八年もの間戒厳令下にあって、一九八七年まで解除されることがなかった。撃ちこまれた砲弾の数は、四九年の八月三一日砲撃戦に限っても、およそ四七〇万発。そのあまりにも膨大な砲弾から包丁――金門菜刀が鋳られて特産品として定着してしまったほどで、歴史的に見ても空前絶後の規模であったという。
 蒋介石率いる国民党政府軍と毛沢東率いる共産党政府軍は、一時は国共合作によって、統一戦線を張り、四五年には日本帝国の敗北によって、抗日戦の勝利をもぎ取った。しかし、その後も、国府と中共は中国大陸の覇権を争い続けた。国民党はアメリカの軍事支援を受けて第二次世界大戦を戦ってきたが、ソ連政府の支援を受けた共産党が優勢を固め、中国大陸における国民党の勢いが陰り出すと、アメリカはその支援を打ち切り始めた。四九年、中国共産党は、抗日戦から続く内戦の勝利によって、中華人民共和国の建国を宣言し、中華民国及び、国民党政府軍は台湾島まで追い落とされるに至る。それが現代の台湾の端緒である。
 蒋介石は食い下がることが出来ないところまで追い込まれていたが、起死回生の策として、旧日本軍の戦力を組み込むことが計画された。特に急がれたのは、戦略を組み立てることの出来る高級将校たちであり、旧日本軍人の佐官から将軍までを含む錚々たる人員を確保するために彼らは動いた。そこに白団が成立する。白団とは当時の台湾に招聘された旧日本軍将兵からなる軍事顧問団であった。
 金門島は台湾の国府軍の実行支配地域であるが、位置関係的には台湾本島から二〇〇キロの距離がある。一方、福健省廈門湾の入り口からの距離は僅か数キロ。大陸の目と鼻の先に浮んでいた。この島はそれでも、台湾、蒋介石の陣地であった。
 島民はいるものの、落ち着くとこのない軍事前線であり、一般の立ち入りは出来ない閉鎖地域でもある。
 中国の西奥に向かったはずの彼女が何故そこにいたのか。それは如何なる経緯であったのか。
 そこが国共内戦の、いや、東西冷戦の最前線である以上は、ただの通過地点とは考え難い。何より当時の日本は国外への渡航制限があり、一般人の海外旅行は不可能だった。年一回の制限つきで海外旅行が自由化されたのは一九六四年、ナカノセが日本を去った後、東京オリンピックのあった年のことだ。またこの年には中国共産党はついに自力での核実験を成功させていた。
 彼女はビキニ環礁水爆実験の追跡調査に公的な身分で参加しているので北海道と沖縄を除いても、金門島は初めての海外旅行ではない。お上に睨まれていたナカノセがどうやって渡航したのは知らないが、どのみち彼女が日本の枠内で済む人間ではないことは明らかであった。よく考えてみれば彼女は、その記憶が残る以前には、中国にいて、横浜へとやってきた人間だ。
 情報を求めて私のところにやってくる記者も幾らかあったが、私とて知りはしない。彼らもまた事態を読めてはいなかった。ナカノセの行方を一番知っていたのはA――ナカノセの橄欖会においてはナンバー2の実力者だった。
 彼が率先して週刊誌に売り込むので、橄欖会は一時期ナカノセではなくAの組織だと思われている面もあった。Aは頭脳派を気取る。頭脳派というより、知能の高い犯罪者のような性質の男で、世の隙を突いて暴力を振るう機会を虎視眈々と狙っているような人物だった。傲慢な冷笑家だが、残念ながら実際、学業においては秀才と言わざるを得ない。大学の三年時に外交官試験を受けて既に中退済。外務省に内定していた。学生運動で派手にアジっていたのに大した掌の返し方である。

 私はこの男のことに関しては論じたくもないのだが、ナカノセとは、その後も因縁があるので触れざるをえない。
 私が最初にAを見た時、Aは教壇の前で友人たちを相手に漫才調子の弁舌を振るっていた。
 冬の夕方の校内を駆けてゆく誰かを気紛れに追って行き、ふっと、電気を消したら、その人が階段から派手に転げ落ちて頭蓋骨折をしたという内容のことを嬉々として語り、周囲はそれを面白がって笑っていた。ちょうどその時、ナカノセがやって来て、ナカノセを介して、お互いを紹介されて、屈託なく会話が弾んでしまい、その時はその異常性を見過ごしてしまった。
 その後、ある日、ナカノセを探しているうちに、Aと鉢合わせになってしまい、あまり望まないうちに、一緒に廊下を歩いていたら、水道の蛇口がきちんと閉じられていなかったので、何の気なしに止めた。
 すると、Aは笑った。何か不気味なものがあったので、たまらず、何がおかしいのかと聞くと、あっちも言わずにはたまらんといった調子で「意味のないことをするとバチが当たる」という奇妙な理屈を陳べ始め、そのうちに、わざと水道を開けっ放しにして「教室でウナギを飼ってる阿呆」の不手際にして、やり込めた挙句、ウナギは水道費の弁償に売り払って、水槽は撤去させてやったという話を、ぺらぺらと詳細極まりなく喋るので、最初は我慢して何か他にあるのかと思って聞いていたが、最後までただそのままの話だった。何が面白いのか解らない。そういうことはいい加減にした方がいいと跳ねつけると、不愉快そうに何か悪態とも言い訳ともつかない反応をして、いつの間にか自分の話ではなくなっていて、そういう悪い奴がいて、自分はそれに怒っていた方なのだという話に変ってしまう。誤解されたとか言う。冗談だとか、陽動だとか、嘘を簡単に信じてはいけないとか、冷静になれとか、教訓めいた態度まで取り始める。
 全体的にサディスティックで皮肉なのが好きな男であるが、必要とあらば猫を被ることに些かの躊躇もなく、歯の浮くようなお世辞を惜しげもなく言ったりもするので、友人にも使い捨ての女にも事欠かない。残念ながら、それを信じるバカはいくらでもいる。一人一票である以上、軽薄なほうが票を稼ぎやすい。どちらかというと目上の人間にも好かれる方で、真だか嘘だか知れないことを平気で言って、実家のリンゴとやらを差し入れたりして取り入るのが得意だった。自称愉快犯だが、実情を知れば知るほどに全く愉快な存在ではありえない。
 ナカノセは決して鈍感ではない。短い間とはいえ、どうしてあんな男と一緒にいたのか。
 ナカノセは最終的にあいつと年甲斐のない取っ組み合いをした。もう片方の見えている方の目を潰そうとしてきたのだという。方やナカノセはAのピアスを引きちぎって撃退したのであるが――。
 週刊誌の類から漏れ聞こえるナカノセの噂はほとんど彼の情報によるが、彼はその実、六〇年安保以後、政治的にきな臭く、カネになりそうなとこにはどこにでも顔を出す手合いになっていた。あえて近付くことはしなかったが、彼が小銭を稼いでいる週刊誌には、不本意ながら目を通していた。
 何より驚かれたのは、十七歳の革命家として、少壮ながら名の知れた闘士だったナカノセが中共ではなく、国府、自由主義陣営と行動を共にしていたことであり、その事実が明らかになると、保安学校出身というナカノセ経歴と相まって、彼女の正体はますます怪しげに見えた。挫折と迷走を重ね、時には世を去ることになった各派の一万人動員能力を有するような学生運動指導者たちと、彼女は同列の存在ではなく、ナカノセは、時代の仇花であると見なされていていた。例外的に彼女が真にシリアスな存在として扱われる場面というのは、決まってホーム出身者であることであり、これには彼女の政治活動に批判的な立場でさえ感傷的な論調を共有していた。
 安易過ぎて滑稽に見えるというか、私は、それを気持ちの悪いものとして見ていた。一言で言うと、違う。人間だから涙を流すことだってある。だけど違うのだ。
 Aはある記事において「あなたたちは、感傷でベタベタにすれば済むとでも思っているんでしょう」とコメントしたことがある。夏の戦争映画特集が、感傷でベタベタになってしまっていることが、もはや笑いを誘う代物であるにもかかわらず、そこに注意がいかない感受性は人として軽蔑に値するという論を長広舌で展開しており、なかなかのキレ者であることは確かだと思う。しかし彼は、一方で、軽蔑を言い訳に何でもやった。
 Aは白団の末端でもあったと思われ、日本の支援団体と台湾政府との、ちょっとした連絡役をしていたが、これを伝手に、その内幕を共産党や週刊誌にも売っていたのだ。
 ナカノセがどういう接点から渡台したのか当初私は推測も出来なかったが、Aのもったいぶった記事から確信を得るに至った。羽賀少佐だ。羽賀少佐は白団の特務だった。白団は、台湾義勇兵問題として、戦後間もなくから闇談めいて新聞を賑わせることになっていたのであるが、無論その時の私たちがそんなこと知るべくもない。日本は四五年、八月十五日、ポツダム宣言を受理し、一切の武装解除をして無条件降伏を飲んだということになっているので、元日本軍の将兵がGHQ指令を無視して、勝手に国外の戦闘に参加するなどということは、完全に国際法違反である。羽賀少佐は、灯台局を引退した後、富士倶楽部という旧日本軍の戦友会を擬した白団の準備組織に席を置いていた。イーサー先生もまた、そこに顔を出していた。私の遠い記憶の底から、ツラン計画という語が思い出されるのは難しいことではなかった。
 羽賀少佐は日中戦争時には、ハムスタン解放戦線のイーサー・エルクを支え続けた帝国陸軍の特務将校である。戦後、中国の少数民族の情勢を熟知した人材と見込まれて白団から声がかかり、大陸へ潜入する工作員の養成を行う学校で教鞭をとっていた。
 反共の防波堤となるべく集った白団の特性からすれば、学生運動組織を率いていたナカノセなどは本来言語道断なのであるが、数奇にも、情勢はこの組み合わせを可能としていた。

 その日の朝方、彼女は羽賀に揺り起こされて、無地の便箋を一枚与えられていた。
「書け」
「何を?」
「繰り返させるな。早く起きろ」
 羽賀はそれ以上何も言わずに、しかし有無を言わさぬ態度で、ちびた鉛筆をテーブルの上に転がして部屋を出て行った。
 目が醒めてきて、ナカノセはそこに自分以外には誰もいないことに気付いた。廊下に出ると、アンモニア臭が鼻につく扉のない便所と、蛇口が一本あるきりの手狭な洗面台があるきりで、あとは何もない。階を上がって地上に出ると、海と対岸が見渡せた。砲弾が音をたてて高いところを飛んでゆくのを見ると、ナカノセは手早く小石を幾つか拾い集め、木の枝を折って適当な長さに整え、そのまま地下に戻った。入り口の上の方には、崩れ落ちたツバメの巣があった。ナカノセのいる場所は放棄された観敵哨のようだった。洗面台の水道を捻ると、水圧の弱い水が出るぐらいで、他には何もない。ナカノセは、ポケットの中に、オレンジスプレッドの袋が一つと、乾パンのようなビスケットが三枚入っていることに気付いてそれを食べつつ、奇妙な暇を凌いだ。
 その日、日が沈んでからようやく羽賀は戻って来た。音もなく廊下に影が差して、扉の内側に踏み込む。
「何をしている?」
「それはこっちのセリフよ」
 ナカノセは部屋に入り込んでくる無数の蚊を叩くぐらいしかすることがなくなっていた。
「羽賀さんこそ何をしていたのよ」
「俺はお前一人にかまっていられるほど暇ではない」
「今何時?」
「当ててみろ」
「……一〇時半」
「二〇時だ」
 朝、羽賀と別れてから十五時間ほどが経過していた。
「紙を返せ」
 ナカノセはポケットから八折りにした便箋を取り出して羽賀に手渡す。
 羽賀はそれを電球の下に翳して黙って読んだ。
「誰が宇宙について書けと言った馬鹿野郎」
 この時ナカノセは、何か相当奇妙なことを書いたようなのだが、たぶん、私と別れる頃、「地球最后の日」や「月世界征服」を見て、宇宙がどうとか遠い未来がどうとか、不慣れな話をしたのが効いていたのだと思う。
「もう一枚やるから書き直せ」
「何なのこれ。試験なの?」
「紙一枚を前にして書けることがお前の考えていることのすべてだと思え」
「でも私は、宇宙について考えていることは少ない。それよりも腹が減った」
「腹の面倒は後だ。十八分で書き上げろ」
「その中途半端な数字は何なの」
「十七分五六秒で書け」
「試験なら、試験だって、最初からそう言ってよねえ」
「八秒はお前が愚図ついたせいで消えた。反省しろ」
 ナカノセは食べたオレンジスプレッドと乾パンの感想や、武器として用意した石と棒のことを書いた。

 羽賀はそれを払いのけると、別の便箋を一枚取り出してナカノセに見せた。
「これを読んでみろ、どう思うか」
「地勢図や作戦を書けっていうのなら、私だって書いたわよ」
「しかし書かなかった」
「これ、誰が書いたの? 何で英語なの? これ書いたの女でしょう?」
「何故女だと思う」
「なんとなくそう思っただけよ」
「次。これを読んでみろ」
「誰これ」
「誰だか当ててみろ」
 ナカノセはざっと斜め読みして切り上げて、便箋から視線を上げた。
「犬吠埼」
「正解だ」
 犬吠埼のレポートには、今の中国の分析。国際情勢として今年何が起きると懸念されるか。このまま行くと三年後の自分が何をやっているか。ナカノセのことを、あの子はまだ子供なので、身分保証はどうなっているのか等が書かれていた。
「犬吠埼もここに来ているの?」
「ここにはいない」
「どこにいるのよ。本人の了解は?」
「犬吠埼は腹をくくっている。だが、問題はお前だ」
「一つ言っておくけど、私はあんたたちにどうこう言われるまでもなく大陸には渡るつもり。だけど犬吠埼は問題だと思う。イーサー先生は無理を頼み過ぎてる」
「我々は犬吠埼にそこまでの無茶をさせる気はない」
「そういえば沖ノ島は今どうしているの? ちゃんと釈放されたの?」
「沖ノ島では目立ち過ぎる。あいつは一時は紅卍会の領袖だった人間だ。そんなのがうろちょろすれば流石にどんな間抜けでも気付く。齢も十三歳には見えん」
「十三歳?」
「西綏省のある公社で身寄りのない老婆の親戚が戻ってくることになっていたが、呼び出している当の老婆が死んだ。親戚というのは老婆の息子とその娘だ。二人は、傲慢なポルトガル人走資主義者たちの手元から逃れ、我等が太陽、毛沢東に帰依するために戻ってくるという筋書きだ。父親の年齢は四五歳。娘の年齢は十三歳」
「何よそれ。まさか、私をその娘役に仕立てようっていうんじゃないでしょうね」
「その通りだ」
「私が十三歳に見えるかしら」
「中国の農村では、二、三歳の曖昧さなど然したる問題ではない。それよりも、」
「私一応、十七歳になるんだけど?」
「嫌ならやめろ。いや、不満があるのなら、これは降りてもらわないと困る」
「行く。私の不満は説明の不足であって、行くか行かないかの問題じゃないわ」
 ナカノセがあっさり事態を要約してみせると、羽賀は諦めて、あるべき問答を打ち切った。
「ついては澳門を見て来い。俺は準備がある」
「マカオってどこ?」
「犬吠埼の描いた地図を見てみろ。お前の描いた地球は大雑把過ぎる。まるで泥饅頭だ。世界は空想の産物じゃない。現に存在することを解れ」
 ナカノセは口を尖らせて、不満げな表情を見せたが、羽賀は意に返さずに続ける。
「澳門の聖パウロ聖堂跡に紅卍会の関係者を待たせている。今から七日以内に合流して、目印を受け取って戻って来い。スケジュールが詰っている。お前が予定通り戻ってこない場合、お前を置いて進む。俺はお前を連れて行くことには反対だったが、作戦には沿う」
「紅卍会って中共の仲間だったんじゃないの?」
「ちがうな」
「沖ノ島は、何を考えているの? 国府のスパイになったというの?」
「あとは本人から聞くがいい」
「本人って……」
 ナカノセはそれを聞いて総毛立った。
 沖ノ島がすでにこの作戦に合流しているのだろう。それはいい。しかし、誰がそんなことを許しているのか。国だ。ソ連と中国でないなら、それはどこか。日本政府は白団をまともに認知していない。白団の支援を要請した台湾は当然であるが、この作戦の背後についているのはアメリカということになる。それ以外考えられなかった。






§ 三二 真昼の暗黒

 夜。暗い廊下を痩せた清掃夫が足早に進んでゆく。廊下の突き当たりにある部屋から薄暗い光が漏れているのが見えた。扉はない。プチブル的プライベートを叩き潰すために、部屋の扉という扉は全て剥がされて炊きつけにされてしまったのである。清掃夫は部屋の入り口にモップを立てかけると、それと解るようにリズムをつけて四回ノックした。
「どうぞ」と女の声がして踏み込んだ部屋の中には、「階級敵を踏みつけよう」とか「逃亡は身の破滅だ」などと書かれた大字報が壁という壁に、天井にまで回りこむほどに貼り付けてあるのが見えた。
 大字報というのは、字面の意味としては壁新聞のことであるが、実際には、激語調の政治的な標語を書いたポスターのことであり、つまり、プロパガンダのことであり、それ以外であることはない。それが壁じゅうに、隙間なく張りつけられているのである。
 部屋には椅子もなかった。女は薄暗い部屋の中で、前屈みに机に向かい、書類を作っている。カーテンもない。窓の外に目をやると、暗闇の中で十歳前後の一組の兄妹が牛に歯磨きを施してやっている最中だった。二人は仕事を終えると、集めた牛糞の中から消化されていないトウキビを素早く集めてバケツで濯ぎ、それぞれ口に啜り込んで、そそくさと立ち去っていった。
 清掃夫はそれを見届けると、薄暗い部屋の中に進み、低く押さえた声で伝える。
「羽賀から連絡が入りました。もう一人来るようです」
「もう一人?」
「沖ノ島さんではありません」
 女はもの書きをする手を止めて、清掃夫の方に振り向いた。
「腕に印があるそうです」
「どういう意味?」
「解りません」
 二人は暫し困惑したような表情で、互いを見やったが、すぐに切り上げた。
「これを」
 男はそう言って、懐からピンポン玉ほどの大きさの卵を次々に取り出して、女に差し出す。
「困る」
「何が困るんです?」
「こんなに貰うわけにはいかない。約束と違う」
「それは鳩に言って下さい。私は自分の分は十分です」
 女は眉を寄せて首を横に振る。
 男は意に返さず、ゴミ箱から紙屑を引っ張り出して鳩卵を包むと「早くしまって下さい」と言って、逃げるようにして部屋を去った。
 ここは、かつてはロシア人宣教師の館であった。ロシアの宿坊では聖画(イコン)を天井の東の隅に蜘蛛の巣をかけるようにして飾る。訪問者は玄関を通る時に、このイコンに礼をしなければならないのであるが、イコンを納めていた場所には今は毛沢東の肖像が填め込まれ、笑みを湛えていた。
 老鉄山は自分も帰り支度を始めた。明日は終末で深夜まで批闘大会がある。

 翌朝、老鉄山は驚愕と共に目を覚ました。いつの間にか机の前で居眠りをしていた。冗談のような世の中で、自分の体力も判断力も限界にまで差し掛かっている。
 目の前には杖を突いた女がいた。この病院の最古参である精神病の患者だ。女はもう行かないとまずいのではないかと、心配というよりは、疑念の声色で何ごとか言い、床で眠りこけていた老鉄山の目を覗き込んでいた。
 窓の外では、既に長い行列が出来ており、第四生産隊と書かれた腕章を腕に巻いた先頭の赤旗に続いて、農民達が製鉄所に向かい始めていた。
 老鉄山は急いで立ち上がるも貧血で目を回して、床に手をついた。外は晴れているのに、真っ暗だ。視界が一向に戻らないことに最早戸惑いはない。しかし、革命という名の日々の絶望を思い出すと、やり切れなかった。ここは人民の天国、中華人民共和国だ。
 人民共和国とは何と皮肉な響きだろう。この奇怪な話は、どこから説明すればいいのか想像もつかないほどだった。一たびそれを口に出して、題目と事実を付き合わせて問うようなことをしたならば、瞬く間に身の破滅を齎す。
 老鉄山は思い出す。そうだ。昨日、彼から、阿Qから卵を貰った。貧血で目を回すようになったと零したら、阿Qは自分の分を割り引いてまで、卵を持って来るようになってしまった。
 老鉄山が慌てて、それを探していると、不意に自らの袖口から転がり出てきて、冷や汗をかいた。これ以上間抜けなことをやっていると死ぬ。批闘大会で嬲り殺しになる。来年、いや来月生きていなくても不思議ではない。それが今の自分であり、今の中国だった。ここは精神病院の名を借りた監獄だった。罪状を与えることが困難な、つまり毛沢東思想を盾に正論を唱える者を精神が病んでいるから治療しなければならないという理由で入院させるのである。主な標的は、戦中において、共産党以外の政党に席をおいていた者たちで、紅卍会もそのうちに入る。米帝資本主義の走狗である国民党員は論外であるが、民主建国会や、至公党、九三学社等、共産党の亜流や衛星政党にいた者が多かった。それ以外でも、中国の精神病院とは党に都合の悪い人間の隔離施設であり、精神病院に限らず、その程度に応じて、隔離する施設というものが無数に存在していた。監獄国家というのは比喩ではない。
 女がふらふらと身を揺らす影が背後の太陽を瞬かせる。女は老鉄山の意識がはっきりするのを黙って待っているようだった。






§ 三三 纏足の女

 女は生まれつきの麻痺で、姿勢をじっとしていられず、言葉も聞き取りづらいが、実のところ、精神は狂ってはいなかった。むしろ、その病を補うかのように正常過ぎるほど正常な判断力を有していた。そして、女はその持病によって「身の破滅」から逃れることが出来る立場にあった。老鉄山は時にこの女が、必要とあらば気が触れている素振りさえすることを見抜いていた。
 女は纏足をしていた過去があり、それが不安定な足元を更に覚束なくさせている。
 纏足は、幼少期から足を布できつく巻き、成長を止める専ら女児にだけ行われる中国の風習であり、纏足を施されて育つと、ただ単に足が小さくなるわけではない。親指以外の足は内側に巻き、土踏まずは屈折し、普通の靴は履けなくなる。
 纏足は中国最後の統一王朝である清朝では既に旧弊と認識されて、法的に禁止されるようになったが、それが一掃されたのは中華人民共和国が成立した後のことであり、数を減らしつつも残り続けていた。纏足は三寸金蓮と称され、女性の美しさの象徴でもあったため、そう簡単に人々はやめなかったのである。何より、足を纏足にしていないような女は「まともなところ」へ嫁ぐことが出来ず、女の人生に影響した。
 施術は一種の人体改造であると言え、まず石で足のつま先の上の関節を骨ごと打ち砕くことから始まる。無論麻酔などは使わず、女児を縛り付けて行われる。これが中国全土において、特に漢族を中心に広く行われていた。
 途中で纏足をやめようとすれば、曲げられた足指の骨が元の形に戻ろうとするので、それもまた苦痛を伴うことになる。それ故、一度纏足を施せば、基本的に一生そのままである。
 フェミニストならば、これを、抑圧された女の歴史と言って喝破するであろうが、しかし死者を出しつつも行われた男性器を全部刈り取ってしまう宦官の制度も引けを取りはしない。
 これらは主に中華文明圏にあった文化であるが、流血を伴う洗礼が他の地域にないわけではなく、そういうものはむしろ歴史においては普遍的なものですらある。アブラハム圏における割礼の類も含めて、虚勢と要約することが可能だと思うが、纏足は女が嫁ぎ先から逃げることを防ぐために行われていると考えれば、単なる無知蒙昧の産物というものではない。性的自由の制限ということは、人道的であるとは言えなくとも文化的と表現することは間違いではないからであり、むしろ文化そのものに懐疑は向けられなければならないだろう。
 ママちゃまが上海で靴を買いに行った時に見た子供用の靴というのは、本当は纏足であって、子供用の靴などではないと羽賀は言った。
 纏足は三日に一度消毒を必要とし、放置すれば足先が腐りかねない。人々がどれだけ軽蔑しても、これは彼女のせいではない。老鉄山は可能な限りその手伝いをしていた。しかし如いて口はきかなかった。彼女も不必要な身の上話などはしなかった。下手に関係すると、誣告の対象にされかねない。手を差し伸べる相手を、犠牲にでもしなければ、生きてゆけないような不条理がお互いに幾らでもあり、病院では、子供や障害者を使って嘘の供述をさせて魔女狩りをするという手段がまかり通っていた。
 いつかこの女を原因として、自分はトラブルに巻き込まれるであろう。その程度次第では最早正気を保っていることも出来なくなる。そうでなくともこの女は、自分に何かを言おうとしては口を噤んできた。そんなことを漠と思っていると、拍子抜け――奇妙な声が耳に入った。

「本を貸してください。私は退屈しています」

 女は、確かにそう言った。この短い意思表明のうちにあらゆるものが含まれていた。この女は、戈香蓮は字が読める――。この村の識字率は低く、公称四割だが、老鉄山の実感では、男でもまともに読み書きが出来る者は一割いるかいないかである。
 戈香蓮の突然の申し出に、老鉄山はたじろいだが、よく考えれば驚くには値しないことであった。育ちは隠せるものではない。廃れてきた世代にあるにもかかわらず纏足をしていることや、争いごとを好まない気性の穏やかさは、落ちぶれた身の上ながらも、かつてはどこかの令嬢であったことを窺わせた。
 何より慌てさせたのは、老鉄山がかつて闇市で買った本を隠し持っていることを彼女が見抜いていたことである。この女の目は節穴ではない。
 老鉄山は戦後、看護婦から医者になった。赤脚医と言って、適性のある学生を半農半医学校に集めて、野良仕事の合間を縫って限地医を速成するのであるが、元より老鉄山は、沖ノ島の代理として、医術のみならず、祭祀、布教、講話、諜報、曲芸その全ての技を継承してきた人物である。
 老鉄山は場数は踏んできたが野戦病院での活動が主で、こういう人物と出会ったのはこれが初めてだった。少し様子がおかしいとなれば、当時の中国では、殺してしまうことが多い。女児なら尚更だ。女は先天性麻痺の身の上でありながらも、動乱の時代の中、数えられない戦乱を潜り抜けて生き残り、このような村に流れ着いたのである。
 老鉄山はこの女の運命を思う。この女と距離を詰めれば必ずや面倒なことになるが、効し難く同情しかけている。労いの言葉をかけることすら憚っていたが、否応なく、その生き様から鋭い啓示を受けていた。
 そのとき部屋の外で鍵束がチャリチャリと鳴る音がした。李堅だ。李堅はこの病院の主である。戈香蓮は突然発作を起こしてその場に倒れこむ。老鉄山はほとんど本能的に卵をガーゼ壷の中に隠して、彼女を介抱するふりをしていた。この国の民は皆、芝居をして生きている――。
 李堅が踏み込んできて怒鳴りたてた。
「何をやっている!」
「過換気症です」 
「クソッ またこいつか! さっさとしろ! これ以上役立たずだと、お前とて問題だ鉄梅! また尋問に合うぞ!」
 戈香蓮はかつてこう言った。毛首席のお陰でようやく、このような旧習から解放され、今は足が成長している最中で、その激痛に耐えている。これは革命に伴う通過儀礼である。苦顔と笑みを交えて、たどたどしくそう言ってみせれば、人々は、何よりこの病院を取り仕切っている李堅は満足した。実際には纏足を元に戻すのは無期限に延期されているが、そんなことはどうでもいいのである。李堅は都合のいいことを喋る患者を集めていたので、戈香蓮を軽蔑しつつも、まだ捨てはしない。

 李堅は上海で苦学して西洋医学を学んだ男であるが、志は歪んでおり、出世にしか興味を持たない。革命中に上海の診療所を乗っ取り、共産党軍に売るために患者を追い出した。この功績により多大な「実績」を手に入れたのであるが、然したる実力はない。無論人命には関心がなく、前任の病院長であった老中医を陥れて人民の手による処刑に持ち込むことに成功し、ついに一国一城の主となった。新生中国においては医療知識をもっていることよりも、革命的であること、即ち道徳的であることの方が重視された。
 老鉄山は、今は李堅の右腕となって、手術から事務、運営までを任されている。まともな知識と技術を持った医者は老鉄山をおいて他にはいなくなっていたが、老鉄山は病院長の肩書きを固辞し、朝鮮戦争以来看護婦が本分であることを強調した。あまり身を窶しても危ないが、身分を上げすぎても危ないのである。何より人を虚偽と密告で罪人にでっちあげて、生き残る業を使わなければならない。でっちあげという言葉を厚顔無恥にして残酷無比な方法ででっちあげている当の本人たちが常々使っており、もはや、言葉が言葉としての機能を喪失していた。
 李堅の前の老中医の下に若い書生がいて、これはかなり有能であったが、李堅といがみ合って、張り合ううちに自らも傲慢で臆病な態度を身につけるようになり、荒んでいった。
 老鉄山はその教育を受け持っていたが、ある日、この書生は老鉄山に迫り、それを拒否されると「学べることを学んだらお前は用済みだ、あんまり調子に乗るな」と、汚い笑みを浮かべて捨て台詞を吐いた。そして、まもなく病棟の壁に自ずから頭を叩きつけて死んだ。撞墻自殺――壁に向かって走って、思いっきり頭を叩きつけて割ったのである。その後、彼の死体は、反革命的罪人の末路として、拷問用の木枠にはめ込まれて晒されていた。革命において自殺は犯罪である。革命に失望したことを示す態度だからであり、唯物論ながらその求道性、否、強迫性は原理主義的な宗教にも比類しうる。
 これは中国の古典的処刑術の一つであるが、彼らは木枠よりも火刑を恐れた。火刑は霊魂が残らないと信じたからである。マルキズムは唯物論であり、死後の魂の存在などというものは決して認めないが、実情は違う。
 書生が死んだために増えた仕事で老鉄山は、前にも増して疲弊した。目の前が真っ暗になるとは言うが、これもまた比喩ではない。慢性的に貧血気味で、視界が急激に暗くなって、身動きが取れないことが増えたのはその頃からだった。万一自分が病院を取り仕切ることになったら、もう、体力が持たない。
 老鉄山が立ち上がると、心配しなくていいと言いたげに戈香蓮はその腕を杖で叩いて、かすかに笑った。何だか解らなかったが、恐らく、老鉄山の知らない何か、古典京劇の真似事をしたのだ。いいや、この女が古典京劇の系譜を引いているのだ。その人生のうちに。
 この女が障害を持っていなければ状況はかなりマシだったろう。希望さえ持てた。いいや、この女が健康であればここには来ていなかったはずだ。意味のないジレンマだ。理路の縺れた空中楼閣に不意に意識が飛びそうになる。
 老鉄山はふと、常に自分がこの種のジレンマを抱え持っていることを思い出した。沖ノ島と共に戦ってきた日々のことだ。沖ノ島が中国人であれば、今でも一緒に戦っていたに違いない。そう思えば思うほど、中国が惨めになってゆく。沖ノ島は大和朝廷に滅ぼされた出雲国王家の末裔であり、日本人ではないのだ。それが、紅卍会内での彼女の公式プロファイルであった。そんな見え透いた嘘をつこうとも、彼女が自分たちの仲間であることは間違いなく、皆その本音こそを信じていた。だが、仮に沖ノ島が今の中国に来ても最早手遅れだ。何も出来ない。険しくとも希望に満ちていた日々に傷がつくことになるのにも強い抵抗があった。
 ――誰かいないのか。中国には何故誰もいないのか。六億もの人がいて、何故ここまで落ちぶれることが可能なのか。
 現実を思い出すと目の中に膜が張り付くような不快感があって、何度瞬きをしても消えない。
 突然、何を思ったのか、目の前の女は、戈香蓮は意外なことを言った。
「男なんてものは信用ならない」
「そうね」
「嘘おっしゃい。阿Qはいい男じゃない」
「阿Qは、そうね。訂正するわ」
 何が言いたいんだ。戈香蓮が自分をからかっていることに気付いて、老鉄山はまたしても驚いた。
「何を言っているのよ。革命に触る」
 老鉄山が身支度をして急いで出て行こうとすると、戈香蓮は言った。
「出て行くのなら、本を譲って。あなたは私の希望になる」






§ 三四 批闘

 日中十二時間に及ぶ労働が終わると朝の出来事が昔のことのように感じられる。しかしまだ終わりではない。
 工場の窓から西日が差し込み、熱気の中を塵が舞っていた。ここは、かつての地主の館を改築して作られた製鉄所で、部屋の壁は全て取り払われ、幾本もの柱が視界を遮っている。最奥には木箱を積み上げて造った演台があり、そこには三人の男が横木に吊るされて、散々に殴られていた。
 家主は既に一族郎党一人残さず処刑されており、その罪状はあたかも遺訓であるかのように演台の左右に張られている。
 飢える村人の前で食い物を牛に食わせて悲嘆に暮れさせた。飢饉の時に年貢を下げずにあろうことか村人を並べて鞭で打った。火事に際しては土のついた足で座敷まで上がって助けに来た村人を斬り殺した挙句、決してその誤りを認めようとはしなかった等々、その罪状は左右合わせて百項目を超える。その多くは今の中共のやり方と大差ない悪辣さだが、それに疑義を挟む者は皆無だった。
 ここでも毛沢東の巨大な肖像画が台の上の天井付近に架かっており、薄暗がりの中から、穏やかに笑みをうかべて人民を見守っていた。

 耳を劈く「チャンピー!」の掛け声とともに、木銃で後頭部を衝かれ壇下に蹴り捨てられると、散々に踏みにじられ、また台の上に引き上げられ、いつ終わるとも知れぬ死刑の予行訓練が繰り返されていた。
 批闘はおよそプロレタリア文化大革命において行われるようになった儀式であるが、その前駆となる大躍進期において、それは既に始まっていた。
 吊るし上げられている三人の罪状は食物隠しであるが、実際に食物を隠し持っていたかどうかは問題ではない。
 老鉄山は思う。何故こんな下らないことをしていなければならないのか――。こんな最中で、あの障害者に本を譲るにはどうすればいいのかなどと二の次のことも思う。阿Qに卵を返すよりはあの女に分けてやるべきだろうか。そう思った自分は何故そう思った? あの女に全部ばれているからか? むしろ禁を破ってでも、あいつを殺すべきなのではないか。その場合、何の禁を破ることになるのか。自分はそもそもクリスチャンか――?。
 恐怖と倦怠が分離して結びつかずに、怒号と殴打の中を浮遊しており、現実感がなかった。不意に、ブチンと音がするのが聞こえた。吊るし上げにされている男の足の腱が鋏で切られたのだった。
 自らの体に行われた刑罰に遅れて気付いた男は、弛緩した頬を震わせて、ブタのような悲鳴を上げて、観衆のうちにどっと笑い声が上がった。それから、誇り高き処刑人は、来週までにまだ反省が見られないならば右の足も切ると声高に宣言した。
 これであの男は、ますます働けなくなる。そしてそれが反革命罪に問われる。現行反革命罪を実践中と札をかけられるのだ。あの三人を引き取って治療をしなければならない。老鉄山は大八車を用意して待っていた。あれでは夕飯どころではないだろう。しかし奇妙なことに、彼らへの配給は継続されており、規定の労働点数も入院する権利も有していた。腱を引っ張り出して牽引して接合するのは大変だ。それをろくな麻酔もかけずにやらねばならないとは、まるで自分は獄卒だ。批闘大会では、吊るし上げにあった人間が毎度、打擲されて怪我をするので、老鉄山は、その治療に明け暮れていた。そのために自分は生かされているだけなのかもしれない――。手術室は、拷問や虐待を続けるために治療する場と成り果てていた。
 老鉄山は、周囲に合わせて眉を怒らせ、怒号を重ねながら、日が沈むのをひたすら待った。いつの間にか背後に阿Qが来ていて、黙って群集を見ていた。不思議なことに誰も阿Qの無参加ぶりを咎めようとはしない。工場の脇につなぎ止められた牛が阿Qと同じ表情で黄昏ていた。
 この村の宝である工場の裸電球十二灯はゆらゆらと頼りなげに明滅して消えてしまいそうな素振りを見せた。どうやら発電機の調子が悪いらしい。日が落ちればそこでお開きになりそうだった。発電機は党中央から貸与された「人民のもの」であるので、壊したりなどすれば、下手すると工場長や重役たちでも身が危うい。村において電化されているのは現状この工場だけだ。工場長は、不幸な人々を吊るし上げにしつつも、発電機の修理が気がかりで、それどころではなくなっていた。そのためこの日の批闘大会では、不安の影を貌に映す工場長と、体罰に生きがいを見出しているかのような処刑人との間に奇妙なずれがあった。

 村では十キロ離れた河で水力発電所を建設中である。水量の少ない冬の間に開始されるが、春になると雪解けで水嵩が増して決壊するという状況を二年連続で繰り返している。今年は省主席の視察がある都合で、どうしても完成させねばならないことになり、無茶な突貫工事のために事故はますます多発していた。阿Qなどは水利権と電気の恩恵からほとんど排除されているのにもかかわらず、この水力発電所の建設工事に駆りだされている。
 阿Qたち教育中の二百余名の集団は工事現場から三日に一回帰ってきて批闘に加わることになっているが、最近は工事現場でも批闘大会がなされており、連絡要員以外は、現場から帰ってくる日が週に一回に伸ばされるようになってきた。
 ようやく批闘大会が終わり、引き摺られてきた罪人たちが台八車の上に乗せられた。一人は頭が瘤だらけで意識がない。生きているかどうか確認すると、既に疲れ果てて眠っているようだった。足の腱を切られた方の男は焦点が定まらない目で、はあはあと呼気を漏らし続けていた。比較的損傷の少ない三人目の男は「自分が車を引きます」と言って、飛び降りようとしたが、老鉄山はそれを殴りつけて、台に伏せさせた。
 ここまで徹底的に侮辱され、痛めつけられているというのに自分がそれを恨んでいないばかりか、革命のための避けられない洗礼であると信じ、その誠意を信じてもらおうというのである。
 老鉄山が無感情を装って台車を引っ張ろうとすると、車輪が溝に嵌って動かない。もう一度踏み込んでみるが全く動かない。力が入らなかった。素早く阿Qが背後に回って台車を押すと、老鉄山は急に前のめりになって、足がおかしな方向に拉げそうになった。雲の向こうに、眩暈の向こうに、星が掠めたが、それが本当に世界に存在する星であるか、自分にしか見えていない眩暈の粒であるか、判別がつかなかった。
 病院にまでたどり着き、患者を中へ運び込むと阿Qは低い声で告げた。
「何もなければ来週には来ます。恐らく視察の連中と合流してくるでしょう」
「手紙が」
「はい。私の小屋を見るのなら、今日明日をおいて他にはありません」
 この頃の中国では人民には休日というものがなかったが、老鉄山は特別に日曜日に限り、ダムの工事現場に巡回診療に行くことが許されており、土曜日の夕のうちに出発することが許されていた。しかしそんな体力は残されていない。何より患者の状態が酷い。先週と先々週の批闘大会の患者がまだ回復しておらず、うち一人は死んだ。
 老鉄山は事実を思い返すうちに、返事さえ出来なくなっていた。
「どうしますか」
「アキレス腱を切られた患者を治さないと」
 辛うじて口から出た言葉が言い訳にすぎないことは明らかであった。
「わかりました。最悪、出たとこ勝負です。これ以上消耗していると、先がないですから」
 阿Qは河で捕まえた魚をすり潰して焼いた団子を懐から取り出して、老鉄山に渡した。
「何とかなりますよ」
「ありがとう」
 老鉄山は急速に襲ってくる眠気の中で、自分の口から言葉が発せられたのかどうかはっきりしなかったが、阿Qが自分の頭を撫でたのだけは解った。






§ 三五 民の由来

 老鉄山は思う。阿Qは私を裏切らないが、私はたぶん無理だ。自分は没落したが、阿Qは成長した。信じられないほどに。
 老鉄山は、まだ中国に無数の戦いがあって混乱はしてはあれど、迷走はしていなかった頃を思い出す。
「殴り方にも殴られ方にもコツがあります」
 そう言って一人二役で、殴ったり、殴られたりを演ずるこの奇妙な男を、外宣用のバンドネオンの箱に座って、老鉄山は胡散の目で見ていた。
「どちらもあなたに見えるわ」
「その通りです。私は毎日九九回は殴られて、一回は殴り返します。今の中国と同じです。しかし、」
「あなたまで美保みたいなことをするのね。そういうのは誰に教わるの?」
 辻診療から戻ってきた沖ノ島が、設営中の天幕にひょいと顔を出して微笑む。
「おいらは生まれつき殴られる運命なんです。でも私が、それを演技みたいなもんだと解ったのは、映画を見せてもらってからです。いつか、あ、まあいいや。なんでもねえ。こんなこと」
「何よ、言い出したことは、はっきり言いなさいよ。約束したでしょう?」
「最近は、どうも舌が滑っていけねえ」
 阿Qは、シャツを引っ張り上げて口を拭い、打擲されるのを警戒して肩を窄めた。
「そんなに用心しなくても、私は叩いたりしないわ。あなたが何を思っていたのか教えてよ」
 阿Qは薄目を開けて、災難が去るのを待っていたが、沖ノ島は睨んだまま阿Qの前から動かなかった。暫しの沈黙があって、決して逃げられないことを悟ると、阿Qは、口を結んだまま、自分が今しがた何を考えていたのかを、ぶつぶつと白状する。
「私も、ひょっとしたら、映画の中に出る日が来るのかもしれないと思ったら、それも無駄じゃない気がして。ほんのちょっとの脇役でもいいんです。ちょっとでも、何かに残りたいだなんて思っていて」
 教祖が微笑むと、年老いた少年もつられて、表情を崩す。恥じ入ったような表情で卑屈な照れ笑いを浮かべる口元は、殴られ続けて、歯がもう半分も残っていないが、この男は、まだ自分の身に三十年来降りかかり続けた不幸を自らが訴えるほどには理解していなかった。時に面白半分に自らの残酷な半生を語りさえする。安易な三文芝居しか知らない人生が、自分の人生を喜劇であるとしか認識させないのか、それとも生まれつきの喜劇主義者であるのか、そんなことは彼にとってどうでもいいことだった。練飴や酒が一杯飲めることが何よりも幸せなだけの人生が、既に半分を過ぎようとしていた。
「へっへ。無理ですよね」
「無理じゃない」
 沖ノ島はほとんど怒るようにして即座、その言を修正した。それからほとんど天性の声色で擽る。
「きっと、そうなのだと思っていたところよ。ニュース映画の監督を連れてきたから、会ってきて。先週の乱闘の再現をしてほしいって」
 それを聞くや否や阿Qは瞬く間に天幕を飛び出していった。
 カメラの前で一演説ぶっている香港から来た若い映画監督は、しがみつくようにして手を突き出してくる中国人の男に慄き、凄い体勢で身をかわした挙句、肥溜めに転げ落ちた。殺されると勘違いしたらしい。
 カメラはあさっての方向を向いて、空を舞っている鳥を映し出し、老鉄山の奏でるバンドネオンが滑稽な顛末に合わせて悲しげな音を奏でている。夏だったが、曲はピアソラの冬だ。
 カットに決まってる。そのままならば何でもない一コマだったが、これがニュース映画の休憩時間中に放送されると、阿Qは、観衆の笑いを一身に浴びることになり、期せずして念願を果たした。後に、チャップリン並だったと喝采を浴びたが、阿Qは、何のことだか解らず、ただ、照れ笑いを続けるだけだった。この時の阿Qはまだ、世界的喜劇俳優のチャップリンの本名さえも知らなかった。

 阿Qは武侠映画を好んだ。というのも、阿Qが生まれて初めて見たのが「上海侠雄伝」という九十分弱の白黒映画であったためである。それが彼が最も好んだ映画であった。上海侠雄伝は戦前の上海を舞台に、車引きの建民青年が、黒幇という中国を蝕む巨悪と戦う話である。
 映画を只で見せてくれる場所は稀である。紅卍会で上海侠雄伝をやるとなると、外部には何の宣伝もしていないのに、どこからか聞きつけた人々で劇場は黒集りになった。沖ノ島はただいるだけでも人目を引くが、人を集める手腕においては更なる天才ぶりを発揮する。この映画は当局から睨まれて上映出来なかったフィルムを、沖ノ島が手に入れてきたものである。トーキーで、音声が入っておらず、脚本も喪失していたが、沖ノ島が台詞をつけて生き返らせた。
 この時の上映会は、上海の出資者向けのものであったので、沖ノ島はごく少数の人間にしか知らせていなかったが、どこから聞きつけたのか、物欲しげな間抜け面を下げて阿Qが現れた。後に阿Qに聞いても、阿Q自身、どこで知ったのか覚えていないという奇妙な状況であった。
 銀幕の中の建民青年は貧しいながらも前を向いて生きる好漢で、どんなに追い詰められても持ち堪え、何度倒れても立ち上がってくる。本当は降龍十八掌の伝承者であるが、十八掌はその全てが掠っただけで人を惨殺してしまう殺人拳法である。武器を使うより遥かに強いが、これを使い続ければ、たとえ相手が悪党であったとしても、使った分だけ人の心を失ってしまうものなので、滅多なことでは使うわけにはいかない。
 建民は常に空腹を抱えており、十八掌を使わないと女子供に負けかねないほどの非力な男であるが、巨悪に立ち向かうことに躊躇はない。尋常ならざる気力に相手が怯むと、建民は、ここぞとばかりに啖呵を切って屈強な刺客たちを次々となぎ倒してゆく。
「お前を一発殴り返すためだけに死んでも悔いは残さない」
「あなたが自分のために怒れないというのならば、俺がかわりに怒るだけの話だ」
 大仰な啖呵が来るたびに観客席から割れんばかりの声援が上る。胸が透くという。喜怒哀楽は単純だが、その緩急は絶妙で決して飽きさせない。同時代に生きた中国の大衆の願望を申し分なく表現していた。
 しかし、この日は上海の中上流階級の出資者たちが中心の上映であったので、客席は閑散としていて、他は、運良く暇をもらえた使用人や、その家族が小さくなって暗闇に紛れ込んでいる程度のものだった。
 映画が終盤に差し掛かった頃、建民青年は、摩天楼のエレベーターの中でてんてこ舞いになって変装する。間一髪でコックに成り変わった建民青年は、殺気立つヤクザたちの間を何食わぬ顔で平然と突っ切ってゆく。
 エンドロールが回り始め、建民は黄浦江に浮かぶダルマ船での生活へと戻ってゆくことを悟りつつも、ヒロインの蘭芳が自由になれることに満足して、気の抜けた口笛を吹く。
 しかし、ビルから出てくる建民を屋上から狙っている刺客がいて――。
 その時、沖ノ島と老鉄山の後ろに座っていた阿Qがガタンと突然立ち上がって、映画の音声が霞むほどの怒鳴り声を上げた。
「気をつけろ! 上にいるぞ!!」
 そこが映画館であることや、それがフィクションであることなどは、問題ではなかった。阿Qは画面の中の建民青年に、必死に伝えようとしていた。つられて横にいた数人も立ち上がって、それぞれに叫んで建民に敵の企みを知らせようとしていた。
 阿Qに限らず、近代化に立ち遅れていた当時の中国の映画館ではこういうことが一度や二度ではなかった。人々は良くも悪くもシンプルであり、単純で感情的な群集がひしめき合っていた。それが故にこの国は帝国主義諸国の恰好の餌食であった。
 映画が人間の歴史に登場した当初、それを最初に見た白人たちも、ピストルを正面に構えられれば悲鳴をあげ、機関車が迫ってくれば逃げようとしたのである。
 沖ノ島曰く、中国革命は本気が本当を覆した革命である。彼らには事実においては勝てるだけの武器を持ちえてはいなかった。
 無闇に声が大きく、何事にも大振りである阿Qに、老鉄山は、最初のうちこそ距離を置いていたが、徐々にそれは形だけのものになっていった。
 阿Qは、用心棒や力仕事には出てくるが、勉強は根っから嫌いで、只でも逃げ回っていた。しかし例の初出演以来、台本を読むためだけに字を覚えるようになった。ある日、台本を見て一人、笑っているのを見て、老鉄山は、彼が本当に将来映画俳優になることが出来たらいいのにと思うようになった。
 老鉄山は当初、自分の中にある感情を表沙汰にしなかった。清朝の名門に伝わる伝統的な立ち振る舞いと、祖父の代で身につけたイギリス式のマナーが組み合わさっており、意図せずにも様式的になる。そのもったいぶった挙動を後ろめたく思うようになっていたが、生まれる前から身に染みている習慣は簡単に直せるものではなかった。不思議であることに、沖ノ島と話している時は、女学生ぐらいには打ち解けた会話が出来るのに、阿Qを前にすると、口調や立ち振る舞いが知らず知らずのうちに、普段よりも増して洗練され、阿Qの方まで、奴隷だった時代と同じ態度を取るようになってしまうのだった。
 ただ、革命の最中でも、そのような貴族性は、実のところ、大衆のうちからこそ求められてきた。約束された安泰な生活から出でて、人民に対し、犠牲を辞さない献身を示すことが、その結束において一つの鍵となっていたのであり、貴族的な余韻を持っている人間が人民に奉仕することは、どうしても必要なことであったのである。その立場の人員は打算に動じないということにかけては、革命に徴された大衆よりも遥かに革命模範的であった。
 また、中国人の大多数を占める農民の識字率、男子一割、女子五分という、由々しき状況を解決するためにも、識字教育は必要であり、老鉄山は有無を言わず先生を買って出る他なかった。
 老鉄山は、ルソーの天武人権説を砕いて作った、ある日の授業での思わぬ展開を思い出す。
 ある女生徒が手を上げて質問をした。
「老鉄山同志。人という字は人間の形をしているとのことですが、人民の民という字は、一体何の象形文字になるのでしょう?」
「人民の民という字は、目という字の派生文字です」
 そこで、老鉄山は不意に言葉に詰まった。
 民とは刃で切り裂かれた目を意味する。つまり、目の見えない、自分で物事を判断することの出来ない盲目的な衆愚のことを意味する。それ故に民は王が率いねばならないのである。そこから推測出来ることは二つ。
 民の目は誰でもなく、王によって切り裂かれたということ。そして、そう簡単に治りはしないということ――。

 村の試験田の東の外れから、更に四キロほど行った先にある、石窟寺院の跡に阿Qの小屋はあった。潅木が疎らに生えるので、それを集めれば薪ぐらいにはなるが、沢や井戸から遠く、水の確保には難儀する。枯れた松林が断崖を見下ろす谷底になっており、風化した岩肌から降ってくる礫が危険でもある。そこらじゅうに散らばっている礫のために、馬で行けば馬が足を挫いてしまう。総じて生活するには不便な場所であった。
 幸いにも、そこは阿Qに相応しい住処と思われており、阿Qが村に家を持つことは時期尚早という理由で放置され、村の監視網からは外されていた。平等と団結を建前としながらも、不公平は革命以下である限りにおいては黙認された。暗黙のうちに懲罰的処置としても認められているぐらいで、阿Qのような暗蔵的階級敵人は、じきに死んで消える存在として棄民的な扱いが許されていたのである。
 それはまた、革命に開れた人々に必要となる優越感を提供する方法として採用されていた。一方で、旧地主、旧富裕層のような出身身分に問題がある人間は抜かりなく集団の内部に閉じ込められ、その程度に応じて、報復を受けつつ生きてゆくことになる。
 出身階級による待遇の違いは厳しいもので、革命に協力的で、善良な人々であることを示す紅五類に対し、民衆から悪辣な簒奪を世代を超えて行ってきた黒五類には、苦渋に塗れた人々に十分納得出来るだけの嗜虐的で破滅的な末路が用意されている。
 気がつけば万民の平等を謳う社会主義の下で、かつてないほどの徹底した厳しい階級制度が出来上がっていた。
 老鉄山は、旧紅卍会で目立った存在であったことが一部の人間の間で明らかになり、公社の党幹部から長年に渡り尋問を受け続けていたが、一貫して、自分は老鉄梅であり、鉄山は、朝鮮戦争において死んだと言い続けた。
 老鉄山は書類の不備と散逸で、鉄梅という人物とごちゃ混ぜにされのに便乗して、档案(戸籍簿)を書き換えさせ、鉄梅の身分で過ごしていたのである。
 どのみち、病院で実質的な医療を提供出来る人物は老鉄梅を置いて存在しなかったので、幹部たちは、自分たちの健康を確保するために、これを切れなかった。結果、老鉄梅は、紅でも黒でもない麻灰類とされた。村人は、老鉄梅を、おぼろげながら怪しい経歴のある人物とは認識していたが、鋭く察して、それ以上の詮索をすること避けた。

 超然とした風が山肌を浚う中、崖の中腹の小さな窪みに一羽の鳩が飛び込んでいった。村から外れたこの一帯はあまりに荒涼としているので、鷹や梟のような天敵もいないが、一方で鳩が、このような場所に一羽舞っているのは不自然だった。
 伝書鳩である。
 阿Qはこの村に来て間もない頃から鳩舎を再建し始め、それから一年の後には、ハムスタン西部との連絡を確立していた。
 そう簡単に撃ち落されることはなかろうが、昼の日の下で、目のいい人が見上げれば、その脚に通信管がついていることが解ってしまう。こちらから放つ時は、夜闇に紛れて放つからまだしも、鳩の帰る時を指定することは出来ない。これまでなんとか上手くやり果せてきたが、万一発覚するようなことがあったらそこで全て終わりだった。
 日曜の早朝。薄暗がりの空を見上げるとまだ星が残っていた。老鉄山がダムの工事現場へと向かう途中で、朝靄の中から阿Qが現れる。すぐに追いついてきて、小さく折りたたまれた手紙を手渡してくる。
 渡された手紙を開くと、タイプ打ちではなく、沖ノ島の筆で書かれていた。

 医のための人に非ず。人のための医と信ず。

 それ以上はもう何も書かれていなかった。
 鉄梅は思う。
 安息日は人のために設けられて、人は安息日のために設けられず。されば人の子は安息日にも主たるなり――。

 沖ノ島の手紙は、革命のために人があるのではなく、人のために革命があると容易に読み替えられた。
 沖ノ島は既に日本共産党とも袂を別っている。日本赤十字とはまだ縁がありそうだが、彼女とて長らく囚われの身であった。今の自分たちに何が出来る。紅卍会がどの程度動くか。動いたところで、今はもう人民解放軍どころか、土匪相手にさえ太刀打ち出来ないだろう。
 沖ノ島は国民党を超えて、YMCAでも日基でもなく、アメリカの力を借りようしている。紅卍会は国共内戦を機に分裂し、その片割れは台湾へ渡った。老鉄山は五年間耐え続けた末に、台湾の紅卍会に助けを求めるに至ったのであるが、より危険な状況を招くやも知れず、これは一か八かであった。無論、裏切っているということになろう。誰を? 中国を。いいや、違う。あくまでも中国共産党をだ。何であれ、それは紛れもなく自分の半生を覆すことになろう。老鉄山は依然として悩み続けていた。
 阿Qは、頃合を見計らって、老鉄山に問いかけた。
「まだ迷っているのですか」
 老鉄山は返事をせずに、そのまま歩き続けた。
「今脱出しないと、これ以上消耗しては、出て行くことなど出来なくなってしまいます」
「逃げることは今までだって、不可能ではなかったわ」
「過去は過去です。沖ノ島さんはまだ諦めていない」
「私だって諦めていない。違う。諦めなかったのは私よ」
「だったら尚更です。ここを出ましょう。幸い我々には累が及ぶような関係もないのですから」
「こんなところで逃げ出すだなんて厚顔無恥もいいとこよ。ここまで辿りつくのに、どれだけの犠牲を払ったと思っているの?」
「あなたは逃げなさ過ぎた。いや、中国人は逃げなさ過ぎたんだ。自分たちは戦い過ぎている。こんなに戦って悪くなっているのだから、何かが間違っているんでしょうよ」
「あなたまで、沖ノ島みたいなことを言う気?」
「……沖ノ島さんは、あなたと会えなくて寂しがっていると思います。私は、あなたたち二人が仲違いしたことが辛い。あの戦争の中で信念を分かち合ったのに、それが終わって崩れてしまうだなんて……。敵味方を超えて愛と正義を尊重すると私たちは信じてきたはずではないですか。私たちに嘘はなかった。問題は党です。中国共産党です」
「はっきり言うのね」
「私は死ぬのが恐くはありませんから」
「私だって恐くないわ」
「私は、失望もしていません」
「本当に」
「本当です」
「……私は、今のこの国の状況は、失望に余りあると思っている。嘘はつけない。私は、本気だったの」
「私もですよ。でも失望はしていません。たぶん、数日のうちに連中が来ます。準備がどの程度で、どこまで状況を把握しているかは解りませんが、ひょっとしたら今月末にはもうこの村を出ますよ。今冬超えるようなことになれば生き残れないかもしれない。それに私は、人が人を虐めるのを見るのも、いい加減飽きました。私とて、何も好きで棍棒を振り回してきたわけではありません」




















§ 第五部
















§ 三六 義挙入国

 長旅でくたびれた身なりの父と娘が、駅の売り子から弁当を二つと、虫食いだらけのリンゴを一つ買って列車に乗り込むと、遥か先で待機していた機関車は鋭い警笛を上げてゆっくりと動き始めた。臨時でやって来た急行と連結するのを半日待ち続けてようやくの出発である。
 長年の香港での暮らしに見切りをつけ、新生中国へと「義挙入国」をすることを決めた張徳全とその娘、麗麗は、その時偶然に、西綏省の視察団と蘭州駅で合流し、それにお供する形になった。
 昼過ぎ、張父子は、視察団長直々に話が聞きたいといわれ、一等車と二等車の間にある食堂車に招かれた。列車に乗る前にも手荷物検査をされたが、新たに連結された二等車と三等車の間には保衛員が駐在する車両があり、そこで、全身丸裸にされて、更に入念なボディチェックが行われた。
 三等車は公平性を演出するためのおまけで、特別の用事がない者を悉く乗せなかったために、普段とは打って変わって閑散としていた。
 張徳全は、故郷へのお土産に煙草を持っていたが、それが外国産であることが問題となり、鉄路公安隊の警部はその報告のために、警備車両と食堂車の間を二往復して、視察団と連絡を取った。
 ようやくして徳全と麗麗が食堂車に入ると、そこには、古い血糊の染み込んだ人民服を着た初老の男を中心に、西綏省の幹部たちの姿があった。大将の襟章のついた五五年式軍服を着込んでいる者もいる。視察団の面々は、かなり上級の党員たちで構成されていた。団長は別にいたが、血の人民服を着た初老の男が、実質上この視察団のトップで、それは省主席の劉忠玄であった。この年代の老人にしては大柄な人物で、その風貌は、熊と言いたいところだが、黒黒とした小さな瞳が隙のない光を放ち、むしろレッサー・パンダのような、もう少し俊敏な中小型の肉食動物を髣髴とさせるものがあった。

 レッサーもとい、劉忠玄は徳全に訊ねる。
「君は煙草を吸うのかね?」
「はい」
「阿片はやるかね?」
「いえ」
「よろしい」
 視察団員たちが微かに笑い合う声が聞こえて、僅かに、気の遠くなるような間があった。隣に突っ立っている五十絡みの警部は緊張のあまり何度も空唾を飲み込んでいた。
 劉忠玄は、また唐突に問い始める。
「どんな煙草なんだね?」
「紙巻きです」
「見てみたい。どんなものか持って来たまえ」
 自ら戻ろうとする張徳全を、警部が殊更強い調子で止め押さえ、三度び警備車両へと、問題の煙草を取りに戻った。
 警部が煙草を持ってくると、幹部たちは張徳全と麗麗を脇に立たせたまま、封を開けて煙草の品評会を始めた。
「ふん。まあまあか?」
「まあまあだな」
「日本軍の煙草は、あれは美味かった。なんだと言ったか。島……、青島ではなくて……」
「敷島だろう? そんなに美味いかね?」
「張同士、君は日本の煙草は吸ったことがあるか?」
「いえ」
 張徳全は突然に際どい話を振られたが、たじろぎはしなかった。
 車窓の向こうにキラキラと白く照り返す湖が見えて、その上を二羽の鳥が列車と同じ方向に向かって飛んでいたが、そのうちに見えなくなっていった。
 劉忠玄は更に訊ねる。
「今何歳だね? 見たことぐらいあるだろう?」
「はあ。あまり記憶にはありませんが」
「年齢は?」
「四五歳です」
「晩婚だな」
「はあ」
「細君はどうした?」
「妻はとっくの昔に死んでおります。産後が悪くて、その年の夏に」
「そうか」
 混乱を招くからとして、張徳全のお土産の煙草は全て召し上げとなった。
 劉忠玄は今度は麗麗の方を見て訊ねる。
「君は何歳になる?」
「娘は今年で十三になります」
「いや、この子に聞いているのだ」
 劉忠玄の表情から笑みがふっと消え、俄かに険色が覗いた。
「すみません。この子は、口が聞けんのです」
 張徳全は、広東訛りを強調して恐縮した様子で答えた。
「ん、なんだ? 押なのか?」
「はあ」
「生まれつきか?」
「はい」
「そうか。病院にかかったことは?」
「いえ、ヤブ医者や祈祷師には見てもらったことがありますが……」
 劉忠玄は半信半疑と言った様子で、太い眉を顰めて宙を探るような表情を見せた。
「私は、戦場で生きてきたから、つんぼは幾らでも見ているが、押というのは見たことがないな。押というのは、声が全く出ないものなのか?」
「トンボの羽音みたいな返事は出来ますが、あとは猫か何かが唸る程度でして……。耳の方ははっきり聞こえております」
「読み書きは出来るのか?」
「え? あ、娘ですか?」
「そうだ」
「ある程度は教えているのですが、なかなか」
「ふん。そうか。心因性のものかもしれんぞ。塞沙には、病院があるのだ。院長の李堅という男は元々上海にいて、かなりの名医だと聞く。見てもらうといい」
「塞沙村に病院が? 昔はそんなものは、なかったはずですが」
「君がいた頃は、ロシア人の宣教師の館だったはずだ。それを人民解放軍が取り戻したのだ」
「それは凄いことです。ただ、あの、私の娘は、病院にかかったことがありません。病院というのは、人がかかっても大丈夫なものなのでしょうか?」
 劉忠玄と団員の面々は、それを聞いて一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐに笑い出した。
「ならば尚更だ。人民は平等だ。君もあまり顔色が良くないな。どこか悪いところがないか、一緒に見てもらえばいいじゃないか」
「同志のご好意に感謝致します」
 将軍が張徳全から奪ったライフル弾の空薬莢で作ったライターを、ジリジリと回していたが、上手く火が点かなかった。
 張徳全が遠慮気味に手を差し出してやり方を示す。
「同志。こう、こうです。勢いよく」
「これはどうしたんだ?」
「ソ連兵が使っていたライターだそうです」
「どこで手に入れた」
「行商からです」
「何だか君は色々見て知っているようだな? ちょっと知識階級みたいなところがある」
「いえいえ。そんな馬鹿な。私は小学校を三年で中退した後は馬借の輩でして。馬のことはともかく、世のことなど――」
 知識階級というのは、この国では褒め言葉ではありえない。ともすれば身の破滅を齎しかねないレッテルであり、無産階級の敵であることを意味する。実際に知的であるかどうかや、教育を受けているかどうかは、この際問題ではない。しかし彼らは別にそういう意味で言ったわけでもなさそうな調子で、すまし顔をしていた。
「かまわん。いい機会だ。掛けたまえ。今の世界や、中国がどのように見られているかを、君が思うまま、率直に話してもらいたい。我々はこれでもなかなか忙しくて、海外のことまでは気を回す余裕がないのだ」
「は、はあ、思うままとは言いましても、何から申し上げればよろしいものやら……」
「君は新聞はどのくらい読める?」
「何とか。大筋が解る程度に」
「広東話か?」
「北京話も読めます」
「英字新聞はどうだ?」
「英語は苦手でして。仕事柄、ポルトガル語なら少々」
「ふむ。娘の名前は何と言ったか?」
「麗麗です。張麗麗」
 視察団長の楊不韋が口を出した。
「君の名前は何だっけな?」
「張徳全です」






§ 三七 労働戦闘

 村の広場に着くと「熱烈歓迎西綏省視察団一行!」「大海航行靠舵手、干革命靠的是毛沢東思想!」(大海を行くには舵手に頼る、革命を遂行するには毛沢東思想に頼る!)との仰々しい横断幕の下、出迎えの人々で埋め尽くされていた。張徳全と麗麗が、呆気にとられて立ち尽くしていると、脇から世話人と思しき、カーキ色の人民服に腕章をつけた男がやって来て、張徳全の肩を叩き「よく来たな!」とまるで旧知の仲であるかのような表情で笑ってみせた。
 それから、雑嚢の上にロープで結び付けてあった中華鍋を乱暴に取り上げると、何事か叫んだ。人波から、それと同じような人民服の男が更に数人出てきて、勝手に荷袋を開けてゆき、金目のものを、否、金属で出来ているものを、髪留め一本見逃さないような調子で探す。
「やめてくれ。俺の荷物だ」
 張徳全が不快と困惑の混じった表情で止めようとすると、一人の男が、歯を食い縛って憤怒に満ちた奇妙な笑みを浮かべて言う。
「心配するな。我々はあと十五年で、いや、あと七年でイギリスを追い越す」
 生産連隊の土法炉の部長という男が出てきて、張徳全と麗麗はその脇に引き立たされて、目の前で、ほとんどそれきりの財産である、中華鍋と中華包丁が土法炉に投げ込まれた。
「あと十五年でイギリスを追い越すぞ!」
「いや、違う。あと七年だ!」
「いいや! あと三年だ!」
「あと三年!」
「明日にしよう!」
「そうだ! 明日には共産主義社会を完成させるぞ!」
 ようやくそこらで笑いが取れる。即ち、三年でイギリスを追い越すという言は、大真面目の話で、笑うことの出来ない、下手に笑いなどすれば命取りになりかねない話であった。
「皆、見てくれ! これもある!」
 状況を察した張徳全は、腰に結び付けておいた鉄製の登攀具を取り外すと、それを高々と掲げて、群集の見守る中、自主的にそれを土法炉の中に投げ込んだ。
 続いて、今年の小麦の出来高は前年の六十パーセントも超える「大衛星」を打ち上げた旨や、今冬中のダム建設の成功を見込むという決意表明などがなされた。演説は一時間に及び、時折盛大な拍手が飛び交う。
 張徳全と麗麗は突然ぐいと腕を引っ張られて、来賓席の方へ連れて行かれた。
 来賓席に座っている劉忠玄が、連れて来られた二人に向かって告げた。
「張同士。君は、今日からこの村の一員となる。皆がいるうちに挨拶をしてしまえ。そんなに長くなくていいぞ」
 娘麗麗は父徳全の手を握り、手製の五星赤旗をもう一方の手に、おずおずと壇に上がった。
 麗麗が張徳全の首を見ると喉仏が微かに振るえ、視察団の用意したマイクに息が入る。張徳全が本当に緊張しているのか、緊張を演じているのか、麗麗にはわからなかった。
 手を握った時、うっすらと汗の感覚があったが、最初、張徳全のものと思ったのは勘違いで、自分のものであることに麗麗は気付いた。
「ご紹介に預かりました、張徳全とその娘麗麗です。私が不在の最中に我が母易徳麗の面倒を見て下さった塞沙村の皆様に心より感謝申し上げます。私が香港で帝国主義者たちの頚木に繋がれ、身動きを取れないでいるうちに、我が祖国は独立と革命を一挙に成し遂げました。その時のことは在外同胞の間でも今尚忘れられない熱狂として胸に刻まれております。……今、この祖国、中華人民共和国を我が目で見て尚一層の熱意を持って、私の蒙昧と遅れを取り戻し、共産主義の建設に尽くすことを決意しました」
 拍手。
「あの、恥ずかしながら、この子は、押で口が回らんのです。耳は聞こえます。どうかご理解のほどを。この子にとっては、祖国を、故郷を見るのはこれが始めてです。いつの日か革命の魂に触れ、良い人間になれることを願って、親子共々、生きてまいりました。毛沢東主席の指導の下、革命に励むことの出来る祖国へと、念願かなって戻ってこられて、私たち親子は今日世界で一番幸せな人間です。私からは、以上であります。人民公社万歳!」
「どうした! 声が小さいぞ!」
「私は今日世界で一番の幸せ者だ! 中華人民共和国万歳!! 毛沢東主席万万歳!!!」
 拍手の中、張徳全と麗麗が退壇し、酒の入った器を受け取ると、壇の脇で見ていた社長が一際高い声で音頭を取る。
「毛沢東主席の健康と共産主義への前途洋洋を祝って乾杯!」

 人々が慌しく持ち場へと戻る中で、老鉄山が人混みの中からさっと現れ、右往左往している麗麗を見つけると、ついてくるように言った。聾唖治療のために病院で検査するとのことだった。老鉄山は念のため二人とも検疫をする手続きを取っていたが、予定通りには進行していなかった。張徳全は、頬に銃創痕のある元兵士の男に案内され、ダムの工事現場へと連れて行かれた。帰国者に対しては、本来ならば厳重な思想審査があるところであるが、省の視察団が来ており、それどころではないため、二人とも思想審査は数分足らずで済んだ。
 張徳全は早速工事現場の末端に加わり、刃先僅か三センチだけが鉄で出来ており、あとは全て木で出来たシャベルを渡された。
 そこは黄河の支流にある小規模の水力発電用のダムで、滝幅八〇メートル。落差四〇メートルの規模である。人足全体で千人程が動員され、うち四百人程がハムスタン系を中心とする少数民族。非漢族である。事故が起きるまでには既に百人前後の犠牲者が出ており、基礎工事と前々回の事故の犠牲者を合わせると、既にこのダムの建設のために総計二百人以上が犠牲となっていた。非公開ではあったが、犠牲者の人種比では、人数に対して、少数民族の割合が多く、百五十人以上がハムスタン系である。
 急勾配で水の流れが速く、冬になっても河が凍らないため、冬場の工事は非常に過酷なものとなっていた。一年で完成させようという魂胆がまずもって間違っているのだが、既に二回失敗して、工事開始から既に三年が経とうとしている。視察が来る手前、何としてもこの年の内に完成させることが求められていた。張徳全が靴紐を結んで直していると、組の指導員だという男が脇に来て、張徳全の人となりを値踏みしつつ訊ねる。
「お前は香港から来たのか?」
「ああ」
 更にその横で、やはり遠慮もなく、じろじろと張徳全を見物していた若い男が口を利いた。
「いい靴を履いてるじゃないか」
「長旅だった。こればかりはケチれなかった」
 当時の中国農村部では靴は基本的に自家製の「解放靴」である。工業製品を持っているだけでも目立つ有様で、千層底という布地の靴底を糸で網目状に縫い固めた靴が主流だった。解放靴の底には打美帝(打倒アメリカ帝国)や打反蘇修(打倒反ソ連修正主義)等の字が書かれていた。
「おい、俺たちに何か土産はないのか?」
「全部炉にくべてしまったよ」
「さっきの乾杯、あんたのは酒だったんだろう? え?」
「何だい?」
「俺たちゃ、みんな水だよ!」
「どういうことだ……?」
 張徳全はさもありなんと事態を察したが、怪訝な表情で驚いて見せた。
「どうもこうも、そういうことだ」
 人が集まってきて、張徳全の頭や背中を小突いたり引っ張ったりした。
「お前は新入りだ。身の程を弁えることだな!」
 指導員は去り際に張徳全に忠告した。
「一つ教えといてやる。ここの飯場を取り仕切っているタコ長の呉舜はサドだ」
「サドって何ですか?」
 このような田舎で、そんな横文字を聞くことになろうとは意外だった。
「サドっていうのは、人を痛めつけるのが三度の飯より好きな奴のことを言う。あれに睨まれたら終わりだと思え」
「あいつに捕まっちまったら、頃合を見計らって鳴砂団の仕業だって言え。そうすれば三回に一回ぐらいは助かる」
「鳴砂団?」
「そのうちわかるさ。まあ、滅多に言うものじゃねえがな」
 そう言って男はニヤっと笑った。
 呉舜だ。と小声がして、張徳全が声の聞こえた方を振り向くと、禿頭の艶々した、これれ見よがしな男が向かってくるのが見えて、人足たちは忙しなく元の持ち場へと散った。痩せこけた男たちの中にあって、呉舜だけは異様なほど肉付きがよかった。
 村では、視察日程を挟んで大躍進戦闘を敢行中であり、張徳全はその後暫くの間、老鉄山と連絡をつけることも、娘である麗麗とも会える見込みもなく、寒風荒む工事現場で宿営することになった。
 ある時などは飯の並び順でトラブルになり、気の立った人足に殴られたうえに、乏しい昼飯を奪われたりもした。
 ぼやっとして食べていれば、平然と横から手が伸びてきて、相手の食べ物を奪ってゆく。
 いつだってキツいが、流石にここまでキツいのは視察中だけだから――というはずであったが、何があったのか視察団は当初予定の七日間より長く逗留し続けたため、人々は昼夜を問わずに働き通しとなり、脱落者が出始めた。
 何より辛いのは仕事の出来に応じて貰える食糧の嵩が決まり、劣等班はただでさえ少ない食料を半分に減らされて優秀班に差し出さねばならないことであった。この結果、人足はより疲弊した。あまり酷い差がつかないように仕事をしようと持ちかけた班の者たちが、タコ長に言いつけられて、見せしめに酷く鞭で打たれた上に、飯がなくなった。事故に見せかけて他の班の人間の腕をへし折ろうと試みたり、諍いというよりは殺し合いに近い事態も起きた。誰かが怪我をしたりなどして人手が減っても、その日のうちには補充が入らない。そうすると飯が減らされる危険が一段と高まる。そのため、班の結束はむしろ高まるという現象も起きた。
 張徳全は慣れない野良仕事で掌の皮が剥がれ、天秤を担ぐ肩口は紫や青の痣になって腫れ上がり、見る間に、薄汚れて痩せこけた人足たちと見分けがつかなくなっていった。

 麗麗は、午前中は試験田で働かされ、午後になると病院での看護を手伝わされるという日課を与えられていた。労働戦闘という一大茶番劇を維持するために、村全体で全ての作業班で朝と夜の二つのグループに別れて途切れることのない消耗を行う。
 麗麗は当初、昼の部に割り当てられた。早朝まだ日が昇る前に起きて、試験田へ行って働き、朝食を取ると、また試験田に戻って正午まで働く。これでゆうに八時間が過ぎる。 昼飯には朝食と同じラーゲリ流のバランダー、菜っ葉と雑穀の浮いている不潔で粗末な水団を遮二無二飲み込む。またすぐに病院へ行き、日が暮れるまで雑用に明け暮れる。無論夕飯も同じものが出る。
 病院での主な仕事は、名目上は洗濯。実態は糞尿の始末である。村中から桶に入った糞尿が集まってくるので、病院の裏庭は悪臭が充満していた。
 麗麗は、集めてくる場所によって糞便の色が明らかに違うことに気付いた。緑色の糞の桶は、ほとんど消化されていない草木が大量に混ざっており、知らない人が見たら糞だとは解らないようなものであり、この村の周辺に収容所かそれに近い、更に深刻な状況にある集落があることは間違いなかった。糞まで巻き上げられているのだ。恐らくはハミ族の村だ。
 麗麗が村に来たこの時、奇妙な実験がなされており、便所は糞と小便を厳格に別けられていた。糞便は畑の肥料にするのであるが、小便の方は小球藻を育てるために使う。
 小球藻は緑色の植物性プランクトン、クロレラのことだ。試験田に並べた形も寸法もばらばらの容器で育てていた。小便を満たした容器の中にクロレラを入れて、日に当てていると増える。それを網で掬って水で洗った後、干して食べる。味は論ずるに値しない。
 しかしこれは浮腫を抑えるのに重要な役割を果たした。
 浮腫、飢餓浮腫というのは、慢性的な栄養失調によって起こる肥満で、水膨れというのに近い。体の皮膚が薄くなり、張りを失う。押せばパン生地のようになって、凹んだまま、なかなか元に戻らなくなる。皮膚に傷をつけると、血の代わりに、薄いピンク色の体液が玉になって零れる。酷くなると薄黄色になり、そうなるともう長くはない。肝機能の低下から黄疸も併発していることが多かった。
 飢餓浮腫は痩せてきて、それ以上痩せれないほどになると発症する。それ以前でも餓死してしまう者はいるので、栄養失調が全て浮腫に至るというわけではないが、蛋白質の欠乏から来るものであり、飢餓浮腫は必ずや栄養失調であった。
 クロレラこと小球藻はどういうわけか浮腫には良く効いた。栄養失調者の小便と頼りない日の光からタンパク質を合成するのであり、失策と欺瞞を繰り返す体制の中にあって、数少ない画期的で正確な方法だった。
 村の試験田は僅かに地熱を帯びており、冬場でも氷の厚さが他よりも薄い。天然ガスも少々出ているが、利用出来るほどの量ではなく、また開発する余力もなく放置されている。クロレラを育てている試験田では百人ほどの中高生ぐらいの子どもたちが働いていた。麗麗の加わった班は女子ばかりだったが、口を利こうとはしてこなかった。むしろその隣で働いている男子たちが麗麗をからかうような素振りを見せており、よく目があった。
「おい。食ってみろ。実験だ。大丈夫だ。美味いぞ」
「よせ」
「死なないよ」
「やめろって」
「だけど、本当に、これを食うって言うんだぜ? 信じられるか? この緑色のゲロみたいなのをだぜ? でもまてよ……、これは、押の特効薬だって聞いたぞ?」
「そんなことあるかよ」
 少年たちがクスクス笑いながら、麗麗を盗み見ていた。
「おい。誰かあいつに声をかけてみろよ」
「俺はまずブタか鶏に食わせてみた方がいいって思うんだけど、そう言ったらまた批判だ。そのうちブタが人間の糞を食べるんじゃなくて、人間がブタの糞を食べる羽目になるんじゃないかと、俺は懸念しているよ」
「糞を食わされることを『懸念』したのは、たぶん世界中でもお前が初めてだろうな」
 爆笑。声は申し訳程度に小声になっていたが、近くにいた麗麗にはほとんど聞こえていた。
 そこで女子の班長が凄い剣幕でどやしつけて、男子たちを片っ端から叩いて回った。慣れっこのようで、男子たちは、ろくな反応をせず、そんなものは体力の無駄だと言わんばかりである。
 一人でぺちゃくちゃ喋り続けていた少年が頬を摩りながら麗麗の方へ近づいてきて、わざとらしく微笑みかけた。
「おい麗麗。ハミ村の奴らはもう糞を食わされてるって話だ。こうなると、ここの食堂に糞が並ぶ日も近いぞ?」
 麗麗は、そいつの顔をちらっと見て覚えると、あっちへ行けと手を振った。
「失礼。ボクの名前は沈武。君の名前は?」
「おい! そこ何やってるガキ! はやく汲みにいけ! 次が痞えてるぞ!」
 畦の方から試験田の指導員がやってきて、怒鳴りたてると、少年は今度はすぐに走って行った。
 不平不満をそれとなく口にする者を麗麗は既に見ていたが、ここまで大っぴらに、この状況を小ばかにしてやまない者は初めて見た。仲間や直上の者を罵ることはそんなに危険ではないが、体制批判に通じるようなことを言うならば、ただでは済まない。これは信じがたいことであった。女子とて怒った素振りこそしているが、それを許している気配があった。





§ 三八 毛沢東主席万歳

 労働戦闘が二週目に突入せんとするところで、張徳全は思わぬ理由で一時休暇を得た。
 その日、張徳全は警戒していた。病院で働いている下男が自分を探しているというが、聞けば阿Qではない。何があったかわからないが、逃げるとすれば、村に戻る途中を突いて出るしかない。そうなれば作戦は失敗だ。麗麗、いや、ナカノセも殺されることになる――。
 昼食を取るための僅か十分の休憩の間に、男がやって来た。
「張徳全だな?」
「ああ」
「村に戻って病院へ行け。お前の娘が喋ったぞ!」 
「そんなことあるわけがない」
「毛沢東主席万歳と言ったんだ。確かにこの耳で聞いたぞ!」
「そんなことが起きるものか!」
 羽賀は、木の型で七〇〇グラムに均等割りにされたコーリャン飯の塊を口に頬張って、奪われないようすぐに飲み込んだ。
 最悪の事態ではなかったが、予定外のことには違いなかった。
「なんだ。どうした。もっと喜んだらどうだ?」
 張徳全は疲れていて動けないと手振りをしたが、内心、麗麗の軽率な行動に腹を立てていた。
 次いで中年の看護婦がやって来て、無愛想な態度で班長に言う。
「検疫が済んでいないから、この人はちょっと借りるわよ」
「俺も検疫してもらいたいものだ」
 下男の言う冗談を全く無視して、看護婦は徳全の方を向いた。
「張徳全同志。鉄梅が呼んでるから、行って来なさい。娘と話すのは検査のついでに過ぎないのだから、忘れるんじゃないわよ。行ったらすぐ戻ってきなさい」
「了解したが、その前に、包帯をくれないか。掌の皮が剥がれて痛んでしょうがない。このままじゃ仕事が……」
 徳全がべろりと剥がれた掌の皮を見せて、辛そうな表情をすると、看護婦は、それを同情するどころか、軽蔑の眼差しを向けて、その頬を突然殴りつけた。
「そんなのはすぐに慣れる! そのくらいは、どうということはない! 香港は革命から遠いだけあって随分と甘いとこだったようね? 張同志、省主席が目にかけているからって、私は誰よりも公平だから、よく覚えておきなさい」
 徳全の脇にいた男が、聞こえよがしの声色で「クソババアめ」と罵ったが、看護婦はそのようなものは屁とも思わない様子で、行ってしまった。
 下男は言う。
「さ、行こう。気にするな。あの看護婦は、誰にも薬をやらないのが仕事なんだ」
 羽賀は下男に促されて立ち上がり、ポケットの中の岩塩を舐めて、水筒を飲み干した。
「みんな、悪いな。ちょっと行って来る」
「今度こそお土産を頼むよ徳全!」
「馬糞ならもってきてやるぞ」
 何かあった時は、とりあえず狂った振りをして「毛沢東主席万歳」と叫び続けるようにと口裏を合わせてあったが、それは最後の手段だった。

 徳全が病院に着いてみると、奇観が目に飛び込んできた。そこには、知りもしない人々から贈られた毛沢東語録が堆く積まれていたのである。ここぞとばかり、それを厄介払いをしようと思った人々が、一斉に毛沢東語録を持ち込んだために病室がそれで埋め尽くされていた。毛沢東の著書は命より大切に扱わねばならない。その上無闇に増刷されたので、この真っ赤な小冊子は、塞沙のような田舎でも有り余っていた。こんな場合でもなければ、誰もこれを処分出来なかったのである。炊きつけに使えればまだマシであったが、そんなことをすれば、自分が火炙りになってしまう。
「腹が減って死にそうだ」
 張徳全が純粋な感想で、食い物を無心すると、老鉄梅は返事をせずに、何とも形容し難い瞳で張徳全を見やった。
「ダムはどう?」
 その時、張徳全は病室の端に蹲っている痩せこけた女――戈香蓮を見つけて、なんだあれはと鉄梅に目で訊ねた。
「……俺の娘は今どこに?」
「麗麗はここで手伝いをさせることになりました。来て」
 張徳全は鉄梅に連れられて廊下へと出た。幾重にも板切れやテープの張られた小さな窓から、病院の中庭を覗くと、麗麗が患者たちに混ざって、洗濯をしているのが見えた。
 鉄梅は言う。
「中庭へ行きましょうか。問診します。娘さんのことも聞きたい」
 中庭に続く階段を下る途中、張徳全は努めて低い声ではあるが批判を始めた。
「麗麗は何故喋ったのだ」
「麗麗に聞いて」
「あのバカめ」
「案外いい時期かもしれない。あなたも、休めてよかったんじゃないの」
「これ以上はやめさせろ」
「そのつもりよ。それよりもダムの話を聞かせて」
「ダムの図面を見たがひどい。奴らは幼稚園の砂場と勘違いしている。それがでかくなっただけだ。コンクリのノリ面を土砂の上に被せているだけで、ろくな鉄骨も入っていない。あんなふざけた工事をしていれば人が死ぬのは当たり前だ」
「人なんていつだって死んでいるわ。ダム工事で人が死なないことはない。それは中国に限らないことよ」
「多すぎる。こんな工事をしていると、また大事故が起きるだろう。何を考えているんだ? これは三度目の工事だと聞いたぞ。この国の無思慮と無責任、目先に囚われやすい人心を俺は咎める」
「私はそんなんじゃないわ」
「そう。お前はそんなんじゃない。でも他の奴らは皆そうだ。虚栄心がこの国を滅ぼした。戦争に勝ったが、この国は滅びた。お前に中国人の友人がいないのがことの真実を物語っている」
 老鉄山はくるっと素早く振り返った。
「違うわ。そんなんじゃない! これ以上、どうすればよかったというのよ。皆命をかけて頑張ったのは嘘ではないわ。皆荒んでしまったけど、最初からそうだったわけじゃない。 社会主義を採用したから私達は失敗したのではなく、社会主義を採用しなければならなかった国はどこも貧しかったのよ! だけど、私達は元から貧しかったわけじゃない……。イギリス。日帝……。アメリカ。ドイツもフランスも……」
「そして、中国もだ」
「これ以上言うなら、私はあんたを刺すわよ。いいえ私が死ぬべきなのね。私は中国を裏切りたくない。中国を裏切りたくて、こんなことをしているわけじゃない。革命を裏切る前に死ぬわ」
「自分の生きている時代に社会主義のユートピアを実現しようという了見は、あらゆるものを犠牲にしながら裕福に生きようとするアメリカ的なブルジョアと何も変わらんよ。左右問わず真の思想はユートピアを夢見ない。地獄は作らないことを是として、与えられた時間を謹んで生きるものだ。貴様たちの傲慢は高くついた」
「あんたに中国人を傲慢だなんて言う資格はないわ!」
「馬鹿、声が大きい。静かにしろ」
 階段を素早く駆け上がる音がして、警戒していると、ひょいと麗麗が顔を見せた。麗麗は、紅領巾――赤いスカーフを首に巻き、手には一メートル五十センチあまりの槍を持っていた。槍は紅纓槍と言って、子どもたち、少年先鋒隊という共産党少年団のシンボルである。
 麗麗は二人に気付くと命懸けのような表情を作って「マ、毛沢東主席万歳!」と、掠れた声色で唸ってみせた。
 張徳全は、よくもそんなに簡単にやってくれたなと疲労で濁った目で睨む。
「……俺は次に進むまでは死ねない。大東亜は失敗したが、毛沢東の考える遊園地は更なる地獄を齎すだろう。これは冗談ではない。実数として、それだけの犠牲を齎す。統計局の試算では、既に中国は、戦中よりも戦後の方が犠牲者を出している。これが、日本軍を追い出してやりたかったことか。俺はとんだ下衆野郎どもに負けたものだな」
「私、ちょっと思ったんだけど、羽賀さんって、実は、国連主義者なんじゃない?」
 声を細める気もないような調子で麗麗が、突拍子もないことを言うので、張徳全はますます眉を顰めた。
「俺は一貫して、筋違いの死に方など出来るわけがないと言っているに過ぎない。だからこそ俺は中国に戻ってきた。中国は、否、ハムスタンは俺の祖国であり、ハムスタン戦役は俺の人生だ。俺が死んだ時は、靖国ではなくハムスタンの砂の中に眠ることになる。老鉄山、お前はこの期に及んで何を迷っている? ハムスタンの独立と公平は紅卍会とて、信念をかけた戦いであったはずだ。貴様は、こんなところで死ねるわけがないんだ」
 老鉄山は、どこを見るでもなく、遥か遠くの世界を見るような様子で、煤けた窓の向こうの雲を見つめていた。
「二人とも、ストーブを組み立てるから来なさい」
「ここでは看護婦は随分と偉いようだな。あのデブの看護婦、俺の手を見て、すぐに治るではなく、すぐに慣れると言いやがったぞ?」
「あれは浮腫よ。人より食べているからではないわ。栄養失調で水膨れに。これ以上私たちを侮辱するのなら、私は降ろさせてもらうわ」

 革命精神に触れたお陰で口が利けるようになったという小芝居を麗麗がやった後、彼等にとって予期せぬ問題が起きた。視察が残すところ一日となったところで建設途中のダムが決壊したのである。
 義挙入国者というのは、物凄い歓迎を受けて、入国当初、その待遇は良い。ともすれば全国ニュースになってしまうぐらいのものであるが、一時の熱気が通り過ぎた後は、外国を見て知っている、地域社会の異端分子として冷遇され始め、最後にはどこかへと消えてしまう例が少なくない。そのため出来るだけ早い段階で塞沙村を脱出する必要があったが、それは視察団が去った後を予定していた。しかし、ことは起きた。
 事故調査の結果、完成した胸壁の下にダイナマイトがあったことが判明し、事故は人為的なものとの疑惑が出てきた。ダメ押しで、その日の夜には、工場の発電機まで故障した。発電機を分解してみると、中から党を罵る衝撃的な批判文が出てきて、疑惑は決定的なものとなった。
 慌しく村中上げてスパイ狩りが始まり、当然の帰結として新参者には嫌疑がかかり、張徳全は熱り立った村民たちに捕えられ、批闘の演台へと引っ張られていった。「ただし、殺すな」との通達があったのか、張徳全はひっきりなしに猛烈な罵声を浴びせられ続けながらも、誰一人としてそれを小突くことすらなかった。
 視察団が来た日以上の狂騒となり、深夜〇時を回っても人々は床につくことが許されなかった。しかし、そこに劉忠玄他、視察団員の姿はなかった。生産連隊長の王民もいなかった。それが却って人々を緊張させる。
 病院の一室を空けて作られた招待所では、劉忠玄が生産連隊長の王民を直立不動の木偶の坊にして、尋問をしていた。
「王民同志。これで三度目になるわけだな」
「ここまで手が込んで、しつこいとなると、敵は、只者ではありません。台湾の特務、統計局の犯行やもしれません」
「いつから君は統計局の仲間になったのだ?」
「どういうことです?」
「聞いているのは私の方なのだ。王民」
「私は決してそのような真似をした覚えはありません!」
「そのような真似とは、どのような真似だ王民。度重なる失態は、君の心のうちに革命精神を、毛沢東思想を、蔑ろにする気持ちがあるからではないのか?」
 噂に聞く密室裁判だった。その結末には死刑以上のものが待っている。
 王民は、全身ずぶ濡れになるほどに脂汗をかき、喉はカラカラに引きつり、何と答えれば拷問部屋に送り込まれないのかについて、生まれてこの方一度たりともやったことのない真剣さでもって考えたが、ついに何の言葉も思いつきはしなかった。
 視察団員の面々は、このような状態に陥った人間は、心底見飽きている様子で、軽蔑した視線を投げかけているだけであった。
 その時、視察団長の楊不韋が何かを思いついて、劉忠玄に耳打ちした。
 それから王民以下の村の重役たちは一度席を外すように言われ、二十分あまりが経過して、再び部屋に呼び戻された。
 そこで楊不韋は言った。
「我々の経験に基づく推察によれば、これは鳴砂団の仕業である」
 王民はその理由なき断言に疑問を挟む間もなく、頭を破壊されたように、何度も激しく肯首していた。
「間違いありません。ダム建設にはハミ村からも人足が来ています。連中は常日頃から我々の隙を狙い、共産主義建設の大儀を覆そうしております!」
 それを横で聞いていたダム建設団長の林強は慌てて口を挟む。
「しかし、連中は我々が徹底的に監視しているので、そんな真似をする隙などはありません。私が毎日どれだけ厳しく指導をしているか、ご存知ないわけではありますまい?」
 林強は自らに累が降りかかることを危惧して声が上ずっていた。
 範虎将軍はその震える瞳を冷ややかに跳ねつけながら言う。
「鳴砂団でなければ、ハムスタン民族主義者同盟の犯行だ。違うか?」
 林強が尚も何か取り繕おうとした瞬間に、劉忠玄が怒鳴りつけた。
「同じことだろうが? 今日中に犯人を引き摺り出せ!」
 かくして犯人はハム人の中から求められることとなった。






§ 三九 不良少年たち

 麗麗はこのとき、青年生産隊の隊列に加わって山奥まで薪を集めに行っていた。村で起きている事件は知っていたが、労働戦闘が続行中であったので、真冬の深夜にもかかわらず少ない松明の下で働き続けていた。
 家庭用の小さな竈で煮炊きする分には、身の回りでかき集めた燃料で十分用足りていたが、公共食堂で使う鍋は大きく、少々の小枝や藁屑などでは必要な火力が作り出せない。その結果、村の周囲の樹木は片っ端から切り倒され、それが消えてなくなれば、切り株と根さえ掘り起こされ、段々と村の周囲から順番に木がなくなっていった。そのような状況は、土法炉による製鉄運動のために更に拍車がかかった。鉄を作り出すために必要な燃料は、炊飯で使うものの比ではない。今では片道二時間かかる山の中まで行かねば、十分な薪を手に入れることが出来なかった。
 最初のうち麗麗は、何故誰も追いかけてこないのか不審に思っていたが、すぐにその事情を察した。既にそんな体力は誰にも残っていなかったのである。仮に体力が残っていたところで、村民がこの状況で勝手に動いたりすれば、自らに嫌疑がかかる。麗麗が失踪してくれれば、張一家はスパイということが確定され、それで、全て丸く収まる可能性はあった。万事につけてそうであったように、当時の中国においては、真実などはどうでもよかったのである。
 青年生産隊では、食料用の野生動物を捕まえるのに躍起になっていて、年長者は食料調達を担当するが、年少者は危険で体力を必要とする伐採や薪割をさせられていた。無論、食料の優先順位もそのようになる。というよりも、食糧調達班以外の分配は村を出る時に持たされた少ない雑穀類を除いてありはしなかった。
 薪を割るのは村に帰ってからでも出来るが、薪を割れば食用になるゴトウムシが出てくる。麗麗は中学生のグループに混ざって、薪割を担当し、力を振り絞って懸命に薪を割った。虫を火で炙ったものを頬張って、空腹を癒した。

 翌朝、村まで戻ってくると、試験田の土手のあたりで、帰ってくるのを待っていた数人の少年たちに麗麗は呼び止められた。
 沈武少年が声をかける。
「こっちへ来いよ麗麗」
「ダメだ。何の用だ。こんなところで何をやっている?」
 引率の青年団のリーダーである馬衛東が、少年たちと麗麗の間に割って入る。
「何でもねえ。こいつの仕事があるからやらせるだけだよ」
「ダメだ。状況を考えろ」
「状況って何ですか」
「状況は状況だ。張徳全の容疑はまだ解けていない」
「ああ。それなら、行ってみるといい」
「何だと。今、どうなっている?」
「行けば解るさ」
 麗麗が、父はどうなったのだと、身振りで問うと、頭目と見られる沈武少年は、その腕をグイと引っ張って自分たちの方へと麗麗を取り込んだ。
「ダメだ。まだ労働戦闘中だ」
 馬衛東がまたしても杓子定規なことを言うと、沈武は鼻で笑って、麗麗を簡単に手離してみせた。
 麗麗は、状況を見極めあぐねて暫し立ち尽くす。
「来い麗麗! ついてこないのなら、お前が逃げたことにするぞ!」
「逃げたんじゃなくて、麗麗は試験田の手伝いに来たんだ」
 そんな意地の張り合いがしたいわけではないと、沈武は幾らか不満の態度を忍ばせて、また笑った。
 副書記長の女が横から何事か告げると、青年生産隊は麗麗を置いて歩き出した。
 厄介払いが出来てむしろ好都合だとでも言ったのだろう。
 麗麗は一瞬、それについて行こうと考えて足が前に出たが、すぐに少年たちに道を阻まれた。
「おい、今工場へなんて出て行くと、殺されかねないぜ」
 それを聞くや否や麗麗は、引き止めている腕を振りほどこうとして、一悶着になった。
 馬衛東が踵を返して戻ってきて、疲弊して苛苛した様子で訊ねる。
「どうなっている。ことは済んだのか?」
 沈武は、黙って、皮肉な笑みを浮かべて出し惜しみをしていた。
「言え! これは命令だ!」
「言うさ。言うよ。鳴砂団だ。張徳全は開放される」
「……本当だろうな?」
「あとは、自分の目で確認してくれ。何なら賭けてもいいぜ?」
 麗麗が、村の方へ走ってゆこうとすると、まるで西部劇のカーボウイがやるようにして、輪にした縄がひゅんと飛んできて、麗麗は危うく首を吊りそうになった。
 沈武は言う。
「言うことは言ったぞ。麗麗は俺たちが預かっておく。こっちも忙しい。無駄な諍いはよそうじゃないか?」
「勝手な集会は禁止されている。それを忘れるな!」
「集会じゃない。これは労働だ。俺たちは人民に奉仕せねばならない。それを邪魔することは何人たりとも許されないはずだろう?」
 沈武が皮肉な物言いを返すと、馬衛東は、本心もはや、労働という言葉さえ聞きたくないという様子で、頭を振った。
「麗麗。お前は、飯に間に合わなくても知らないからな」
 最後に、そのように言い捨てると、馬衛東とその一行はシモバシラが高く伸びた畦道を踏み砕きながら、村の方へと去って行った。

 麗麗は、何より腹が減っていたので迷ったが、馬衛東たちよりも、少年たちの方が一枚上手であると見て、ここに残ることを選んだ。自力での洞察力。それが違う。
 青年書記長たる馬衛東とその一派は、無論、村の子どもたちを束ねる存在で、ゆくゆくは村の党幹部になるであろうが、自前の力を持ってはいない。中間管理職のような待遇で、責任は重く、革命模範的であることを課せられているが、見合う報酬はない。将来村の幹部に、上手くいけばその一個上の郷か初級合作社の幹部になって、あるいは食堂員になって、重労働から開放されることだけが、彼らの心を繋いでいた。
 沈武は言う。
「気にするな。バカなのさ。ブタのがまだ賢い」
 リーダーの沈武は、麗麗が村に来た当初から、大人たちに怒鳴られながらも、隙を突いては果敢に接点を持とうとしてきた。まだ十五、六ぐらいだろう。麗麗と同い年ぐらいに見えた。
 表向きの規則とは裏腹に、子供たちには独特の結束があり、その形勢判断は時に大人たちよりも優れていた。連中は言わば不良だ。不良たちは、村の幹部たちに締め付けられている優等生たちとは別に隠然たる権力を持っており、何らかの鋭い洞察で麗麗を仲間に引き込むことにしたのだった。
 この連中のぴんしゃんしている様子に麗麗は欠伸をして首を傾げる。
「俺たちは久しぶりにぐっすり寝らせてもらったよ」
 沈武の仲間の一人が口を挟む。
「あまりペラペラ喋るなよ」
「大丈夫だ。こいつが、これ以上口を利くようなことはない。そうだろ麗麗? それが、たとえ芝居だったとしてもな」
 沈武は麗麗の後ろに回って、耳元に寄り、声を潜めてこんなことを言って試した。
「……いい加減に口を割れよ。本当は国民党のスパイなんだろ?」
 少年たちは言う。
「スパイにしてはガキ過ぎるよ」
「本当のスパイってのはそういうものだ」
「本気で言ってるのかよ?」
 麗麗が憮然としていると、畦を上がる半分カエルのタマジャクシのように、更に十余人の少年少女たちが、ぞろぞろと出てきた。
「来い麗麗」
 沈武は、まだ半信半疑で麗麗を見ている少年の尻を叩いて言う。
「軍宝、お前たちは見張りをしろ。話をつける」
 麗麗はその後、試験田の脇にある傾いた小さな物置小屋に連れてゆかれた。
 沈武は物置小屋の藁葺屋根の隙間から、有刺鉄線で編んだ棘の生えた金網を取り出し、更にポケットから豆や雑穀を叩いて作った薄黄色の餅を二枚取り出してその上に置いた。
 足元の筵をどかして落ち葉を掻き払うと、そこには小さな囲炉裏があった。
「火の加減を見ていろ」
 沈武は麗麗にそう命じて、外へ出てゆき、十分ほどして戻ってくると、どこから持ってきたのか、酒瓶と杯を手にしていた。
 沈武は麗麗が餅に手を付けずに待っていたことを確認すると満足そうな表情を浮かべた。それから栓を捻って酒瓶を開けた。
 酒瓶は赤土を焼いて作ったもので、恐らくは手製だった。
 月光杯に酒を注ぐ沈武の手が微かに震えていた。
 沈武が黄酒を半分まで飲んでみせて、それから麗麗に杯を渡して、飲むように言った。
 沈武とその仲間たちは、共青団の連中よりも羽振りがいいのではないか。心なしか顔色もいいように見える。村民の平均よりもいい食い扶持を確保していると麗麗は思う。
 麗麗が酒を飲み終えると、沈武は更に餅を食うように勧めて、自分も一枚餅を取った。
 薄暗い小屋の中で、二人は、互いの目の動きを逃さないように、ほとんど睨み合うかのようにして、黙ったまま餅を食べた。
 麗麗が餅を食べ終わるのを見届けると、沈武は言う。
「これで、お前も同罪だ。もう解っているだろうが、この村では食物を隠した奴はただじゃ済まない。死刑だ。ただの死刑じゃない。階級敵はなぶり殺しだ」
 麗麗が、どういうつもりなのかと眉を潜めて手振りすると、沈武はあっさりと企みを明かした。
「俺たちはこの村を出る」
「おい!」
 軍宝たちが慌てて入ってくる。
 さっきから、麗麗の目にも、土塀の隙間から、三人ほどが見守っているのが見えていた。
 沈武は言う。
「静かにしろよ宝軍。言ったとおりだ。もうこれ以上はいいだろう。腹をくくれよ。それとも、ここでお別れか? 裏切るってなら、俺とて黙って死にはしねえぞ」
「裏切るだななんて冗談でも言うな! でも、こんなに急いでは、ことを仕損じる」
「いいや、時間がない。俺は命をかける。俺の読みが間違っていたら、やめにしてもいい。だが、俺の読みが合っていた時は、この村を脱出する」
 そう言った瞬間、少年たちは口々に「声が大きい」と嗜めた。
 沈武は麗麗の方に向き直る。
「時間がないんだ麗麗。それに、さっさと話を済ませるなら、朝飯にも間に合うぜ。はは。お前は、頃合を見計らって、この村を脱出する気でいるんだろう? お前たち親子の本当の目的は、義挙入国などではなく、省内に残る国民党シンパに新しい暗号表を渡すことだ。数年前、この村で伝書鳩が落とされた。落としたのは老い耄れの軍士だ。今はもう死んでいない。ハムスタン方面から飛んで来たと思われているが、村民には公表されなかった。ハムスタン民族主義陣営はまだ残っていて、国民党の残党と手を結んでいるに違いない。このまま行くと、いや、いい。そんな話は後でいい。……俺は、俺は半分ハム族の血が流れている。この事実を知っている者は少ないが、村の幹部は知っている。俺がそれを知らないという限りにおいて、俺は生かされているだけなんだ。何か起きればこれから先は、そうはいかない。俺はそのうちていのいいなぶり殺しだ。不良という言い訳も大人になれば終わりだ」
「何で、不良が言い訳になるのよ?」
「……やっぱり喋れるのか!!!」
 麗麗が声を発して本性を露にすると、彼らは、驚愕と非難、歓喜の入り混じった複雑な表情を一斉に表した。
「省幹部を騙すだなんて、なんて奴だよ!?」
「死にたいのか? 死ぬぞ!?」
「……早くしてよね? 食堂のご飯も食べたいんだから」
 麗麗は、呆れた調子で面々を見渡す。
「……信用出来るんでしょうね。こいつらは」
「ああ。この三人に関しては絶対だ」
 この時の麗麗は発音はともかく、意思疎通が通用する次元に達していたと思われ、ごく一部の人間を除けば、それが日本人訛りであることに勘付く可能性は少なかった。
「あんたたち、共青団の連中よりは骨があるとは思っていたけど、バカだと死ぬわ」
「俺たちはバカじゃねえ! バカはあいつらなんだよ!」
「あまり心証を悪くさせたくないのだけど、こうなると、私も本当のことを話さないとならないようね。私は生憎だけど、国府のスパイなどではないわ。日本人なの」
 それを聴いた瞬間、彼らの表情に、更なる困惑と驚愕が溢れかえった。
「何てことだ……! 日本軍はまだ中国に野心を持っているのか……!?」
「それは違うわ。私は、そもそも海上保安学校を除籍にされたのよ」
「海上保安?」
「海上警察官の養成学校よ」
「何をやらかした。幹校だろ?」
「そんなんじゃないわよ。確かに給料が出るのは魅力だったけど、卒業後に保安官になることは義務じゃないし」
「義務じゃない。何故?」
「海保の仕組みについては、まあいいじゃない。私は孤児院あがりで、十三歳ぐらいから、学生運動に参加していたのよ。学生運動というのは、反米か反戦を掲げている学生たちの反政府運動なの。だいたい、私は裏口みたいなもんで、」
「わけが解らん。どういうことだ? だって、お前は、アメリカか日本かしらないが、資本主義陣営の工作員なんじゃないのか?」
「声も変だ」と一人の少年が口を挟む。
「断じて違うわ。私は共産主義者よ」
「じゃあなんで」
「そんなに立て続けに質問しないでよ。だいたい、私が、あんたに全部教えるとでも思っているの? 命を粗末にするものじゃないわ。変に関わると死ぬから、やめときなさい」
「それはお前だぜ」
 軍宝が口を挟む。
「アメリカへ行ったことは?」
「ないわ」
 沈武が言を奪うようにして畳み掛ける。
「でも香港へは行ったことがあるんだろ?」
「数日いただけよ」
「香港はどうだった? 大都会なんだろ?」
「大きな街だったけど、規模的には日本の首都圏ほどじゃないと思う。東京では今、パリのエッフェル塔と同じものを建造中で、もうすぐオリンピックを開催するわ」
「オリンピック? 冗談だろ? 日本は原爆で廃墟になっているって」
「廃墟に近いのはむしろ中国よ」
「何故なんだ……。中国は戦いに勝ったじゃないか」
「それは今、関係のある話?」
「待て、待て、もう一度聞かせてくれ、お前が日本人だと?」
 少年たちは不安に慄いてどよめく。
「当てが外れたぞ……沈武!」
「どうする気だ!?」
「当ては、そんなに外れていないわ」
 麗麗は、杯を突き返すと立ち上がった。
「急がないとご飯に間に合わなくなっちゃったじゃない」
「待て」
 沈武は立ち上がると杯を蹴っ飛ばして筵の中に隠し、麗麗の肩口を掴んだ。
「俺のオヤジは朝鮮戦争までは村の英雄だったんだ。兵隊上がりの大尉だった。出る前に、オヤジに俺がこの村を出て戦うことを決意したと伝えてほしいんだ」
「何と戦うというのよ?」
「全てだ!」
「あんたのお父さんは、どこにいるの?」
「病院に地下牢がある。鉄梅は、お前たちと通じているはずだ」
「残念だけどそれは誤解ね。鉄梅は熱心な共産党員よ」
「信に関わるぞ麗麗! 俺は、決めなきゃならない!」
「もう一度話を詰める予定なのでしょう? いらないわ。三日以内に私からあんたたちに話をつける。場合によってはそのまま脱出よ。それまではここにいる四人以外には一切言わない。当ては外れたということにして。いいわね」
 麗麗は、そう言うと、扉を小さく開けて、外へ飛び出していった。沈武たちは、それを慌てて追いかけた。
「麗麗! 驚いたが、俺は今日、久しぶりに豚以外の奴に会ったと信じている。裏切るんじゃねえ!」
「あんたこそ、父さんをがっかりさせるようなことをするんじゃないわよ」
「ああ」
「絶対だ」
 沈武は、自分に言い聞かせているようだった。 
「待て! お前の本当の名前は!?」
「ナカノセ」
 聞き慣れない名前に、また彼らの表情に戸惑いの色が滲んでいた。






§ 四〇 真理は寒梅の似し

 工場の演台では、張徳全が黒集りの群集に囲まれていた。文字通り、吊るし上げになっていた。既に半日この状態で、大人達は交代で批判を続けている。並々ならぬ気迫で決して屈しない被疑者に、内心誰しもが驚いていた。
 張は何度目になるかわからない弁明を続けていた。
「義挙入国するために、俺がどれだけ帝国主義者、反共主義者たちと戦ってきたと思っているんだ!」
「ありもしないことを嘯くな! 偉そうなことを言うんじゃない!」
「貴様は統計局のスパイだ! クズめ! 証拠は掴んでいるんだぞ!」
「もしも俺が本当にスパイだというのならば、土法炉に落とせ! 革命の鉄骨になれるのならば、俺はどんなことだって本望だ! 劉忠玄!」
 群集は張の視線の先に向かって一斉に振り返り、そこに劉忠玄の姿を認めると、モーセが海を割るが如く、魚の群れの如く、驚くべき素早さで飛び退き、演台まで続く道を作った。省主席の権力の大きさがよく解る光景だった。彼等は羊や魚というよりは、最早セメントに近い。
 劉忠玄は聊かの感動もない様子で、ポケットに手を突っ込んだまま演台まで歩いてゆき、吊るし上げられている張徳全の下で止まった。
「君は共産主義建設のためのいい鉄になるな。しかしそれは、絶えざる革命精神と労働によってだ。諸君らもこの男を見習うことだ」
 劉忠玄はそう言うと、雀でも散らすようにパンパンと手を叩いて群集に解散を促した。
「明日からの工事は一時中断だ。以後の取調べは我々が行う。君たちは勝手に動くな」
 かくして張徳全は釈放された。
 張徳全は疲れ果てた無表情で劉忠玄に訊ねる。
「娘は今どこに」
「小屋を用意させるから、それまでは君たちは病院に一室借りて暮らせ。もっとも家族というものは共産主義社会が到来すれば、消滅するのだがね」
 劉忠玄は、穏やかな口調で、微かに笑みを浮かべているように見えたが、凝視していると、それが張子の面であるかのように、突然虚無的になった。そこに人格を見出そうにも、何を考えているのか一切判別し難い表情でもって、張徳全の瞳を覗き返していた。
「家族や血族などというものに拘っていてはいけない。君はもっと公平な人間にならねばならない」
 病院は既に超満員であった。老鉄山は、張一家に一部屋割くことに関して、非政治的な見地から疑問を呈してみせたが、視察団長の楊不韋は、口答えする気かと、目も合わせずに顎をしゃくった。

 宛がわれた一室にまでゆくと、雑役夫たちに混じって阿Qが素知らぬ顔で張徳全の前をすれ違った。二畳程の物置を空けて作った僅かな藁が敷かれただけの窓のない部屋であったが、一つだけ優れたことには、その物置は盗難を防ぐために、扉がまだ残っていた。
 暗闇の中で何かが動いている。よく見ると、麗麗が敷藁から引き抜いた管で歯を磨いていた。空腹から齧っていたのかもしれない。
 徳全は目と鼻の先まで近づいて行って、努めて低い声で麗麗に訊く。
「今お前はどこで働いている?」
「畑」
「どこだ」
「試験田。少年先鋒隊の奴らとプランクトンみたいの育ててる」
「何だそれは」
「小球藻」
「……何だ」
「よくわかんないけど、小便で育つ緑色のツブツブ。それを近いうちに全戸配布する予定よ」
 徳全は、意味が解らんことをこれ以上言ってくれるなと、重たそうに瞼を閉じた。
「何のためにだ?」
「食べんの」
「そんなものを食って大丈夫なのか?」
「私に聞かないでよ」
「お前は、昨日何もなかったのか?」
「昨日は、山まで行ってた」
「試験田ではないのか?」
「試験田で働いてたけど、昨日だけは山へ木を取りに行ったの。もうへとへとよ」
「それは、こっちのセリフだ」
「よく生きてたじゃない」
 徳全は流石に堪えたといった様子で絶句して、辛うじて声を発する。
「……少し、休ませてくれ」
「ダメよ。もっと重大な話があるのだから」
「なんだ?」
「私たちの素性がばれてる」
 麗麗にとっても改めて衝撃は大きかったが、最早二人とも眠気で視線が合わなかった。
「……勘付かれているということか」
「違う。そいつは、私たちが近いうちにこの村を脱出すると読んでいて、仲間に加えて欲しいって」
「……まさか口を利いたのか?」
「ええ」
「お前はド三流もいいとこだ……。事態を全部話せ」
「どこから」
「全部だ」

 麗麗がことの次第を話している最中に、張徳全は眠ってしまった。
 十時頃になって、老鉄山が物置に飛び込んできた。一瞬、外の光が差し込んで薄目を開けている麗麗と目が合った。鉄梅は目の前まで行って、その肩を揺り動かす。
「集まりすぎている。とんとん拍子で行き過ぎている……!」
「……仮に連中に勘付かれていたとしても、どう出来るの?」
「視察の連中に勘付かれていれば終わりよ。私たちは……」
 麗麗は目を閉じたまま鉄梅に訊く。
「……話があるのだけど、時間はどのくらい取れる?」
「今日はもう外出禁止令が出ている」
「労働戦闘は中止?」
「必然よ。昼間での外出禁止令だなんて、ただの言い訳。人間には限界がある。過労での死者が出始めている。これ以上やると収拾がつかないことになるわ」
 老鉄山は今度は張徳全を揺り動かした。
「起きて」
「睡眠戦闘中だ」
「冗談を言っている場合ではないわ」
「ああ。冗談ではない。麗麗がとんでもないことをやってくれた。話を聞いておけ」
「何を……?」
 麗麗は言う。
「その前に、ダムの事件のことで質問がしたいのだけど……」
「手短に」
「鳴砂団のアジビラが発電機の中に入っていたって言ってるけど、農民でさえ工場の執務室になんて近づけないじゃない……」
「発電機は元々調子が悪かった。たぶん、修理している間に止めを刺した。それを取り繕うために、あんなことを……。ダムを決壊させたのも連隊長かその取り巻き。許せない」
「どういうこと? 発電機のことを咎められるのを恐れて、ダムを崩壊させたというの?」
「そうとしか考えられないじゃない。それとも、あなたまで、鳴砂団の仕業だなどと言う気?」
「そうじゃないけど、いずれ、そういう戦いになってもおかしくないわ」
「既になっているわ」
「鳴砂団というのは、実在するの?」
「したわ。ハムスタン系民族主義結社。反共組織。だけど、今は都合よく使われている。その名前だけ残って、弾圧の言い訳になっている。それで? 大変なことをやらかしたっていうのは?」
「眠い。死にそう……」
 ナカノセはもう限界だとばかり盛大な欠伸をした。
「だったら早くなさい」
「沈武を知っている?」
「沈武がどうしたの?」
「一緒に逃げようって、持ちかけてきた」
 鉄梅は一瞬、何を言っているのかが理解できず、状況を察した後も暫くの間硬直していた。
「何故、沈武が知っているの! まさか、話したのあなた?」
「そうよ、あんたも、鳩も、ばれている」
「まさか」
「寝るわ……」
「寝ないで!」
 鉄梅が麗麗の瞼を無理やりこじ開けると、黒目が戻ってきてまたすぐに上へと消えて行った。
 麗麗は消え入るような声で言う。
「……今日明日中。やるなら今日。最短で二十時には撤退開始。あとは羽賀さんに聞いて。辛いけど、もたもたしていると、好機を失う」
 麗麗はそこまで言うと、最早寝息を立てていた。

 時間が跳ぶ。目を覚ました時、ナカノセは、自分がどこにいて何をやっているのか見当がつかずに混乱した。ホームの三段ベッドを降りるために手摺を探していたのに、敷き藁が手に触れた瞬間、ホームの牛小屋から、塞沙村――地の果てような場所にある奇妙な村に転げ落ちた。

 もう一度乗る気があるか? と、バスの昇降ドアの手前の砂の上に描かれている。猫崎と私が、嫌なら死んだ真似でもしていればいいのだと言って、応接間のコタツに入って蜜柑をむいていた。ママちゃまが皆に隠れて下手くそなピアノを弾いて練習しているのが心苦しい。
 ナカノセは、紅卍会の関係者に会って、七日以内に金門島へ戻ってこなければならなかった。地図も案内もないのにどうやればいいのかと思ったが、それ以上は愚痴を言えそうになかった。実際のナカノセは漁船伝いで、辛うじて澳門まで辿り着いたのであるが、教会跡を目指して坂を登ってゆくと、夕闇の中にバンドネオンの音色が聞こえていたという。それを辿ってゆくと、奏でているのは沖ノ島その人だった。
 信徒や関係者が囲んで、それぞれに何かを述べては座るということを繰り返していた。一回りしたあたりで、一組の男女が進み出て、逆様にした大きなコンパスのような道具で、砂の上に、何か字を書いていた。独特の宗教儀式が終わるまで、ナカノセはそれを遠巻きに見ていた。
 人が払うのを見届けて、ナカノセは声をかける。

 さっきのは何。
 フーチよ。占いのこと。
 ……コックリさんみたい。
 大差ない。大きいコックリさん。
 そう言いながら、沖ノ島は、仕舞いかけていたバンドネオンを開きなおして、また鍵盤を探り始めた。
 あなたの夢はどんなものだったかしら?
 夢?
 そう。
 ナカノセは登ってきた坂の向こうを見やる。
 何も見てない。

 嘘をおっしゃい。あなたはバスの夢を見た。運転手はあなた。どこだか解らない道を走っていて、ブレーキを踏み込んでも効かない。ハンドルを操作しても思い通りにいかない。アクセルを踏むと凄い勢いで走るの。あなたは車を運転したことがなくて、それを誤魔化したまま運転席に座って、バスを走らせている。大勢の乗客を乗せている重圧の中で、あなたは大きな事故を起こしてしまった。事故があった後、ママちゃまに連絡を取ろうとしたら、思いがけないことがあって目が覚める。ホームでは男の子には自動車学校へ行かせていたのよ。女の子は、花嫁学校のようなマナー教室にに行かせていたわね。ボランティアの。経済的な不公平がそこにはあって、だけど、あなたはその事情を理解できないわけではなくて――。

 何者なのあなた?
 どのくらい当たった?
 何で全部お見通しなのかって、聞いてんのよ!
 ……啓示宗教と言うけれども、本来、全ての宗教は啓示であり、啓示こそが宗教であって、夢を多く見るというのは、宗教家――預言者として決定的な資質だった。
 ナンセンス。説明になってない。夜の夢の話なんかじゃなくて、私にはなさなければならないことがあって――。
 夜の夢と将来の夢は、どうして同じく夢と呼ばれるのか解るかしら?
 猫崎みたいなことを言っていないでよ。私の質問に答えて。そしたら何でも信じてやっていい! 猫崎はどうして死んだの? どうやったら生き返る?

 現実ではないことを夢と呼ぶのよ。だけど、私たちは、事実以外で出来ている部分の方が大きい。それが夢。現実的であるということは、蒙を解くと称して記憶喪失的に振舞うことで成り立つの。私たちの現実認識は産業革命以後、そういう捩れを抱え込んでいると言っていい。猫崎は夜の夢と将来の夢を同一視していたでしょうね。そして現実をも。それを可能にするものが、彼女をして漫画家を目指すということだったと思うのよ。

 どうしてそんなことを? 

 五分の一以下の人生を徹底的に生きるために。

 そんなこと思ったこともなかった。何故もっとはやく言ってくれなかったのッ?
 起きなさい。魘されている。現実は夢を忘れさせてもくれる。



 四〇  * *

 敷き藁を掌に握りこんで、ナカノセは目を開けて、全ての忘却と引き換えに、心の奥底で壮絶に入り乱れていたものから身を引き剥がした。老鉄山が視界に入る。
 振り返ると張徳全も既に目を覚ましている。今何時かと思うも、時計があるのは、工場と病院の入り口だけだ。これでも模範集落である。
 鉄梅は言う。
「ハムスタンの血が混ざっているから彼は苦労するわ。どっちに行っても村八分に。精神病棟の地下に秘密監獄があるのは事実よ。彼の父はもう十年間も一人で狭い牢に繋がれ続けている」
「お前までなんだ。そんな話が今関係あるとでも思っているのか」
「今なら助けられる」
「無茶を言うな。病人を連れて逃げられるとでも思っているのか」
「彼は真のマルキストよ。朝鮮戦争時には彭徳懐元帥の部隊に転属を願い出て認められてきたわ」
「彭徳懐がどうなっているか知らんわけではないだろう。廃人だ」
「彼はまだ正気を保っている!」
 張徳全は鉄梅の口に手を当てて、大きい声を出すなと手で示した。
「……いいから落ち着け。ここまで潜入するのに、どれだけの苦労があったと思っている」
 麗麗が口を挟む。
「私はやるっていうのならやってもいい」
「お前は何でそういうことを言う? 重々解っているはずだ。そんなことが決して出来ないことを」
「撹乱に協力してもらうだけでもいいんじゃない?」
「捨駒にするというのッ?」
 老鉄山が聞き捨てならないという様子でそれを咎めた。
 麗麗は言う。
「革命家なら、せめて戦って死ぬべきだと思うまでよ。牢で虐待されて衰死するのを待つだなんてその方が惨めよ。どうせ死ぬなら全力で戦ってから死にたい」
 張徳全は苛立った溜息をついた。
「無責任なことを言うな。酔狂でことがなせるか」
「せめて私たちが中国をぶっ潰す気でいるぐらいのことは教えてやってもいい。生きてる希望ぐらいにはなるわ」
「あなたは中国を潰しに来たというの?」
「ええ。このさいはっきりしておくけど、新生中国には失望したわ」
「あなたにそんなこと言われたくない! 日本人にそんなことを言う権利なんてない!」
「中国人こそが中国のこのざまを失望しないで、こんな状態を大絶賛していることに失望しているわ」
「バカなこと言わないで! 中国人は国府が失地を挽回することは許しても、外国の、まして日帝の統治なんて望んではいないわ! どれだけの犠牲を払って中国が独立を勝ち得たと思ってるの!」
「それが台無しになってんじゃない! これでいいとでも思っているの?」
「違う! あんたなんかに私たちの何が解るというの?」
「黙れ。黙れ貴様等。これ以上無責任なことを言うな。ここを抜けるまでは俺の命令に従ってもらう。従わないのなら死んでもらう。いや、死ぬだけだ。今の話はそれだけのはずだ。これ以上寝ぼけたことを言っていると、殺すぞ」
「もう時間がありません。私が見てきます。沈武のことを大尉殿には伝えておきましょう。ついでに沈武に話をつけます」
「誰ッ?」
 麗麗は驚いて声の主を探し、暗い部屋の片隅に阿Qが立っていることにようやく気付いた。
 徳全はもはや無表情で吐き捨てる。
「方法は? あるわけないではないか」
「いや。なんとかする」
 そう言うと阿Qは物置小屋を出て行った。

 古い地下牢には独房とは別に、廊下の入り口にも鍵がかかっている。地下牢には三五人の服役囚が収容されていたが、うち二七人には労役が課せられていて、昼は出払っていた。労役が課されていない八人の内訳は、労役が勤まらない精神病患者が三人。高齢者が三人。一人が元地主。最後の一人が沈大尉で、後者から四人が政治犯・未決囚であった。規則では四十八時間看守が見張っていることになっているが、配給の不足から、逃げるような体力の残っている者は一人もおらず、看守とて見張っているだけで済まされる身分ではない。何よりも公共食堂が出来てからは、食事の時間に行かねば、飯にありつけなくなるので、当番でも外す。言うまでもなく囚人への配給は相当程度ピンハネされている。沈大尉の独房の脇にはその時誰もいなかった。
 湿気った廊下を進んで一番奥の突き当たりまでゆくと、阿Qは止まった。
 暗闇から阿Qを見ている双眸が近づいてきて、看守ではないことを確かめていた。阿Qが、黙っていると、沈大尉の方から声をかけてきた。
「誰だお前は?」
「阿Qと呼ばれています」
「こんなところへ何をしに来た。処刑か?」
「村でダム崩壊の事故が起きた。あなたの息子はこの村を出ることを決意した」
「そうか。小武はまだ生きているのだな」
「ついて来れそうですか」
 暫しの沈黙があった。
「なんだ? 私に言っているのか?」
「はい」
 再び沈黙。それから彼は全てを悟ったようにして答えた。
「私はもう動けない。必ず逃げ切れと伝えてくれ」
「息子があなたを背負います」
「いや、俺に構うな。もしも、それだけの力があるというのならば、鉄梅嬢を連れてゆけ」
「鉄梅嬢も逃げます」
「……ならば、戈香蓮を連れてゆけ。私は遠慮させてもらう」
 意外な答えが返ってきたので阿Qは目を丸くした。
「何故です。何故、戈香蓮を?」
 沈大尉は、土間からすくっと立ち上がり、一冊の本を胸元に翳した。
 阿Qは中身が毛沢東語録ではないことに気付いた。表紙が張りかえられている。沈大尉は、そこから一枚を破いて寄越した。本は、フランス革命の省察であった。そこには、鉛筆書きで、牢獄の最奥にも権利はある。と書き記されていた。
 阿Qは驚いた。
「どこでこんなものを?」
「鉄梅に聞いてみるんだな。もう行け。これ以上は危ない。小武には、力になれなくてすまないと伝えてくれ」 
 阿Qはその足で、すぐに食堂へと向かった。食堂では雑穀粉末飯を五百グラムと、根菜の上葉の薄いスープを貰うためだけに、既に長い行列が出来ていた。阿Qは沈武の姿を見つけると、それを列から引っ張り出した。
「何すんだよ!」
「麗麗と話したようだな」
 阿Qがそう言った瞬間に、沈武ははっと口を摘むんで、その瞳を覗き返した。自分を行列から引き出そうとした男の正体が阿Qであることを確認して更に驚愕する。阿Qはそれ以上は何も言わず、その場を捨て去って、試験田の方へ向かった。
 暫くして沈武が走り寄ってきた。
「おい」
 阿Qは振り返らずにそのままずんずんと進んでゆく。
「麗麗と何だって?」
「あの娘の名前は麗麗ではなくナカノセだ」
「なんてこった。お前が……スパイだったのか!」
 その瞬間阿Qは沈武少年の胸倉を掴んで目と鼻の先まで引き寄せた。
「貴様、ガキ、俺をスパイだなんて言うな。俺は中国も共産主義も裏切ったことは一度もないぞ。真のプロレタリアとは俺のことだ」
「わ、わかったよ……だけど、どうする気だ?」
「今夜、月が山の上にまで昇ったら涸川の洞に来い」
「洞って、お前の小屋のことか?」
「そうだ」
 阿Qは沈武から手を離すと確認をとった。
「何人来る」
「……俺含めて四人」
「男か?」
「ああ。全員男だ」
「何歳だ」
「だいたい十五歳だ」
「あるだけ食っておけ。失敗したら終わりだ」 
「そうはいかねえよ……。俺たちが抜けたら、ある分は残してやることになっている」
「他にも知っている奴らがいるのか?」
「違う。それはない。だけど、万一俺が死んだら、兄弟団の財産を引き継ぐことになっている奴らがいる」
「……いいだろう。だが、そいつらには、決して話すな」
「解っている」
「じゃあな」
 阿Qはそこで話を終わらせて、来た道を戻り始めた。
「待ってくれ、俺の親父には、伝えてくれたのか!」
「伝えたよ」
「何て……」
「後で聞け」
「来るのか。父さんも?」
「違う。悪く思うな。沈大尉は、お前の力になれなくてすまないと言っていたぞ」
「すまないのはこっちだ。父さんに伝えてくれ。いつか必ず助けに行くって」
「誇りに思うがいい。お前の父親は、自分よりも人を助けろと言った。戈香蓮を救えと」
「戈香蓮? 戈香蓮って、あの、片輪ババアのことか」
「話は終わりだ」
「何故なんだ? 何故よりによって、戈香蓮なんだ? あんな疫病神のような不具を……」
 阿Qは踵を返して戻ってきて、沈武の肩口、ほとんど首の辺りを掴んだ。
 その表情は憤怒に満ちていた。
「いいか。よく聞け。何故戈香蓮なのかに理由がないように、何故お前なのかについても理由などはない。俺たちにはもう、誇りしか残っていない。大義親を滅すだ。その意味が解らないような男なら、お前を連れてゆくことは出来ん」
「何故なんだ。何故、父さんじゃなくて、戈香蓮なんだ。それが父さんの願いなのかッ?」
「その通りだ」
 沈武少年は苦渋に顔を皺くちゃにして声を絞り出した。
「クソッ やってやる。俺が成功させれば、いつか父さんの耳にも入るだろう。やってやる!」
 阿Qはその足ですぐに病院へと戻った。
 沈大尉が自らの救出を拒否したこと、戈香蓮を救い出すように願ったことを鉄梅に話した。
 阿Qは言う。
「彼女を連れ出せないですかね。彼女は、役に立たないかもしれませんが、悪い人じゃありません」
「本気で言っているのね」
「はい。私はいつだって本気です。嘘は言いません」
 阿Qは自分でも不思議なほど落ち着いた様子で鉄梅を説得していた。
「これはあくまでも私たちの戦いなのですから」
「ええそうね。だけど、覚悟して。失敗すれば間違いなく死ぬわ。そして失敗する可能性が高いわ」
「子供たちは彼女を運ぶのに使えるでしょう。自分は、自分が戦える限り、人を見捨てはしません。それが私の人生です」
 鉄梅が羽賀の方を見遣ると、羽賀は間髪入れず鋭い声を発した。
「酔狂でことが成せるか!」
「酔狂のためにことを成すのだ。真理は寒梅の似し。敢えて風雪を侵して開く。俺はただ正義のためにことを成す。それが世の人に何と呼ばれようと、知ったことではない」
 羽賀はこの男と二十年後も睨み合うことになろうとは思ってもみなかった。
「貴様からそんな句を聞かされる日が来ようとはな。失敗したら今度こそ終わりだぞ。脱落が出た場合は捨てて進む。解ったな」






§ 四一 冬の黄河

 月が昇る。空は薄曇りだったが、沈武たちはやってきた。沈武たちの後に追っ手がいないことを確認すると、阿Qが石を二回打ち合わせて合図を送った。谷間の反響が静まると、石を三回打つ合図が返ってきて、彼らは合流した。河を渡ると筏が一つあるという。二回に分けるか、一回で行くかで、彼等は少し問答した。
 実際に見てから決めることに決まると、以後口を利くこともなく、四キロほど歩き、事件の発端となったダムまで来た。ナカノセはここで初めてダムを見た。暗闇の中、轟々と流れる水の音が響いている。
 深い谷だ。
 手前の断崖絶壁の前に、無残に崩れ落ちた白い構造物が迫り出しているのが闇に浮かんで見える。他は何も見えなかった。
 ナカノセが言う。
「誰から行くのよ」
「俺だ」
 羽賀はそう言って、高台の足場に進み出た。
「阿Q。お前は一番最後だ。縄を用意しておけ」
「気をつけろ。手が氷で張り付くぞ」
 羽賀は包帯を手に巻きつけると、ダムの脇の取水塔につけられた長いタラップを慎重に降りていった。戈香蓮は阿Qがロープで下ろしてゆき、先に降りた者たちが受け止める算段だった。
 次いで老鉄山。ナカノセ。沈武と少年たち――。
 四人目の少年がタラップに足をかけんとしていた。
「よし。行け。お前で最後だ」
 阿Qがそう言った時、パンと音が鳴って、俄かに戦慄が走った。音の方を振り返ると、夜気の中を縫って松明を掲げた群集が勢い込んで迫ってくるのが見えた。
 更に銃声が断続的に続き、何発かは近くを掠め、タラップに当たった弾がキンッと鋭い音を立てた。
 少年は躊躇して、降りかかっていたタラップを登り始めてしまう。
 阿Qは言う。
「何をしている! 早くしろ! 行け!」
 提灯で照らされた人々の姿がすでにはっきりと解るところまで見えていた。
 更にその背後から、劉忠玄と思しき声が響く。
 縄をタラップに縛り付けて、阿Qが焦っていると、どこからか血が流れていた。気がつくと、阿Qが背負っていた戈香蓮が撃たれていた。
 戈香蓮は血で溺れながら言った。
「約束よ」
 阿Qは、一瞬ためらったが、松明が迫ってくるのを見て、すぐにその胸を匕首で刺した。
「仇はとってやるぞ……」
 それから阿Qは立ち上がり、轟流を押し返すほどの大声で叫び散らした。
「羽賀! その人を必ず中国から脱出させろ!」
「何をやっている早くしろ!」
「早くしなさい阿Q!」
「鉄梅嬢。中国は必ずいい国になる! どうか生き延びて下さい!」
「いいから、早く来なさい阿Q!」
「行ってください!」
「早く来なさい! こんなとこで死ねない! こんな嘘の中で死ねるわけがない!」
「行ってください! あなたがいる限りここは本当の共産主義国です! 私はあなたと戦えて幸せでした。沖ノ島さんに伝えて下さい。小生は最後まで赤十字の精神に背きはしなかったと!」
 阿Qが来た道を戻って突進してゆくと銃声が響き、幾つかの悲鳴の後に、河原に人がバサバサと落ちる音が響いた。
 降り立った川原でも、彼らは既に囲まれていた。かなり接近していたが、追手は深い暗闇の中で長らくその存在に気付かずに、あたりを探し回っていた。栄養失調であまり夜目が利かない。
 状況は最悪だったが、まだ猶予があった。飛び込むしかない。
 仕方なしに冬の川に飛び込む。瞬く間に離散して、世界を覆いつくす闇と水だけが残される。ナカノセは川の対岸まで泳ぎきろうと思ったが、予想以上に流れは速く、何より水中は刺すような冷たさで、急速に全身が痺れていった。痙攣を起こして足が動かなくなる。泳ぐことは諦めて、触れたものを掴むことに賭けた。
 背を岩に叩きつけられて、服の背中が大きく破れたのが解った。このような状況の中にあっても不思議と何の恐怖も感じなかった。危機に陥れば陥るほど冷徹になれる魂が目を覚ます。最早、苦しみも悲しみも感じてはいなかった。
 ナカノセは思う。
 羽賀は自分の知らない任を帯びている。恐らくはハムスタン地域での暗号連絡組織の確立である。自分はどうする気だ。ハムスタン革命戦線に合流して徹底的に戦うか。ハムスタンの指導者、イーサー・エルクの亡命――伴う難民の救出か。後者はハムスタン独立運動が潰えることを前提としている。そのため、イーサー・エルクが説得に応じる可能性は薄いと考えられていた。
 この二つはジレンマであったが、何であれ中国へ潜入することまでは果たした。革命家として、未だ嘗てない前進を果たしたはずだった。次に死ぬのが自分でもおかしくはないが、全ての前提となる浸透作戦は成功させたはずだった。
 ナカノセはその時、川の向こうに僅かな明かりを見た。痺れる手を動かして、対岸へたどり着くために神経を集中させた。
 靴が脱げかかっており、はっと靴底に隠し持っていたアウレア・リベルタス、猫崎のことを思った。猫崎が一気呵成に濁流を逃れる自分を描き上げる。必ず。彼女は漫画家になったのだから。
 恐ろしく深い闇の中でカッと、もう一度明かりが見えたかと思うと、最早それを逃がすことはなかった。手に木の枝がひっかかて、その瞬間、体が水中を深く潜って、半回転の姿勢になって肩が外れる。しかし、手は離れなかった。木の幹を掴むと全身が燃えるように熱くなった。
 ナカノセは、気がつけば深い藪の中を進んでいた。靴底を探ると、艶のある金色の宝石の感触がある。本当にあるのか。不安になって靴を脱いで手で探ってみると、それは確かにあった。靴からそれを引きちぎると、ナカノセは首にかけた。鎖も切れてはいなかった。そして、その時に、初めて痛みを覚え、不思議に思って手を撫でてみると、両腕にびっしりと太い棘が刺さっていていることに気付いた。
 私はあなたと戦えて幸せでした――。
 ナカノセの耳の奥に、阿Qと老鉄梅の最期の会話が木霊していた。
 そう。私と猫崎は幸せ。自分の世界で戦えることが人間の幸せだ。ひょっとしたら、塞沙村の人々も幸せなのではないか? ナカノセは、ふとそんなことを思ったが、すぐにその考えを取り下げた。彼らは幸せではない。彼らが信念なのではなく、彼らは信念の生贄だからだ。
 潰してやる。ホームの子の皿の上にたまにはエビフライが一本ずつ乗ってることの方がはるかに偉大だってことを解らせてやる。
 ある日、口をついて出た言葉がその背後から追いかけてくる。甲高い声でまくし立てるそいつが、自分であろうとは信じられなかったが、いつしかそれはナカノセになっていった。






§ 四二 ディナー

 瞳の向こうには澳門の夜景が広がっている。澳門はカジノとナイト・クラブの街だ。賭博の街として三百年の歴史を持ち、その如何わしさは上海にも劣らない。しばしばギャングの抗争も起きる。ゲーミングハウスが軒を連ね、昼の十二時からギャンブルに没頭する一日が始まり、人々は翌朝の五時、日の出と共に眠りにつく。
 一九六二年に開店し、マカオの新たなシンボルとなった愛都酒店=エストリルホテルは、ギャンブルホテルの先駆けであった。そのすぐ脇には新花園娯楽場というカジノがあり、そこは、マカオの最有力者にして賭博王であるスタンレー・ホーの牙城でもあった。
 マカオには浴場も多い。浴場というのは、トルコ風呂のことであり、ギャンブルで稼いだ金は正に湯水の如く流れてゆくことになる。マカオで稼いだ金はマカオに落ちるように出来ており、胴元に効率よく還流されてゆく。山の手に当たる歴史地区の聖堂はこの頃は放棄されていた。 

 犬吠埼は、暫くホテルの外に出てモータープールを出入りする車を見張っていたが、目当ての人物は予定時刻を過ぎてもやって来なかった。すっと、脇から男がやってきて声をかけると、犬吠埼は諦めて中へと戻った。
 いつの間にかホテルのロビーでは、やたらと妍を振りまいて闊歩する女たちで溢れていて、通りかかる男たちに声をかけて回っていた。犬吠埼にまで声をかけてきて魂消た。
 男は言う。
「ツバメを用意しますかね?」
「つばめ?」
「選りすぐりの色男たち」
「はぁ、それは、遠慮しておきます」
「はっは。冗談ですよ。N先生をこんな柄の悪いところに連れて来る気はなかったのだが、私は先生ほど生まれがよくない。成り上がるにはこういう場所しかなかったのです」
 犬吠埼はいつ訂正しようかと迷っていた、些細な誤りをここで指摘した。
「あの、今更ではありますが、私、NじゃなくてINUです。正確には犬吠埼です」
 発音の問題だと思っていたが、予約名がEsq.Nになっており、戸惑う羽目になった。
「しかし、それも本名ではありませんな?」
 男の声が僅かに低くなり、その目には鋭い光が帯びる。
「……はい。でも、パスポートはそうなってしまっていて。私は決着をつけねばなりません。しかし、これ以上、母を、家族を巻き込みたくないので、以後も、私のことは、犬吠埼でよろしくお願いします」
「事情はワイフから聞いた」
「ワイフって、沖ノ島さんと結婚してらっしゃるんですか?」
「入籍予定なのだ。いい加減、私とてただの成り上がり者だと思われていては堪らないからな。しかしN先生、遠慮はよくないですぞ。生きるってことは欲しい物を手に入れるってことだ。それ以外なんて生きているとは呼べない」
「はあ」
 昼は、男の用意したガイドだという女と一緒にドッグ・レースと競馬を見た。サンドウィッチの軽食を挟んだ後は、ホテルの一室をとって夕方まで昼寝をして過ごした。サンドウィッチは、どういう了見か全てカツサンドだった。無論、味は申し分ない。
 朝食は至って普通のイングリッシュスタイルだったが、あれはあれで、並ではなかったのであろう。とはいえ、事前に「食べ物攻勢が来るかもしれないから気をつけて」と聞かされていたので、この程度では拍子抜けであった。
 エレベーターで最上階まで上がる。夜景のよく見える一室に案内されると、クロスを敷いたテーブルが設えてあって、コックが六人待っていた。
 ついに来たか。最早やむをえないと、犬吠埼は腹を括った。
 メニューは中華とコンチネンタルである。よく見ると日本食も扱っていたので、興味本位で頼んでみたら本物の江戸前寿司が来た。日本から引っ張ってきた料理人を雇っているとのこと。
 男は突然大きな声を上げる。
「よし、中華とフレンチもメインを出してやってくれ」
 それから、やたらと小さな、気遣いするような声で訊ねる。
「いいですかなそれで?」
「はい、あでも」
「食べきれないなら、残せばいいんだ」
 この男は貿易商社の会長で、並外れた金持ちだった。マーティン・クリフォード卿という。年の頃は五十歳前後であるが、もう少し控えめにした方が様になるのに、依然として滑稽なほどの大物気取りであり、落ち着いたところがない。ボーイを呼ぶ時にはこれみよがしに指を鳴らす。食前酒の白酒を干して杯の底を下に向けると、すかさず謳うような速さで、様々な前菜や、舌を噛みそうな銘柄のワインやブランデーを頼んだ。そういう人生に聊かの嫌悪も抱かない俗物である。ただの俗物でない理由は、金を持っているということに尽きる。

 暫くするとエディストーンがやってきた。
 エディストーンが席に着くと、再度、三人で白酒で乾杯し、杯の底を見せ合う。度が強過ぎると言って、エディストーンがこめかみに指を当てて眉を顰めるも、マーティンは、その表情をむしろ喜んで、更に注文をした。酒や料理がテーブルの上に乗り切らなくなり、急遽もう一卓同じテーブルが運び込まれて連結された。
 新しく手に入れた欧州の古城や客船、趣味で集めている馬や車、戦車や戦闘機の話。商業ビルや鉄道、航空路線等の実用的な財産の数々。モネとマネが混同する解ってるのかどうかよく解らない書画骨董のコレクションの山々。高いというから買ってみたストラディバリウスのバイオリンやプレスリーのギター。切手や宝石等の、チマチマしたのはあまり好みじゃない等の嗜好――。
 暫くの間、二人の女博士は、すべてにおいて絶大と莫大を美徳とする世界観を持つこの男の自慢話にふんふんと素直に相槌していたが、とうとう、犬吠埼の方が本題に話を振った。
「今後の話を、もうそろそろ聞かせてくれませんか」
 マーティンは興醒めしたような表情を隠さなかったが、すぐに気を取り直して、最後の注文をした。デザートに杏仁豆腐やシャーベットが来て、ダメ押しで果物と揚げ菓子も山盛りになって来た。エディストーンにしてみれば、最早吐き気を催すほどの食べ物の山だったが、犬吠埼はこの期に及んで、ゴマ団子と月餅を一つずつとった。もう一個取るかどうか迷っていたが、エディストーンの目の色に気付くと、そこでやめた。マーティンはこの光景にいたく満足し、合図をすると、給仕たちは部屋を出ていった。
 マーティンはすまし顔の女たちに、食べきれないほどの料理を勧めることで有名だった。どこで身につけた嗜好か知れず、それの何が楽しいのか解らないが、この遊戯に端から付き合わなかったり、抗議したりすると、機嫌を損ねる羽目になる――。
 犬吠埼は、このことを事前に知らされていたが、ぼやっとしているうちに、苦しむフリをする機会を逸してしまった。

 一呼吸置いてエディストーンが訊ねる。
「お役人からの返事は?」
「ありました」
「回答は?」
 犬吠埼は少し唸って、天井の隅を見上げたが、すぐに答えた。
「色々考えてみましたが、行ってみようと思います。国連が身分保障をしてくれるようなので。むしろこうなると、実質上、公式に西側の査察メンバーに加わることと同じだから、あまり果々しい成果は期待できないんじゃないかと思います。今の状況で中国が視察団を受け入れたこと自体、私としては、ちょっと意外で」
「前向きに考えてもらえて嬉しいわ」
「私は、その後が知りたいんです」
「ええ。私は、これから先の話をしなければならない。絶対に他言は控えて頂きたいのだけれど、大丈夫かしら」
「それは大丈夫です。身の危険が及ばない限り」
 身の危険というよりは、マスコミの押しかけ取材をこそ犬吠埼は恐れており、この時はまだ心底で身の危険を感じていたわけではなかった。
 エディストーンは言う。
「今後のシナリオには四つあるわ」
「フォー・プラス・ツー」
 マーティンは冷めたサーロイン・ステーキを口に運びながら言う。
「ええ。正確には。一番可能性の高いことから話すべきかしらね」
 エディストーンは咳払いをした。
「私たちが、最低でもやり遂げねばならないのはイーサー・エルクの亡命。この機会に説得しなければ、もう次は考えられない。今回ばかりは最悪、拉致紛いになっても」
「それに私がどう関係するんですか」
「直接的には関係ない。確かに残ってもらいたいという思いはあったけど、先生がそれを望まないのならば、スケジュールが終った段階で日本に帰ってもらうつもり」
 犬吠埼はエディストーンに注いでもらった桂の紅茶を啜る。口に含むと濃い香りが鼻腔の奥にまで広がった。
「私がハムスタンに残るという場合、実際問題何をすればいいんですか」
「現在の放射性物質の飛散分布を私たちと一緒に調査してもらいたい。どれだけ騒いでも、アカデミックでないと通用しないところに差し掛かっている」
「核は私の専門ではないんです。本業は気象で」
「承知の上です」
 沈黙。
 二人が慎重な面持ちで、相手の次の言を待つようにして紅茶を飲んでいると、マーティンが、これも飲んでしまえと、バランタインの三〇年ものを形の違うグラスに注ぎ分けて配った。
 犬吠埼が口を開く。
「ハムスタンの科学者はいないのですか?」
「権威の問題よ。第三者委員会でないと、告発が難しいというのもある。四つのシナリオで容易な順番に言うと、まずイーサー・エルク亡命。そして、ハムスタン難民の受け入れ国の確保。三つ目はハムスタンのソ連邦編入。そして、一番難しいのは、中央アジア連合の設立」
 犬吠埼はこれ以上酒を飲むのを控えた。
「……イーサー先生には悪いのですが、ハムスタンの独立ということを本気で試みれば戦争が避けられない。ハムスタンのソ連編入などを試みれば、中ソ核戦争という可能性だってありうる」
「解っているつもりです」
 エディストーンはにべもなく答えた。
「それが、だけど、イーサー先生や、ハムスタンの人たちの考えなのですよね?」
「そうです」
「でも、ハムスタン陣営とて、意見が割れていると聞いています」
「そう。ハムスタンは一枚岩じゃない」
「エディストーン先生は、核戦争の危険を冒してでもハムスタンは独立すべきだと思っているのですか」
「核戦争の危険は回避しつつ、ハムスタンを救う必要があると考えています」
「もし、それで核戦争、ないし、中ソ戦争が不可避であっても?」
 エディストーンは分が悪そうに沈黙し、テーブルの上で手を組みなおした。
「その場合、ハムスタンは一つの要素にすぎない……」
「私は、次の世界大戦があれば、それは核戦争になる可能性が高いと思うんですね。中国やソ連のような核保有国同士が主体であれば尚更です。つまり……」
「つまり、犬吠埼先生は、ハムスタンは中国の属領であるべきだと」
 犬吠埼は背凭れに少し体重をかけて止まり、ゆっくり深呼吸をする。それから、またもとの姿勢に戻ってくると、短く答えた。
「はい」
「そこで浄化政策がとられていて、一民族が絶滅の憂き目に合おうとも?」
「そこまでのことを中国当局が本当にやっているとはまだ信じられないのですね。私は。飢餓は発生しているのかもしれない。だけどそれが故意のものであるとは思えないわけで、状況が落ち着いて中国経済が持ち直せば、弾圧も止まるのでは?」
「そもそも、何故中国政府はハムスタンへの弾圧をしていると思われますか? 弾圧があるとして」
「それは、まあ、独立運動を抑えたいからでしょう」
「何故独立運動を抑えたいと思っていると考えますか?」
 犬吠埼は何となく撫でていた、狼の形をしたナイフレストから手を離して、掌を組んだ。
「チャイニーズ・ドミノ理論とでも言えばいいんでしょうか。中国は漢族以外の民族で構成される地域が多く、ハムスタン他、チベットや内モンゴル、あとは台湾も含めて、一つ独立を許せば、崩壊する可能性があるからでしょう」
 エディストーンはイエスと言ったが、すぐに首を横に振った。
「先生、その回答では及第に至りません。それらの領域は、ソ連ないし、インドとの隣接地域なのです。つまり」
 マーティンがエディストーンの言葉を継いだ。
「つまり、準ソ連邦。敵国なのだ。国内にありながらな」
「もしも中国が判断を誤れば、それらの領域が一気にソ連に寝返って、攻めて来る可能性すらある」
「でもそうすると政府が弾圧すればするほど、そういう可能性は高まるじゃないですか?」
「一人もいなくなれば、そういう心配はありません」
「ばかな」
 犬吠埼は絶句した。
 エディストーンは淀むことなく、自らの思うところを続ける。
「先の大戦中のユダヤ人の犠牲者数というのは五百万人を超えるでしょうが、これはユダヤ人口の七割から八割に相当します。中国の今回の政策での死亡者数は我々の推計では三千万人を超えている。これは、大戦中の中国の犠牲者数を既に超えていることになる。ハムスタンのような二百万人程度の小数民族を根絶やしにすることは、先生が思っている以上に容易だということです。もたもたしていると手遅れになる。私の心の底にあるのは、あの男を、むざむざ死ぬに任せるのは惜しいという思いです。彼がそこまでハムスタンに拘らないのならば、私もここまで手を出そうとは思わなかったと思います。イーサー・エルクが、イーサー・エルクでなかったら、私は彼を見捨てていたはずです。いつの時代にもどこの地域にもある多くの民族問題とその首領だと思って、資料室の本棚に押し戻していた。だけど、私は彼に会ってしまった」
「そのために国連職員を辞めて……」
「……いいえ、それは違います。彼が目指す世界を私も望んでいる」
 エディストーンはタンブラー・グラスの底に残っていたバランタインを一口で飲み干すと、声色を変えて唱えた。
「君が世界を救うことをやめても。そう。君が世界を救うことをやめても、依然として自分の世界を救わなければならないのにはかわりがなく、世界をどのように分割しても、切り取った残りがその人の全てである限り、世界の重さは軽減することは出来ないのである。人知れず海に金の冠を捨ててでも君は君の道を進まねばならない。君の情熱はアラーが知っている」
「はっ? イーサー先生がそう言ったのですか?」
「そう。その前提を認めあった世界が彼にとっての議会制民主主義国家」
 犬吠埼がやけに驚くので、エディストーンは軽く首を傾げた。
 犬吠埼は若干違う形で、これと同じ内容の話を自分の父、犬吠埼正樹から聞いていた。海に金の冠ではなく、金の杯を捨ててでもゆかねばならないのだと。犬吠埼家の家宝の金杯は戦後、いつの間にかなくなっていた。
「私はスパイとしては失格に近い。イギリスのために戦うよりも、ハムスタンのために戦いたいと思ってしまったのが運のつきってとこよ。イーサーは、国連のことを、世界を救うための組織だと考えている。今でも、私が忘れても彼は戦い続けている。彼がたとえ死ぬことになろうとも、違うわね……。このさいはっきりしておきましょうか。彼は死ぬ。彼が私の意図を無碍にするのならば、今度こそ彼は死なざるを得ない。だけど、私は、たとえそうであっても、後悔しないと決めた」






§ 四三 鼠箱

 厚い雨雲の中に白い光がちらっと見えたかと思うと、それは瞬く間に翼を打ち鳴らす鳩となって、小屋の中に飛び込んできた。
 小屋は、地下通信施設を目的に造られたもので、もしも漢族の間で噂される鳴砂団、反共ハムスタン民族主義陣営の中核があるとすれば、それは恐らくここであった。
 その内部では、コールサインHB、ハムスター・ボックスと呼ばれていたが、さまざまな事情から、無線を使う機会は滅多にない。その活動の多くは、伝書鳩や人伝を頼りに行われる原始的なものである。
 一方でそれは非常に洗練されたものとなっていた。伝書鳩はその四割程度が往復鳩で、全部で十六の拠点と、それを支える三九の小拠点を持っていた。情報網の総延長距離は四千キロに及び、東はモンゴル、西はカザフスタンにまで通じる。
 老軍曹は、イーサーに確認を取りながら、鳩の脚から通信管を取り外して巣箱に戻す。
 ムハメットというこの退役軍曹は小屋を管理している革命軍の元兵士で、今はここで妻のアイーシャと共に伝書鳩の世話をしていた。
 通信管の中に入っている手紙は艶のある薄黄色の便箋で、コーランと同じ専用の薄紙を使っている。藁半紙を使っていると字が滲む上、分厚くなって通信管に納められなくなってしまうが、これはインクが裏抜けしないので、表裏に細かい文字が書けた。物資が枯渇し、統制が進んだ今、入手が困難になってきている。
 アルミ製の通信管の中には、分割された写真フィルムが入っていることもあった。紙に納まりきらないような長文を撮影したもので、鳩舎にはフィルムを現像する暗室も備えられていた。
 鳩はその重要度に応じて、最大五羽まで同時に放つことになっていたが、この数分後に飛んできたもう一羽の鳩は様子がおかしかった。
 ムハメット軍曹が、その背を掴んでひっくり返してみると、鳩は腹を血で赤く染めていた。散弾で撃たれたようで、羽毛を捲ると幾つも小さな穴が見えた。鳩は弱弱しく下瞼を閉じて、暴れる元気も尽きかけていた。
 ムハメット軍曹が声を上げる。
「同志、鳩に撃たれた跡が」
 イーサー・エルクは写真を現像液に浸している最中で振り返らない。
「どうすれば?」
「すぐに見る。博士たちを呼べ」
 鳩が運んできた手紙は米国主要各紙の要約とその分析で、キューバの状況を告げていた。既に二日前の記事である。
 中国やソ連の報道機関は検閲で用をなしていない。そこに掲載される海外の情報に関しては尚更の状況であり、その様子を推測することも難しい。そのためイーサーは専ら西側の情報に頼っていた。
 まだ現像液に塗れた写真から断片的に情報が浮き上がってくる。北京では既に厳しい移動規制が敷かれ、中国全土の戒厳令に発展する見込み――。
 米玖開戦秒読みの見出しが浮き上がると、小屋の中の人々の間に緊張が走った。ムハメット軍曹はイーサーの顔色を伺う。
 写真の枠すれすれの文頭にはかくあった。 
『C19離陸21A2C1S2……』
 痩せこけた男が脇から覗き込んで、説明を求める。
「離陸とは何だ」
 イーサーは男に肩を貸した。
「羽賀。いいから、まだお前は寝ていろ。ここで死なれたら、何の意味もないんだ」
「俺のことはいい。暗号書式の書き出しを始めたい。少し忘れかけている。やるなら早い方がいい」
 羽賀は、単独でここまで辿りついた。黄河に飛び込んでからおよそ一月かかった。辿りつけたのは、ここがハムスタン革命中にも拠点として使われていたためであるが、それでも、冬季の氷点下二十度を下回る山の中を十三日間彷徨って生き抜くのは至難の業だ。薄着の服に靴、靴底に入るほどの小刀と麻袋しかもっていなかったが、この男はモンゴル平原とタイガ林を踏破してきた。
 他の者たちが、どうなったのかは解らなかった。唯一の頼みの綱は、老鉄山が持っていた鳩であるが、その鳩が飛んでくる望みは薄い。あればあったで、食ってしまっている可能性の方が高い。食料を持っていたのは阿Qだ。鳩卵を塩漬けにした鹹蛋(シエンタン)やきび餅があったが、塞沙ダムの取水塔から河原に投げ落とした時に、夜闇に紛れて受け取ることが出来ずに、全てが失われた。
 ナカノセと少年たちの行方も知れない。彼らの生存は絶望的である。少年たちは、行く先も、西域、ハムスタン方面という以上は、何も教えられてはいなかった。
 現像室の外でムハメット軍曹が、カザフ大学で博士号をとった情報分析官の青年と、苛立ったやり取りをしているのが聞こえてくる。
 羽賀は、今の作戦状況に関してはまだほとんど何も教えられていない。だが大凡の話は把握していた。
 目下の懸念は中ソ戦の勃発による混乱だ。こっちから動く前に、世界情勢の方が動き出してしまった。
 現状では到底ハムスタン民族主義陣営の組織的な蜂起という次元には至らず、ハムスタンは流民と化す。その勢力の向かう先は西だ。
 かつての王国時代の首都であったアルタイや、革命戦争の第一解放都市ジュンガルを目指し、テュルク系民族の多い中央アジア諸国にも流れ込む。
 エディストーンは、最初からその事態を念頭に、カザフスタン側に受け皿を用意している。そこまでは羽賀も承知していたが、エディストーンの本音は恐らくは、そこで終りだった。ハムスタンの人々が、中ソの両陣営に別れて戦う憂き目に合う可能性もあり、どちらについても彼らは悲惨だった。そうなればハム人は双方で優先的に使い捨てにされることになる――。
 イーサーは、羽賀を手製の肘掛け椅子に座らせて訊ねる。
「キューバ情勢がここまで波及する可能性はあるか」
「確実に」
「程度は」
「俺はまだここに来たばかりだ。判断材料が少なすぎる。お前はどう思っているんだ」
 米軍のB52爆撃機がマイアミ上空で二四時間体制の空中待機を開始――。
 核装備の可能性が高い――。
 現像された写真は、只ならぬ記事を目の前に示して浮びあがってくる。 
 イーサーはそれを羽賀に突き出して淡々と述べた。
「既に中国も戒厳令を敷いて、今以上に取り締まりを強化している。中国を出ていこうとする者が今よりも増える。これ以上事態が拡大すれば、ソ連、モンゴル、中央アジア諸国――国境を隣接する国も受容を硬化させるだろう。規模が大きくなればなるほど、中国側も神経を尖らして鎮圧に乗り出す。中国は入国制限よりも出国制限に力を入れている。海外へ国内の失策が知れ渡ることを極端に危惧しているからな。そうなると民衆は行き場がない。中国国内で踏み止まる場合、国内避難民扱いで、国連の難民認定は不可能だ。欧米列強が介入することは難しくなる」
 列強という言葉に、ある種の時代錯誤を感じつつも、イーサーの見解は概ね羽賀の考えていることと同じものであった。
 羽賀は訊ねる。
「核戦争の可能性についてはどう思う?」
 イーサーは腕を組んで暫し目を瞑った。
 核戦争に発展する場合、彼らはなすすべもなかった。そんなことになればハムスタンの出る幕ではない。大国のミサイルや戦略爆撃機が頭上を行き交うのを眺めて、せめて埒外で傍観出来れば幸いである。
 羽賀は皮肉な笑いを浮かべる。
「まさか、世界の心配をしたんじゃないだろうな。今のお前が」
 イーサーは心外そうな表情だった。
「私は革命家だぞ。カストロとゲバラが、キューバの安泰だけを考えて、戦っていると思うか? 自分の安泰のみを願っているのならば、私はそもそもここにいない!」
 羽賀は久々に笑い声を上げたが、イーサーは笑いはしなかった。
 イーサーは続ける。
「……しかし、それは矜持だ。ハムスタンは世界を哀れむ前に自らを救う権利を持つ。コーランとはそういう物語だよ」
 羽賀は言う。
「私の信ずるところと寸分も変わらん。今回は最後まで助太刀するつもりだ。俺はそのために戻ってきた」

 当時のキューバ情勢はそのまま世界情勢であった。一般的にその切り口は、ソ連がマイアミ沖に浮ぶキューバという島国に、核ミサイルを置いたことにアメリカが総毛立ったという話で開始される。そのミサイルはニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィアと合衆国西岸の主要都市を射程距離内に捉えることが出来た。
 しかし、まずもって、ソ連が何故そのよな強行策に出たのかといえば、アメリカがモスクワを射程圏内に入れる核ミサイルをトルコに配備したことに対する報復処置である。
 キューバがアメリカと敵対するに到ったのは、アメリカ資本を背景に横暴を振るっていた独裁者フルヘンシオ・バチスタをキューバから追い出したことに由来する。そのキューバ革命を率いたのは、後のキューバ首相フィデル・カストロ。そして伝説的革命家チェ・ゲバラである。
 八人乗りの小型ボートグランマ号に決起した八二人が乗り込み、メキシコから母国キューバへと上陸。上陸作戦に際し、迎撃を受け、うち六五人が死亡。残った十七人で序盤の絶望的劣勢を跳ね除け、たった二年一ヶ月あまりで革命を成し遂げた。その時、フィデル・カストロ三二歳。チェ・ゲバラ三一歳。
 常識が一切通用しないこの物語は、世界の人々に、特に、蹉跌に倦む先進国の若者と世界の貧困層に衝撃を与えずにはいられなかった。人々に世界が自分の手で動くということを思い出させた。
 イーサー・エルク他、ハムスタンの革命勢力は、アメリカを相手取って成した小国キューバの革命を羨望の眼差しをもって注目していたが、それから三年。新生キューバとアメリカとの対決は避け難く、小競り合いと暗闘を繰り広げた挙句、その島は世界核戦争の引き鉄となり、ハムスタンは否応なくその影響を受ける羽目になっていた。

 イーサーと羽賀は、老鉄山が他の者を連れてここまでたどり着く可能性を捨ててはいなかったが、それでも動かねばならなかった。中ソ戦の火蓋はまだ切られていないが、逃亡したハム人の集団が各地で現れ始めていた。以前よりも遥かに大規模なものになってきており、このまま行くと、民族的な大移動となる可能性が高いと予想されていた。
 エディストーンが対応に動いているならば、野戦病院式の難民キャンプの設営を始めているはずである。まだソ連とカザフスタンのどちらに設営するかは決まっていない。受入国側の情報部や地域の顔役とは予備交渉を進めていたが、各国の候補地も絞り込めていない状況だった。
 イーサーは、次の鳩が来るのを待たずに決した。
「予定を繰り上げざるをえない。ここも畳む準備を始めねばならない」
 すぐに声が上がる。
「しかし、そうは言われましても、これまでの備蓄や訓練は、どうするつもりですか?」
 ムハメット軍曹は瞳を震わせて、鳩小屋の方を気遣っていた。
 軍曹はここで既に十年近く暮らしている。鳩の育成は彼の畢生事業となっており、撤収する日が来ることを密かに恐れていた。
 羽賀は慎重に、あまり気を動転させまいとして軍曹に訊ねる。
「鳩が場所を覚えて使えるようになるまでに、どのくらいかかる?」
「はやくて一年です。しかし、ここまで回復するのには十年かかっているのです。完全なシルヴィスキーを復活させるにはまだもう少しかかる」
 羽賀は蹲っている手負いの鳩の方を見やる。シルヴィスキーだ。
 シルヴィスキー種は紅卍会の手を経て、ハムスタン革命を勝利に導いたが、戦いで役目を終えたあと、もののない時代にあって、そのほとんどが食用に消えてしまった。純然たるシルヴィスキーはもう存在しないが、戻し交配を重ねて九割程度復元して使っている。ムハメット一家で飼い続けていたシルヴィスキーと普通の鳩の雑種から始めたのだという。
 鳩に場所を覚えさせることと、敵に場所を特定されないことを同時に満たすのには、非常な辛抱強さと細心の注意を要求する――。
 羽賀は言う。
「だが、ここは畳まねばならないぞ。塞沙を撤退した以上、ここにいても内陸側の情報が得られない。それに、ことが始まれば、ここは戦場からは遠過ぎる。後方司令部はカザフ寄りに置かざるをえない」
「こんなところで。ここまで作り上げてきたというのに」
「塞沙は困難な拠点だったが、中国国内の東側の情勢を知るのにはこれ以上の場所はなかった。ここも、塞沙に引きずられて踏み込みすぎているということだ。しかし、これから先、戦に役立たなかったら元も子もない」
 イーサーは地図や資料の束を持ってきて、机の上に積み上げた。
「日を跨ぐ前に決める。お茶を入れてくれ軍曹。お前の鳩は出来る限りどうにかしよう。ただの肉にしてしまうのは私としても惜しい」
 ムハメット軍曹は渋い表情をしてイーサーの目を覗き込んでいたが、部屋の奥で情報分析官がカチャカチャとティーカップをぶつけて、慣れない給仕をしているのに気付くと、すぐに退いた。
 イーサーは通信便箋の束から一枚引き抜いて、何ごとか素早く書き出すと、不意に手を休め、それを見ていた羽賀に確認を取った。
「あの男には最期まで無理をさせてしまったのだな」
「気に病むな。お前に悔やんでいる暇はない」



 四三  * *

 ムハメット軍曹とアイーシャが配膳をして回った。月光杯の上に鹹蛋を置き並べる。ティーカップに注がれているのは磚茶(たんちゃ)だ。英米ではティー・ブロックと呼ばれる。茶葉を瓦状に圧縮したものを掻き崩して使うもので、西アジアでは比較的普通に飲まれる。
 羽賀はそれらの光景を無表情に眺めながら言う。
「どのみちアメリカは中共に傾くことが決まっていたのだから、台湾もろとも、ハムスタンは見捨てられるのは時間の問題だった。支援は期限付きということだ。米中の接近が、我々との関係に水を差すことは最初から解っていたことだ。
 俺はキューバ危機は核を使うことなく早期に収束すると見る。だが結果として残るのは米ソ戦じゃない。中ソ戦だ。ソ連にとって、それが対中予防戦争のつもりならば開戦は早ければ早いほどいい。アメリカが本腰を入れてくる前に、あるいは、中国が核戦力の配備を本格化する前に決着をつける。
 それに毛沢東はこれを避ける気がない。中国としては、アメリカがソ連につかない限りは打って出るはずだ。アメリカとしても直接戦わなくてすむ。中ソが潰しあえば、アメリカにとっては最良のシナリオだ。
 アメリカにとって、中ソどちらが脅威かと考えれば、それはソ連であるから、中ソ対立において、積極的にソ連を押すとは考えづらい。我々が選べるカードは、消去法でソ連しかない。たとえそれが不服であったとしてもな。もしくは、CIAの忠実な犬になれば」
 羽賀がそこまで言うと、ハムスタンの面々は異口同音に否やを唱えた。
 イーサーは詰る。
「冗談を言ってくれるな。そんなことを恩だと思うような連中ではないことぐらいお前も知っていることだろう。私はイースターや紅卍会に関しては疑ってはいないが、CIAは信用していない。今日のこのアメリカの裏切りは高くつく。CIAなどよりも民間ボランティアの方が誠実だ。CIAは所詮はアメリカの番犬でしかありえない。どれだけ力を持っていようと、どれだけ上っ面を装ったところで、連中に信義などはない。連中の策謀が西アジアを含む第三世界をどれだけ愚弄しているか、奴らはその怒りにまだ気付いていない。この不義は高くつく。連中はいずれ後悔する。石器時代に戻るのはベトナムではない。アメリカだ。撃った矢は飛び続け、遠い将来に、必ずや射手の背を射抜く。武器が打ち負かす相手に例外はない」
 羽賀は、言を捲くし立てるイーサーを凝視しながら、カップの底の茶葉を中指で掬って齧った。
 軍曹が気を利かせて、もう一杯お茶を注ぐ。しかしその瞳には今の一言で猜疑心が滲んでいた。
 羽賀はそれを意に介さずに続ける。
「お前は、その昔、日本がハムスタンに手を差し伸べた時に、ありがたいが、このままでは日本は負けるときっぱり言い切ったな」
「今更、それがどうしたというのだ」
「ソ連の情報部に同じ事を言うなよ。手の打ちようがなくなる。ハムスタン・イスラム共和国という案には決して触れるな」
 分析官が口を出す。
「ハムスタン・ソヴィエト共和国ですか」
「私とて気に食わんが、今の状況を考えればハムスタン自治区よりは遥かにマシだ」
 羽賀は答えつつ、声の方に目をやる。分析官のフードはまだ若く、年の頃は三十前であろう。車には乗れるが、馬には乗れないという都会派である。彼が何をきっかけとしてここに来ることになったのかは知らないが、彼は機械に慣れていた。ラジオが害虫駆除に効果があると信じて、特別の操作員と共に畑に置かれたり、電話を伝って細菌がばら撒かれると思って燻製にする人々の迷信行動には酷く幻滅していた。一方でイスラム原理主義的な戒律を重んじており、そこらへんのことに関してはイーサーとはしばしば意見が対立する。イーサーは、言わずもがな、熱心な民族主義者で、革命家、人権家として厳格な倫理観念を持つが、イスラム教徒としては、そこまで敬虔と言える男ではなかった。
 イーサーは言う。
「アルタイ城の王党派は、今はハムスタン・イスラム共和国を掲げている。内紛などしている余裕はないのに」
「アルタイの状況は?」
「アルタイの王族は回族やチベット族を巻き込む形で、反共徹底抗戦を準備している。しかし今はほとんど壊滅させられた。考えていることは同じだろう。寄ってくるならば仲間にしてやるが、自分から協力する気まではないといったところだ」
「そんなことを言っている場合か。これでは二十年前から進歩がないぞ?」
 イーサーは肩を竦めた。
「全くだ。羽賀。私は自分が賢いと思ったことは一度もないんだ。濡れ鼠になって上海の街を歩いている夢を今でも見る。戦闘で部隊が一発で血しぶきにかわったことも夢に見る。しかし、不思議と拷問を受けていた時のことは夢に見ないのだ」
「……何が言いたい」
「愚かさは時に神与のものということだ」
 フードは昔話には興味がないとばかりに、口を挟む。
「自分はやはり、アルタイにはヤフヤー師と旧軍の参謀たちが集まってくると考えます。状況は厳しいですが、私は、それにかける他ないと思っています。それでやられているようならば、我々に未来はありません。ヤフヤー師を失ってからでは手遅れになります」
 イーサーは、地図の上の赤で囲った一点を指で叩く。
「お前には言った。アルタイで決起すると、カザフルートからの兵站が伸びすぎる。ジュンガルでなければ、飛行機も来れない」
「飛行機はブラナの塔を中継すれば来れます」
「簡単に言ってくれるな。お前はブラナの塔を、通過さえすれば勝利を導く神話的な地点と考え過ぎだ」
 旧城のアルタイで決起するというフード分析官らの意見に関して、イーサーは否定的だった。
 事態をまだ完全には把握できていない羽賀が念押しをする。
「……つまり、問題は、数で勝るアルタイで決起するか、国境に近く、国際支援を受けやすいジュンガルで決起するか。ということでいいのかな?」
「そういうことだ。飛行機の準備次第で状況は大違いになる」
 イーサーはそう言って、テーブルの上に積み上げた本の中から一束の綴りを引っ張り出して羽賀に示した。
「なんだこれは」
「去年の春先にお前たちが寄越した飛行機の情報緒元だ。ダグラスDC-3、スピットファイアⅨ。ミグ15、同21……」
「ミグがどこにあるつもりなんだ。中共の話をしているのか?」
「ソ連軍が肩入れするならば、我々が運用する可能性もある」
 羽賀は椅子の背凭れに身を引いて、得心出来ぬ様子で腕を組んだ。
「それはどうか。奴らは我々をそこまで買ってはいまい。たまごクラブの連中だけならば、良くてもスピットファイアの編成になるはずだが、そんなものでは今はもう太刀打ち出来ん」
「羽賀、お前、まだ眠いのだろう。問題は航続距離だよ。敵の飛行場は遠い。航続距離は引けをとらないばかりか、こっちの方が上手だ。しかし前進基地が出来て、敵戦闘機が本格的に繰り出される前に決着をつけねば、それとて無意味だ」
 羽賀は渋面を作って唸る。
「ジュンガルとアルタイでは航空支援の届く届かないにかかわると。解ってはいるが、ああ……。そういうことか。くそめ……」
 羽賀は、台北で会った時の、エディストーンのぴくりともしない表情を思い出していた。
「如何せん釈然としない物言いとは思っていたが、やっと解った。こっちは死ぬ気でやっているというのに、舐められたものだ。連中の計画は最初からカザフ、そして撤退ということなんだろう?」
「恐らくはな。お前が、そう分析したんだぞ」
「それで? お前の意見は?」
「カザフは正しいが、私が撤退していては話にならん」
 羽賀は言う。
「核が使われたと先に言ってしまうという連中の作戦はどうなった」
 フードは怪訝な表情をした。
「何ですかそれ?」
「核爆弾が戦争に使われたという話を流して、それが仮に間違いであったとしても、使っていないと中共政府に言わせ、以後容易には使えなくする為の政治的駆け引をするなどという奇策を考えているのだよ、イースターという連中は。偶発核戦争の危険を招きかねないし、その後の信用をなくすから、現実的ではない。それに今の状況だ。それこそ話にならん」
「それが戦争か実験かは問題ではない。現に人間に対して使われているのだ。連中の核実験というのは、実際に人を標的にすることだ。それは私たちにとっては核戦争だ!」
「イースターの話を支持するのか?」
「いや……」
 イーサーは鹹蛋を食い終えると、テーブルの上に散らかった卵の殻をかき集めて、杯の中に戻した。
「ムハメット。羽賀を手伝え。博士はコミッサールと折衝を始めろ。ヤフヤーは私がつかまえる。王党派と先に手を組まれると、成るものも成らない」
「ヤフヤーはお前を支持するさ」
「何故そんなことが言い切れる」
「気休めを言うわけではないが、この国の指導者で本当に戦ったのは、最早イーサー・エルクとヤフヤー・ハッワースしか残っていないからだ。王党派の有象無象どもが入るぐらいならば、その前に俺が名を連ねるべきだ」
「お前には感謝している。これは本当だ。しかしヤフヤーは、アルタイで挙兵するはずだ。ジュンガルを選ぶ可能性は低い。奴とは長らく連絡が取れていないから、今何を考えているかは解らん。馬鹿げた貴族趣味がないだけいいが、欧米の支援勢力と距離を置きたがるのは王党派と変らんとこがある。……それでは勝てんよ。それが現実だ。内陸のアルタイなどで挙兵すれば、こっちには戦車も飛行機もない状態で戦い始めねばならないことになる」

 この時の中国はソ連との対立を深めている最中にあり、米ソ二正面作戦という状況を避けるために、米国との関係改善の道を模索していた。一方のアメリカは、ベトナム戦争での泥沼を解決するために、その背後の支援国である中国に接近しようとしていた。水面下で中国の国連加盟とアメリカの望むベトナム停戦が、交換条件として取り交わされていたのである。台湾は国連の常任理事国の地位を中国に譲ることを要求されていたが、それを拒否。国連を脱退した。追放と同義である。ベトナムは多大な犠牲を払った勝ち戦をアメリカの名誉と中国の利益のために、国連の調停によって処された。
 ベトナムや台湾といった国々は、大国の思惑に翻弄された形であり、無論、台湾の支援を受けていたハムスタン地下政府も、梯子を外された形になる。
 ここまでならば、小国の泣き寝入りというありがちな展開で終るはずであった。しかし折り悪く、ソ連がキューバに核ミサイルを配置していることが発覚し、状況は世界全体に及び再び燃え上がることになった。
 アメリカ国内はパニックに陥り、軍部は勢いを増し、ソ連は、アメリカ側の非難に応酬する声明を発した。ソ連はモスクワを狙うトルコに配備された米軍の核戦力の撤退を要求。米ソ両国の核戦力の同時撤退という案が模索されるも、中国はこの機会に、モンゴルに配備されたソ連の核ミサイルの存在を指摘して猛然と非難、介入し、まとまりかけていた交渉は暗礁に乗り上げた。
 モンゴルの核は北京司令部や上海といった中国の中枢部を射程に入れており、中国にとってそれは喉元に突きつけられた匕首であったのである。
 中国は、ソ連がモンゴルの核ミサイルを期日までに撤退させない場合、先制攻撃も辞さないことを表明する。
 ソ連は欧州正面を重視しており、極東アジア方面への通常戦力の配備が間に合っていない。そのため、核兵器を使って極東を牽制しており、そう簡単に引き下がることはありえなかった。
 中国が国内全土に戒厳令を敷いたあたりから、少数民族への弾圧が際立って起こるようになり、各地で避難民が発生していたが、アメリカCIAの反応は鈍かった。
 ハムスタン地下政府の支援組織であるイースターや紅卍会は、CIAが中国に配慮して支援を打ち切る可能性が高いと判断、ソ連とのチャンネルを模索し、KGB――ソ連情報部も、ハムスタン地下政府の対応を打診していた。
 ハムスタン地下政府ではその当初、避難民の向かう先をシベリア、モンゴル方面へ誘導するか、中央アジア方面に誘導するかで、意見が割れた。難しい決断を迫られたが、イーサー・エルクは、カザフスタン、アルタイ、ジュンガルを結ぶラインを戦域と定め、シベリア、モンゴル方面には行かなかった。
 CIAが仮に手を引いたとしても、支援組織のイースター、紅卍会等の支援拠点が中東に寄っていることには変らない。ハムスタンは世俗化しているとはいえ、中央アジアが故郷のイスラムの民であり、ハムスタンの元々の版図からソ連やモンゴルは外れており、その精神性はユーラシアの内陸部に引き寄せられる傾向が強かった。
 何より、ソ連共産党は敵の敵以上の意味を持ちえず、歴史を紐解くまでもなく、CIAが手のひらをかえす以上の真似をする可能性は十分考えうることだった。ハムスタンの中国編入時に、交渉のために北京に飛んだ革命の首領たちは、ソ連国内で処刑された疑いがあり、それさえなければまだハムスタンのその後の状況はましであったろうという悔恨の念がイーサーにはあった。






§ 四四 ヒエロファニカル

 見渡す限りの四方無辺を黄砂が囲む。変ることのない霞んだ景観が続き、視界を毫も変化させない。移動が出来ない錯覚に陥る。冬の砂漠は日が沈めば急速に氷点下を切った。想像を絶する環境であったが、もしもこれが夏であれば、彼女は生きてはいなかった。
 ナカノセは、満身創痍になりながらも生き伸びていた。ナカノセは塞沙を脱出してから二日ほど離れた地点で、最初の集落を見つけた。しかし、そこに行くことは出来なかった。その村は塞沙から距離が近く、既に手配が回っている可能性があった。
 どうせ死ぬなら保護された方がいいかもしれない――。最後の飯にありつけるかもしれない。尋問を上手く乗り切れば、生き延びることが出来るかもしれない――。
 最悪、その身分を明かせば、政治交渉の俎上に上がれて、ハムスタンにとっても有利な発言をする機会が得られるのではないか――。
 ナカノセは考えるのをやめた。死の間際に、一椀の飯が待っているのか、普通に生きていれば死ぬまで経験することもないような拷問が待っているのか。冷静に考えれば考えるほどそれは後者だった。
 ナカノセは紅卍会の拠点を目指しているつもりであったが、到底見つけ出すことは出来なかった。幸いにも三日目の昼に、打ち捨てられた集落に行き着き、そこでカリンを拾った。芯まで凍り、ざらざらとした粒が舌を刺し酷い味がする。そうそう食えたものではないが、ここで拾った末成りのカリンを糧にナカノセは生き延びた。
 先を殺いだ木の枝に集めたカリンを片っ端から串刺しにして、それを引っ張って進んだ。
少しの間、風除けのために、底の抜けた背負子も引っ張っていたが、風に煽られて体力を消耗するので早々に捨てた。
 それから更に一日後、ナカノセは労働改造所に行き着いた。生きている人間はいなかった。幾つかの死体が房の中に転がっており、空の上にはカラスか猛禽の類が舞っていた。鳥が死体を啄ばんだ様子はみられなかった。
 ナカノセは死体から服を剥ぎ取ろうとも考えたが、肉と絡まった状態で枯骨になっており、どうにか出来るようなものではなかった。何よりナカノセの方に最早体力が残っていなかった。
 改造所が放棄されたのは何らかの感染症が原因と思われ、申し訳程度の汲み取り式の便所の床には、飛び散った血が一面にこびりついていた。
 建物の裏手には学校のプール程の溜池があり、ナカノセが覗き込んでいると、厚く氷の張った湖面に黒い影が現れた。二メートル近い。ワニと勘違いするほどの巨大な鯉が池の中を泳いでいたという。不気味な天啓を前にして、ナカノセは震えるような溜息を吐いた。この時ナカノセが見つけた魚は鯉ではなく、院魚(ワンユイ)か、青魚(チンユイ)である。それらは中国では伝統的に知られる家魚(魚における家畜)で食用にする。
 それが何であれナカノセはこれで命を繋ぐ目処が立った。カリン以後何も食べていなかった。
 ナカノセは魚を獲るために、凍りついた湖面を石と木の杭を落として砕く。魚は人に懐いているらしく、餌をくれると思って逃げずに寄ってくるが、捕まえるのに適当な道具がなかった。旅を共にしてきた木の枝で一突きにしようとしたが、鱗が硬く弾かれてしまい、最初の好機を逃がした。
 悔しさに呻いて膝をつく。遊んでいる場合ではない。どうしても魚を捕まえる必要があった。もたもたしていると餓死する。
 ナカノセは沼の周囲に倒壊した小屋があることに気付いて、中を漁った。拉げた屋根と地面の間から、破れた網と、釘を打った鍬のような道具を引っ張り出す。
 網は使い物にならなかったが、ようは、おびき寄せて、この三叉で引っ掛けて獲ればいいのだろう。ナカノセは、今度こそ捕まえてやろうと、敬虔なほどの真剣さでもって待ち構えていたが、鯉は警戒してあまり近寄ってこなくなった。待っているうちに日が暮れてしまい、その日は諦めざるを得なかった。完全に日が落ちる前に、小屋の軒先に並んでいた小さなツララを折って集め、死体の待っている改造所の建物の中に戻り、その日はツララを舐めて飢えを凌いだ。
 翌朝、ナカノセが再び池までやってきて、氷を破って待っていると、エラ蓋に傷を作った昨日の鯉がまた寄ってきた。痰をぺっと吐くと、鯉は健気にもナカノセの痰を食べていたが、それがそいつの終りだった。
 魚を引っ張りあげようとすると、眩暈がするほど重かったが、ひとたび引き上げてしまえばあとはどうとでもなった。
 心臓が高鳴っていた。これを逃していたら、きっと自分は死んでいたのだ。
 ナカノセが、朦朧としながら、血を垂らした魚を抱えて建物の中に戻ろうとすると、昨日は気付かなかったものが視界に飛び込んできた。バスだ。気を緩めると、不意に夢か幻か区別が付かなくなるが、バスは確かにそこにあった。砂漠の中に放棄されて久しい様子で、タイヤのゴムは全て剥がされていた。錆びだらけの車体の横面には手描きのゴチック体で甘粛省有限公共気車公司と辛うじて読めた。向かっている方向自体はそう間違ってはいなかった。
 ナカノセはおそばせながら感染症がはびこったと思しき改造所内にいることは避けた方がいいと判断して、風化したバスの中へ住いを移した。車内は木製の食器類や、警棒が転がっており、そこで、最近まで生活していた者たちがいたことを窺わせた。恐らくは看守たちが使っていたのであろう。改造所内より、使えそうなものが多く残されていた。
 ナカノセは火を起こそうとして、朦朧とする頭を捻った。車内には丸型フラスコと、細草や木の皮が後部座席に積んであり、後部座席全体が炊事用の小さな竈になっていた。先人も同じような窮状を強いられていたのである。
 歩いてゆき焚きつけの細草の束を手に取ると、火打石が転がり出てきた。使い物にはならない。フラスコに水を入れてレンズにすると幸いにも簡単に火がつく。
 小枝を集めて、薪を調達するのには時間がかかり、魚を食べる分だけ焼くのに昼までかかった。
 日が傾きだすと、ナカノセはジレンマに陥った。太陽光を頼りにした着火装置では夜には使えない。火種を消すのは惜しいが、薪を消費するのも惜しい。埋み火にして残そうと試行錯誤もしたが、おきが少ないたいめに失敗した。

 その日の夜、ナカノセはまるで世界が消えてしまったような暗闇のバスの中で身を潜めながら次の策を考えていた。明日自分が生きていたならば、また魚の残りを焼く。それから、溜池に魚がまだいないか調べる。それから進む。前進だ。次の集落に着いたらどうする。そこで助けを求めるか――。市街地に入り込んだ場合、どうなる。蘭州の隣の都市はなんだったか。金門島で数時間詰め込んだだけの記憶では最早思い出せなかった。何しろ最終的には中国を抜ける。最低限、中共の勢力圏を抜けなければならない。これは絶対だった。地球の上に線が引けるほどの距離であるが、そうでないのならば、それは捕まるか野垂れ死ぬかの二つに一つだった。国境を突っ切るだけであれば、モンゴルかソ連の方が近い。しかし、それが安全である保証はない。作戦に合流するならば、遠くてもカザフスタンまで出なければならない。エディストーンは、カザフだ。シベリアという線は考えにくい――。
 ナカノセが次に目を覚ました時、既に翌日の夕方になっており、また日が沈み始めていた。ナカノセは最初それを日の出と勘違いした。寝ている間は意識が遠のき過ぎて夢を見なかったが、目を覚ましたら夢を見るようになった。猫崎が砂漠のどこかに隠れているような気がして、奇妙にも楽しく感じ、久々にナカノセは笑っていた。
「見つけた」「見つけた」と何度言っても猫崎は出てくる気配がない。引っ張り出してやろうとして、前に進むも、田んぼの泥の中に足を取られて一行に前に進めない。それを見た猫崎も笑っているようだった。

 そのうちに、猫崎は無闇に昂然とした態度で「お前は死後の世界で目を覚ました」と、そこにいるとしか思えぬ声で告げ、光が視界を埋め尽くして音もなく爆散した。
 超新星爆発のように巨大な星が燃焼して急速に冷え込んでゆく。カロリニウムだ。
 H.G.ウェルズの小説で予言されていた核兵器が、広島と長崎に落ちたのだ。



 四四  * *

 夜風の中に沖ノ島の声が響く。
「あの山の上に明滅する光が見えるでしょう。あれはギア教会の光。灯台を併設している。フランスのコルドアン灯台も修道院を併設しているけれど、教会と灯台は歴史的には不可分の存在でしょうね。同じだったと言ってもいい。海の方の明るいところがカジノ。
 ラス・ベガスには負けるけど、東洋最大のカジノの街。犬吠埼は来週、そこのカジノ・ホテルに宿泊予定。あなたが降りた港はその先よ」
「ここは?」
「ここは、イエズス会のアジア啓蒙の足掛かりとなった聖ポール天主堂の庭先。見ての通りの要塞。啓蒙というのは、蒙を啓くと書いて、朦朧を開くという意味」
 ナカノセは洟を啜りつつ、こんな異邦の地を庭先案内のような調子で語る沖ノ島を見やった。世界は広い。沖ノ島は十三歳の時には既にここに来ていたという。
「質問がしたい」
「すればいいわ。私に答えられることであれば何でも」
 ナカノセは生死も知れぬ出発をする前に、どうしても問題の核心を掴む必要があった。
「あんたは、どうして戦うの?」
「核戦争を防げなかったことは私の責任だからよ。猫崎のことも――。私には天与の信念を持った神としての使命がある。あなたも、自分を神だと思って生きなさい。それでようやく人間ぐらいにはなれる」
「あんたの言っていることは、とても正気とは思えないけれど、猫崎は私にとっても友達や兄弟では済まされないところがある。猫崎にはただの猫崎であってもらいたかったのだけど、どうしても、彼女には避けられない運命があって、彼女の本質は変らないんだろうって。だけど、最後の方は上手く行かない日の方が多かった。我侭で。我侭で、意味わからないことばっか言って。バカみたいに男ばっか好きで。漫画も全然面白くなくなってきていて。デビューの話も立ち消えになって。元子は、あいつは奨学金で高校に進学したし、家族も見つかってさ。運がいいよね。あいつは猫崎の描く主人公に一番近かった。猫崎はそれを幸か不幸か、描けてしまうんだ。いつからか憎んでた。最後の方は、どうしたらいいのか解らなくて、悲惨だった。だけど、どうすることも出来なかった。あんたはお医者さんでしょ? 原爆症に効く薬って、いつ出来んの?」
「核を使わないことは人間がこの地上に現れた時から出来ることよ」
「そうか。バカかもしれないけど、本当に期待していた。本当にどっかにあるんじゃないかって。いつか出来るんじゃないかって。原爆が出来るんだから、その反対のものもいつか出来るんじゃない? だって、私には、それ以外になかった。あんたみたいに神様にお祈りして、納得出来るようなタマじゃないし、何より猫崎がそんなこと信じるわけない。そこらへんが、結局、漫画を信じることが出来ないことにも行き着いてしまって。私の革命も」
「それじゃ、全知全能の神様が全知全能の科学様に置き換わっただけじゃない」
「そうだ……」
「私は神を信じていない。けれど愛している。神を信じるというのは科学主義的態度であって、科学がやって来るのが遅れていただけのことよ。神とは本来愛するものに他ならないといったらいいかしら。神は愛である。ならば、愛があればいい。オッカム式だけれど、今はもうやむをえない時代に入った」
「でも、そんなんじゃ、神様だと思って生きるだなんて無理なんじゃない?」
「私は本物ではなく本気である」
「ああ」
「人間が真実を求めるからには終局、そこには死しか待っていないでしょう。私たちは本物ではないが、本気の存在であり、私たちは本物の神ではなく、本気の神として天を降りる。有限性を否定したら人生に意味などはなくなってしまう。愛とは永遠ではなく、有限のうちに芽生えるものよ。私はたとえ負けたとしてもそこにしか人生は存在しないと思って生きているの。それ故に、私は真実ではなく信念である」
「いつそう思ったの?」
「九歳の春。真実の愛という言葉は、真実と信念を相容れぬものとして対置するならば欺瞞でしかありえないわ。愛は真実ではなく信念でしか成立しない。この世にプライドのない人というのはいないのよ。しかし悲しいかな。信念がない。その多くは宗教を捨てた日に信念も置き忘れてきてしまった。人が『神は愛である』と言う時、それは実態『愛は神のように尊い』と言っているのよ。ヒエロファニカルな物言いになるけれど、人間は主語と述語を入れ替えることによってのみ神性を獲得する存在であると言ったらいいかしら」
「ヒエロファニカルって?」
「あなたがあなたであると同時に、猫崎の漫画であることよ。あなたの質問に私は少しでも答えられているのかな」
「……解らないことの方が多い。だけど今日はここに来てよかった。あんたの宗教は漫画みたい。猫崎の漫画みたいだわ」
「そう。私の信仰は人生をかけた漫画。私たちは黄金の自由によって真実と対峙する。科学主義的なニヒリズムと対決するという現代思想の基調は、終局宗教にしか至らない。それは真実と信念の戦いであり、今更思い出すまでもなく、人間のこれまでの戦いは全てそこに行き着く。たとえばこう――。本当の自分なんてものはないというのを、あえて人が言わざるをえない時というのは、本気が本物に競り負けた状況であって、ただ単に『現実たりえない』以上の価値観の問題が潜んでいる。神がいないことを暴くことは簡単だけれど、人が神の支えを失った時に、その問題は、人間の問題として全て残される。神はあらずとも、あなたはここにいるということは必然的に無言のままの死を迫る。あなたはそれを負えるほど強くあれるのかな」
「そうあるつもりよ」
「気が強いのねえ。放っておけないじゃない」
「正直、手が組めるとは思っていなかった」
「もう行きなさい。あなたには時間がないはず」
 沖ノ島が何か呟くと、放たれた鳩は、夜空の中を大きく旋廻しながら、どこまでも高く飛んでゆく。
 沖ノ島と猫崎が大砲の並ぶ要塞の胸壁の上に立って、それを見送っていた。

 ナカノセは節々の硬直で暫くの間、身動きが取れないでいた。窒息しそうなほどの喉の渇きと、渦が流れ込むような頭痛が襲ってくると同時に、ようやく、正気に戻った。
 だんだん暗くなっていることに気付いて、焦ってフラスコを日に翳すも、西日で火をつけることは叶わず、昨日使わなかった火打石のライターをもう一度試すことにした。しかし、ライターは火花こそ散るが一向に火種にならなかった。

 ナカノセは、生で魚を食べることは意外なほどの、ほとんど宗教的戒律とでも言うべき慎重さでもって戒めていた。池の魚は寄生虫が多い。アメーバ赤痢にかかる。そのまま齧りつこうとすると、ママちゃまの叱咤が脳裏に響く。悪食で鳴らしていたのは、ホームの後ろ盾があればこそであった。
 昨晩のうちにフラスコの中の水を煮沸しておかなかったことにも後悔した。溜池までは僅か百メートルほどの距離であったが、暗闇の中を出て行って、昨日のように小屋のツララを確保する力は最早残っていなかった。万一オオカミにでも遭遇したら、こっちが食われてしまう。
 暴風が砂漠の砂を巻き上げ、激しい雨粒が窓に弾けるような音を延々と鳴らしていた。
 仕方なしに体を横にして暗闇の中で火打石を回していると、火花が散っては消えてを繰り返していた。細草の臭いを嗅ぐと微かに焦げているような気がして、更に続けていると、僅かな間、火種が燃焼するのが見えた。
 いつまでかかったのか解らないが、ナカノセは、暗闇の中で火を手に入れていた。それから次の昼までには捕らえた巨大魚を骨の髄まで全て食い尽くしていた。
 次の魚は不思議と見当たらなかったが、沼の中にはタニシがいて、それをかき集めていれば、ひとまずは生きていることが出来る。小屋で拾った三叉に網を巻いたものを使って、一時間も頑張れば五キロぐらいになった。その頃には池の中に人骨が沈んでいることにも気付いた。
 ナカノセはそのようにして更にここで三日間を過ごした。
 徹底して火を通したのが功をなしたのか、体力に比して体調の方は辛うじて保っていた。
 食料と水が調達出来るせいで、改造所を離れることを本能的に躊躇していることをナカノセは自覚した。
 ここを離れたら、いかにして水を確保するかが問題だった。火を起こす方法も、水の確保も、ここを離れた場合のことを考えると思いつかなかった。冬の砂漠は口の中が凍るほど寒く、それをどのように凌ぐかも気の滅入る問題だった。
 沼があるのに、どうしてここの囚人たちは皆息絶えたのか。ナカノセは解った。池があるからこそ、出て行けなかったのだ。ひとたび疫病が蔓延すれば、この環境では容易く全滅し得る。そして、事実そうなってしまったのだ。

 ナカノセはついに四日目の昼に出発したが、半日も歩かないうちに忽ち体力を消耗し、また身動きが取れなくなった。黄砂と黒い礫の混ざる砂漠の中で、暴風を一身に浴びながら、やむをえず倒れ込んでいると、空には雁のようにV字型の隊形を組んだ飛行機が飛んでゆくのが見えた。後退翼の小型ジェット機。機影からミグと思われた。ナカノセは、数時間のうちにそれを三回見た。
 ぼんやりと、中ソ戦争が始まったのかもしれないなどと思うも、最早それどころではなかった。ナカノセは、砂の中に埋もれつつあり、次に目を覚ましても、これ以上進める見込みはなかった。

 夢うつつの中で何か巨大なものが迫ってくる音が聞こえていた。幻聴や幻覚が出始めている一方で、それが幻であることを察するだけの分別が残って、これは悲惨な死に方をするだろうと思っていた。それが末人の宿命だ。
 間の抜けた鈴の音が、強風の中でからんころんと鳴り響いている。あれを逃すな。ついてゆけ。猫崎が囁いている。
 たとえ幻でも、それ以外にもう策がなかった。
 喉が引きつって痰が絡み、それはそのうちに嘔吐感に変った。あまりの吐き気に、力を振り絞って身を起こし、えづいていると、視界の彼方に確かに人の群れが見えた。数千人以上の規模だった。軍隊ではない。避難民の集団だった。
 ナカノセは、最初、彼らに何事か罵声を浴びせられ、小突き回されていたが、イーサー・エルクに会わせろと繰り返していると、そのうちの幾人かの怪訝な表情が真剣味を帯びてきて、周囲に人が集まり始めた。集団の前方に言が伝わってゆき、暫くして、漢話の出来る者がやってきて、ナカノセは、ここまで至った事態を、思いつくままに吐き散らした。
 蒙古馬や駱駝に跨った男たちが砂を蹴立ててやって来て、太陽を背にナカノセを見下ろし何事か訊ねるも、最早何を聞かれても理解することが出来なかった。
 蒸気機関車のように白い息を吐く馬駝たちが、頼りない日の光の中で明暗を作っていた。

 いつの間にかまた夜になっていて、薄目を開けると何か食べ物が配られているのが解った。
 食えるか。と問われ、ナカノセは返事をしたつもりだったが、その声は相手には届かない。
 男たちの声が響く。
「ダメだ。置いてゆけ」
「こんなところにですか?」
「違う。この子を連れて先を急げ。私は紅十字会を探す」
 ナカノセは、突然自分でも訳がわからぬうちに叫んでいた。
「私も行く!」
「無理をするな。そもそもお前は、馬に乗れないではないか?」
 頭に来て、ナカノセは間歇的に目を見開く。
「行く!」
「事情をもう少し聞き出せ」
「馬に乗せるか」
「乗る」
「ダメだ。落ち着け。熱がある。死なれるとまずい」
 ナカノセの後頭部で誰かが余計なことをしていた。こっちは生死の境を彷徨っているというのに、髪を三つ編みなどにされていた。
「このくらいなら死にはしませんよ。飢えと乾きで朦朧としているだけだ。おい、誰か、もう一杯だけこいつに水をやれ。死んでしまうぞ」
 こんなところで死ねるか。
 低い男の声がナカノセの耳の上のあたりで響く。
「ナカノと言ったな。お前に訊かねばならないことがまだある。私が戻ってくるまで、死んでくれるな」
 ナカノセの周囲を松明で照らし出された黒い人影が囲み、無数の星が眩暈の粒と入り混じって、明滅していた。
 ナカノセはこの時確かに死にかけていた。三歳の時に横浜港で死にかけていた時と同じように。






§ 四五 劇場国家

 アルタイはハムスタンの古都であり、同自治区で二番目の規模の都会である。世界各国の科学者たちが、科学院理科学研究所の見学に来ていた。アルタイの科学院は北京の党本部が肝煎りで作った同自治区最大の研究所である。
 フルシチョフによるスターリン批判以後の不和と、中国が自力で核兵器開発を成し遂げたことに警戒し、モスクワは既にソ連科学者たちの引き上げを決めた後のスケジュールで、その帰国に合わせたと言っても過言ではない。それが如何なる欺瞞や思惑に塗れたものになろうとも、この機を逃せば、中国国内の科学界の現状に触れることの出来る次の機会は、いつになるかわからなかった。この間、招かれた科学者達は情報が遮断されており、世界で何が起きているのかを知らずに過ごしていた。
 正式な形での日本側の代表ではないが、一人きりの日本人であるがために、必然的に日本代表とされてしまった犬吠埼は、個室をあてがわれていた。同室には案内人だか、通訳だかアイデンティティの定まらない、肝っ玉風のよく動き回る婦警がつくことになった。 よもや便所にまではついてこないが、部屋の鉢植えの中に盗聴器が仕掛けられているのはほぼ確実であった。犬吠埼の周囲には盗聴器が多い。それを暴こうとして、植木と会話をしたり、悪態をついたりして、マズいことになりかけたことは幾たびかあったが、かといって彼らが、犬吠埼さえも与り知らない何か重大な機密を手に入れたとは思えなかった。

 研究所の建物は巨大だったが、中に入るとがらんとしていた。
 戦前水準の研究設備や、共産主義的語彙を散りばめた信憑性のよくわからない成果を、科学院の招待スタッフの長である陳曹達は来る日も来る日も凄い勢いで自賛して煽った。最初のうちは、その熱意に打たれて、何がしか偉大であるような気もした。しかし、それはやはり、子供でも嘘だと解るようなしょうがない嘘八百の数々であり、冷静になって何に驚くかと言えば、それを無理やりにでも納得させ、賛同を得ようとする有無を言わせぬ情熱であった。
 いわゆるルイチェンコ学説に根拠を置く、科学的基礎に欠いたおかしなものばかりが並ぶ。その一方で、犬吠埼は幼稚園以後は見たことのない人の子の確信、迷いのなさに、ある種の感銘を受けた。いや、感銘など受けてはならない。こちとら科学者の端くれだ。
 他の国の学者たちの表情も、どう反応すればいいのか解らないといった調子だったが、一人だけ、それらが当然の摂理であるかのように落ち着き払った様子で、納得して回る不思議な人物がいた。この男はエドガー・スノーと言う。しかしスノーは科学者ではない。中国共産党の御用記者でアメリカ人である。パリの御用新聞の記者も来ている。中国的朋友と呼ばれる怪しげな欧米の友人たちは、中共政府の大切な引き立て役だった。
 彼らが、どんなものを見せつけられたのかといえば、たとえば、全てが木材で出来ているトラック。形容矛盾のきらいのある木造鉄道。泥を突き固めて出来たダム等。人民の革命的アイディアで、鉄骨が必要と考えられていた従来の古臭い工業製品を片っ端から木造に置き換えることに成功したという。
 一方で、客たちが製鉄業の部門へとぞろぞろと移動すると、鉄の生産量は毎年倍倍の勢いで上昇しており、既に実質上はイギリスなどの旧ヨーロッパの国々は越えてしまっていると結論されており、手描きのグラフは、アメリカさえも数年のうちに追い越してしまいそうな勢いで、天に向かう幾何級数的な加速を描いていた。
 陳曹達はそこで「我々は衛星を打ち上げたのです」と微笑みながら宣言した。一瞬数人の科学者達はその発表に驚いた。どこの国の科学者も、今回の目的は自ずと、中共政府の核兵器と宇宙戦略の概況を聞くことであった。
 先行するソ連の宇宙工学、戦略核兵器の先進性は、ソ連の停滞していた科学技術力においては、あまりにも突出しており、唯一西欧諸国に迫る部分であると目されており、同じ共産国家の中国が秘密裏に人工衛星の打ち上げを成功させているということがあっても、それが嘘だとは言い切れないものがあった。
 中国は明言はしなかったが、度々の地震波や核物質の飛散状況から、既に核実験を成功させていると判定する学者もおり、専門家たちの間でもその見解は分かれていた。衛星打ち上げとてありうる――。
 しかしソ連の老科学者は無表情でぼそぼそと注釈する。
「衛星というのは、この国における比喩なのですよ。我が国のスクプトニク一号打ち上げ成功以後、ソ連ないし他の大国の記録を塗り替え、凌駕することを中国人は『衛星を打ち上る』と称しているのです」
 すると、陳曹達は、僅かに心外そうな表情を浮かべた後に、また笑みを浮かべてみせた。「とはいえ、我々は最早本当に衛星を打ち上げたようなものです。今年中に人工衛星が打ちあがるに違いありません」
 それにスノーが頷いてみせる。
「恐らくはまだ機密なのです。あなた方が知らないだけで、中国の人工衛星は既に地球の周囲を回っていてもおかしくはありません。だって、そうでしょう。今の中国は奇跡を起こし続けているのですから。よもや中国が自力で核兵器を完成させたことを疑うような人はいません。そんなことを疑うならば、その人はもう、科学者とは言えないはずです」 
 真顔でそう言う背後には、カリフラワーかブロッコリーか何かの作物が、畑から飛び出して宇宙へと飛んでゆく様子を描いたプロパガンダ・ポスターが飾られていた。
 陳曹達は続ける。
「毛主席の八字憲法に従い、我々人民は、農業においても嘗てない革命を起こしています。この数年のうちに中国は、数々の農民科学者が生まれました。彼らの中には全く学校に通ったことのない者さえもいるのです。化学式や数式どころか、字さえ満足に読めない彼らが次々と奇跡を起こしているのです。痩せた大地から、今や膨大な量の大麦、小麦、トウモロコシ、コウリャン、米が、それら作物が続々と湧き出るが如くであり、我々は到底これを食べきれはしません。そのため、現在は既に北ベトナムやアルバニア等の友邦への無償輸出に転じているところです。
 共産主義は古いイデオロギーの全てに勝つしかない状況にあると言っていいでしょう。科学というのは理屈である以前に思想であります。象牙の塔に閉じこもって、ケチな議論や実験をちまちまと繰り返すような下らないものではない。少なくとも中国においてはそうです。革命的な発想と尽きることのない勇気で、あらゆる不可能を粉砕し覆してゆくものです。偉大なる指導者、我々の太陽である毛主席が我々を目覚めさせたのです」
 そう言いながら陳曹達が指し示したグラフは、中国の各地域のここ数年来の農業生産高の急上昇を描いており、毛沢東の提唱した農業改革指令、八字憲法を境に、平均して百倍から二百倍の生産高を示していた。その下には、その基礎理論となったとされる各種の農作物が、一般的にはありえない奇怪な成長をする図説が並んでいた。
「説明しましょう。密植された麦の穂はプロレタリアと同様、協力し合って伸びます。光と肥料を公平に分け合い、風や虫や獣の類から皆で守りあい、ブロックのように硬い束になって育ち、金色の穂の上を人が歩いても崩れることも、沈んでしまうこともないほどに穂を実らせるのです。ファシスト的な遺伝学を打ち破り、臆病な裏切り者であるマルサス的人口論を一蹴して、我々は休む間もなく、楽園へと突き進んでいるのです」

 犬吠埼の背後から、招待科学者の一人が首を傾げるような素振りをしながら言った。
「アメリカにはルーサー・バーバンクという人がいますが、彼もまた偉大な種苗家です。バーバンク・ポテトの発明者で、これは実際にアイルランドのジャガイモ飢饉を救い、今でもアメリカの主要な作物の一つです。彼もそう学のある人物ではない。すると、中国の基準で言っても、彼は農民英雄や農民科学者と呼んで差し支えないと思いますが、非共産圏のそういった篤志家たちに関してはどう思われますか」
「それは初耳ですね。しかし、我らが農民英雄である石益謙はそんな次元を遥かに超えています。彼は真の農民英雄で、その功績から言えば、種苗学の泰斗であるミチューリンさえも超えてしまった人物でしょう。石益謙は何でも接木にしてしまう革命家であり、梨の木にリンゴをつけることに成功し、ミカンにブドウを接木させてしまった。その結果生まれた作物は、どれも多くの実をつけますし、寒冷地でも枯れることがないのです。中国人民の数はアイスランドの人々の比ではありませんが、羅天宇の成功以後、大勢の農民科学者が各地に同時多発的に目覚めており、今この瞬間にあっても、人々を貧困の底から救い出しているのです。いつかは我々の作り出したこれらの耐寒性の多作農産物が、寒冷地の気温をも上昇させ、温暖な気候に変えてゆくに違いありません」
 質問をした科学者は、笑うべきなのか、頷いてやり過ごすべきなのか解らず、中途半端な表情のまま沈黙してしまった。
 そこで陳曹達は、何かを感じ取ったのか、俄かに声を低くさせた。
「毛主席に逆らった者たちの末路は悲惨なものです。彼らは決して生き残ることが出来ない。彼らの帝国主義的な発想は、正しくないからです。これは日本から来られた犬吠埼先生も認めるところでしょう。何より歴史がその真実を物語っているのは、皆様もご存知の通りです。中国はあの戦争で勝ちました。これは宇宙人かアフリカの原住民でもない限り、世界中の人間が知っている人類の歴史です」
 陳曹達と目が合ってしまった。目を逸らすと案外まずい。犬吠埼は務めて平静に応対した。
「あのう、質問なんですが、これは何ですか? ちょっとこの写真だけ異様な感じがして」
 犬吠埼のすぐ横の壁にかかっているA4大の写真にはガスマスクをした兵士が、迫ってくる飛行機の下で手を振っていた。飛行機からは何か白いものを散布しており、それはどう解釈しても兵器としての毒ガスの実験に見えた。
「それは飛行機から爆弾の代わりに殺虫剤を撒いているのです。イナゴやハエといった害虫、スズメやネズミといった害獣を徹底的に根絶やしにしているのです。四悪を地球上から根絶させます。まずは中国からです」
「はあ。これも?」
「ああ、それは違います。これはブタとウサギのあいの子です。面白いでしょう? こいつはちょっと愉快な程度の代物でありますが、こっちのヤギや牛は違います。いいとこ取りの交配種で、成長が速く、生産高もべらぼうに高く、寒冷地にも病気にも圧倒的に強い。今までの奴隷的な家畜類とは生命力が根本的に違うのです。これらの革命的な家畜や作物によっていずれは世界中の人々の空腹が満たされることになるでしょう。世界中の人々がいずれは、バナナやパイナップルのような珍しい果物を毎日腹いっぱい食べれるようになるし、毎日食卓にハンバーグやステーキが幾らでも並ぶような生活を送ることが出来るようになります。共産主義とはそのようなものなのです。世界に先駆けて、中国がその見本を示すことになるでしょう。我々の成し遂げようとしていることは、口先だけの嘘つきの宗教や、自分のことしか考えない資本主義とは根本的に異なるのです」
 招かれた人々は、真意を計りかねるといった面持ちで、黙り込んでいたが、犬吠埼は、自分が質問したことでもあり、辛うじてその切実な物言いに納得を示した。
「賛成です。詳しい状況は解りませんが、それは私も賛成です。食べ物ぐらいは誰しも平等に得られていいんじゃないかって、子どもの頃からずっと思っていたのです」
「ほう」
 陳曹達は意外そうな表情で犬吠埼を見やった。
「私もですよ先生。ずっとそう思ってきたのです。私が子どもの頃は既に半世紀前になりますがね。長かったというべきか、短かったというべきか。私の人生においては耐え難い、長い空腹の歴史があった。しかし、中国四千年の歴史においては、私の屈辱などは一瞬にもならない」
 陳曹達は感極まった様子で犬吠埼に握手を求めた。
「中華人民共和国は、本気で空腹の解決に取り組もうとした世界で最初の国です。これほど偉大なことは人類史において一度たりともなかった。その夢が今叶いつつあります。世界各国の革命的科学者達の協力を私達は歓迎します。一緒に共産主義の正義を世界に打ち立てましょう」

 彼は本当にそんなことを信じているのか。それが最後までわからなかった。いいや。熱意は嘘ではない。信念も嘘ではないのだ。しかしその対象自体は嘘だ。それを全く知らないとは考えにくいのである。これは、つまり、全く正しくないと知っていることを、完全に信じることが人間には可能だということだ。犬吠埼は今まで味わったことのないような心理的な衝撃を受けていた。それが中国全土で行われている。事態はともすればSFを超える気配である。
 有体に言ってみれば、これは互いにそれが嘘だと重々承知の上で行う演劇のようなもので、礼儀の一種、中国式の面子(ミエンツ)なのであるが、根本的な問題として、資本主義諸国よりも基礎科学が発達している、ないし数年のうちに応用面でも軽々と凌駕するという前提を、礼儀や面子の問題に押し込めようとしていることの弊害があり、社会の方々で破綻を来たしていた。それが党の無謬性、共産主義の確信と同時に、中国の歴史の流れを引く皇帝崇拝、毛沢東への帰依と同一化されている以上、それは科学と混濁された新しい儒学とも言えた。
 犬吠埼は悟る。これは、劇場国家だ。人間は宗教を信じながら死を恐れることが出来る。その時から、人類はそうだったのだ。人間の脳が感情と理性を二つ兼ね備えた時からそのようになるのは、必然であった。
 後進性と先進性の歪なミックス。この国の稚気と核兵器を手中に収めた可能性は、甚だ不気味であるが、これは中国の問題を越えている。人類が核兵器を持っていること自体が、そっくりそのまま不気味そのものであり、それに関して欧米人は危ういことだとは思っていても、自らにおいては当然と看做し、且つ、誇りを持っており、自らのありさまがグロテスクだとは思っていないのである。
 犬吠埼は戦慄にざらつく心を抑えこみながら時計をちらっと見やった。時計の針があと数分で正午を刻もうとしている。
 犬吠埼は、ふとここに連れて来られる前に通った市場のことを思い出して、婦警に訊ねてみた。
「昼休みに、バザールを見学したいのですが可能ですか」
「外の食べ物を買う気ですか?」
「はい。食べ物も見てみたいし、せっかくだからお土産を……」
「やめた方がいいですよ。この土地の食べ物は衛生的ではありません」
 婦警はにべもなく、犬吠埼の申し出を取り下げようとした。しかし、何を思ったのか、少しの間があって彼女は「ちょっと聞いてみましょうか」と翻してきた。
 婦警は少々間抜けな感じの否めないこの女博士が、純然たる食い物につられやすいという話を事前に聞かされていた。それでことが上手く運ぶならむしろ良いと判断したのか、科学院の役員に可否を伺いに走っていった。食べ物を与えれば、犬猫同然にいとも容易く動いてしまう大衆を見すぎていたために、犬吠埼の個人的な資質を不思議には思わなかった。
 本来ならば最後の見せ場として、核実験の成功を収めた大迫力の記録映画のスペクタクルを世界各国の科学者達に見せ付けるはずであった。しかし、その機会はいつまで経っても訪れることがなかった。党上層部がぎりぎりになって待ったをかけたと科学者達は推測していた。科学院の招待スタッフたちはその間を矢鱈な宴会で引き伸ばしていたが、流石に三昼夜もやっていれば酣であり、何か手を打つ必要があった。
 暫くすると婦警が戻ってきて、許可が下りた旨を説明する。
「犬吠埼博士のたっての願いで」ということにされたのが少々不満だったが、仕方がない。
 こうして視察団のほとんど全員が、科学とも学術ともまるで関係のない、バザール見学に出かけることになった。






§ 四六 硝子の碍子

 昼日中のバザールは活気に溢れたように様々な品物が並ぶ。しかし、やはり何かがおかしかった。それらは恐らく、視察団の通り道にしか並んでいない。あるべき奥行きというものが感じられないのである。紙で作ったカラフルな飾りが、不自然に視界を遮るようにして、垣根のようになって、街道の両脇を埋め尽くしていた。
 その垣根をひょいと越えてみると、黄土色の冬の砂漠が目に入り、ふと目を向けた先に、みすぼらしい格好の老人がいて、ちょうど目が合った。彼も何かを売っているらしい。首から提げた木箱の中は、欠けたコップや木のスプーン、片方だけの靴等、ガラクタばかりだったが、一つだけ、模造紙に包まれて何かが輝いていた。
 犬吠埼は近づいていって老人に訊ねる。
「このガラス玉は?」
「綺麗でしょう? 電信柱に取り付けて防電します。雷避けのお守りです」
「へえ」
 碍子だった。共産圏の碍子は時に陶製ではなく、青緑色のガラスで出来ている。ここへやって来る前に、鉄道沿線の道路で、配線工事をしているのを見て気付いた。かくして、このお土産は犬吠埼博士のお目に適った。
「これって、買って大丈夫ですか? こういうのは、あまり他のお店では売っていないようですけれど?」
「大丈夫ですよ。内緒にしてくれれば。そんなことより、食い物を持っていないですか。食べ物なら、現金でなくても構いませんよ」
「はあ。食べ物ですか。物々交換みたいな感じで?」
 食べ物はそこそこに幾らでも売ってるではないかと言おうとすると、老人は、グイと犬吠埼の袖を引っ張り、やりとりが人目につかないようにした。
「買うんですか? 買わないんですか? 買うのなら早くして下さい」
「え、あの、幾らですか……」
 犬吠埼が、財布を開けてもたついていると、痩せこけた老人は、忙しなく周囲を見渡して「畜生」と呟いたきり、それ以上は何も言わずに、砂漠の中の廃墟の方へと逃げていってしまった。
 犬吠埼が見学コースを外れてフラフラしていることに気付いた婦警が血相を変えて飛んで来て、非常な剣幕で叱りつける。
「自由行動は禁止です。勝手に動かないで」
「売り子に声をかけられてしまって」
「少数民族と話してはいけません。言ったはずでしょう?」
「一人で出歩くなとは言われましたが、話すなとまでは……」
 婦警の怒った瞳に、微かに疑りの色が表れていた。
「彼らは危険です。彼らの約半分は反革命分子の犯罪者です。病気も持っています。話さないほうが身のためです」
 あまり怒らせるとどうなるか解らない調子だった。言うことを聞かない困った人だと怒られているうちはいいが、何か怪しい意図を持っていると疑われたら非常に不味い。そして、スパイであると追求された場合、それが完全なる誤解であるとは言い難い面があった。どこの国のスパイでもないが、イースター・エッグズの依頼を受けてやって来ている。イースターはただの旅行クラブとは言えない。
 婦警の目の底に冷たいものを感じた犬吠埼は、その瞬間、本能的に、自分でも信じ難いほどの熱演で、我侭な西側のブルジョワ観光客のフリをした。
「だって、今日はバザール見学になったって! だったら、お土産ぐらい買ったっていいじゃないですか。これでは人民元を使う場所がない!」
「人民元はホテルの中でお使い下さい」
「名物のローラン・ワインを注文したのになかったし、フカヒレ炒飯もダメだって、お風呂のお湯は出ないし、これじゃ、どこで使えばいいというのですか!」
「ああもう、我侭な人ですねえ!」
 婦警はほとんど個人的な不快感を露にした。こんなに皆で神経使っているというのに、こいつだけ何を言っているのかと。

 これで問題ない。ちょっと下世話な方がいい――その方が、互いのために幸せだ。

 しかし、犬吠埼は勢い付いて思わず余計なことまで口走ってしまった。
「違いますよ。我侭なのはあなた達の方ですよ。人数が多いだけで、ちっとも正しくない。変なことばっか言って、変なことばっかやって!」
「先生、それは、私達の体制を批判しているということですか」
「い、いえ。そういう意味では……」
「そう。あまり滅多なことを言うものではありません。他の人たちを見習って下さい!」
「……スノーさんみたいに?」
「そうです! その通りですよ! あの方はベテランです。先生、あんまり不審な行動をなされると、私とて擁護しきれません」

 その時、何の前触れもなく、うす曇の空に銃声がパンと鳴って、また今日も爆竹かと思って、皆、少々だらけた様子でぼんやりしていたが、コースの外側で、人々が騒がしくなり、科学院の招待スタッフたちは急にホテルへと戻るように言い始めた。
 パンパンと何発かの炸裂する音に混じって、キュルルと間の抜けた奇妙な音が近づいてきたかと思うと、爆竹とは最早勘違いしようのない轟音とともに、建物の脇のブロックが粉砕され、細かい破片が犬吠埼の頭の上にかかる。
 隣にいた警護の一人が掠れた声で呟くのが聞こえた。
「迫撃砲だ」 
 陳曹達が人混みを掻き分けてやって来て怒号を上げる。
「何をやっているんだ! 外人をホテルに戻せ!」
 犬吠埼と科学者達は広場に停めてあった兵員輸送用トラックの中に押し込まれた。気がつけばホテルのロビーで、紅茶を飲むことを強要され、誰のためでもなしに余裕の素振りを強いられていた。受け皿には段ボールのような見た目で紙粘土のような味のするビスケットが添えられており、直感がこれは食わない方がいいと告げている。死なない以上のことを保証しえない。
 何をやっているのかこの国は。何をやってるのだ自分は? ポチョムキン村とは言ったものだ。生きるために演劇をしなければならないなんて。ホテルの外では、拡声器が何かを命じている。時折、銃声と爆発音と共に悲鳴が聞こえた。これは、最早紛争だ。ただの喧嘩で大砲が出てくるものか。恐らく既に何人も死んでいた。下手すると自分も巻き込まれて死ぬということを犬吠埼は遅まきながら気付いて青くなった。
 ことがあったら、犬吠埼は、何を差し置いてもエディストーンと連絡をつけるのが決まりだった。時計を見ると十五時を回っており、既にエディストーンと落ち合う時間である。エディストーンは記者たちと行動を共にしている。スノー他、従順な記者たちと、面倒なことばかり聞いてくる二流記者たちは別々のグループに別けられている。エディストーンのいた仏アヴァス通信は努力していたにもかかわらず、二流な方のグループに入れられて冷遇を受けており、招待科学者達とは別の場所を宛がわれていた。最初から何かを怪しまれていたのに違いない。
 犬吠埼他招待科学者たちは、武装警官たちに監視されてロビーに留められて時を過ごした。勝手に話をしてはいけないが、ビスケットは幾らでも食っていい。紅茶も好きなだけ飲め。しかしトイレには行けないから、ほどほどにせよとの命令を受けて。
 拳銃を手にした陳曹達がやって来て、科学者、もとい外国人が全員いることを確認して、自らの顔を両手でビシャリと打って、身震いする自らに喝を入れていた。
「……皆さん落ち着いて下さい。外が少々騒がしくなっておりますが、あれは現地人によるものでして、彼らはお祭り騒ぎになると、歯止めが利かなくなってしまうのです」
 それから各自、自室のスイートに押し込まれた。
 犬吠埼はビスケットを手早くハンカチの中に集めて持ち帰った。味は良くないかもしれないが、万一のことを思えばないよりはマシだった。それに、何かの拍子に、本当の中国に解き離されてしまった場合、これは現金よりも使える可能性があった。
 今しかない。エディストーンと合流せねば。ロビー、ロビーがダメならカフェ。カフェがダメならトイレだ。
 咄嗟に部屋を飛び出す犬吠埼を、婦警が見つけて追いかけてくる。
「何をしているんですか! 出て行ってはいけません!」
「あなたもですよ? 何でいるんですかッ?」
「いい加減にして下さい! こんな混乱に乗じて突然姿を消したりなんかすれば、今度こそどうなっても知りませんよ!」
 婦警のホルスターからは拳銃が抜かれていた。
 階下から、早く来いと怒鳴る声が響いてくる。
「……あの、トイレへ行こうと」
「戻って下さい。先生。お願いですから」
 一瞬の沈黙。
「……これは一体、何が起きているんですか」
「何でもありません。よくあることです。……一体どこへ行こうと?」
 婦警の目は最早完全に醒めきっている。このような田舎の小母さんが、何人もの敵を撃ち殺してきたことを物語っていた。
「私は、あ、これから、アヴァス通信のインタビューの予定なんです」
「そんなものは中止です。何を考えているんですか?」
「あの、よくあるんですかこういうことは。だったら尚更……お母さんも危ないですよ」
「私はこれが仕事です。いいから。もう、本当に言うことを聞いて下さい」
 階下から、もう一度怒鳴る声が聞こえた。
「解りました。私はここにいます」
「そう。部屋に戻って。勝手に動かないで下さいよ。命にかかわります」
 廊下の影で婦警が通り過ぎるのを待っていたエディストーンが、僅か一瞬の間を突いて、間髪入れず駆け込んできて、犬吠埼の部屋へ滑り込んだ。
 二人とも心臓が強く鼓動を打っていた。
 丸一日ぶりにエディストーンと落ち合った犬吠埼は、こんな話ではなかったはずだと涙交じりに訴える。
「何が起きているんですかこれは。昨日はどうしていたんですか?」
 エディストーンは、静かにしろと指を立てて、植木鉢の方を指差した。
「……中国全土で戒厳令が発令されている」
「ええ……?」
 犬吠埼は絶句した。
「静かに」
「でも、小母さんは、大丈夫だって……」
 エディストーンは声を殺して犬吠埼の耳を噛み千切れるほどの距離に詰めて囁く。
「この状況で何が大丈夫だというのよ。ソ連がキューバに核を配備しているのが明るみになった。報道は連日それで持ちきりよ。アメリカ国内は恐慌を来たしている。あなたの言った通りになったわね」
「そんなばかな……」
 犬吠埼は自分で描いた核情勢の短観を呆然と思い出していた。
 エディストーンが更に声を押し殺して囁く。
「ここだけの話、モンゴルに配備されているソ連の核ミサイル部隊が臨戦態勢に入っている」
「……どこを狙っているんですか」
「北京」
「なんてことを……」
「中国軍も、大規模な部隊が急ピッチで準備をしている。核戦略部隊の可能性が高い」
「今のこの騒動は関係が?」
 エディストーンは、何を寝ぼけているのだと、犬吠埼の肩を揺すった。
「当然よ。しっかりして。戒厳令が裏目に出ている。ハム人を中心に、中国を脱出しようとする人々が止まらなくなっている。大国間の戦いが回避されても、このままいくと、中国国内は収拾がつかないことになる。この機に乗じて蒋介石が最後の賭けに出てもおかしくない」
「中台の状況は?」
「米軍が既に介入している」
「アメリカはどちらの味方を?」
「アメリカはアメリカの味方よ。話は後。逃げるわよ先生」

 エディストーンは犬吠埼に軍手を嵌めさせた。ビニールを編んで作った五ミリ程度の細いロープを手摺に通して軽く撚る。それに伝わらせて犬吠埼を三階から二階の屋根に逃がした。犬吠埼が無事着地したことを確認すると、エディストーンは素手のまま、すぐにロープを伝って降りてきて、手早くそれを回収する。動きが素人ではなかった。それをもう一度繰り返して一階まで降りると、二人は何も言わずに、道があるままに駆け出した。
 暫く建物の間を縫って行くと、小さな空き地に出て、石造りの小屋の中に何か動くものが見えた。
 エディストーンは訊く。
「駱駝には乗れる?」
「駱駝なんて無理です!」
「馬は?」
「無理、無理じゃないけど、こんな恰好で馬なんて」
「乗れないのなら、あなたを荷物に括り付けるしかないわ」
「乗れます」
「乗馬経験は?」
「え、覚えてない。解らないです。何で、こんなことに?」
「乗れるの? はっきりして」
「乗れます。昔家で馬は飼ってました。ペットだったけど……」
「仕方ないわね。私は駱駝が苦手なのだけど、先生には馬を任すわ。蒙古馬は小さいけど気性が荒いから気をつけて。おどおどしてると、振り落とされるわよ」
「私、こんなとこで死ぬ予定は……」
「私の予定にもないわ。行くわよ!」
 エディストーンはポケットから取り出した角砂糖を犬吠埼に渡した。
「なんですか?」
「あなたから馬にやって。友好の印。言うことを聞かせるの!」
 犬吠埼が蒙古馬の口に角砂糖を近づけると、長い舌がひゅっと伸びて角砂糖を奪って、瞬く間に飲み込んでしまった。掌に馬の舌の湿った感触が残った。
 エディストーンが掌を組んで足場を作ると、犬吠埼はそれに足をかけて、案外上手に馬に乗ってみせた。
 エディストーンは次に駱駝に座るように命じるも、言うことを聞かない。慎重に近づいて角砂糖を差し出すと、ギウと嘶き、鼻の穴を窄めて、激しく唾を撒き散らす。そのくせ、角砂糖は抜け目なく盗んだ。
「この生き物、恥を知りなさい!」
 犬吠埼はその隙にすっと入り込む。
「……飲め。飲め、ラクダ……」
 犬吠埼が荷物に括り付けてあった水筒から水をとって、コッヘルに汲んで恐る恐る駱駝の方に馬を寄せると、駱駝は、薄緑色のコケの生えた舌で慇懃な態度で水を飲み干す。唾は吐き散らすくせに、水が貴重なものであることは了解しているようだった。
 その隙に、エディストーンは、助走をつけて一跳びで駱駝に飛び乗る。
「とんでもないことになったけれど、これは、起こるべくして起こったことだわ」
「使って下さい。あ、」
 犬吠埼がハンカチを取り出してエディストーンに渡そうとすると、先ほど集めたビスケット転がり出る。皮肉なことに、駱駝も馬も来賓用ビスケットを拾おうともしなかった。
「冗談じゃないのよ先生! 事態は深刻だわ!」
「ええ。ええ、そうです。承知しているつもりです。行きましょう」
「行くわよ。ついてきて」
 エディストーンは、ポケットから取り出したヘアゴムを口に含み、素早く十字を切ると、髪を振り上げて後ろ手に束ねた。
 バザールの脇から、そこらじゅうにゴミが散らかって吹き溜まりになっている小径を抜けて、枯川の底を走ってゆく。
「前から来られたら、逃げ場がない!」
 犬吠埼がそう言うや否や、前方から群集が向かってくるのが見えた。銃を構えている。
「こっち!」
 エディストーンの乗った駱駝が川底の崖を一気に駆け上がると、砂が崩れて、後を追っていた蒙古馬が転倒して、犬吠埼は地面に投げ出された。
 小石で頭を打って、目の中に火花が散る。よろよろしながら起き上がり、馬を慰めていると、前方から銃声が聞こえた。
 エディストーンが鋭い声で怒鳴る。
「早く!」
「無理です! この馬では跳べません!」
「馬を置いていくわ。早く!」
「そんな……」
「早く! 早く! 荷物をよこして!」
 馬は噎せ返るような土煙の中で、憮然とした表情で、首を振って、それ以上動こうとはしなかった。
 犬吠埼は仕方なくエディストーンの駆る駱駝の背によじ登った。駱駝の体高は高く、荷をくくりつけた上にしがみつくと、枯川の向こうで銃に弾を込めている男たちが見えた。
「危ないッ 身を屈めて!」
 もたついている犬吠埼の頬の端を弾が掠め、駱駝の足の間に砂煙がぱっと散った。
「もっと身を屈めて!!」
 駱駝は老獣であったが、荷物と二人を背負ったまま軽々と跳躍し、危険を察知して本能で駆け出していった。死ぬような思いで二人は窮地を脱した。一発も当たらないで済んだのは偶然に過ぎなかった。






§ 四七 看護詰所

 「看護詰め所」は外側から見ると、枯れた茂みに埋もれて、その存在が解らない。人里から離れており、廃村と言うよりは既に遺跡と呼ぶべき場所にそれはあった。
 老鉄山はかつて自らが心血を注いで再建したこの場所に辛うじてたどり着いていた。しかし憔悴しきっていた。爪が幾枚か剥がれ、手も足も霜焼けと擦り傷で赤黒く腫れ上がり、凍傷になりかけている。
 ここで十五年来を過ごしてきた老看護婦のマルガレッタは、ベッドの中に蹲っている老鉄山を同情するように見やった。
 老鉄山は長征を経験した紅軍の兵士や、家族たちとは明らかに違うタイプの人物である。都市工作員に近い存在であると思ってきたが、傷付けば傷付くほど、出自を忍んで生きてきた素性が際立って見えた。その昔、フォルチュネ医療団の、まだ十代に足を残しているような無邪気な看護婦たちは、金髪碧眼で、チェスなぞを嗜むコルドアンのことを貴族的であると持て囃していたが、老鉄山こそは、世が世ならば郷公主、清朝の貴族階級の娘で相違なかった。
 マルガレッタはその額に手を差し伸べて訊ねる。
「粥を作ったけれど、食べれるかしら?」
「……あの子たちにやって」
「あの子たちは人の三倍も食べるわよ。むしろ、少し働いてもらわないと」
「様子を見て働かせていい。だけど無茶をさせると頓死するから気をつけて。村では皆そうやって」
 見ないうちに幾らかびっこをひくようになったマルガレッタの足音が遠ざかってゆく。
 老鉄山はマルガレッタの背を目で追った。老けて幾らか痩せたように見えるが、彼女はほとんど草臥れていないように見えた。暖炉の脇で居眠りをしている夫の方も矍鑠としている。骨ばった痩身は昔からだ。この人たちは、浮腫に悩まされているような病的な太り方や、しゃれこうべの輪郭が手にとって解るような死相を帯びた痩せ方をしてはいなかった。
 ハムスタン革命に派遣されたフォルチュネ医療団のマルガレッタ婦長は戦後も中国に残った。夫であるフォルチュネ医師と共に。しかし合法的な形をとらず、暫くしてハムスタン政府と共に地下に潜らざるをえなくなったのだった。
 鳩を使ってごく限られた形での連絡は取り合っていたが、老鉄山がこのフランス人たちと顔を合わせたのは、ハムスタン革命以来ということになる。

 老鉄山は目を瞑った。後悔はしていない。そう言うと、薄暗い天井に黒い粒が飛んで渦を巻いた。
 桜を思い出す。青春の地である日本への再訪。戦後の焼け野原。敵として戦った日本人の救援。台湾での苦い議論の後の解散。その後、老鉄山は、朝鮮戦争での老鉄山の死の誤報があったのを機に身分を偽って、再び祖国へと戻った。沖ノ島は強く反対していた。
 まどろみのなかで沖ノ島は囁く。
 誠実に接すれば、誠実が返ってくるとは思わない方がいい。むしろ、あなたが誠実ならば、相対的に言って裏切られることが増えるのは避け難い――。
 道徳的であるということは、突き詰めてゆけば、いつか人間に可能な相場を超える。倫理的であるということは、人間的ではないという真実を露にして輝くことになる。あるいは死ぬ。民衆の敵として。
 私はそうあってもらいたくはないのだけれど。

 淡い記憶の中にあっても、常に苦渋は潜んでいた。
 彼女はまだ生きている。沖ノ島は祖国である日本帝国と戦い、国賊の汚名を負っても自分の信じるところを突き通した。躊躇していた老鉄山を戦いへと引き込んだのも彼女である。
 自分はこの戦いに必要ないのではないか――。そう思うことは、戦い始める前にも、その後にも幾たびもあった。しかし、沖ノ島はその考えを認めなかった。
 老家には世紀を幾つも跨いぐほどの期間において、何人もの使用人がいて、使用人たちの塚があって、彼らは死んでも戻るところを持たなかったのである。自分は本質的に階級敵に相当する出自である。ならば、こんな茶番が許されるであろうか? いつまでもこんな演技が可能であるはずがあるまい。
 しかしやはり、沖ノ島は、そのことで迷うことを許さなかった。

 沖ノ島は、今中国を守ることは祖国や身分を守ることを超えた正義であるということを説いて止まなかった。しかし、そうであれば、必然的に彼女は中国と袂を別つこともありうることを意味していた。祖国や身分を越えた戦いである以上そうならざるを得ない。そして遅からずそうなったのだ。赤十字の下に集ったその意味は単なる気紛れの憐憫や博愛の真似事ではない。一切の条件を課さない定言命法的な善意志であるが故に、抗日戦争の意義はキリスト教会をも排した人類の聖戦であると定められたのである。
 中国はいつの日か、沖ノ島の聖戦を裏切らざるをえない。
 老鉄山はその中国と、取り返しのつかない決裂を選ばねばならないところまで追い詰められていた。
 沖ノ島は言った。

 私はあなたの味方よ。だけど無理よ。日本軍を中国から追い出すことは出来ても、中国人を中国から追い出すことは出来ないじゃない。この戦いで変わったのは日本人であって中国人ではない。実情を見誤っていると後悔する。

 それで覚悟は決まった。死んでも悔いはない。中国はあらゆる軛から解放された。されていないのならば、される。沖ノ島がそれを信じていないことは許せなかった。

 目を覚ますたびに後悔しきれぬ瞬間を思い出さなければならない人生が待っている。語られなかったことが、中国の長大な歴史の中での一粒しかないそれが、黄河の濁流の中に消えてしまう。阿Qは老鉄山の出自を正確に知らされた時「たぶん、そうであろうと思っていました」と言って笑っていた。
 阿Qは中国を出ようとはしなかったのである。呼んでもそれ以上は付いてこなかった。
 沖ノ島と阿Qは事も無げに手を振って別れた。

 夜。老鉄山が目を覚ますと、部屋の中には見覚えのある顔が見えた。コルドアン――。
 フォルチュネ医療団の看護主任だったフランス人。あるいは、元イギリス海軍情報部の将校エディストーン――。幾らか老けたが、途方もない勇敢さは相変わらずそうだった。
 ドイツ系イングランド人というのが大凡だが、ポーランド系やユダヤ系の血も引く。もっと遡れば、その出自はおよそ欧州地域全域に及ぶと言う。ヨーロッパ人種という以上の説明がつけられない素性の女だった。
 初対面となる犬吠埼は、揺れる燭台を手に、恐々とした様子で頭を下げた。
 エディストーンは老鉄山の顔を見ながら呟く。
「失敗したわ。靴よりも、眼鏡を持ってくるべきだった……。山ほど用意していたのだけれど、ガタガタしてるうちに置いて来てしまった」
 老鉄山は河に飛び込んだ時点で既に眼鏡をなくしていた。老鉄山の眼鏡や阿Qの入れ歯を鳩に括り付けて送ることが出来ないかは幾たびか検討されてきたが、危険が大きすぎるために断念されていた。羽賀も視力が低いが、潜入作戦までに両眼とも〇・八まで回復させていた。眼鏡をかけていることはそれだけで読書階級、知識人と看做され、悪目立ちする上、あればあったで失うと行動に支障が出た。攻めるにせよ逃げるにせよ全てが不利である。ナカノセもほとんど隻眼に近く、視力に関しては彼等にとって一つの弱点、懸案事項だった。
 老鉄山は咳き込みながら呟く。
「眼がくっついてるだけマシよ。この国の人間は、全員目が見えていない。比喩ではないわ。栄養失調で今や、夜になると、誰も目が見えない。日の光を浴びていても、目の前の世界が何を映し出しているかを思惟する自由も残っていない――」
 老鉄山はぼやけた黒い瞳で、エディストーンの蛍光を放つような緑色の双眸を捉え、訊ねた。
「――話は聞いたの」
「ええ。少しだけ」
「聞いたかも知れないけれど、阿Qは死んだわ」
 相互に状況を説明し合う余裕も、無事を喜び合う暇もありはしなかった。
 エディストーンと老鉄山は、近場の拠点にある物資を引き上げてくるために向かうことになった。馬匹が必要だった。十五年来になる最寄の地域の協力者たちにも相応の対価を払う必要がある。
 時計は明け方の二時を指していた。空は薄い雲が伸びていたが、砂漠を覆う深い闇が満天の星を地上にまで届かせる。天ノ川が風で靡く絹衣のようになって輝いていた。
 エディストーンは思う。
 犬吠埼はかなり目がいいのだろう。砂漠の夜の凄まじい星の数を目の当たりにして、しきりに感嘆の声を上げていた。
 方や老鉄山は恐らく裸眼では最早シリウスさえも見えまい。
 エディストーンは目を細めて、老鉄山を見やりながら、連れて行くべきかどうか迷った。しかし、老鉄山はその視線に気付いて、靴紐を結ぶ手を早める。
 休めと言っても訊かない。
 強情である。身の破滅を招くほどに。彼女は、この有様で中国をどうにかしたいと言っているのだ。死ぬに違いない。どうにかせねばならなかった。
 エディストーンは言う。
「私たちは今日の正午前には戻る」
「何かあった場合は、どうすれば……」
 犬吠埼が訊ねた。
「まず、大丈夫だと思う。でも万一のために、逃げ出せる準備だけはしておいて」
「逃げるならば、たとえば、どこへ?」
 逃げ場はなかった。ここは簡単には見つからないものの、藪が行く手を阻んでおり、それ以上奥へは行けないのが欠点だった。
 マルガレッタは言う。
「心配しなくてもいいわよ。そんなことは今まで一度もなかったわ。最悪、私とこの人が出て行けば、納得するでしょうよ」
 老鉄山はマルガレッタから羊毛のマフラーを貰って巻いた。
「そんなことにはさせないわ。すぐに戻る」
 しかし、状況は動いていた。紅卍会の隠れ信徒である村民たちが紅軍の尋問に合った場合、身を守るために裏切る可能性があった。
 フォルチュネ医師は殺気だってしきりに猟銃を確かめている。沈武は塞沙村を出る時に自前してきた古い手投げ弾を掌で弄びながらフォルチュネに訊ねた。
「殺すのか? もし敵が来たら」
「状況による。殺せば、その場はやり過ごせるが、徴発に出た者が戻らないとなれば、それこそ山狩りになる」
「……どんな具合になる?」
「それをこっちによこせ。穏やかにゆかない場合は私が始末する」
 沈武は手投げ弾を検分して信管を外してみせた。
「万一の場合は爺さんに任せる。だけど、これは俺たちのものだ。渡すわけにはいかない」
「銃を撃ったことは?」
「ある」
 フォルチュネは怪訝な表情を浮かべる。
「お前たちは何をやらかして来た? 何をしにここまで」
「飯を食いに来た。本当にそれだけだ。村では食い物が枯渇していた。それより、あの女の人たちは誰なんだい?」
 フォルチュネは不機嫌そうに呟く。
「エディスと犬吠埼博士」
「それは名前だよ。何者なのかを教えてくれ」
「仲間だ。それ以上は、言わないでおこう」
「俺たちは疑われているのか? 爺さんは未だに俺たちのことをゴロツキの類だと思っているんだね? あの人たちは、エディストーンは不思議に思われていないのに」
「エディストーンはイーサーの妻だ」
「そうだったのか……。そんな人がここに。……犬吠埼は?」
「協力者だ」
「信用できるのか?」
 フォルチュネは、何を言っているんだと少し笑った。
「予定外なのは君たちの方だぞ」
「あの人は、つまり、国府のスパイか何かなんだろ……」
 沈武はそう言って、暖炉の中の薪をひっくり返している犬吠埼の方をちらと盗み見た。
「違うと言っているだろう。今日はもう寝ろ」
「少しは俺たちにも事情を教えてくれよ」
「万一捕まってみろ。お互いにあまり素性を知らない方がいい」
「ああ。そういうことか……」
 軍宝が訊ねる。
「イーサー・エルクは生きているんですか? 彼は戦いますか?」
「当然だ」
 寝床に戻りかけていた沈武が、まだ聞き足りないと言った様子で戻ってくる。
「でも、何故? イーサー・エルクがエディストーンを伝手にイギリスにでも亡命して、一生楽しく暮らすことはいとも簡単なことだろう?」
 フォルチュネは若干失望した様子で少年を見遣った。
「イーサー・エルクはこの国に責任がある人間だ。逃げるなんてこと、出来やしないよ」
「そうは言っても、それを支えようとする人間がどれだけいる? 責任を押し付けて逃げた人間の方が圧倒的に多い。勝ち目はあるのか?」
「もう寝ろ」

 残った者たちは、それぞれに割り当てられた場所に小さくなって眠りについた。粗織りのゴワついた毛布の中で、犬吠埼は銷としていた。皆戦う気なのだ。エディストーンは、こうなった以上、最早最短で絶対に脱出させると誓ってくれた。一人だけ脱出するのは気が引けるが、じゃあと言って、ここに残るとも言えなかった。犬吠埼がおかしいのではない。彼女が自分の家に帰るのは、何よりも真っ当である。
 犬吠埼は、その母親に、学者を引退したいとも告げていた。中国行きは、その最後の仕事のつもりであった。父の死の真実をイーサー・エルクが隠しているのか、隠しているふりをしているのか知れないが、父ならば、旧友にここまで頼まれれば、危険を押してでも、この地へ来たに違いないと思っていた。
 当初予定の被曝調査をするまでもなく、話が違う方向に向かい、もはや、彼女の専門が役に立つ見込みもない。本当に核戦争なんてことになるのだろうかと、実感の湧かない思いを巡らしつつ、犬吠埼は眠りについた。






§ 四八 戸口調査

 日が昇り、既に朝の十時を回っていたが、皆で寝過ごしていた。
 乱暴に扉をノックする音が響く。もうそろそろ、エディストーンと老鉄山が帰ってきてもおかしくはない頃合だった。むしろ遅いぐらいである。肌感覚では何かがおかしいと察知しながらも、心の方はとにかく安心したがっていた。
 フォルチュネの瞳には、カーテンの隙間から漏れる柔らかい日差しが映っていたが、その耳朶には、扉に向かって容赦ない粗野な蹴りを入れる音が響く。途端に、老人は椅子から跳ね起きて、毛布に包まっている少年たちと、犬吠埼を揺り起こしに走った。
 運悪くエディストーンがいないうちに、中国共産党の兵士たちがやってきてしまい、犬吠埼と少年たちは、フォルチュネに言われるがままに裏手の鳩舎に隠れた。
 野太い男の声が聞こえる。
「人民公社を知らないだと。バカな!」
 フォルチュネが痴呆老人めいたふりして、何とか時間を稼いでいる。
 徴発班長の男は慣れきった意地悪そうな表情で、扉の前から動こうとしない老人の背後に広がる調度を見渡していた。手狭な割に色々とあり過ぎる。それも相当に怪しげな代物が。不届きにも書画骨董の類まで蓄積しており、言い逃れは出来なかった。罪状明白。今この瞬間に撃ち殺されても文句の言えるような者たちではなかった。
 しかし男は、不意に感嘆の声を上げる羽目になった。それはほとんど悲鳴のようですらあった。見なくなって久しい、家庭用の中華鍋が三つもかかっているのを見つけたのだ。自分が子どもの頃には、どんなに貧しい家にも中華鍋の一つぐらいはあった。食事だけが楽しみだった。自然と嗚咽のような言葉にならない声が溢れ出てくるのを堪えて、闇雲に怒鳴りつけて、部屋の中へと踏み込んでいった。

 数分後、何をどう判断したのか、少年たちがパッと飛び出して、村へ向かう方へ突っ走ると、男たちは、それに気付いて、すぐに追いかけてきた。
 そして、あえなく捕まる。
「何だ貴様達は!」
 少年はくぐもった声で名乗る。
「……沈貴鴛が息子、沈武」
「うるさい。手を挙げろ!」
 男たちは情け容赦ない冷酷な視線を向けていたが、沈武は敵意丸出しで、それに怯むこともなく、いかにも憮然とした表情で相手を睨め返しながら、ゆっくりと右手を挙げた。
「ふざけるなよ小僧」
 犬吠埼も動転して、右も左も解らないうちに少年たちの後を追って飛び出してきたが、それが誤りであったことに気付いて青ざめた。
 犬吠埼は、沈武に向かって、あり合わせの知識で望ましい態度を教える。
「君、両手を挙げるんだよッ?」
「お前もだ女!」
 それから僅か数分後、エディストーンと老鉄山は急遽掘り起こした薬草や備蓄を籠一杯に背負って戻って来た。状況を察知するや否や、二人は慌てて来た道を引き戻して、土手の陰に隠れた。
 班長の男は抜け目なくそれに気付いて、二人に向かって叫ぶ。
「さっさと投降しろ。さもなければこいつらをここで処刑する」
「待ってッ 投降すれば命は助かるということかしら?」
「いいだろう。命は保証してやる。これ以上手間をかけさせるな」
 彼らの声に応じて、老鉄山はいとも簡単に出て行った。逃げきれないと踏んだというのもあるが、こういう時、紅卍会の女たちは譲歩を引き出す所作にかけては特殊な才があった。
 男は丸腰で唐突に飛び出してきた女に動揺する。女は目が悪いらしく、ぼんやりした表情をしていた。
「もう二人いるだろうが」
「いないわ。私だけよ」
「とぼけたことを言っていると、どうなるか知りたいか」
「あなたたちは?」
「我々は新疆生産建設兵団だ。なめてもらっちゃ困る。これでも共産党の正規部隊だ。まさか、本当に知らんとでもいうのか?」
「……私も共産党員よ」
 そう言って老鉄山は襟口を裏返して、縫い付けてある古い徽章を見せた。
「……お前は何者だ?」
「ずっと匪賊の残党に捕まってて、やっと逃れてきたところなのよ」
「何故連絡をしなかった!」
「出来なかったのよ!」
「じゃあ、あの陰に隠れている二人はなんだ!」
「誰の事?」
 その瞬間、老鉄山は殴りつけられていた。老鉄山は男の手加減を感じ取りながらも、派手に転倒して足下に跪いた。
 その時、犬吠埼は何か、ふっと、剥き出しの現実を覆ったような、えもいわれぬ術をその光景のうちに見ていた。
 捕まっているのは男の方だ。譲歩を引き出されている。
「そんな真似で騙せると思っているのか。連れて行け! ダーチャを探せ。ダーチャが他にまだあるはずだ。吐かせろ!」
 男の方は打擲に慣れていると見え、あまり傷を負わせずに相手を倒し、いかようにも痛みをコントロールする術に長じていた。これは実に奇妙なことであるが、遭遇した男女の即席劇が、誰が取り決めるでもなく了解されていた。
 何と説明すればいいのか解らないが、この状況が言葉に基いているものではないことは確かだった。
 班長の男は怒れる態度を意識的に保ちながら向き直る。
「逃げたのは外国人か」
 フォルチュネ老人は聞こえないと耳をかっぽじってみせるが、男にはそれが挑発に見えたらしく、老兵にありがちな聾の名誉を解ってはもらえなかった。あるいはそんなものは、この中国においては、軽蔑の対象ではあっても、同情のうちに入るものなどではなかった。
「お前は抵抗した。反革命罪で処刑する」
「待ちなさい!」
 今一度エディストーンの声がすると、土手の陰から、縄で縛った小包が弧を描いて飛んできて、彼らの足下にぼとっと落ちた。手投げ弾と思って、ざっと退いて皆が身を伏せていた。
 エディストーンは言う。
「中に煙草と飴が入っている!」
「それで?」
「プレゼントです。尋問するよりは約束を交わしたほうが得策ですよ」
「馬鹿め。この期に及んで交渉が出来るとでも思っているのか?」
「こちらには国外へ亡命する手筈もある。そこまで共産党が身の保証をしてくれるわけでもないのでしょう?」
 軍宝が立ち上がって、班長の男の目をちらっと伺う。
「ガキ。お前が開けろ」 
 軍宝が鼬のような素早さで姿勢を低くして近付き、手を伸ばして袋の口を開けると、かくして中には、エディストーンが言った通り、煙草や飴玉がぎっしり入っていた。
 滅多に手に入らなくなっている菓子の山に、彼らの目の色が変わる。
「ここは接収する。公社に伝えろ。いや……」
 岩陰からエディストーンが叫び散らす。
「話がしたい! 話す価値は必ずある! 私はあなたたちの味方です! 少なくとも敵ではありえない!」
 エディストーンが投げ込んだものが手投げ弾と思って身を伏せていた痩せこけた青年は、それが食べ物の類だと解るや否や、軍宝の元に瞬く間に駆け寄って来て、それをぶん取る。
 遠くから見ていた班長の男は「こっちにもってこい」と有無を言わさぬ声色で、そのまま全てを口に放り込みかねない様子の青年を窘めた。
 彼らは何から何まで欠乏している。相手は妥協しそうだと読んで、エディストーンは、手を広げて姿をみせた。
「はやく来い! グズグズするな!」
「話し合いを?」
「外から見られたくない。はやくしろ!」

 小屋の中に入ると、彼らは老鉄山を除いて全員を縄で縛ったが、色々の資材に目移りして尋問どころの話ではなくなってしまい、手当たり次第使えそうなものを掻き集めていた。そのうちに袋に入りきるほどの量ではないことに気付いて、もういちど袋を解いて、一からやり直したりしていた。飴を食わんとしていた痩せぎすの青年は、状況などは全てかなぐり捨て、冷えて薄く氷の張った鍋にかぶりつくようにして、食える限りを食おうとしていた。
 老鉄山は目一杯の笑顔をつくり彼らを労う。
「……駆け引きはやめにしましょう。今の我が党に何の期待が?」
 男は瞼を半分閉じて奇妙な表情をしていた。
「何も期待はしていない……。しかし、命はひとつしかない。家族もある」
 エディストーンが、柱に縛り付けられたままで口を挟む。
「いずれ、逃げる気でいたのでしょう? 今がその時なのではありませんか。あなたの部下ごと来てくれれば、少尉待遇で迎えることも不可能ではないわ」
 状況はともかく、精神的な立場は既に逆転していた。
 エディストーンは続ける。
「私たちは、本当ならば中国を支援したいのです。他意はありません。純然たる世界市民の同胞意識においてです。しかし、中国共産党は国際支援を拒んでいる。ベトナムへ向けて経済支援までして強がっている。現実問題今の中国はそんな状況にはない。台湾の親戚から物資を送ってもらうことを政府は認め、推奨さえしている。これでは、やってることがあべこべです」
 男は不愉快そうに吐き捨てる。
「そんなことは解っている。まだ調整が上手くいっていないのは事実だ。飢饉さえなければ……」
「飢饉は何で起きたんだ。教えてくれ」
 沈武が縄を解こうともぞもぞしながら、問い掛ける。
「未曾有の天候不順が原因だ」
 それで全てを終わりにしようとした班長の男に老鉄山はたまらず怒りを露にした。
「そんなの嘘! 畑の刈り入れも出来ない程鉄作りに邁進しているじゃない! 密植なんてあんなもの、作物が育つどころか、全部枯れてしまったじゃない!」
「何だ貴様。党を信じないのか!」
「あなたは信じているの……?」
「……信じている……!」
「党の何を?」
「……私は戦った! 党のために、忠誠を尽くしてきた! 今も変らない!」
 鍋ごと食べてしまいそうな勢いだった青年が、鍋の汁を手で拭い、立ち上がって胸を張った。
「俺だって戦った!」
 老鉄山が続ける。
「私も戦った。何度も死にかけたけど戦ってきた。共産党は本当に素晴らしかったからこそ戦ってこれたのよ。正義を重んじ不正を挫ぐのが共産党だった。村々を解放し飢える人々を困窮から救い出すのが共産党だった。毛沢東率いる共産党軍は結束硬く、同胞愛に溢れて、勇敢で、破竹の勢いで日本軍を破っていった。嘘ではない。誇張ではない。全てが、本当に共産党の謳い文句通りだった。数えきれない称えるべき真実の数々があった。だけど――!」
 彼らの一部が鳩舎を見つけてきて、袋の中に何羽も乱暴に突っ込まれた鳩がもがいていた。
「おい、おい、見ろ! こんなにいっぱい鳩がいたぞ!」
 男は手荒に捕まえてきた鳩をテーブルの上に押さえつけ、あっというまにナタで首を跳ね飛ばし、羽根をむき始める。
「やめてよ!」
 老鉄山は我を忘れていた。男の手を掴んで、そのまま横に捻ると男は簡単に仰向けに倒れ込んでしまった。
 大の男が、朽ち木でも倒すかのように転がってしまったことに、掴んだ腕の細さに、老鉄山はショックを受けた。
「……クソッ お前の首を跳ねてやる!」
「こんなことのどこが共産主義なのよ。ねえ。私たちの正義を思い出してよ?」
 老鉄山はその場にしゃがみこみ、悲嘆に暮れた。
 班長の男が倒れた男のところまでやってきて、ナタをその手から毟り取る。
「他にも食い物はある。お前らはあっちへ行ってろ!」
 班長の男は切り飛ばされた鳩の頭を手の上で弄びながら老鉄山ににじみ寄る。
「これは軍鳩だな」
「だったら何だと言うの! あなたたちはその後、いつだって物事を解ろうとしなかったじゃない!」
「立場が解ってないようだな。お前は裏切り者だ。反革命分子だ。どこと密通していた」
 班長の男は最低限の威儀と余裕を保とうとしていたが、口元は依然、歯に挟まったビスケットを舌で探っていた。
「クソッ こんなに隠し持ってからに! 絶対に許さん!」
 老鉄山に倒された男が、腹癒せ交じり、棚ごと押し倒して、壁に掘られた貯蔵庫から、大麦の詰った袋を引きずり出して、乱暴にナイフで引き裂いて、言葉にならない憤りを喚き散らす。
「いい加減にしてよ! 今の共産党は匪賊に成り下がっている!」
 止めようとした老鉄山と、ナイフを振り翳す男と一悶着した。
「うるせえぞ! 貴様、このッ、民衆がこれだけ飢えているというのに! こんなに盗んで溜め込んで。……ッ反動右派を粛正する!」
 フォルチュネが冷徹な調子で口を挟む。
「これは中国から盗んだものじゃない。全部外国からの輸入物じゃないか。こんな太った麦が今の中国で採れるか?」
「それこそ帝国主義諸国の簒奪によるものだろうッ!」
「デタラメを言う気?」
「デタラメなんかじゃない! それがこの世の真実だッ!」
 班長の男はナイフをテーブルに突き立てると、素早く、拳銃を抜いて老鉄山の額を突く。しかし老鉄山は自ら銃口に額を押し付け、憤怒の表情で相手ににじり寄った。
「共産党はそれが真実だと思ったから、帝国主義を倣う結果になった。帝国主義よりも著しく酷い形で。この裏切りは帝国主義よりも重いわ。自らの信に背いたのよ!」
 老鉄山が拳銃を奪おうと手を出すと、男はほとんど追い詰められているかのように暴れた。
「黙れ黙れッ! オレはもう沢山だッ! 貴様のような階級敵人がこのオレに小理屈を言うんじゃない! この国はオレが命をかけて奪い返したんだッ!」
 老鉄山の耳元で、不意に銃声が鳴り、天井に穴が空いた。
「次、こんな態度を取ってみろ、今度こそ……」
 老鉄山がほとんど条件反射のように目を瞑って崩れ落ちる様を見て、男は、誤って当ててしまったかと思い、「おい」などと声をかけて、その腕を取ろうとした。
 しかし、次の瞬間、窓框の上が吹き飛び、火線の一斉射撃が部屋の壁を破って、穴だらけになった。更に畳み掛けるようにして武装した一群が踏み込んできて、瞬く間に制圧されてしまった。少年たちは手を柱にとられたまま、この騒動をやり通した。犬吠埼は、寝台の足にくくりつけられていたので、無理矢理体を捩って寝台の下に入り込んでその場をやり過ごした。 
 気がつけば、鳩の入った袋に砲弾が命中し、全て血飛沫に変わって、羽毛がそこらじゅうに散っていた。
 砲撃を合図にした一斉射撃。やり方がハムスタン騎兵のものだった。フォルチュネはイーサーが助けに来たと思ったが、壊れた屋根から日の光が注ぎ、硝煙の残る室内に現れた人物は「イーサー・エルクはいるか?」と聞いて回った。あまりのことで誰も何も答えられない。あるいは彼らの大方は死んでしまったと思われた。
 驚くべきことに、混乱がおさまってくると、倒れているのは徴発に来た兵士ばかりで、詰め所の人員は全くの無傷であった。

 フォルチュネ医師は上擦った声で呟く。
「間一髪だぞ。ヤフヤー……」
 ヤフヤーと呼ばれた蓬髪の男は警戒を解かぬまま、フォルチュネの前に歩み寄ってゆき、厳粛な様子で言葉を口にした。
「主は我らに窮地しかお与えになられなかったが、その全てを乗り越えられるように定められた」
 危機を救ったこの人物は、自らの名を、アラーの下僕・ヤフヤー・ハッワースと名乗った。ハムスタン紛争時の伝説的な兵士である。
 ヤフヤーは、ハムスタン紛争時には、先陣を切って機関銃陣地への突撃を九回敢行し、その全てを成功させて生還するという常人離れした武勲を上げたが、革命後は報償も受け取らずに立ち去った。
 戦車の履帯から引き抜いて作った鋼の手槍が彼の数少ない私物で、イナゴを糧に生きる。アルタイの郊外から離れて二日程度の無人の荒野にあるミカイルスタン廟で長らく隠遁生活を送っていたが、ナカノセが参じた第二次ハムスタン紛争、中国共産党の大躍進政策の末期に再びその姿を現し、ハムスタンの民族規模での蜂起が決定的となった。砂漠の真ん中で埋もれて死にかけていたナカノセを助けたのはこの人物である。ヤフヤーは終末思想の持ち主で、同国では「御使い」と言えばヤフヤーのことを指し、この人物は冗談抜きで本当の天使であると考えられていた。




















§ 第六部
















§ 四九 父の神話

 冬の大陸の冷たい風と、頼りない日差しの中、ナカノセは驢馬の背の上で揺られていた。
 目の前にはまだ五、六歳の少年が乗っている。鞭でもって、巧みに驢馬を御しており、ナカノセが鞭を取ってみようと手を出すと、厳しく叱責する。何度も試していると、しまいにはナカノセはその手をピシャリと鞭で弾かれた。
 前方から馬が駆けてくる。ティムルだ。よく喋る屈託のない男であるが、ハムスタン陸軍、第十二騎兵大隊長の肩書きを持っている。カイゼル髭を生やした厳しい精悍な顔つきの五十歳で、イーサー・エルクとよく似た風貌をしていた。兄弟であると言われれば信じてしまいそうなほどであり、またそれは当たらずといえども遠からずである。

 彼は避難民を先行してカザフ国境に向かう先遣部隊を指揮しており、本隊との時間調整を兼ねて、ナカノセをアルタイ市の郊外のある場所へ案内しようとしていた。
「問題ない。水を汲むからついてこい」
 ティムルはテュルク語と漢話の他、モンゴル語とカザフ語を操る。僅かながら日本語も知っており、天皇、富士山、学校、こんにちわ、さようなら、飛行機、兵隊、騎兵、馬、隊長、赤十字、看護婦等の言葉を知っていた。
 彼のフルネームはティムル・ムハマド・バダウィー・エルクと言う。
 イーサー先生の本名は、イーサー・ムハマド・バダウィー・エルクだ。
 ナカノセは訊ねる。
「イーサー先生とほとんど同じ名前だけど関係があるの?」
「あるよ。同じ民族だ」
「同じ苗字の人が多いの?」
「バダウィーは、スーフィー、祈祷士の名前だ。子供の頃、私たちは祈祷士と一緒に井戸を掘った」
 イーサー先生が、今でも正式な署名をする時はイーサー・ムハマド・バダウィー・エルクと書くのはその人物の名を継いでいる。アルタイ市郊外の風口村には その昔、ムハマド・バダウィーと名乗る導師的な人物がいて、少年達は皆、そのバダウィー老人から洗礼を受けて、その名を引き継いだのだという。
 バダウィー老人はある夕、流星雨を伴って、イーサーら少年達の前に現れた。彼らが掘ったという井戸より更に山間に行ったところにある由来不明の霊廟を守っていた人物で、死人を生き返らせるバラカ(アラーより与えられた超人的な神秘術)をもっていたとされる。その井戸は、バダウィー老師の命で掘られたもので、星の井戸と言った。由来は、バダウィーが懐から取り出した隕石を最後に投げ込んだことによる。バダウィーは生きている間に、この地域に以後、百を越える井戸を掘り、文盲のフォンコウ村の人々に読み書きを教え、一万人の人々に洗礼を施した。
 ムハマド・バダウィーの生まれは孫悟空生誕の地とされる火焔山である。親はなく、聖犬タンランに育てられ、幼少の頃から山羊の群れの中で暮らしていた。中国深西部のハムスター王国において、この手の逸話はこと欠かない。
 ムハマド・バダウィー老師は、ハムスター王国が巡ってきた運命と、数々の預言をイーサーらに伝え、一九三七年の春にこの世を去った。イーサー先生の幼少期は神話の中の出来事と地続きであった。

 その墓地というのは遺言により墓標がない。あるのは荒地の石だけで、正確な位置は最早誰にも解らない。古来マザール霊廟の多いこの地においては、珍しいことであるが、アラーのみを信仰の対象とするイスラム原理的には墓標や聖人信仰は本来異教的なのである。イスラム教の原理的な墓地というのは、荒地に石が散らばっているだけの風景で、墓を花で飾る私たちにとっては馴染み難い殺風景なものである。
 ただやはり、ハムスター王国はイスラム圏の辺境であり、そこまで徹底された信仰があるわけではない。
 バダウィー老人のスーフィー、シャーマン的傾向のみならず、巷には酒も豊富で、ワインや羊乳酒等はことかかない。厳格であるのか、世俗的なのか、そこらへんのニュワンスは私では十分には図りかねるが、アラーへの帰依と豚肉の禁忌が、イスラム教徒と非ムスリムを別ける一線となっていると思われ、イーサー先生も豚肉は食べなかった。あと、意外なとこで鰻を食べなかったのを記憶している。
 バダウィーの亡骸は、古式にのっとり土葬、右脇腹を下にして頭をメッカの方角に向けて埋葬された。バダウィーは、生前において、動物、乞食、女子供には小さな墓を作ってやってもよいが、男、特に偉大な人間は墓をもってはならないと戒めたという。死人を蘇らせるバラカは一度、落馬して死にかけていた少女に施したきりで、その後は使うことがなかった。方々の権力者に招かれて、不死の秘術を望まれても応じることはせず、およそ、ただの孤児や乞食、寡婦の救済に俗世の範疇の施しを行い、自らも、元々与えられていた命数にのみ任せて死んでいったという。当の少年達は、バダウィーの私心なき生涯に深く感銘を受けた。この時代、ロシア革命の余波を受けて荒廃していた世相において、預言者バダウィーの果たした役割は非常に大きいものがあり、それから十年から二十年の後、バダウィーの教えを受けた人々が育ちあがり、彼らがハムスタン革命を起こしたのである。

 彼らは今でもムハマド・バダウィーの伝えし黙示録を信じている。ある日火の雨が降ってきて、全ての街は焼野原になり果てるのだ。しかし、ムハマド・バダウィーの意志を継いだ少年達とその末裔はその時に、為さねばならない神の命が下るのである。
 バダウィー老人の預言が思い知らされる時は、常にハムスター王国は危機的な状況であったので、ムハマド・バダウィーの言っていたことは、彼等には本当のことであると信じられている。そして、その青年期において、彼らは命を賭けて戦うことを覚えた。
 イーサーのみならず、自分たちも国難においては重要な役回りをすることになると、彼等は自らのことを信じて生きているのだった。神話に彩られた世界観や人生観が決して絵空事とはいえない情勢と風土がその地にはある。
「ヤフヤーさんも?」
「いや、あれは違う。あれはそれ以上の存在だ」
 横から馬が出てきて、ティムルよりはもう少し若い男たちが一斉に頷く。
「人間ではない」
「そう」
「人間じゃない?」
「そう。あれは天使で、ハムスタン革命の時にアラーが遣わした」
 彼らの真顔での突拍子もない説明に、ナカノセはどういう顔をすればいいか解らなかった。
 ナカノセは洟を啜る。
「お前は、俺たちが『少数民族』にありがちな、非科学的な迷信を言っていると思っているのだろう?」
「そういうわけではないですけど……」
「そういうわけではないけど、助けてもらってしまったしな」
 ティムルは、鞄から取り出した携帯食――油で揚げた金色の麺麭を半分に千切って、ナカノセに遣した。
「お前が助かったのは偶然か?」
「本当に心から感謝しています」
 ナカノセは、幻覚を見るほどの疲弊からは既に回復していたが、それ以上、何と応えればいいのか解らなかった。
「――でも、いいんですか。そんな偉い人が、民族的な宗教指導者を、あんな少ない人数で行かせてしまって。もし何かあったら」
 彼らはそこで一斉に大笑いをした。
「ヤフヤーではなく、むしろヤフヤーがいない間の我々の心配をすべきなんだ」






§ 五〇 カザフ入境

 それから一週間の後、ナカノセはティムル達に連れられて、中カザフ国境地帯を越えた。
 ソ連軍の鉄帽を被り、真鍮製の新月刀とライフルを帯びたこの地域を封ずる辺境伯の使者が馬を駆って来て、ティムルたちと連絡をとり合っていた。ナカノセは旅の疲れでぼうとしてそれを眺めていたが、不意にその使者はナカノセを手招いた。
「お前がナカノセか。エディストーン女史の教え子だと訊いたが、間違いないな?」
「間違いないわ。どちらかというと私の先生はイーサー先生だけれども」
「私が担当武官のクナンバユリだ。随分探したぞ。ついて来い。馬には乗れるか」
「乗れるわ」
 ティムルがそれを遮る。
「いやいや。やめておけ。この娘は気が強い。何でも出来ると言うから、そのつもりでいてくれ」
 クナンバユリは言う。
「お疲れのところ済まないが、早いところ状況を知りたい」
「私もだ」
「話はあの女に聞くがいい」
 そう言って、クナンバユリは首から提げている小さな呼び笛を長く吹いた。
 土煙の向こうからもう一頭、馬が駆けてくるのが見えた。
 手を振っている。犬吠埼だった。思いもかけず上手に馬を駆る犬吠埼はナカノセの目には別人に映った。
「犬吠埼! いつからここに?」
「もう四日前だよ!」
「一昨日には私もついてたわよ」
 犬吠埼が手綱を引くと馬はその場で高く足踏みして、ナカノセは反射的に馬の脇へと回った。
 ナカノセは吐露する。
「死に目に合ったわ」
「よく生きてたねナカノセ。老鉄山と少年たちは無事だよ。だけど……」
「今どこに? 阿Qと小母さんが……、途中で加わった二人が死んだ……。羽賀さんは?」
「羽賀さんは生きてる。私たちとは別ルートで、アルタイから、伝書があったの」
「そういえば、犬吠埼、あなた、羽賀さんに会ったことあるんだ」
「ええ。羽賀少佐……。澳門で」
「何よ。羽賀さんはマカオにいたの?」
 ナカノセは右も左も解らぬままマカオへと行った日のことを、随分昔のことのように思い出して、不意に笑みを零したが、犬吠埼はそれ以上駄弁に興ずることはなかった。
「ナカノセ。笑ってる場合じゃないよ。戦争が始まってる」
「何故よ!」
「キューバが引き金になった……。中ソ戦も」
「どうして! 核は?」
「解らないけど、たぶん核戦争には至っていない……」
「イーサー先生は今どこに?」
 クナンバユリが馬で駆け寄ると、何ごとか解らないが怒声で捲くし立て、二人の会話を中止させた。
 ティムルが進み出て犬吠埼に確認を取る。
「イーサーは生きているのだな?」
「……はい。聞いた話ですが、たぶん生きています。羽賀少佐と一緒に」
「アルタイにいるのか?」
「たぶん……」
「行き違いになってしまったな」
 ティムルは口髭を指で捻りながら考えこんで遠くを見やった。
 クナンバユリがまた声を上げる。
 それを受けてティムルが慌てて、出発の号令を発した。
「行くぞ! 戦いは始まっている!」

 ナカノセは驢馬を駆る少年の背中にしがみ付きながら空を見上げた。
 犬吠埼の駆る馬がその横を走る。
「この天気は核の冬の到来?」
 犬吠埼は唸る。
「前にいた場所では空は凄い星空だったけど……。元の状況を知らないから判断しようがない。だけど戦略核兵器を使っても、それ即核の冬という意味ではないんだよ……」
「なんでよ」
「だって、地上核実験は現に行われていることじゃん。でも核の冬にはならないでしょ」
「そうか。じゃあどのくらい? 核ミサイルを撃てば、少しはそれでも気象に影響するんじゃないの? 広島はすぐに黒い雨が降ったって……」
「核の冬が起きる条件って、都市部大火災が原因なんだよ。それで、単にきのこ雲が日を遮るのではなくて、対流圏以上の雨が降らない、風のないところにまで、気流が吹き上がって、煙が伸びきってしまうと、煙は塵と違って物凄く軽いから、そうそう落ちてこない。核兵器の規模と、都市の燃焼可能量の兼ね合いで起きるんだわ」
「都市そのものが燃料になるってこと?」
「そういうこと。核の冬が本格的に起きた場合、地上は、マイナス三十度以下になるから、海流の熱を受けることが出来ない内陸部は全滅に近い。年間通して、その温度だと、あらゆる種類の植物が発芽できないから、食糧生産が止まってしまう。私たちが今ここで生きているというのは、そこまでの事態には到っていないということだよ。たぶん」
「誰がどこを撃っても、自爆じゃない」
「そうだよ。中国人は多いから生き残るとか、そんな理屈、出す方がおかしい。反論をする学者もいるけど、ポジショントークでしかない。広島型以後の大型原水爆が、ニューヨークやパリ、東京なんかの大規模密集都市を標的にしたら、数億のオーダーで壊滅的な被害が出る。ヴァルネラヴィリティ、脆弱性というけれど、集積が進むことは、便利だし、富の現れでもあるけど、同時にそれ自体危険なことだよ。狙われたら根こそぎもってかれちゃうら。でも私は、そもそも中国が自力で核実験の成功に漕ぎ付けたという話自体、まだ半信半疑で……」
「ソ連から極秘で核弾頭の提供を受けている可能性は?」
「ないとは言い切れないけど、ソ連がそこまで下手な外交をするかな……」
「スターリンは毛沢東は日本のスパイだと疑うくらいには頭がおかしかったって話よ」
「それ本当? もしも本当だったら、それこそ核兵器を中国には譲らないのでは?」
「私の知り合いのソ連マニアは、毛沢東はソ連からブラックボックスに包まれた核弾頭を買った可能性があるって――」
「自分の売った武器で狙われているって事? そんな間抜けなこと……」
「確かに間抜けだけど、私はそれが、そこまで不思議なことだとは思わない。むしろ人間に普遍的な現象だとさえ思う」
 プレハブ小屋の向こうから、見覚えのある陰が見えた。エディストーンだ。
 エディストーンが、ティムルと連絡を取り交わしている間、ナカノセと犬吠埼は、吹き曝しの物資集積場の陰で、ここまで駆ってきた馬達に水と飼葉を与えて労った。すぐにエディストーンが呼びに来る。
「急いで。二人とも、こっちに来て!」
「なんでもやるから早くしてよ! これ以上無駄な真似はしたくない!」
「もはや無駄をしている暇なんてない。解っていると思うけど、状況は既に一刻の猶予も許さないわ。人手が足りない。これから私たちは飛行場を作る。滑走路がないことには始まらない。資材は今日中に届く予定だけど、今のところ、これしか道具がない。石を除けて平面を作って」
 国外で個人的に買い付けてきたような新しいシャベルや鶴嘴の類が数本あるきりで、必要な物はあまり集まっていなかった。
「老鉄山は?」
 エディストーンは苦い表情を作った。
「彼女はアルタイへ向かったわ」
「アルタイってどこの? 何で? 合流したんでしょうッ? 沈武は? 生きているのでしょう?」
「その話は、軍宝たちに聞くといいわ。彼らは無事よ。でも、沈武少年は老鉄山と一緒に、ヤフヤーに付いていった」
 ナカノセは怪訝な表情をしていたが、すぐに状況を察した。
「ヤフヤーは、私を助けたあとイーサー先生を探しに行ったのよ! イーサー先生はどうなってるの?」
「……生きてるわ。アルタイで羽賀少佐と一緒にいる」
「何で。でも、よかった。みんな生きてるんだ」
 エディストーンは僅かな間、沈黙した後、一段と声を低くした。
「状況はよくない。アルタイのハム人たちはイーサー・エルクの名で挙兵した」
「何で……? もっと慎重にやるはずだったじゃない」
 緑色の瞳は静かに遠くを見据えていた。
「状況が始まってしまえば仕方がないのよ。それに、あの人はハムスタンの首領だから逃げられない。彼には避けがたい人生がある。私とてあなたが納得するまで答えている時間は取れない。今あなたに出来ることは、滑走路を作ること。手際よく解ってほしいのだけれど」
 ナカノセは口の中に入ってくる砂を掌の上に吐いて、袖で拭った。
「解った。滑走路を、ここに?」
「ひとまず、距離四〇〇メートル」
「ここに?」
「そう、そこの杭から先に延ばすようにして」
「幅は?」
「幅は、一〇メートルで作り始めて」
「了解」
「これでは心許ないのだけれど、大きくなればなるほど敵機からも発見されやすくなる」
「理想は?」
「……八〇〇、いや、一〇〇〇メートル。幅は二〇メートル。それを二本。まずは一本確実に」
「了解」
「まずは石をどかして。測量機材の使い方は教えている暇がない。マニュアルがあるから自分で解って。材料を使い始める前に、一度連絡に来て。私がチェックする。可能な分は水平に気を配って」
「了解! 復唱します! 距離四〇〇メートル、幅一〇メートルで見当つけて連絡。出来れば一〇〇〇カケ二〇程度は欲しい。水平には気をつける。 以上」
「よろしい。それと犬吠埼先生」
「はい」
「あなたは自分で作った滑走路から飛び立って真っ先に帰ることになる。最終的には私たちも。パキスタンのカラチまで行ったら、その後の方針は幾らでも選択肢がある。米軍が輸送機に乗れるように手配してくれるようだけど、望むのならば民間機でも帰れるわ。それと、風のことで言いそびれたけれど、ダコタのマニュアルから、気温や風速、状況ごとの必要距離を算出してほしいの。デスパッチャー、航空気象士用の教本があるから、それを参考にやってみてほしい。気になることがあったら、早めに言って。即席の滑走路を作るのは、私もやったことがあるから、そこまで難しいことではないと思うけれど、この作戦は一度でも大きな事故を起すと、その時点で失敗に終わりかねない。消防施設が用意出来ないから、大きな火災には対応する余裕がない。とりあえずはそのくらい。今晩か明日までには応援が到着するから割り振るけど、とにかく始めて。時間がない」
 そこまで言い終えると、エディストーンは踵を返して、小屋の方へ駆けて行った。

 犬吠埼が毛糸の玉を片手にナカノセから離れ、砂の中を駆けてゆく。
「砂塵が……。これ、風が吹くと、砂で埋れちゃうかも!」
「対策は後で考える! 四〇〇カケ一〇で、水平取りに行く! そっち、ちゃんと線引っ張って!」
「ナカノセ、風向きに合わせないとダメ。北北東九度にしたいから、もっとこっち!」
「何でッ?」
「少ないけど、風向きの記録を取ってるの! 飛行機は横殴りの風が苦手だから、それを避けたい! OK?」
 東が沈み、人員も少なく、その日のうちはろくなことが出来なかった。
 翌日、ナカノセが目を覚ますと、犬吠埼は、昨晩の終業時と同じ姿勢で、風力計と流しを手に気象観測を続けていた。
「寝たの?」 
「一応。私はこれで離脱する予定だから、大丈夫だよ。ナカノセは大丈夫なの?」
「大丈夫よ。それよりも、紅卍会はどこから来るのよ?」
「明日の晩頃にはムンバイから飛行機で来るって」
「通過出来る状況なの?」
「何とかなりそうだって」
「それって、ここに着陸する気?」
「そうだよ」
「そんなの、間に合うわけないじゃない……」
「大丈夫。たぶん、最初の一機は強行着陸することになると思う。大きい石はもうだいぶ退けたから、どうにかなると思うのだけれど……たぶん」
 飛行機は、ことDC-3の軍用型ならば、荒地にも着陸可能だ。犬吠埼は、ナカノセの不安を解こうとしたが、それがはたして本当のことなのかどうか、自らの経験のうちを探しても見つからなかった。
「そんなこと本当に可能なの?」
「よくは知らないけれど、こういう状況だと割とありがちみたい。共産圏では珍しくないことだって、エディストーンが」
「まあいいわ。やれるだけのことをやろうじゃないの」
 砂嵐で霞んだ朝日の中に、三つの影が躍り出る。
 ナカノセを見つけて、いつぞやの少年達が向かって来る。あまりにも過酷な日々であったために、彼らと一緒に村で働いていた時が遥か昔の出来事であるかのように感じられた。
「あんたたち、生きてたのね」
「お前こそよく生きてたな麗麗」
「沈武はどうして」
「……沈武は鉄梅に付いてったよ」
「聞いた。鉄梅はなんで」
 少年たちは皆落胆した表情を浮かべた。
「俺達にはよく解らない事情だ。皆で説得したが、どうしても言うことを聞かなかったんだ。喧嘩になって……、あの女はバカだ……。死ぬ気だ。道案内っつったって、あんな状況じゃ死にに行くようなもんだ……」
 軍宝の尻すぼみになる言葉を、もう一人の少年が継ぐ。
「お陰でドクター・フォルチュネはマルガレッタと別れて。他人まで巻き込むことになって」
「フォルチュネですって?」
「何だ、知り合いか?」
「……会ったことはないけど、その人たちのことは、知ってる」
「お前は何者なんだ?」 
「私のことはいい。そんなことより、何故行かせたの?」
 ナカノセの不用意な言葉に軍宝の感情が爆発した。
「止めたさ! ふざけたこと言うなよ。どれだけ俺達が説得したと思ってんだ!? 死ぬような思いをして、村を出てきたんだ! こんなところで死んだら、何の意味もないじゃないか! 阿Qもババアも殺された! 残された奴らはきっと拷問に合ってる! きっと殺されている! 俺達はあいつらを無駄死ににさせる気はねえッ!」
「やめよう」
 犬吠埼が二人の間に割って入り引き離した。少年のうちの一人は、このまま死んでしまってもおかしくないような様子だ。膜の張ったような生気のない目で、掴み合う二人を傍観していた。無理もない。これまでの一連の出来事が積み重なっている。
「みんな、その話は後にしよう。喧嘩はもうやめよう。せめて最後の仕事をしてこの国を出よう」
 轟と風の詰んだ音が一帯に響き渡り、鋭利な砂粒を全身に浴びせかけた。皆一斉に目を閉じて、閉口する。
「くそったれッ」

 犬吠埼は言う。
「コンクリ練ってるから、ナカノセも来て。皆も」
 四キロも離れた先にもう一つ小屋があり、そこにはセメント樽が集積されていた。
 食べかけのパンをくしゃくしゃに握りこみながら、エディストーンが駆けけてくる。
 砂塵が更に強烈に吹き付けて、鼓膜に命中する。立っていられない。酷い天候で命の危険を感じるほどだった。ナカノセは思わず喚き散らす。
「何でこんな離れたところに作ったのよ!」
「安全のためよ。質問以外の質問は許可しない。ここのボスは私。それが解らないというのならいっそ砂遊びでもしててくれた方が助かる。解ったら、どんどん運んで!」
「これを、直接、土の上に盛るの?」
「聞こえない!」
「もんじゃ焼きみたいに?」
「やり方は犬吠埼に聞いて!」
 ふと脇に目をやると、少年のうちの一人が、風に翻弄されて、ふらふらしていた。名前を何と言ったか――。いいや、名前など最初から聞いていないはずだ。
 エディストーンは少年の様子を危うげに見た。
「小熊、来なさい。あなたは横になっていなさい」
「おい小熊寝てんじゃねえ。しっかりしろ。だらしがねえぞ!」
 軍宝は小熊少年の腕を乱暴に引っ張って、その横面を殴った。
「やめなさい」
 エディストーンは断固とした態度で首を振って、小熊の額に手を押し当てた。
「あなたは私と一緒に来なさい。皆は自分で判断して作業を続けて」
 軍宝は、エディストーンが小熊を殴るどころか抱き抱えたのを見て、信じられないといった様子であったが、水筒と菓子の入った包みを一つずつ貰い受けると、卑屈な謝意を示し、逃げるようにして元いた場所に戻っていった。






§ 五一 即席飛行場

 日が昇り、幾らか風が緩やかになり、皆それぞれの作業を黙々とこなしていたが、いざセメントを滑走路に敷き詰めようという段階になって、犬吠埼はあることに気付いた。
「あれ。これ、出来なくない?」
「何? 聞こえない!」
 ざらついた砂塵が鼓膜の中まで入り込んでいるようで、全ての音がコップを耳に当てているかのように聞こえる。
「ナカノセ、ちょっと待って。スケジュールがおかしい」
「何よ今更! もたもたしている暇はないわ!」
 犬吠埼は一瞬皆の顔を見渡して、躊躇しつつも手順がおかしいことを指摘し始めた。
「だって、これ今日の夜か明日の朝に飛行機が来るんだよ?」
「だから急いでいるんじゃない」
「でも、だって、セメントを今流し込んだら、乾いていないセメントの上に着陸することになっちゃう」
「はッ? じゃあ、どうすればいいのよ!」
「二本目の滑走路を作る方が優先されるんじゃないかな?」
「……そうよ。それからじゃないと、セメントは流し込めない」
 
 犬吠埼とナカノセが本部に使っているプレハブの中に駆け込むと、どこかへと駆け出して行こうとするエディストーンと軒先ですれ違った。
「時間がないの。急いで」
 犬吠埼は、慌てて、しどろもどろに事情を説明した。
「二本目が完成していない? 何故手順を変更したの? どうして書いてある通りに出来ない?」
 怒っても無駄だ。確認を怠ったのが仇となった。エディストーンは脳裏を巡らし、一呼吸押し黙っていたが、すぐに答えた。
「早く二本目を作り始めて。仕方がないけれど、舗装滑走路は間に合わない。セメントも限りがあるから、作るのを一時中断して」
 その時、奥の部屋から、黒いケープを羽織った老婆が出てきて「ナカノセ」と声をかけた。
 エディストーンが手短に紹介する。
「マルガレッタよ」
 ナカノセが返事をする間もなく、隣の部屋から男の声がした。
「いや、いい。それよりも先にセメントを敷く」
「パイロットが来ているから、手伝わせていい。だけどダメよ。二本目を先に。最終決定は犬吠埼。あなたに任せる」
 そう言うとエディストーンは英軍の少佐の襟章を犬吠埼に渡し走って出てゆく。それからティムルの駆る馬の後ろに飛び乗って、西の方へ駆けて行った。
 ナカノセがプレハブの中に入ると、古い病院用のベッドで大柄な男が上半身裸で胡坐をかいているのが見えた。マルチナイフを閉じたり開いたりして、しげしげと検分している。一見して欧米人、丸刈りで筋肉質。粗野な身なりだが、新調品のコンバットブーツだけは輝いている。間違いなく兵士の部類である。前線に出る種類の人間だった。
 男は、マルチナイフについている刃を全部出して、親指と人差し指でつまんで目の前で弄びながら、こちらには目もくべず言う。
「俺の名はマックス・メスカリン・ユンガーだ。どこの国にも属さない戦闘機パイロットをやっている。ここでは准尉待遇で航空技術の一切の監督責任を任されている。無論君たちよりは遥かに専門家だろう。作業を続けろ。時間がない。先方の飛行機が離陸した。問題なければ」
「今ダメって言われたばかりじゃない。何がどういいというの?」
 ナカノセが間髪入れず突っかかると、男は何だと、片眉を上げて目を怒らせた。
「……あれは速乾タイプだから、半日あればいいんだよ。最悪、生コンの上に着陸したとしても、壊れはしない」
 マックスがベッドから起き上がろうとすると、頭に塗炭製の棚が当たり、ゴンと鈍い音が鳴った。
「こんなとこにクソみたいな棚を置くんじゃねえよ。クソが」
 そう言うとマックスは春巻きみたいな調子で毛布を巻き込んで寝転がってしまった。
「はん? 起きなさいよ!」
「オレは休憩中だ。許可されている。三日三晩寝る暇なしだったぜ。クソッ。カザフの土着民ども、オレのエンジンをどこにやりやがった? ぶっ壊してたら承知しねえぞ!」

 ナカノセと犬吠埼が仕方なしに建設現場に戻ってきて、生コンを、よく解らぬまま地面に撒き始めると、マックスがすっ飛んできて怒鳴り散らした。
「バカ野郎! 言わんこっちゃねえ! 誰が砂の上にそのままぶちまけろっつった?」
「解ってるなら、指示を出してよ! あんたが責任者なんでしょう?」
「充填マダカム法で行く。こうだ。こう! 口に石を入れてみろ!」
 皆、顔を見合わせながら、脇に寄せた石を拾って口元に持っていった。
「バカ野郎! 本当に石を食べる奴がいるか! 何だお前たちは、素人か? 素人だなどう見ても!」
 充填マダカムは古典的な道普請の方法だ。口に入る程度のサイズの石を敷き詰めた上に、アスファルト等の充填材をローラーで敷き詰めて圧縮して頑丈な道路を作るものである。
 バカ野郎とクソ野郎を連発する悪質の指示の元、見よう見真似でやり始めるが、皆半信半疑で手が進まなかった。
「これ間に合わなくない?」
「エディストーンに相談を……」
「いい。うるせえ! 飛ばすのはオレだ! ちゃっちゃとやれ!」
 マックスは荒っぽく怒鳴りたてると、ついでとばかり、鶴嘴を思い切り遠くへ投げ飛ばした。堪えしょうがなく、少し気に触れば、そのまま人の腹を抉るぐらいのことは平気でしそうな男だった。
 実際、少年二人は、その態度に腹を立てたか、警戒したか、ポケットの匕首に手を忍ばせていた。
 現地で集めた人足たちも集まってきて、自然と周囲の者たちに囲まれる形になる。マックスはようやく状況を察したのか、半笑いを浮かべて、退屈そうに、けらけら笑った。
「おい。まあ落ち着けよ。チャイニーズ。お前ら。そんなことより、本当にここに飛行機が来るんだろうな? オレの予約はスピット・ファイアⅨだからな。クソ重いエンジンあやしながら遠路遥遥このオレ様にヒンドゥークシュの山の中を地球に線が引けるほど歩かせたんだから、今更ないとは言わせないぜ」
 ナカノセは見たことのない人種に首を傾げる。無鉄砲な若者というには、やや歳をくっており、しかしその内容は、ともすれば駄々をこねる三歳児のようである。
「何なのこいつは」
 ナカノセは改めて訊ねる。
 犬吠埼は「マックスさん……」と呟いたが、よく知らないと、首を竦めた。危険に狂った男であることは確かで、うかうかしているとちょっとした拍子に殴られかねない調子だった。
 マックスは気を取り直すとまたすぐに悪態をついた。
「眠いのに眠れもしねえよクソが。ちょっと煙草吸わせてくれ。こんなんじゃ、落ちつかねえよ……」
 ナカノセはマックスに訊ねる。
「ダコタを飛ばしたことは?」
「ダックだ。ダックは問題ない。戦闘機に比べれば貨物機なんてものは大したものじゃない。オレは本音の話、逃げるよりも戦うべきだと思っている。輸送作戦の後は、そのまま地上で革命戦線に加わるつもりだ」
「何故?」
「ぁあ?」
 煙草の紫煙が風の中に一瞬のうちにほどけてゆく。
「言っちゃ悪いけど、ある意味、あんたそこまで関係ないじゃん? まあ、私もかも知れないけど」
「お前のことは知らんが、オレには関係云々が関係ないんだよ。生まれつき何も関係ねえからな。第一、オレは逃げるのは嫌いだ。それ以外は必要ない」
「男前じゃん」
「当たり前のことを言うな」
 ぺっと煙草の吸殻を口から跳ね飛ばすと、遠く彼方まですっ飛んでいって砂と風の中に消えた。
 マックスは言う。
「この近くにスピットファイアが二機ある」
「どこにあるの?」
「知らん」
「どういうことよ」
「機密だそうだ」
「あんたが飛ばすんでしょ?」
「そうだ。乗り逃げされるとでも思っているんだろうよ。ちっとも教えてくれない」
「本当にあるの?」
 ナカノセが訊ねると、マックスはほとんど地団駄を踏むような態度をとった。
「おい! どれだけかかって、エンジンを運んできたと思ってんだ?」
「あんたが運んだの?」
「そうだ」
「何のために?」
「飛ぶためだ。スピットファイアがあるっていうからここまでやって来たんだぞッ?」

 遠くの方で京劇の音楽が混ざっている。中共軍のジャミング。攻撃目的はここではないが、恐らくはソ連軍を相手に電波妨害をしていた。電波の届きやすい夜を狙って各方面への通信を試みていたが、依然として入りは悪かった。ラジオを通じてイーサー・エルク名義でアルタイからの挙兵が宣言された以後は鳩も途絶していた。
 その日の暮れ、二本目の滑走路を作っている最中、着陸二十分前になってようやく飛行機が来たとの連絡が入った。予定より早い。ナカノセたちは事故の元になりかねない大きな石から順番に何回かに別けて排除してゆき、凹凸を均すという作業を繰り返し、最後の石拾いの段階に差し掛かっていた。
 一方で充填マダカム工法で作られた第一滑走路はまだ乾ききってはいなかった。通常、冬季のコンクリの凝固は夏季よりも時間がかかる。
 かくして、落ちる夕日を跳ね返して輝く飛行機が地平線の向こうからやって来た。即席飛行場の上空を周回し始め、エディストーンは最後の管制指示を出すと、松明を手にとって自ら飛行機の誘導を始める。
 滑走路は舗装をしていないB滑走路を指示した。問題なかろう……。しかし問題は起きた。
 パイロットは、直前になって針路を変更し、A滑走路を選んで着陸した。ビシャビシャと音を立て、まだ生乾きのコンクリートが飛沫上げて周囲に飛び散る。一仕事増えた。
 急編成の医療小隊一個とともに沖ノ島が風に煽られながらタラップを降りてくる。
「状況は?」
「見ての通りよ……」
 エディストーンは、飛行機の方を見て顎をしゃくる。ランディングギアの走った跡に沿って深い轍が刻まれ、飛行機の腹や翼にもコンクリが大量に跳んでいた。
 エディストーンはすぐに指示を飛ばした。
「ナカノセ、滑走路の修理を始めて! マックス、あなたは責任を持って飛行機についたコンクリを残さず拭き取って!」
 間もなくしてパイロットが降りてくる。パイロットは元米海軍中将。今はマーティンの腹心の一人で、航空部長を務めるグルーエンサー。副パイロットはまだ二十代そこそこで若い。
 グルーエンサーは言う。
「積荷の半分は医療物資で、残りは主に航空ガソリンだ。まさかこんな着陸をすることになるだなんて、肝を冷やしたぞ」
 方々に不満は幾らでもあったが、急場である。だいたいこの水準でやむを得ない。大きな事故もなく最初の着陸に成功出来ただけでも良しとせねばならなかった。
 紅卍会の看護婦を中心とした医療小隊二十人に向かって、沖ノ島は言う。
「皆、疲れていると思うけれど、もう一仕事お願い。荷物を全部降ろすわよ!」
 グルーエンサーは飛行機のタラップに駆け上がろうとする沖ノ島を止めた。
「ここは私がやる。看護婦たちを置いて、あなたは自分の仕事をしに行け」
「お言葉に甘えさせて頂くわ」
 グルーエンサーは暗がりの中を見回してエディストーンに訊ねる。
「マックスの奴はどこに?」
「そこにいます」
「あいつを借りる。問題起こさずに、大人しくしていたか?」
「お利口さんですよ。彼にしては」






§ 五二 犬吠埼の夢

 ナカノセたち滑走路建設チームは、休憩と連絡を兼ねて交代で夕飯を食べに戻った。
 ナカノセは天幕の中のテーブルの上に並んでいるナンのサンドウィッチを掴むと、すぐに戻ろうとしたが、会議室に誂えた倉庫の脇で立ち止まった。ナカノセは、守衛の見張っている入り口を迂回して、建屋の背後に回った。それから二メートルほどの高さのところに、僅か五ミリほどの隙間を目敏く見つけた。
 ナカノセは積んである木箱を引っ張ってきて、その上に登り中を覗く。エディストーンが見えた。他には彼女と面識があると思われる国連職員らしき男、アフガニスタンの役人、地域有力者の長老たちがテーブルについて会食をしていた。
「断わるとどうなる?」
「君たちの目論見は自ずから崩壊することになるだろう」
 視界に入らない、ナカノセの近くの席にも誰かいるらしく、声が聞こえてくる。
「君は残れ。手伝ってやるといい。一から教えてやれ」
「一人で大丈夫ですかね」
「君なら大丈夫だ」
「いえ、あの、」
「何だ、私を心配しているのか? 君は確かにいいパイロットだが、私は君の十倍は飛行経験があるんだぞ」
「それは失礼しました」
 飛行機の話をしている様子だったが、グルーエンサーたちではなかった。
 解散――。エディストーンと沖ノ島だけが部屋の中に残る。

 暫くの沈黙の後、エディストーンが切り出す。
「イーサー・エルク救出部隊というよりは、説得部隊になるわ」
 ナカノセの近くから沖ノ島の声が返ってくる。
「どうやって説得する気?」
 エディストーンは手を組んでコーヒーの描く渦を睨む。
「あなたの亡命成功が、ホーム建設予算が下りる条件であり、あなただけの問題ではないと……。CIAはイーサー他、救出分の身分保障はすると言っている。中学校の建設もそれ次第。あなたに死なれるわけにはいかない……」
「ありえない。彼ならこう言う。もしその信義があるのなら、ただ実行せよ」
 沖ノ島は指をふって演説するイーサーの素振りを真似てみせる。エディストーンは、沖ノ島を正面に据えて黙り込んでいた。
 沖ノ島は訊ねる。
「老鉄山の消息は?」
「言った通りよ。アルタイに向かった。ブラナ峠まで向かうことは強く嗜めたけど、無理。彼女はアルタイとブラナの間のどこかにいるわ」
「どうして行かせたの?」
「あの子を行かせたのはあなたよ」
「そうね……」
 琺瑯のカップにスプーンが触れる音が響く。
「阿Qが生きている見込みは?」
「解らない……難しいわ」
 外の暗がりの中、ナカノセが木箱の上で目一杯伸び上がると、沖ノ島が十字を切るのが隙間から見えた。
「あなたの意見を聞かせて。ナカノセ」
 沖ノ島の位置からはほとんど死角である。驚異的に鋭い勘に驚きつつも、ナカノセは木箱から降りた。ナカノセが走って正面に回り込んで来ると、入り口で警備していた歩哨たちが驚いて一斉に銃を構えた。要人を送り出した後だったので彼等は慢心していた。実際、環境が環境なので、下手に動くと味方であっても危ないのだが、その場はエディストーンが諌めた。

 ナカノセがテーブルにつく。歩哨たちに引っ叩かれた上に随分罵られて、その表情はしかめっ面だ。
「CIA抜きでいけないの? 金弦のマーティンは? 金はマーティンが出せばいいじゃん」
 エディストーンは呟く。
「CIA」
「ええ?」 
「あの人がCIAの資金提供者なのよ」
「CIAもマーティンも抜きでいけないの? あまり素性のいい連中じゃないけれど、私にも、少しぐらいは伝手があるわ」
「CIAを外すならば、政府の許諾がおりない。これだけのことを、国家介入抜きで強行するのは厳しいわ。最悪日本政府を押し切ることは出来ても、アメリカは無理よ」
「その計画って、エリザベス・サンダースの遺構を利用してやるんでしょ。だったら、移民先は日本じゃん。アメちゃんは黙っときなさいよ」
「全てはGHQの肝煎りで作られたのだから、アメリカがこの状況を黙って見ているわけがない――」
 また暫くの沈黙。三人とも黙って目を瞑っていた。
 ほとんど寝る間もなく、また明日から働き通しになる。このペースでは、そうは持たない。
 この後、誰かが呼びに来て、エディストーンは天幕を出て行った。
 ナカノセは、沖ノ島にはまだ聞きたいことが沢山あったが、何か言おうとした瞬間「少しでも眠っておきなさい」と言われた。
 ナカノセがうとうとしていると、エディストーンがすぐに戻ってくる。
 エディストーンは、二人を間近に引き寄せて短く伝える。
「イーサーの生存確認の裏が取れた。羽賀少佐も無事よ」
 沖ノ島は椅子を引き寄せて声が外に洩れないようにして訊ねる。
「状況は?」
「詳しいことはまだ解らない。これから私は交渉に出向かないといけない――」
「どこと?」
「それよりも、とんでもないことが、」
 エディストーンが青い顔をして何かを言いかけた時、外から扉をノックする音が聞こえた。犬吠埼だった。エディストーンは席を立ち上がって、犬吠埼を招き入れた。
「早く入って。話がある」
「……何があったんですか?」
「核が使われた」

「どこで……」
 皆がほとんど同時に声を発したが、それは、あまりにも呆気ない響きだった。
 エディストーンは、しっと鋭く指を立てる。
「難民の証言を得た。証言者はアルタイから先の抵抗線陣地の近くに住んでいたのだけど、見たこともないほどの巨大な爆発が近くであったと。米軍の衛星写真を証言と突き合わせている最中よ。直撃は受けていないようだけど、かなり大型の爆弾を使ったのは確実。ソ連側の情報では、偵察機が強い空気振動を受けて、アルタイ上空からでも爆発が見えたと……」
 その時、もう一度強いノックがあって、見知らぬ男が天幕に入ってきた。
 恰幅のいい中年のインテリ。一見して情報機関員か外交官だ。研究者とはちょっと違う禍々しさを感じ取ってナカノセと犬吠埼は警戒した。
「夜分失礼。新しい情報が来たぞ。初めに中国政府は予想外の声明を発表した。対米コミュニケだ。核を使ったのは、やむをえず、限定的に威嚇射撃としての戦術核を使ったに過ぎないとのこと――。インドにいる君の仲間が、中国が核を使ったという情報を流したのを中国政府が真に受けた形だ」
「言いがかりよ」
「信じられないことというのは起こるものだ。悪いことに関しては特に」
「何てことをしてくれたのよ……」
「ことをしたのは君のお仲間じゃなくて中国だな。旗色が悪いと見るや否や、中国政府はすぐに核実験をやったという形に声明を変えた。核実験中に、ハムスタン暴動が起きて、立ち入り禁止地域に立ち入った者がいるとか。つまらない辻褄合わせだ」
 犬吠埼は戸惑った様子で確認をとった。
「あの、え、なんですか。それって、デマがデマではなくなってしまったということですか?」
「ああ。藪蛇だよ。しかし昨今の状況では意外とまでは言えない。偶発核戦争は起こりうるということだ」
 エディストーンと犬吠埼は国際的な支援を集めるために核問題とからめた中継を行おうとしている最中であった。
 男は言う。
「私がここに来たのは他でもない。そのことだ。テレビ放送はやってくれるな。中止だ。金は出そう。安全も約束する」
 犬吠埼が誰何する。
「あなたは?」
「私はCIAのエイブラハム・グリーン。この問題の担当をしてる。まあ、そう硬くならず。エディとは十年来の知り合いだから、安心してくれて構わないですよ」
 その後、犬吠埼とエディストーンを残して、沖ノ島とナカノセは席を外すことになった。
「……君もだエディ。少しの間席を外してくれ」
「何故私がいてはならないの?」
「君は嘴を入れすぎる」
「当然でしょ」
「当然じゃない。私はこうして一人で来ているんだ。私は彼女と話がしたい」
 エディストーンは長らく食い下がっていたが、結局エディストーンも席を外すことになった。

 エイブラハムは緊張して固まっている犬吠埼を正面に見据えた。色つきの眼鏡の向こうから、鋭い瞳が覗いていた。
「さて、当局はハムスタン難民の受け入れを検討しているが、そのために、幾つか条件がある。犬吠埼博士には、核問題に関する研究から手を引いてもらいたい」
「私の研究と、難民受け入れに何の接点があるというんですか?」
「あなたがここにいること自体が全てを物語っているとは思いませんか?」
「私は核問題の専門家ではありません。本当は気象が専門で……」
「あなたのお父様は、気象学者であったが、広島と長崎のその後の人体への影響をずっと追跡調査しており、核問題の専門家だった。そして、あなたもやはり気象学者で、ビキニ環礁水爆実験の調査をしていた。世の中一般にはあなたの評価は核科学者ですよ。規制派のね……」
「仮にそうだとしても、何の関係が。手を引けといわれても、何のことを指しているのか」
「時間はあまりない。単刀直入に行きましょう。核に纏わる全ての問題に関して、以後何も言わないで生きていってもらいたいのですよ。あなたには。特に今は広島、長崎、ビキニ環礁、ハムスタン、セミパラチンスク、これら五つの地域。社会があなたを見る目も決して穏やかなものとは言えない。日本にいた時は、あなたもだいぶ懲りたはずでしょう」
「……要領を得ないのですが、あの、広島、長崎、ビキニ環礁は言わんとすることが解ります。しかし、ハムスタンやセミパラチンスクのことを何故CIAが」
「平和のためです。アルタイの人々の命がかかっている」
「あなたの要求には中国の意向が含まれているということですか」
「それは私から言うことではありません。情勢に関する了解は博士の賢明なる判断にお任せしたい。むしろ私がお伺いしたいぐらいでしてね」
 犬吠埼は、素早く状況を察した。
 中国かベトナムから手を引く条件として、アメリカがハムスタンから手を引く。その条件として、アメリカはハムスタン難民を受け入れ、この地域で活動しているNGO組織を撤退させ、アメリカでもロビー活動をさせないことを中国側から要求されている。
 そんなところか――。
 両国の共通点として、核実験における被害を宣伝されることを望んでいない――。

 エイブラハムは言う。
「解って頂きたいのは、中国政府はハムスタンを血みどろにしたいとは思っていないということです。無論我々もです。死んだ人々はかえってこない。今生きている人たちを救い出すべきだ。私はそう考える。リアリストとして」
「私が断った場合はどうなるとお考えですか」
「あなたたちが無理をすると戦線が拡大する。戦争を焚き付ける結果になり非常に危険だ。いや、既にそうなっているのだ。このままでは、中国はカザフへの攻撃をせねばならなくなる。カザフはソ連邦だ。ソ連とて黙ってはいられない。今の静観が、まだ動き出さないのが不気味なぐらいです」
「その時のアメリカの対応は?」
「真っ先にはフェニックス航空の活動を中止させることになるでしょう」
「……どういう詳細だか知りませんが、私が、仮にここで、手を引くという選択をした場合、つまり、中国はハムスタン難民がアメリカへ輸送されることを黙認する。ということですか」
「私とて全てを知っているわけではありません。しかし、あなたは比較的鋭い判断をしていると思います」
 エイブラハムはそう言うと、眼鏡のフレームを両手で持ち上げて、充血した眼に合うように微調整をしていた。
「……待って下さい。アルタイの件は、核問題と絡めるべき問題ではないではないですか」
「そうとも言えるかもしれません。しかし必ず絡んでくることになる。世論は今それでしか動かない。イーサー・エルクが日本へ密入国して、わざわざ核問題の会議に顔を出した。日本へ亡命するのかと思ったが、驚くべきことに彼はここに帰ってきた。この状況下で。核は彼らを襲っているかもしれないが、それは彼らを苦しめる問題の一つに過ぎない。しかし世界は違う。栄えある核の犠牲者としてしか彼らに興味を持たないからだ。彼らは、日本や欧米の反核組織と手を組みたがっている。もしも、イーサー・エルクと生涯接点を持たないで生きていくことが出来るというのならば――」
「殺すんですか。私の父みたいに」
「困りましたね。あなたは私たちを人殺しだと思っている。私は、このままだと、交渉は不首尾に終ったと報告せねばならないのですよ」
 犬吠埼はコーヒーを飲もうとしてカップを上げたが、中身は既に空だった。
「待って下さい。仮に、私が、ここで承諾したとしましょう」
 犬吠埼は慢性的に眠気でまどろんでいる頭を捻った。
「アルタイの人々のその後の保障はどのように?」
「あなたが黙り続けている限り問題はありません」
「誤解しています。私はそこまで影響力のある存在ではありません。父ほどの学者ではありえませんし、なる可能性もない」
「そうあって頂けることは、我々としても望ましいのですが、あなたは、石橋を叩きながら、結局とんでもないところまで踏み込んできてしまう。父上にはよく似てらっしゃる。嫌いではありませんが、私は、好き嫌いで仕事を出来る身の上ではないのですよ」
 やはり父はこいつらに殺されたのだ。犬吠埼は吐きそうだった。自分も一生こんな奴らにマークされて生きてゆく羽目になるのだ。母まで。そんな約束を誰がするか。
 犬吠埼は頭に血が上って返事を少々間違えた。
「仮に、私がここで、承諾したとしましょう。その後私が約束を守らなかった場合のペナルティは?」
「感心しませんね」
 男は残念そうな表情をした。
「それは全く、感心しないです。私たちは約束は守ります。私は人にもそうあってもらいたい。いいですか。私は、脅迫しているのではない。あなたにイエスかノーかを訊ねているのです。しかし、イエスと言ってノーをやるような真似をされると。何が起きるか。それに関しては私の仕事の範疇にはないのです。我々はリアリストであって、拗ねた子供ではないというだけの話です」

 ことが済むと、外で待っていたエディストーンが、エイブラハムとすれ違うようにして天幕の中に飛び込んでくる。
「どうだった。何を言われたの」
 犬吠埼は放心したようにしてテーブルを前にして身を屈めていた。
「核問題から手を引けと……。私が断った場合、作戦が失敗する。私のその後もそう芳しいものではないと。フェニックス航空が真っ先に運航を停止すると……」
「あなたはマークされている。どのみちあなたは一人ではいられない。戦うなら、イースターの正会員になることでしかやってゆくことは出来ない。まだ私たちと一緒に戦う気はある?」
「最悪の場合……」
 エディストーンは、僅かに眉を寄せ、首を横に振った。
「……困るわ先生。私はあなたの死に顔なんて見たくはない。お母様を巻き込みたくないのでしょう? ここを離脱した後、どうする気でいますか」
「……母と、料理屋さんをしようと思っていて。昔からの夢で。私が科学者のあとを継ぐのは父の願いだったんです。本当は男の子が欲しかったんです。父は。でも、私は大切にされて育った。母は、ただの母さんです。でも、とてもいい人なんです。彼女を置いてけぼりにしておくのは私のやるべきことじゃないし、話はむしろ合うんです。父はもういませんし、科学者はもうやめてもいいかもしれないと思っていたのです」
「決めたわ。あなたは既に十分貴重な貢献をしてくれている」
「でも」
「あなたが抜けても我々は戦う。ハムスタン核問題に関する追求もやめはしない。しかし、私は関係者の安全を最低限保障する義務がある。あなたには生きて返すと約束した」
「いいんですか。こんな、私一人のことで」
「私はモラリストよ。約束は守る。一人の問題を蔑ろにすることは出来ない。私の人生において出会う者ならば尚のこと。あなたが表立って事物を傍証しない限り、彼らも約束を守るわ。恐らく。だけど、リアリストは最終的には嘘をつくから気をつけなさい。リアリストというのは、エゴイストの自称よ。人が殴られているのをリアルだと思えば、リアルだと言うし、人を殺せば、殺したのはリアルなことだと言うに過ぎない連中。私の敵」
「最後まで役に立てなくてすみません」
「いいえ。実を言うと、あなたがいなかったら、飛行機は飛んでこなかった。マーティンが飛行機を出すと言っても、CIAが許しはしなかったでしょうね」
「んん? それは沖ノ島さんでしょう?」
 犬吠埼は不意に自分が話をきちんと把握しているのか不安になった。
 エディストーンは言う。
「CIAはあなたをずっと追っていた。彼らは早期の解決を望んでいる。それがたとえ欺瞞になろうとも。あなたが抜けるのは長期的に見れば痛手となるけれど、戦争が始まってしまった今、私たちとしても飛行機を失うわけにはいかない。あとの話は私がつけておく」
「はあ。すみません……」
「私こそあなたに謝らなければならない」
「何をですか?」
「全てを語るわけにはいかないことを……」
 犬吠埼は核を巡る国際政治のバーゲニング・チップになってしまっていたであろう。犬吠埼は不安そうな目の色を浮かべたままぽかんと口を開け、エディストーンは険しい表情で口を噤んでいた。
 それから翌々日、DC-3の二号機と三号機がキャンプに到着した。犬吠埼は、カラチへ戻るDC-3一号機で帰路につくことになった。
 エディストーンは言う。
「人殺ししか生き残れないような戦場にも守るべき倫理はある。さあ。時間よ。無事に帰って。あなたに死なれると、私の士気に影響する」
 エディストーンは風の中、自らの両掌を開いて目の前を包むように掲げ、遠くを見ていた。
 犬吠埼はふと、物の本で読んだKGBの自称としての「子供の国の隣の者」という皮肉な物言いを思い出していた。彼女が本物であればあるほど人を殺したことがないなどということはありえないのであろう。そんな人には見えないのに。しかし、それでこの世界を戦ってこれたわけがないのだ。アルタイの科学院で会った小母さんも。
 犬吠埼はやっとで口を開いた。
「……私も、私も、あなたに死なれると、私の士気に影響します。また会いましょう」
「ええ。必ず」
 塞沙村から来た少年達、軍宝、李傑、小熊こと姜勇の三人も犬吠埼と共にこれを機に戦線から離脱した。






§ 五三 Fロマンチック

 馬に牽かれた台車が軋みながら向かってくる音が聞こえると、マックスはベッドから飛び起きて、誰よりも先にそれを自分のものにするために走った。
 かくして彼の予感は的中した。英軍戦闘機スピットファイア。日中戦争期に中央アジアで使われたその存在は嘘ではなかった。陸路で運び込んだエンジンや部品で大幅に改修して使える状態に戻したものが、この砂漠には二機存在していた。
 マックスが忙しなく機体の隅々を確認する。
「いいじゃねえか。上出来だ。こいつは飛行テストは済んでいるのか?」
「まだだ。勝手に触るんじゃない。何だてめえは?」
 戦闘機を運んできた人夫頭は、マックスを戦闘機から剥がそうとするも、マックスは、無言で払いのけるばかりで、蝿ほども相手にする気がない。
「後はいい。後のことはオレがやる。そしたらこれはオレのものだ。お代は報酬から天引きしてくれ!」
 操縦席に乗ってくるという子供じみた真似をした仲介人がキャノピーを開けてノソノソと這い出てきて、マックスに言う。
「先に言っておくが、整備は万全だ。それをすぐに確認して欲しい。そしたら、今この場で支払いをしてもらおう」 
 仲介人とその護衛たちは、薄汚れた継ぎ接ぎだらけのトレンチコートを羽織っている人夫とは対照的に、毛皮のコートを着込んでいて身なりがよかった。
 二番手でエディストーンが駆け込んでくる。
「御代はテスト飛行が済んでからよ! もう一機はどこに?」
「まず、今ここで代金を払ってもらう」
「二機ともテストをしてから払うわよ。もう一機はどこに?」
「いや。もう一機は報酬を払ってから持ってくる」
 話が違う。仲介人の不実な態度にエディストーンは怒った。
「ふざけないで! あなたの言うような約束はしていない! もう一機は不調なのね」
 エディストーンは二機目はまともに飛べない状況にあると踏んだ。
 仲介人は言う。
「私は詳しいことは知らんが、何にしても金は払ってもらうぞ。米ドルと契約時の地金で半々で立てると約束したはずだ」
「それは約束した。しかしテスト飛行が済んでからよ。何故もう一機運んでこなかったの? 状況を解って欲しい。戦争を目前に下手な駆け引きなどするものではないわよ!」
 エディストーンは連日の不眠不休で流石に疲れきっていた。すぐに沖ノ島が後を引き継ぐと言って出てきて、グルーエンサーたち飛行要員も集まってくる。

 その間にも、慌しく四機目の輸送機がキャンプに到着する。マックスの言うところの四機目のデブ、フォアグラこと、C-46コマンドー輸送機。予定されていたスピットファイアの三号機と四号機のムンバイ経由の輸送は、政情不安を理由に中止された。フォアグラはその代わりらしい。
 主力であるDC-3とスピットファイアの両方を操縦出来る二千時間級のベテランパイロットも来ていたが、彼等は戦況が厳しくなったのを理由に、大幅な報酬カットを受け入れて帰っていった。
 マックスは罵る。
「定期便旅客機のパイロットになりたい? お金がないけど大学に復学したいだ? そんなだったら最初からホモ学部の教授のケツでも舐め回してれば良かったじゃねえか。根本的なところが解ってねえ……」
 エディストーンは渋い表情でその機体を見ていた。
「まずいわね。これをどうしろというのよ……。パイロットがいないんじゃ飛ばせない」
 マックスは楽しげに飛行機を見て回りながら言う。
「オレは歓迎するね。バカがいるよりは飛行機が多いほうがいい」
「パイロットが足りないのよ!」
「オレがやるよ」
「あなたにはライセンスがない」
 飛行機は機種毎にライセンスがある。飛行機が飛ばせれば、何でも飛ばせるというわけにはいかない。
「それなら大丈夫だ。ライセンスは紙切れに過ぎない」
「疲れる。いい加減、バカばっか言っていないで」
「オレは馬鹿なことなんて一言も言ってない。免許なんて持っていたって事故を起こす。実際そうだろ? 物事が解らないクソばかりなんだから、免許なんていらねえよ。あれは紙だよ。バカのクソ拭きだ。飛べる奴が飛べばいいだけじゃないか」
 エディストーンはマックスの抗弁を全て聞き流し、すぐに気を取り直した。あり合せでやるしかないのだ。
「スピットファイアの飛行テストを始めて」
「ああ。すげえ曲芸飛行見せてやるから、写真を頼む!」
「言うこと聞かないと対空機銃で撃ち落すわよ」
「ひっへへ、あんたも、少しは冗談が解るようになってきたな!」
「もう少しマシなパイロットが必要だったのよ。あなたには成長してもらうしかない」
「オレがこれ以上成長すると何になってしまうんだ?」
「ただの大人になるのよ。それがどれだけ難しいことかあなたはまだ解っていない」

 カーベル1ことスピットファイア一号の離着陸訓練の後は、試験を兼ねて難民の情勢確認をするために国境を侵犯した。それから休む間もなくブラナの偵察に出た。上空三〇〇〇メートルほど上がっても折からの砂嵐のために視界が悪かった。難民らしき小隊がぱらぱらとキャンプへ向かってくると報告したのを最後にマックス機の連絡が途絶えた。
 最悪である。迷っている暇はなかった。短い議論の後、グルーエンサーがDC-3にてブラナの塔を探しに出かけた。しかし、やはり、地上は砂嵐で荒れ、時には地上物が何も見えなくなるというありさまで、何も見つけられないで戻ってくることになった。夜になれば砂嵐は少しは落ち着いたが、今度は光がないために見つけ出すことが不可能になるというジレンマだった。
 DC-3による二日に渡る六回の偵察の後、避難民と共に馬でキャンプまで戻る途中のマックスを発見した。グルーエンサーのDC-3機は砂漠への着陸を敢行し、彼らをピックアップして戻ってきた。
 エディストーンはこれ以上ストレスを貯めんとして、務めて押えた調子で言う。 
「よく無事に戻ってきたわね」
 グルーエンサーは言う。
「いいや。気遣うのはもったいない。こいつの話を聞くと無事なのはこいつだけのようだからな。説明しろ。洗いざらいを詳しくだ」
 マックスはばつが悪いのを取り繕うようにして神妙な調子で話し始めた。
「閣下には既に飛行機の中で言ったように、状況を見てきたまで……。イーサーとヤフヤーの主力部隊一万はアルタイでまだ抗戦しているが、もう限界だ。兵糧が尽きている。撤退しようにも、城外に中共軍の陣地が引かれていて身動きが取れない」
「あなた、まさかアルタイに降りたの?」
「そのつもりはなかったが、燃料漏れに気付いて降りた」
「嘘をおっしゃい! ブラナを見つけられなかった段階で何故戻ってこなかったの? 片道で燃料使い切ってアルタイまで行ったのでしょう? その後どうするつもりだったの」
「着陸出来なかったら、どうするつもりだったんだバカ野郎!」
 二人の憤怒を買い、マックスは流石に身を縮こませながら答える。
「パラシュートを積んであったから、そんなに気にはならなかった」
 グルーエンサーは吐き捨てる。
「こいつには今後パラシュートをつけるな。頭がおかしい」
「しかし、真の男というものは少々頭がイカレているものだと……」
「あなたが死ぬだけじゃ済まない。貴重な飛行機も失われる。その結果作戦に支障を来たす」
「こいつの処分はどうする」
「七階級昇進ですかね……?」
「営倉よ」
「来い。この、バカ野郎!」
 警備を請け負っているカザフ人の男たちが、マックスの脇に腕を差込み、部屋から引きずり出してゆく。
「燃料漏れはオレのせいじゃないぞ! 城内の大通りに強行着陸した。負傷者も多い。物資よりも、爆弾を積ませたい!」
 机の上で腕を組んだままエディストーンは言う。
「そんなことは出来ないわ。きれいごとで言っているわけではないの。そんなことをすればあなたは第三次世界大戦のガヴリロ・プリンツィプになるわよ」
「ハムスタンはそれを望んでいるはずだ! それ以外に連中に活路などはない! 城内に残る将兵一万と一二万の民間人は決死の覚悟だ!」
 マックスとすれ違うようにして偵察に出ていたティムルが飛び込んでくる。
「おい! ジュンガル勢を中心に約五〇〇〇人の規模がこのキャンプに向かっている。もう、すぐそこまでのところまでに来ている! 五〇キロ先だ! 今日か明日には着くぞ!」
 二日に渡り地上を偵察してきたグルーエンサーは虚をつかれた思いだった。
「どっから現れたんだ? 空からは全く見えなかったのに……」
 エディストーンはますます無表情になって立ち上がった。
「これから先はもう眠れないわ。みんな覚悟して。グルーエンサー閣下。あなたは寝て下さい」
 ドアの縁で食い留まっているマックスが言う。
「ああ、そうだ。追加報告。昨日アルタイを出た直後に、ミグと思しき機体を見た」
「何故言わなかったの。詳しく説明して」
「営倉は取り消しで?」
「説明をして」
「一先ず煙草が吸いたいんですが……」
「あなたに相応しい寝床があるからそこへ行きなさい。ボヤを出すんじゃないわよ」
 マックスは何故か自分から進んで鉄格子の機材ロッカーの中に入り、上から鍵を閉めてくれと頼んだ。それから、一部始終を事細かに話し始め、看貫しかねる事態が明らかになった。

 不時着したスピットファイア一号は応急処置の上、残っていた僅かな燃料を使ってアルタイの城壁をカエルとびした――。その際、エンジンが故障している旧日本軍の小型連絡機プスモスを曳航しており、両機は、アルタイの包囲網を越えたあたりの砂漠に捨てて帰って来たという。帰りはたまたま出くわした避難民の小隊に拾われた――。
 エディストーンは睨む。
「飛行機を自転車の乗り捨てのようにしたのね……」
「仕方がなかった。ハムスタンの元航空兵のオッサンを後ろにくっつけて、飛んだが、その後、クソ中華どもに追い掛け回されて、離れ離れになった。プスモスとかいう、日本製の飛行機だ」
「ハムスタンに航空兵なんていないわ……」
「でも、オッサンは、ダックでの飛行経験があるって言っていた。ムササビ作戦だとか言って。あのポンコツを出してきて、勝手にスピットの尻尾にくくりつけやがって、何だお前は? って聞いたら、ボロキレみたいな背広をバタバタさせやがって、オレはムササビだって。ははっ。近くに大砲ぶち込まれてるあの最中でよ」
 沖ノ島たちと一緒にコンテナを天幕に運び込んでいて、偶然この捕り物に居合わせたナカノセが口を挟んだ。
「それ、イーサー先生。間違いない!」
「イーサーがそんなこと、」
 エディストーンはそこまで言いかけたが、沖ノ島は軍手を外すと、その肩に手を置いた。
「やりかねないでしょ」
「やりかねないわ……」
「確証はあるのか?」
 グルーエンサーは納得しかねていたが、ナカノセは確信を持って答える。
「イーサー先生よ。イーサー先生って、猫とか犬よりも、ネズミの方が好きみたい。来賓用の座布団盗んできて、ムササビとかモモンガとか言って、投げ飛ばしてるうちに、泥の中突っ込んで、ママちゃまに怒られたんだわ。はは」
 エディストーンは、この国の首領の稚気に頭を抱えた。
 グルーエンサーは尚も半信半疑の様子で言う。
「イーサー・エルクはこの国の首領だ。そんな跳ね返りみたいな真似をするのか? 万一の場合を考えてもみろ」
「……革命家よ。あなたが思っているほど常識のある人ではないわ。イーサー・エルクが死んだという話は幾度も流れたけれど、あの人は生き延びてきた。無茶もするわ。そんなことどうでもいいの。イーサーはその後どうしたのよ!」
 マックスは肩を竦める。
「……お前は戻れって。オレはこのまま行くって。チャカ投げてよこして、そこで別れた。背後から敵が迫っていて、どうしょもない状態だったが、そのうちに日が暮れた。暗闇に紛れて助かったはいいが、もはや、自分自身、どこにいるやら。ベリベリ・ファッキン・ロマンチック。まるで銀河の中を歩いているかのような星の世界。久しぶりに空が晴れていたよ。そこで、ミグが月の下を通過するのを見た。まるで神話だった」
「イーサーは、どこへ行くと言ったの!」
「知らねえ。そんなに怒ってくれるな。敵が近くにいるから、大声出して、おっさんを呼ぶわけにもいかねえ……。まさかあれが、イーサー・エルクだとは知らなかったから、大した話はしなかった」
「他には?」
「ない。ああそうだ。出発前に、干しメロンと水筒の入った袋を遣してきたんで、昨日はそれで食い繋いだ。一々、やめろとか、危ないとか、下んないこと言わなくて、なかなか真っ当な人だ。気前がいい」
 首を傾げて沖ノ島が訊ねる。
「この坊やはどこから連れてきたの?」
 エディストーンは言う。
「どれだけ命知らずかを競い合っているバカなクラブに在籍していた男よ」
 グルーエンサーはマックスのしょうがない経歴を冷ややかに陳べた。
「バカな仲間たちと一緒に無許可の空港を作って、飛行機からリンゴや鶏を投げたり……」
「リンゴじゃない。トビウオだ」
「……用を足したりするとどうなるかの実験を、仲間が死んでも依然として続けていて、ついに当局に逮捕されたというバカ中のバカだ。倫理観念に欠陥がある。気を許せば何をするか解らん」
「このオレとイーサー・エルク、どっちが真の男か勝負したい」
 グルーエンサーはマックスの入っている機材コンテナを思い切り蹴りつける。
「このありさまだから、エリミネートされた。飛行技術そのものは普通だ。あまり言いたくはないが優秀になり得る部類だ。だが使えんよ。こういう人間は、本人が思うほどには珍しくはない」

 その日の夕方、有刺鉄線の一巻を取りにきたナカノセは、機材コンテナの中にまだマックスがいることに気付いた。
「まだいたの?」
 マックスは答えない。
「聞いたわよ。来る日も来る日もばかなことばかりしてたって」
「オレは世界で一番危険を愛する男だ。それがオレの誇り。オレは誰の指図も受けない」
「ちょっと、邪魔だから、そこどいて。扉が開かない!」
「バカ言うな。どうやって」
「引っ張るから、私がいいって言うまで、空中に浮いてて!」
「何言ってんだお前は?」
「航空学校出てんでしょ? 嘘なの?」
「何だてめえ?」
 マックスは歯をむき出しにして凄んでいたが、何を思ったのか、突然、息を止めて胡坐をかいた。
 ナカノセは手押し車に突っ伏すようにして休憩をする。外ではカザフスタンの国歌が流れていた。夕日に疲労が滲む。
「ダメだ……。チョウチョじゃないから無理だ。オレも時にはそういうことは思うが……」
「全然反省の色が見られないようね」
「何だ。違うのかよ。オレは反省しなければならないようなことはしていない。だってそうだろ?」
「トイレはどうするの?」
「どうどうと漏らさせてもらう」
「何でそんなにお品がないの?」
「品のいいクソがあるのなら見せてくれよ」
 ナカノセは腕を組んでそっぽを向き、面白くなさそうに一笑した。
「保安学校は結構、マナーに厳しかったわ」

 深夜。グルーエンサーが缶詰を手にやって来ると、マックスを乱暴に叩き起こした。
 グルーエンサーは言う。
「おい、お前。乗り捨てたスピットファイア一号機がどのような状況にあるかもう一度説明しろ」
「まあ、回収は不可能だろう」
「何故破壊してこなかった」
「そんなことは出来ない。飛行機を壊すだなんて、そんなこと、人を殺すよりも心が痛む」
「じゃあ何故乗り捨てなんかにしたんだ!」
「もう一機あると思った……」
「知っての通り二号機は調子が悪い。知っていただろう。何を考えてるんだこの野郎?」
 ブラナの中継飛行場を探すためマックスに偵察飛行をさせるべきかどうか。報酬を大幅にアップして補充したDC-3パイロットも中国領内の飛行は拒んでいる。二つしかないスピットファイアのうち一つは放棄され、もう一機はようやく形になったばかりである。マックスを信用して二号機、あるいはDC-3まで喪失したら全ての作戦が崩壊しかねなかった。
 ナカノセは訊ねる。
「マックスを回収出来たんだから、そこに飛行場作ればいいんじゃ? ガソリン集積所にするだけでOKじゃない。わざわざ、ブラナ飛行場を使わなくても……」
「離着陸が可能なだけでは条件を満たさないわ。中国領内で丸裸の砂漠の中にあっては、ガソリンの集積とその防衛が不可能。持ち堪えようがない」
 エディストーンは相変わらず目の下に隈をつくっていたが、覚醒を続けていた。
 グルーエンサーは言う。
「私がダコタを飛ばそう。それしかない」
「お願いします閣下。しかし、決して着陸はしないで下さい。まずは偵察と物資投下をお願いしたいのです」
「もたもたしていると敵の飛行機が来る。私はそっちの方が心配だ」
 ナカノセが訊ねる。
「万一それが失敗したら?」
 沖ノ島は言う。
「地上から出るしかない」
 グルーエンサーは沖ノ島の方に振り返った。
「地上から発見出来たとして、どうやって連絡する気だ?」
「ビーコンを使う」
「敵に見つかる」
「数回のみ。コンタクトを取るまで」
「難民が逃げてきているというのに、飛び込んでゆくというのか。あなたが」
「むしろ私でないと無理よ」
「地上からどうやって行くというのだ?」
「イーサーは行ったわ。老鉄山も」
 沖ノ島とグルーエンサーが睨み合っていると、マックスが缶詰を手にやってきて口を挟んだ。
「オレも数のうちに加えてくれないかな」
 エディストーンは言う。
「地上からでは、障害が何もないとして、それでも一日五〇キロ程度しか進めない。下手したらブラナまで二〇日かかるわ」
「私なら馬を乗り捨てて五日よ」
 グルーエンサーは反対だった。沖ノ島のその経歴や実力を知らないわけではない。しかし、グルーエンサーの目には沖ノ島は尚もって女子供にしか見えない。万一捕まれば、何が起きる。
 沖ノ島もそう思われているのだろうと察して、その目はますます火炎を宿して、断固譲らんと決めているように見えた。
「飛行機ならそこ一時間だ。文明の利器がどれほどの力を持つかを思い知らねばならん」
「見つからなければそれも無意味よ」
「見つけてみせようではないか! 私はもう行く。早ければ早いほどいいということだ。生きても死んでも、ここが私の最後の戦場になる」
 エディストーンがグルーエンサーを呼び止める。
「閣下」
「以後、私のことを閣下と呼ぶのはやめろ。わけあってハムスタンに組みする名もなき老義勇兵だ。嘘ではあるまい。私の正体そのままだ」
「グルーエンサー。もう少し時間があれば、パイロットの確保も可能だった」
「私がそのパイロットだ。たらればを言っていても仕方がない。やるぞ」
 グルーエンサーはコーヒーを飲み干すとマグをテーブルに叩きつけた。
「飛行計画を練る。マックスお前も来い。営倉とどっちがいい」
「オレは、ちょっと、あの、今日ぐらいは、休憩が欲しいんですが……」
「誰に口を聞いている。ふざけやがって。私の質問に全部答えるまでは今日も眠れないと思え」






§ 五四 空襲

 翌日の昼近く、見張りに雇われていた男たちが血相を変えて飛び込んできた。
「飛行機来! 敵だ! 爆弾をばら撒いてる!」
 報告するまでもなく、キャンプ中に警報サイレンが鳴り響いていた。
「迎撃だッ!」
 髭剃りクリームを顎につけたままの状態でマックスがスピット・ファイアを駐機してある滑走路へと飛び出してゆく。グルーエンサー中将がすぐ後をつんのめりながら走ってきて、それを捕まえる。
「迎撃は間に合わない! ダックを上げろ! スピットファイアは地上スタッフがどうにかする!」
「クソが!」
「返事はイエス以外許さん!」
 グルーエンサーはすぐに飛行隊員用の割り振られた部屋に向かって号令をかけた。
「聞こえたか! 迎撃は無理だ! 飛行隊、とにかく全ての飛行機を空に上げろ!」
 マックスとグルーエンサー以外の飛行隊員たちは爆音に動揺して、窓の外を見て呆然としていた。アメリカの大学を休学して、アルバイトに来ていたキムは、話が違うとその身を震わせる。
「相手は軍隊だ。勝てるわけないじゃないか!」
 エディストーンが駆け込んでくる。
「飛行機を空に逃がして! ここでやられるわけにはいかない!」
「戦闘任務はない約束だ。家には妻と子供が待っている……!」
「カザフ国境内の飛行は契約してある! これは戦闘任務ではなく避難命令よ!」
 マックスが小屋の外から、爆音とサイレンを掻き消すような勢いで怒鳴る。
「そんな根性なしは放っておけ!」
 グルーエンサーは、大股で歩み寄ると恐ろしい目つきでキムに掴みかかる。
「来い。命令だ。こんなことも出来ないような奴を呼んだつもりはない! 私が一号機で陽動する! お前は三号機で西へ逃げろ! そうすればお前は首尾よく、学生ローンがチャラになる。仕事をするんだキム。……ここで逃げてみろ。神に誓って貴様をクビにしてやる」
 エディストーンが二人の間に割って入る。
「落ち着いて。大丈夫よ。あなたなら出来る。スピットファイアを動かすから、あなたは私について来て」
 混乱の中、マックスと二人の若いパイロットが誤って三人ともダコタの二号機に乗り込む形になり、ダコタの三号機と、スピットファイアが地上に取り残されていた。
 エディストーンとキムが驢馬を連れて駆けてゆくと、既にナカノセがスピットファイアを牽引しようとしていた。愛用の驢馬でスピットファイアを轢いて天幕を半分破壊しつつ、その中に無理やり運び込んだ。 
 爆撃機はA滑走路とB滑走路を、きっちり二つとも爆撃して深さ五十センチ、幅三メートル程の穴を無数に開けた。ついでに、管制室として使っていた物見櫓のついた小屋に機銃掃射を浴びせて貴重なガラス窓を片っ端から粉砕すると、長居はせずに、国境の外側へと去っていった。幸い、直撃を受けた者はいなかった。放置される形となった三号機は爆風で傾き、片方の翼を地面に打っていた。

 岩陰から這い出てきたナカノセは状況を見るや否や喚いた。
「わあッ! 私の滑走路ッ!」
 ぞろぞろと集まってきた人足たちが方々に負け戦になると呟くも、エディストーンはそれを喝破して黙らせた。
「まだよ! この程度の困難は幾らでもあった。状況を立て直す!」
 ティムルが人足たちの中から出てきて、エディストーンを呼ぶ。
「敵にばれた。また来るだろう。人がキャンプに押し寄せてから爆撃されたら、大変なことになる」
 エディストーンはナカノセに言う。
「今日中に偽装滑走路を描いて。機銃も配置する。今回やられた大型テントは以後ダミーにする。中の荷物を全て運び出して。エンジニアはやられた飛行機の修理と点検を。そうしたら、引き続きブラナの飛行場を探す。こんなに見つからないなんて……」
 馬で辺りを駆け回っていたクナンバユリがやってきて訊ねる。
「ブラナ飛行場はまだみつからないのか? 消え去っている可能性はないのか?」
「使えない状態になってるとしても、そこまでのことは考えにくい」
「崖ごと崩れ去っている可能性は?」
「ないとはいえないけれど、その可能性は低い。探すだけの価値はある。他に手もない」
 ナカノセは動揺の収まらない面々から抜け出して、滑走路の方へと駆けてゆこうとした。
エディストーンがそれを呼び止める。
「待ちなさい! 地雷が撒かれている! 見えるでしょう!」
「修復しないと……!」
「あれを見て」
 エディストーンから渡された双眼鏡を覗くと、拳ぐらいの大きさの黒い塊が破壊された滑走路の周囲にぽつぽつと散らばっていた。
「あれは爆弾じゃない。地雷よ。時限式。五分後から数日後まで」
「……そこまで手の込んだことを?」
「するわ。目標は滑走路であって、人ではない。もっとも次は妨害では済まないかもしれないけれど……」
「これってどこがやったの?」
「中国。あるいはソ連」
「ソ連が何で?」
「カザフはこれでもソ連邦の一部よ。むしろモスクワが沈黙しているのは気味が悪い。もはや対応に遅れているという状況ではありえない」
 クナンバユリは破壊された滑走路に目をやりながら言う。
「アメリカかもしれん」
「……理由は?」
「幾らでも?」 
 二人が沈黙していると、沖ノ島がやってきて告げた。
「よそのNGOがこっちへ向かってる」
「今更邪魔よ」
「来た分は取り込むしかないわ。下手に出ると、足元すくわれるわよ」
「今更何がしたいのよ」
「手伝ってくれるというのだから、手伝わせればいいのよ」
「頼んでもいないのに飛び込んで、こっちのやり方に反発するという結果になる! 筋違いの自己主張ばかりして……! もっともくさった顔で祖国に凱旋したいだけなのよ!」
 沖ノ島は「落ち着きなさいよ」と呟いて、次いでクナンバユリに声をかけた。
「カザフ政府の対応はどうなりそう?」
「黙っているのも限界だ。国内に知られた場合、相手が誰であれ、ここは前線になるであろうが、すぐに済みそうか。どのくらいで終る?」
「難しいわ。むしろ事態が始まったとこ」
「軍と警察を出す。これ以上黙っていると我々とて危うい。モスクワには連絡をさせてもらうぞ」
「軍隊はどの程度の規模で」
「一個大隊。酷くなる場合は東部方面軍を要請することになる」
「下手には出れない。戦争が避けられなくなるわよ」
「避けられない戦いもある」
 ティムルが駱駝を駆ってきて、駱駝の上からエディストーンに封筒を差し出す。
「敵機の写真分析が出た。B29コピー。Tu-4、ツポレフだ」
 エディストーンはまだ生乾きの写真を日差しに傾けて検分する。
「国籍は」
「解らん」
 ツポレフはソ連の爆撃機だ。中国軍でも運用されている。
 クナンバユリがエディストーンから写真を取り上げる。
「B29という可能性は?」
「はは。それはないが、アメリカが噛んでいる可能性までは否定出来ないだろう」
 ナカノセは訊ねる。
「国籍を隠しているの?」
「それも解らん。写真は二枚しか撮れていない」
 クナンバユリは言う。
「そんなことより人が集まってから爆撃されると、とんでもないことになるぞ」
「まあ中国だろう。どっから飛んで来たかは知らんが、航続距離から言って千キロ以内に既に前進基地が出来ていると見るべき」
「ナカノセ。あなたの次の仕事が決まった。滑走路の修復を終えたら、この爆撃に関する情報を集めて。三時間程度。驢馬を一頭使っていい」
「半径千キロを? 驢馬と一緒に?」
「勘違いしないで。敵の情報提供者が既にキャンプに入っている可能性がある。間違っても単独偵察などには出ないこと。難民が集まって来るから、情報を集めて。それから割り出す。護衛をつけてやってほしい」
 クナンバユリが手招きすると、若い男が二人が駆けて来た。この寒空の下で信じられない薄着をしており、二人とも抜き身の新月刀と猟銃を手にしていた。
「娘。お前には護衛を二人つける。護衛による狙撃以外の方法での地雷処理をするな。事実上お前の仕事はない。解ったな」
 エディストーンは声を上げる。
「さあ、立ち話はここまでよ! 皆持ち場に戻って。ナカノセ。あなたはここを封鎖して。人を地雷に近づけないで」

 エディストーンは、すぐに無線をかけに窓の砕け散った管制塔へと戻った。
「ダック2、ダック3 聞こえる? 滑走路が破壊された」
「戻れるのか?」
「戻れないわ。このままアルトマイまで後退して待機して」
「復旧はいつ頃に」
「今日中には片付けるけれど、第二波が来る可能性がある。いいえ。必ず来る。既に場所を特定されている」
「了解した。スピットは無事か」
「無事よ。マックス、あなたは早く戻ってきてエンジンのお守りをして」
「どうやって戻れっていうんだ?」
「馬車。地上から戻るのよ。ダック2、アルトマイと中継して」
「既に中継している」
「ルッカウトを出して」
 スイッチが切り替わる音が響いて、すぐに相手が出た。
「ルッカウトよ。話は聞かせてもらった」
「すぐに来て」
「仕事はないと聞いていたのだけど」
「あなたまで言う気?」
「一つ幾ら」
 エディストーンは眉を顰めて会計簿の端を親指で捲り上げて、すぐに手を離した。
「日当でしか出せない。危険手当は出す」
 受話器の向こうから不満そうな声が響く。
「国連の日当と同じでは安すぎるよ」
「今報酬の話をする気はないわ」
「私はきちんとした約束のない仕事はしない。趣味でやっているわけじゃないから」
「あなたの矜持は胸に留めておくわ。切るわよ。傍受されたくない。すぐに来て」
 この日の夕方、避難民が続々と到着し、人の疎らな砂漠のキャンプは瞬く間に人口密集地と化した。遅まきながらカザフ軍が警備に入り始め、状況は更に混乱した。





§ 五五 協力はしてもいい

 その夜、沖ノ島はいよいよブラナの塔を地上から目指すことになった。人選と準備は既に整え終っている。
 一方エディストーンは、グルーエンサーに随分反対されたらしく、沖ノ島を出すことをためらっていた。
「そこまでやらねばならないのならば私が行く。ここの総指揮はティムルに任せて」
「いいえ。私が行きます。今度は私の番よ」
「相変わらずね。死にたいの?」
「それはこっちのセリフよ」
 エディストーンは沖ノ島に言い含める。
「難民が既に到着している。医者がいない状態は避けたい。立場を理解してもらいたい」
「じゃあ誰が行くのよ」
「状況をティムルに引継ぎ次第、私が行く」
「軽いわよ。そっちこそ何も変わってないじゃない。あなたがここを放棄するわけにはいかないでしょう。誰が国や国連と折衝をするというのよ。それこそ私では馬鹿にされてしまうわ」
 琺瑯のマグカップに注いだ山羊乳を惜しむように舐めながら、このやり取りを見ていたナカノセが徐に口を挟んだ。
「私が行く」
「あんたはここにいなさい」
 エディストーンと沖ノ島は声を揃えてナカノセを引っ込ませる。
 沖ノ島はエディストーンの双眸を見据えて言う。
「……あなたでは中国人には見えない。私なら中国人に見える」
「避難民は漢族を敵視しているからむしろ危険よ」
 ナカノセがまた口を挟む。
「じゃあどっちみち危険じゃない?」
 沖ノ島は言う。
「場所を知っている者が行かざるをえないのよ」
 ナカノセは地図の上のチェスの駒を手で払い、何度も塗り潰された赤い点をスプーンで叩いた。
「私に策がある。最低限の話、私がアルタイまで行って、」 
「アルタイにはそう簡単に入れないし、出られない状況よ。入れたところで補給など出来ない」
 ナカノセはやる気を削がれたように、スプーンをマグの中に投げ入れて、頭の後ろに腕を組んだ。
「そもそも、地上からなら解るという保証はあるの? 現地の人間でさえ知らない秘境でしょう?」
 沖ノ島は白のナイトを手に取るともう一度、ブラナの塔の位置に立てた。
「私は解る……。問題は日数と連絡手段。もう時間がない」
 エディストーンはテーブルの上に拳を組んで、その上に額を乗せて唸った。
「……もう一度だけ偵察を出してみたい。予報では明日からは前線が去って風があまり吹かないはずだと」
「甘いわね。タイムオーバーよ。もしも、ブラナの飛行場が出来上がっていない場合、今すぐにでも形にしないとまずい。もたもたしていると、アルタイが落ちる。今中に地上から出発する」
 エディストーンは渋々承諾した。どちらにしたって悪条件は変らない。沖ノ島が二人いればなどと、ふと奇妙なことを思う。その思い至った先は老鉄山だった。これで二人とも死んだら。恐らくこの戦いは負ける。自分の人生もだいぶ負けが込んできたと思う。
 エディストーンがぼうっとして、数日前の老鉄山との厳しいやり取りを思い返していると、沖ノ島が、そっちこそ大丈夫なのかと微かに首を傾げた。
 仕方がない――。エディストーンは意を決すると、機材ケースから一抱えもある無線機を運びだしてきて、テーブルの上に置いた。
「このビーコンは十分な性能を持つけれど、この状況では、万全とまでは保証出来ない」
「シルヴィスキーは?」
「錬度の高いのは既に失っている。持つだけの意味があるかどうか」
「現状の帰還率はどの程度」
「今はもう三羽飛ばして、五割行くか行かないか。むざむざ捨てているようなものよ。この戦争で絶滅してしまう……」

 深夜。月が出ていた。沖ノ島を中心に結成された騎馬隊が砂塵の中に埋もれるブラナ峠の探索のために出発した。キャンプを出て五百メートルほど行ったとろで、騎馬隊は不意に駆け出して足を速める。そのうちの一騎が突然向きを変え、風が作り上げた砂丘の上に駆け上がった。
「ナカノセ。いるのでしょう? 出てきなさい」
 蹲っている人影は暫くは沈黙して、石のふりをしていたが、そのうちにカンテラに火を入れるのが見えた。
「はやく来なさい。追い返しはしない」
 ナカノセは乗り気しない驢馬を引っ張りながら駆け寄ってきて、憮然とした表情で小隊の面々の顔色を伺った。
「バカねえ」
「私がバカなら、あなたはバカ先生よ。バカを沢山世に放った罪は重いわ」
「なんてことを言う子なのよ」
「昔からなんでしょ」
「ええ」
「これからも?」
 沖ノ島は不意に手を伸ばしてナカノセの頬を撫でた。
「そうよ……。残念ながら。ついてきてもいいけれど、身の丈を超えた戦いは死しか待っていない。私はこれ以上人が苦しむ姿を見たくない」
 ナカノセはそんな忠告どこ吹く風の様子で訊ねる。
「老鉄山が中継飛行場を? イーサー先生がその後を……」
「ええ。でも、それは上手くことが運んでいればよ。どのみち支援が必要……」
「飛行機はどんな状況なの?」
「スピットファイアの予備機は、エンジンの調子が悪くて飛ばせる状況じゃない」
「ダックは?」
「パイロットが国境を超えることを拒んでいる」
「意味ないじゃない」
「無理もないわ。マックスが練習しているけれど、危険なのよ」
「あいつにとっては輸送機なんて簡単だって」
「仮に彼の言う通りであったとしても、ブラナの滑走路は三五〇メートルしかない。無線を使って誘導する予定だけど、最終的にはどうしてもパイロットの目に頼ることになる。あそこまで条件の悪い飛行場は世に二つとして存在しないわ」
「飛行機が着陸した実績はあるのでしょう?」
「あるけれど、難しいわ」
「飛行場が見つかったらって、そのまま着陸というわけにはいかないのね?」
「難しい。あなたの年齢と同じ年数放置されている。どのみち滑走路の修復は必要になる。誘導も必要。事故は絶対に避けたいけれど、過去には事故が二回あって犠牲が出ている。切り立った谷底に落ちて、遺体は今でも回収出来ていない」
「そんな無茶なことを、誰が始めたの?」
「イーサー・エルク。ハムスタンは犠牲を払った。大国の狭間にあってこれ以上ない舵取りをした。紅軍も国府も、あの飛行場の存在は最後まで解らなかった」
「羽賀さんは?」
「日本にもアメリカにも、戦後、この国の戦いの決め手となった重要な作戦を一つも言わなかったわ。エディストーンもこの戦いの詳細を報告しなかった」
「私も行く」
 沖ノ島は暫し沈黙してナカノセの目を見つめて逡巡する。
「あなた、自分のお役目は? 滑走路を作っているのでしょう?」
「滑走路の修復は私がいなくても、もう大丈夫よ」
 風の中に砂を蹴る音が混じる。ナカノセが振り向くとエディストーンが馬で駆けて来るのが見えた。
「ナカノセ。遊びのつもりじゃないのなら、滑走路の修復に戻りなさい」
「滑走路の地雷は除去し終えたわよ! あとは私なしでも出来る!」
「まだ残っている。欺瞞滑走路も必要。敵は近くまで来ている。追撃がすぐに来る」
 ナカノセは、エディストーンの背後をちらと見やった。暗闇に誰かもう一人いるのが見えた。

「紹介するわ。彼女はルッカウト。あなたが到着する以前から後方で準備をしてもらっている。ルッカウト、この子はナカノセ」
「私は初めてではないのだけれどね……」
「そう。ご存知だと思うけれど、ナカノセは十七歳の革命家。滑走路を作ってもらっている」
 ルッカウトと呼ばれた少女はエディストーンの脇を掠めるようにして馬を進め、訝しそうな表情を浮かべているナカノセの前で立ち止まった。
 目が合う。黒人だ。珍しいことに、カンテラの光を跳ね返す瞳の色は青い。
 ナカノセがその巧みな馬捌きに気を取られていると彼女は思いもかけないことを口にした。
「あんたのボーイフレンドからお土産があるわ」
「ボーイフレンド? 誰のこと?」
 ルッカウトは返事の代わりに、ビニール袋に入った包みを馬の上から投げてよこした。ナカノセは咄嗟のことで、お手玉にしてそれを受け止め損ね、地面に落ちたそれを拾い上げた。
「飛行機に積んできたのよ。ポン菓子砲で作ってみた。ぼんやりとした記憶ではあるけれど、私もこのお菓子には見覚えがある――」
 ナカノセが確認すると、ビニール袋の中は小麦を爆発させて作ったポン菓子だった。
 訝しむナカノセをよそに、エディストーンは沖ノ島に抗議し始める。
「あなたはナカノセを連れて行く気?」
「思いを尊重したい」
「話がある」とエディストーンが言うと、沖ノ島は「知っての上よ」と即座に返事を返した。

 二人の間に、奇妙な間があった。
 エディストーンは鞍の脇に括りつけた鞄から小さな箱を取り出して、沖ノ島に渡す。
「これは?」
「眼鏡。やっと見つかったわ」
「どこにあったのよ」
「飛行機の工具箱の中にあった。合流出来たら、戻れる手段が見つかり次第すぐに戻して」
「そのつもり。彼女に死なれては、私の戦いもいい加減論ずるに値しない」
 沖ノ島は眼鏡を雑嚢の中に押し込むと、視線を上げて、厳しい表情でナカノセを捉えた。
「決めた。やはり、あなたは戻りなさい。ナカノセ」
「何よ! 話を変える気?」
「気が変った」
「何よそれ! 嘘つき!」
「取り返しのつかないことになるぐらいなら、矛盾だらけの方がよっぽどマシよ」
 沖ノ島が背を向けて馬を駆ると、ナカノセはそれに付いて行こうとしたが、ルッカウトが馬を進めてその前に立ち塞がった。
「ポン菓子砲の使い方が今一よく解らない。戻って説明を。慰問袋を大量に作る必要がある。本当は菓子ではなく、パンを用意しないといけないのだけど、間に合っていない。来て」
 ナカノセは、去って行く沖ノ島の背を見ながら苛立ち、どちらに進もうか躊躇した。
「どういうことなの? 何でポン菓子砲なんて……」
「国男とは知り合いでしょう?」
「国男? 国男がなんで? 国男が何で私の行動を知っているのよ。何であんたが国男を? 国男は中学の時にブラジルに行ってしまった……」
 訳がわからない。
 はたとナカノセは、金門島の試験のことを思い出した。犬吠埼の他にもう一人、試験を受けていた者がいたはずだ。
「あんた、ひょっとして、金門島にいた?」
「半径三十メートル以内にはいた。私はあんたを見張っていたから。あなたは私のことを知らないでしょうけれど、私はあなたのことを知っている。エディスの日本での公演の時もいたわ」
「何者なの?」
「私は以前エリザベス・サンダースの本校にいたのよ。町田校にいたというあんたのボーイ・フレンドに会ったのは一年前」
「ボーイ・フレンド?」
「国男」
「どこで?」
「パナマよ。サマー・スクールで。それからよ。学生運動にのめりこんでいるナカノセっていうのがいるって話になって。気がつけばこんなとこまで来てしまったわ。元はと言えば、グルーエンサーがいけないのよ。日本では元子にも会ったわ」
「なんで? 元子は今どうしているの?」
「さあ。詳しいことは知らない。カフェで小一時間話をつけただけだから」
 私がルッカウトと出会ったのはナカノセが日本を経った直後である。例のダイヤモンド地下街の喫茶店で。私はエリザベス・サンダース本校の元生徒だという謎の黒人の少女から「ホームの今後のことをどうする気でいるのか」と突然切り出されて、お茶をひっくり返しそうになるほど驚いた。
 ルッカウトはその去り際、ナカノセに事伝をしようかと気を使ってくれたが、私は、尚もって彼女の正体が解らなかったので控えた。
 すると彼女は、もしその気があるのなら何がし。あるいは、ないのならば手紙の方は燃やして証拠を残さないで欲しいと言って、宛名のない一通の分厚い封筒を渡してきた。その中には、手紙の他に、ホームのためにと三百万円もの大金が入っていた。国男からだった。信じられなかった。彼とてまだ学生なのに、こんな大金をどうやって稼いだのか、そもそも彼がホームにそこまでの義理があるのか。ブラジル組はほとんど貧乏くじを引いたとさえ思われていたではないか。彼はなんで――。
 それから数日後、私は新聞社と出版社に連絡を取っていた。その時から間もなく私には尾行がつくようになった。国男の寄越した無線の組み立て図を元に部品を買い集め、無線局を作ったりもした。何度か手違いをしつつも、すぐに国男と連絡を取り合うことになり、ブラジルにいる国男と手紙以外で連絡がつくことに驚く。国男は自分で作ったラジオの販売で会社を起こしていた。また、自作のアンテナで、ジャミングのかかる中カザフ国境地帯へのアクセスを試みており、ある程度成功していた。そういった情報を、新聞社やラジオ局に売って稼いだ金を学費に当てたりしているのだという。彼は商才がある。

「無線て、そこまで出来るの……?」
 ルッカウトは肩を竦める。
「私に聞かれても困るわ。機械は苦手なのよ」
 私だって苦手だ。
「あんたは何でこんなところに?」
 ルッカウトは言う。
「私はただのアルバイト。あんたこそ何でこんなとこに来たのよ」
「一言でなんて説明出来っこない。あんたは何で?」
「そんなの聞いてどうするの? 私に大層な理由はないわ。さっさと稼いで出来るだけ社会と関らずに暮らしたいだけよ」
 じゃあ何でこんなとこにまで――。ナカノセは尚一層不可解な気持ちになった。
「ホームにいたんでしょ? あんたのホームはどうだったのよ?」
「悪くはなかったわ。私にとってはいい思い出ね。だけど、それだけで済ませられない問題がある。先生たちは私の里親を選び間違えた」
 エディストーンは二人の間に割って入る。
「二人とも戻るわよ。ルッカウト。あなたには要求通りの危険手当をつけたのだから、その分は働いてもらわないと困る。腕は買うけど、これ以上ごねると更迭も考えないといけない。あなた一人で何人分も払うことになってしまうじゃないの」
 ナカノセは反射的に主張した。
「何それ。私もお金欲しい! 死亡手当て貰ってもいいくらいの目にあってるわよ!」
 しかしエディストーンはその要求を即座に拒否した。
「あなたにはあげない。今の中国人民の餓死線上にある人口は五千万人を下らない。自分の決意を理解していないうちは、あなたはまだ学ぶべきことがある。どれだけ大変であろうとも、あなたにとって、当たり前のことをしに来たはず。誰に持ち上げられようと、誰に貶されようと、あなたにとって当たり前のことをして生きて死ぬ。それが割りに合わないと思うのならば、あなたは一刻も早く日本へ帰りなさい」
 エディストーンが思いの他厳しく咎めるので、ナカノセはバツが悪そうに、すぐにその言を撤回した。
「……ああ。口が滑った。私そんなこと考えてない……」
「口が滑ったですって?」
「ええ」
 エディストーンは一睡も出来ない日が続いている。ナカノセも体力が完全に回復しているとは言い難かった。
「これ以上弁解が必要?」
 険悪な雰囲気を察して、ルッカウトが仲裁に入った。
「エディス。許してやりなよ。人はあんたほど立派じゃない」
「私はさほどのことを言っているわけではない。この場に相応しい当然のことを言っているに過ぎない」
「あんた、これ以上やると、ワスプがボランティアをやりすぎるとこういうのが出来てしまうという残念な見本になるわよ」
「……どれほど滑稽に見えても、厳粛であらざるをえない問題はある」
 エディストーンは返答次第では切ると覚悟を決めているようだった。ナカノセはここで馘首となれば元も子もない。
 ナカノセはふと気がついて胸元のアウレア・リベルタスをつまんで目の前に翳した。
「言うことを聞く。私はまだ日本に帰るわけにはいかない」
 二人は気を取り直すと、お互いに無駄な体力を使う余裕はないと、冷めた表情で向き合っていた。
 エディストーンはナカノセに諭す。
「……盗賊に捕まったら、それを手放すためにこそ必要になる。この地では、あなたの命はその石ころ一つに及ばない」
「そんなこと考えて、あなたは耳に石をつけていたのね」
「そう。あなたは正しいホールドアップのされ方を学ぶ必要がある」
 二人は己の信念と心中する覚悟である。私には最後どうしても、こういう人たちの精神性を解りはしないだろう。しかし、このやり取りを見ていたルッカウトは、いい加減にしたらどうかとそれを一笑に付した。
「エディス。あんたって、まったくしょうがない。パール・バックだっけ? 阿蘭の真珠を取り上げる必要はないって、あなたは言っていたじゃない。あんまり厳しいと人が続かないから、下んないアクセサリーの一つや二つは必要。どこまでが許されて、どこまでが許されないのか、私はその範を示せないといけないんだって。私はそれとてジョークでしかないと思うのだけれど、エディスはいつだってそうなのよ。残念ながら。でも、あなたからその石を取り上げたら、あなたは誰にも理解されないとこまで行ってしまう気がする。ナカノセ。あなたは知らないんでしょ。その耳の石ころはイーサー先生に貰ったのよ。チェスで勝てたらと言い訳して。かくして彼女はチェスに勝った」
 エディストーンは冷徹な表情のうちに悲しそうな気配を一瞬垣間見せて踵を返した。
「戻りなさい。こことてそんなに安全ではない。死なれても困る」

 ルッカウトは器用に馬の向きを変えて、驢馬に乗ろうとしているナカノセの手をとってその背に引き上げる。
「で、あんたは何が欲しくてこんなところに? 私は下心のない奴なんてむしろ信用しないのだけれど」
「事情は知っているんでしょう?」
「多少は」
「本音の話、この戦いを言い訳にホームを再建したいという思いが私には捨てきれない。どんな言い訳をしても私には最後それしか残らないでしょうね」
 二頭の馬が弾みをつけて、エディストーンの白い影を追ってゆく。
「……理解出来るってほどではないけれど、協力はしてもいい」






§ 五六 ナカノセの常識

 ナカノセは滑走路の修繕の方はルッカウトに任せて、自らはポン菓子を作るのに追われた。アルタイへ運ぶ糧秣はある程度集まっていたが、それをここで消費しているわけにはいかず、とにかく次の物資が届くまでを繋ぐ必要があった。子供だましであるが、菓子の配給で統制を取る算段である。
 ティムルは、いつ襲来するかもしれぬ次なる爆撃機を憂慮し、避難民を分散させた上、作戦成功後はカザフ軍に譲渡するという契約で、DC-3用に搭載予定だった機関銃をカザフ軍のトラックの荷台に固定させ警戒に当てた。しかし弾帯は外してあった。ハムスタン難民とカザフ軍が衝突して、機関銃が水平射されるようなことになれば、それこそ大惨事になってしまう。
 ナカノセは軍票を切って、ポン菓子をカザフ人の女中たちに任せ、早々に滑走路に戻ってきた。それを見つけたルッカウトが馬で駆けて来てナカノセを呼んだ。その背後には大型のカメラを首から提げた記者と思しき一群が追いかけてくるのが見えた。
 一瞬武器をこちらに向けているのかと勘違いし、ナカノセはホルスターに手をかける。
 ルッカウトはそれを制してナカノセに告げる。
「エディは忙しい。休憩中のところ悪いのだけれど、あなたが相手をするようにって。作戦に関ることは決して陳べないで。はぐらかして。引き付けているだけでいい」
 記者たちを追い越して、若い欧米人の男が駱駝を駆ってくる。蒙古馬よりも二回りは大きい冬毛のバクトリアンキャメルの体躯は馬匹と言うよりは、水牛や小型の象を思わせるものがあった。
 駱駝を走らせてくると男はナカノセに声をかけた。
「君がナカノセか? この滑走路を一人で作ったそうだな。エディストーンは私たちの登場にご機嫌斜めのようだが、彼女一人ではもはや限界だ。事態は既に彼女の手に負える状況ではない」
「どちら様かしら?」
「私はオックスファムUSAのボブ・カリントンだ。ハムスタン地域を担当している」
「肩書き聞いても解らないわ。何の用でここにいるのよ」
 ルッカウトは蒙古馬を軽く足踏みさせてナカノセの横に近づいて口添えした。
「エディストーンの国連時代の仲間で、上司で部下のライバルよ。ベジタリアンのボブ」
 ボブはそのように紹介されて、苦笑いを浮かべた。
「彼女には真実味のないベジタリアンと言われていてね。しかし私は卵は食べる。肉はあえては食べないというに過ぎない。新聞記事に殊更におかしな奴みたいに書かれて参ってるんだがね」
「ふうん? 私は公的にはポップコーンとエビフライが大好物の変な生き物ということになってしまっているわ。うちで作ったパンフレットと海保の入学案内のせいで」
 ルッカウトは何の話をしてるのかと、砂塵の中のぼやけた日差しに目を細めた。
 ルッカウトは注意する。
「実務的な話をさせてもらうと、ここで、ブタを食べるのはよした方がいいわ。宗教的事由。トラブルの元になるから」
「私もそう思う」
「同感だね」
 ルッカウトはボブの駱駝の鞍に括り付けてある水筒をちらっと確認する。
「水が不足しているの。どうにかならないかしら?」
「水はこっちも不足している」
「役に立ってくれないかしら?」
「まあ交渉次第だね」
 ナカノセは訊く。
「で、滑走路の状況は?」
「クリンナップ済みだ」
 見てみろと、ボブは鞭で背後を示した。
「ちゃんと充填マダカム法でやってくれたんでしょうね」
「もっとマシな方法でやり終えた。欺瞞滑走路も他三箇所に作った。かなり上出来だから、味方飛行機が間違えないようにしてもらいたい」
 ナカノセはボブの駱駝に引き上げられて滑走路まで走った。後塵を避けてルッカウトの馬が斜め後ろを離れずに付いてくる。記者の一団は、ボブを追い回すのをやめて、遠くから写真を撮っていた。
 滑走路の状況を手早く見て回った。爆撃で開けられた穴は全て修復済みで、地雷も残っていなかった。既に人員は捌けており、次の仕事へと散っていった後であった。
「いい仕事っぷりじゃない」
 ルッカウトはちょっと不満げに言う。
「動員人数が違うのよ」
「それが実力というものだ」
 ナカノセは彼らが設営した最寄のテントに案内された。遠くから見ると、巧妙な砂漠迷彩のためにほとんど見えなかったが、近くまで行くとかなり大型で、内部にトラックが二台すっぽりと収まった上で、生活スペースを確保出来ていた。一見して装備がいいことが伺える。

 ボブは言う。
「君はまだ高校生だそうだねナカノセ」
「中退したわ。特に断りもしなかったから、除籍になってるでしょうね」
「ここへ来るために高校をやめたのか?」
「成り行きよ。結果の話」
「なんだろうな。君は、何故ここでボランティアなどをしているのだ?」
「それは私の本質に関る問題よ。強いて言えばイーサー先生は私の先生。実際、命の恩人と言ってもいい。今は、それ以上の説明を要求されても私としても困る。そんなに簡単に説明できたら、むしろここに来ていない」
「君の本質ね……」
 ボブは足を組んで、煙草に火をつけた。
「私たちが困っているのはまさにそれなのだ。エディストーンがそれだけを根拠に、ハムスタンの西側への窓口を担当することは問題だと思っている。自分の青春だとか、好きな人だからとか、そんな少女趣味チックな理由で、やっていては助けられるものも助けられなくなるからだ」
 ナカノセは出されたコーヒーを目を瞑りながら啜った。連日の疲れが折り重なって隙さえあれば瞼が下りてくる。
「あなたも、関係自体が関係ないタイプなのかしら?」
「なんだいそれは?」
「うちのパイロット。なんで来たのって聞いたら、そう言った。素性がよく解らないけれど有能を買われてやって来ている」
「そうか……。私の家は皆官僚でね。それ以外はたまに教師がいるぐらいなのだ。だから私がここに来るのはある意味で必然だ」
「どういうこと? それこそ無関係じゃない」
「官僚というのはそもそも無関係であることが本質なのだよ。縁故贔屓をしてはならないという公的な性質上、能力によって集められて、使命を受けた地域へと派遣される。公営の根無し草のようなもので、私の場合は国連の根無し草といったところだ。まあ今や私は本当にただの根無し草であるけれど。国際ボランティア組織はおよそ公務員と同じ機構を採用している。それを思えば、真の根無し草に成り損ねたと言ったところかな。私の祖先には宣教師がいるが、私も、天命を受けて進むのが自分の本分だと思っている――。私の身の上話はともかく、問題は君だ。君が、この地に関係があるというのは実は説明ではない。それは君の意志や動機を説明しているのではなく、風に吹かれたチューリップがとある丘の上で芽を吹いたということを言っているに過ぎない」
「説明なんて説明好きのバカ野郎にさせておけばいいのよ。だって、これが私のことでないのなら、世界に私と関係のあることなんてないのと同じだもん」
「仮に関係あるとして、君に何が出来るだろうか? 問題はそこだ」
「あんたこそ何が出来るの?」
「私たちはプロだ」
 ルッカウトが口を挟む。
「金を持っているだけよ。おまけに全部もってっちゃうのよ」
「何を試したいのか知らないけれど、イーサー先生はアメリカやイギリスになんて行かないわよ。どれだけ鱈腹食えたとしてもね。あの人がこの戦いをやめないのは、アジアの一小国を守ったという誇りにある。私たちはその証拠であり、私たち抜きで、語ることが許されるわけがない」
「君は日本人だ。ここはハムスタンだ。アジアの一小国とはどこのことだ?」
「エリザベス・サンダース町田分校のことよ。戦後、ハムスタンの領事館は事実上私たちのホームの中の一室にあった。この戦いが、ハムスタンの独立を成し得ると思ってる奴はどれだけいるのかしら。いないのでしょう? それが許せない。だけど私もいい加減大人よ。覚悟を決めないといけない。この戦いが失敗に終る日には、エリザベス・サンダースが、その信にかけても、ハムスタンの正義を引き継ぐ。あんたたちに帰れと言っているのではなく、エリザベス・サンダースの代表たる、この私を代表として行えと言っているに過ぎない。わかって頂きたいな。これは」
「ちょっと待って! あんたたち何の話をしているの?」
「聞いての通りだ。ナカノセ。うちに来ないか?」
 ナカノセのお目付け役を任されていたルッカウトは慌てた。
 ナカノセは続ける。
「私は、最悪ここでハムスタン戦線に加わって戦う覚悟だけれど、もしも日本への難民受け入れに関して、あなたにイースター以上の実行力があるというのなら、私はそれを選ばなければならない」
 ルッカウトは席を立って、話を遮った。
「ダメだって! 何のつもりなのか知れないけれど、勝手なことをされるわけにはいかない。仮にナカノセから何らかの同意を得られたとしても、エディスから承諾を得ないことには、ここは動かないわよ?」
 ボブは意に返すことなく言う。
「ナカノセ。たとえば、君を代表にすれば気がすむのか? だとすれば話は早いのだが」

 ナカノセは賭けに出た。
「そう。それ以外の帰着は考えられない。イーサー先生は、イーサー・エルクは、この戦いの勝利への道筋を突き進む。私は万一彼が負けた場合の帰る場所を用意する道義的責任がある。その場所は日本。イギリスではない。アメリカでもない。大東亜共栄圏の後始末を誰かがしなければならない。私はそこらへんは羽賀さんとも確認をとったはずよ。彼らは、単に、中ソや日本帝国に翻弄されていただけではない。あともう少しで国連に加盟出来た。日本が国連に復帰する時には、ハムスタンも一緒に国連に加盟するはずだった。その夢は中台の間に沈んでしまったけれど。私は誰が何と言おうとも、このことに関しては相応の矜持を持って戦ってきた自負がある。仮に日本政府とことを構えることになっても、仮に私が単独で行うことになろうとも、それを実現させてみせる」
 ルッカウトは眉を寄せて黙った。
「こんな急な話を今やるというの?」
「私には今しかないわ。エディストーンには悪いけれど、私はこの問題に関しては譲歩する気はないわよ」
「会いに来た甲斐がある」
 ボブの仲間と思しき欧米人の男が、テントを潜ってくる。外で人々が集まってきて、がやつく声がしていた。ボブはそれをものともしない調子で、男に命じた。
「関係のない連中を入れるな」
 天幕の外を覗くと記者たちの他に、カザフ人と亡命ハム人が周囲を取り囲んでいるのが見えた。
 ナカノセは言う。
「当事者なのに部外者になっている……。世界はいつもこうよ……」
「仕方がないだろう」
「アジアはただの愚か者の劇場ではない。あなたたちがどれほどのものであろうとも、あなたたちはその次よ」
「第二国連でも作るか?」
 ボブ・カリントンが皮肉な笑みを浮かべると、ナカノセは不愉快そうな表情をした。日本ではあまり注目されなかったが、第二国連というキーワードは、ナカノセ及び橄欖会の主要なテーマの一つで、ある時からむしろ海外で知られるようになった。
「日本の侵略、中国の悪政、それらをどう詰っても、非欧米地域は独立のための戦いという大義を持っていたわ」
「知っている。チンギス・カンはただの野蛮な覇王ではない。世界最大の帝国を築いたのは極東アジアの一民族だった。東西の交易路を築いた功績は大きい。アメリカ人は世界史を学ばないから、チンギス・カンの名も知らぬ者が沢山いるのは嘆かわしいことだが……」
 ナカノセはそれを訊くや否やボブの言いぶりを跳ね除けて、間髪入れず言を返した。
「何も解ってないじゃない。もしそれが彼の偉大さの根拠なら、チンギス・カンなんてただのでかいクズよ。私の言っている第二国連というのは、アジア・アフリカの主権である以上に、非核国連であることを言っているのよ。彼の齎したものがどれだけ文化と栄光に満ち溢れたものであろうとも、殺された人たちの慎ましやかな生涯は戻ってこない。凡庸な毎日だけど、それでも幸せだった家族が、チンギス・カンの威光のせいで散り散りになって、道路だけが残される。その上を、関係のない奴らを乗せたロールス・ロイスが走る。日本帝国が朝鮮や台湾を近代化させてやっただなどという言は、たといそれが事実であろうとも、その暴力の罪を濯ぐものではない。どんなに至らない親であったとしても、新しい素晴らしいお母さんや、お父さんと交換するということを唱えるのは残酷であるからよ。もっとも、私は孤児だから、本当の家族のありようというのは想像の範疇を出ない。けれど、常識的に考えてそうとしか言えない。ママちゃまがただ一人先生ではなくママちゃまであり、私たちの本当のお母さんでなくとも私たちを本当に愛してくれたこと、彼女がある時から花嫁になるという凡庸な夢を見るのをやめたその意味を、私はこれでも理解できる人間なの」
 ボブは頷く。
「一緒に来いよ。いや、私が一緒に行くよ。私は君のその話が聞きたかったのだ。君のチンギス・カンに関する見解にとても感銘を受けた。ポパーやアドルノの講義を散々聴かされたが、私が漠然と思っていたことをここまではっきり言ってくれたのは、案外君だけだぜ」
「あなた、エースケに会ったでしょ」
「エースの方からコンタクトして来たのだ」
「あいつはヒトラーまでも素晴らしい革命家だって言うから、決裂せざるえおえなかった」

 ナカノセはそこでガタンと席を立って、スタスタと歩いてゆき天幕の扉を開けた。
「みんな入って。記者会見は私がする」
「ダメだ。まだ入るな。おい誰か止めろ!」
 ルッカウトは言う。
「ナカノセ、あんた知らないわよ。今度こそ解雇されるわ」
「エディスに報告したいならしに行けばいいわ」
「こんな時に勝手なことをすれば、滅茶苦茶になる!」
「私は死ぬほど冷静よ。どのみち決着をつけねばならない時に来ている」
 ナカノセは勝手に薬缶を取って自分のカップにコーヒーを注ぎ足した。
 この記者会見にはT記者が来ていた。驚くべきは錦糸社の編集の佐藤さんまで来ていたというのだ。
 私は佐藤さんから、もしもホームを再建することになったら、立ち上げに協力する気はあるかと訊ねられた。私の答えは簡単だった。ナカノセが戻ってくるのならば。
 猫崎もママちゃまもいない今、ナカノセもいないとなれば、新設されるそこが私のホームである可能性はない。
 国男が立派な青年になっていることには感銘を受けたし、自分の小市民ぶりというか、不甲斐なさも身に沁みていたが、一方で、家族にはこれ以上心配をかけたくはなかったし、巻き込みたくもなかった。

「飛行機来!」
 その時、外で雇われている漢族の男が鋭く叫ぶのが聞こえた。
 機材を担ぎ込んで席につこうとしていた記者や、地域の顔役たちが慌てて外に飛び出すと、アルトマイまで退避したDC-3の二機が戻ってくるのが見えた。






§ 五七 ブラナの塔

 アヴァス通信の記者による、戦時下のアルタイの状況を書き綴った記事がフォーリン・アフェアーズ誌に掲載されているのを私が見つけたのは、状況から一年後、やや遅ばせになってからのことである。
 この記者は、アルタイへの補給を敢行するDC-3機の飛行ルートを描いた線が、山間の地点不明のブラナと称される前線基地から来ていることまでは知っていた。
 自らも飢餓状態にある中で、DC-3機の英雄的活躍を淡々とした文体で謳いあげる。
 その一文のうちに、かくあった。

 『名もなきハムスタンの少年は言う。誰が忘れたって、僕は忘れない。本当に戦わねばならぬ時に戦った人たちのことを。彼の手が届かなかったならば、あの飢餓の月を超えることは出来ず、今日とて訪れなかったという真実を僕は忘れない』

 この名もなきハムスタンの少年というのはその後、ほぼ間違いなく沈武少年のことであることも解った。また、この時の私は、一つの記憶を思い出してた。というのは、私はブラナを知っているかもしれないのだ。幼少の頃、私はホームの職員室にあった何かの本で、断崖の端に墜落した飛行機の写真を見たはずだ。あれはブラナの塔だったのではないか――。
 休日の毎に大磯に通いつめて書庫を引っ繰り返すこと一月あまり。ついに私はそれを見つけた。記憶していたイメージとはだいぶ違ったが、確かにそれはあった。そして、そこには確かにブラナの塔と明記されていた。頁を捲ると更に、ブラナ峠の絶壁から落ちた飛行機を見下ろして手を合わせている十人ほどの男女の写真があった。
 冒頭の辞に、ここで命を落としたパイロットと、この戦争の犠牲者への短い追悼文が記されているが、その記事の内容は主にブラナの塔の来歴に関する記述である。
 ブラナの塔はジャムのミナレットと共に戦後に発見された大型遺跡の一つである。崖を取り巻く幅五十センチもない細い道を行くが、これでも最盛期には交易の要衝で、宗教的拠点でもあった。
 塔の内部を一階から見上げた写真が一枚。内部の階段の写真がある。一瞬灯台のようだと思ったが、まさしく、ブラナの塔と灯台の関係について論考されている文章で、そこから引き出される歴史認識はちょっと変っている。筆者は書いていないが、恐らくはイーサー先生である。以下はその要旨である。

 ――ブラナの塔には古い伝説がある。ある国の王様が自らの愛娘のために百人の占い師を集め、その将来を占った。占い師たちは王様に気兼ねして、王女は百歳の長寿まで生きるとか、百人の子供を生むなどと予言したが、その中で一人の占い師だけが不穏な予言をした。曰く十六歳になるまでに王女は黒い虫に刺されて死ぬと。
 王様はこの予言を阻止するために、ブラナの塔を立てて娘を十六歳まで幽閉して育てることにした。やがて何の不幸も起きることなく娘は十六歳の誕生日を迎え、王様は娘のために果物を盛った大皿を持って祝いに出向いたが、その時、大皿の中に紛れ込んでいた黒い虫が這い出てきて、娘はその虫に刺されて死んでしまう――。

 興味深いことに、この物語とほとんど同じ内容の話が遠く離れたトルコのクリミア半島に存在する。クリミアのユスキュダルにある古灯台は、クズクリッセ、あるいはメイデンタワーと呼ばれ、日本語では乙女の塔と訳されるものであるが、この塔には名前の由来となった伝説があり、その内容は、先のブラナの塔の伝説と、ほとんど同一のものと言って差し支えない。

 ――その国の皇帝には一人の娘があり、目に入れても痛くないほどに可愛がっていたが、ある日のこと一人の予言者がやって来て、王女は十八歳になるまでに毒蛇に噛まれて死ぬと予言した。皇帝は娘を守るためにボスポラス海峡の海の上に塔を建て、娘を閉じ込めて育てることにした。娘が無事十八歳の誕生日を迎えることが出来た日、皇帝はプレゼントの果物の入った籠を持って祝いに出向いたが、その時、籠の中に隠れていた小さな毒蛇が這い出てきて、娘はその毒蛇に噛まれて死んでしまう――。

 筆者によれば、この二つの物語が指し示すところは「検疫の神話」であるという。地政学的な危険と利益を併せ持った要衝、交易地点の寓話であり、有史以来戦争の最前線に存在することを運命付けられている土地の話だ。共にテュルク系民族の地に残る伝説であり、彼等の言い伝えが、シルクロードを伝って通じていたと考えられる。
 イスラム教のモスクにはミナレットが併設されるが、これは光の塔という意味であり、ブラナの塔も単体ではあるが典型的なミナレットの一つである。アレクサンドリアの大灯台を始祖とし、砂漠に向かったものはイスラム教の光の塔、ミナレットになり、沿岸部を伝ったものが灯台になった。スペインのキリスト教の聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステラには現存世界最古の灯台であるヘラクレスの塔が立つ。これらは宗教と関連があるというよりも、当時は祭政一致であり、宗教が公的なものであったことからの必然である。現代に近づくほどに、祭政は分科されていったとも言える。日本にも海辺の烽火、灯明台がなかったわけではないが、欧州式灯台の受容は明治維新を経て近代に入ってからであり、その時既に祭政は分離していた。その導入は官主導であったため、他の地域に比して画一性が特に高く、日本の灯台はどちらかといえば個性に乏しく官僚的である。

 尚、メイデン・タワーには周辺地域の他の灯台の話を引き継いだもう一つの話があり、それは、ギリシア神話のヘーローとレアンドロスの伝説である。こちらは比較的有名だ。

 ――アフロディーテを祀るセストスの塔の巫女であるヘーローと、その対岸に住む青年レアンドロスは恋仲である。へーローは夜な夜な塔の上から火を灯し、レアンドロスは毎晩海峡を泳いで渡りヘーローと逢瀬を重ねる。アフロディーテは愛の女神であるから許して下さるはずだとレアンドロスに強く迫られ、ヘーローは巫女の身でありながらレアンドロスと情を交わす。
 夏の間は海波が穏やかで、二人は毎日恙無く会うことが出来たが、ある冬の日、海は大荒れとなり、へーローの灯す火は消えてしまい、暗闇で方向を失ったレアンドロスは波に飲み込まれて溺死してしまう。その亡骸を見たへーローは悲嘆に暮れて、後を追うように塔の上から身を投げて自死した――。

 へーローとレアンドロスの話もまた外部からやってくる幸せを受け入れる過程で娘が死んでしまうのであり、その背景にあるものは、黒い虫の話と、毒蛇の話と同じものがあると筆者は語る。ヘーローはアフロディーテ神の命に背いてレアンドロスに気を許したことが裁かれたのであり、レアンドロスもただ運が悪く海流に揉まれて命を落としたのではない。
 筆者は更にここで、その世界観、歴史観において、かなりダイナミックな指摘をしている。「検疫の神話」は禍福を別けようとする、いつの時代も変らぬ人の心を示すというに留まらない。たとえば、検疫の神話を報われる形にしたならばどうなるか。物語は示すところの弱い、腑抜けた話になるだけであろうが、この背景には人間の実際の営みが存在し、そこに人類の歴史が連綿と紡がれてゆくのである。
 王女が真に幸せになるには、蛇蝎という蛇蝎をこの世から抹消するか、王女を塔から一生出てこれない形にすればいいのであろうし、ヘーローとレアンドロスが幸せになるには、小うるさいアフロディーテを抹殺し、海峡をコンクリで埋めて、歩いて会いにゆけるようにすればいい――。
 これは一見して馬鹿げた極論のようであるが、現実の方が馬鹿げた極論に刻々と近づいているのであり、現代は、極論に至った現実がその真の姿を現す時である。
 この物言いや、考え方は、まさしくイーサー先生特有であり、この文章がイーサー・エルクのものであると考えるのはそのためである。
 著者は続ける。
 ――全ての神はヤヌスであるとは、F.M.コーンフォード(R.J.コーンフォードの方ではない)の言であるが、ヤヌスとはギリシア神話における二つの顔を持つ扉の神であり、全ての扉に宿る存在である。全ての神はヤヌスであるというのは、つまり、全ての神は何かを善として通し、何かを悪として通さないシステムであると言っているのである。蛇蝎やアフロディーテがいなくなった世界とはどういうものであるか。それは扉のない世界であり、いかなる扉をも焼き払われた世界であることも意味するであろう。最後の扉が開いたのである。

 日本における初代灯台部総監は、日本赤十字社の初代総裁であった佐野常民で、一見彼の持つ二つの経歴は何の関連性もないようであるが、彼の携わったそれはどちらも近代社会の官僚機構、社会システムの一環として導入さた新技術、新概念であったことが解る。赤十字は日本で一番普及に成功したキリスト教であり、イエズス会が医療を餌に布教して回ったように、宗教と医療の結託というのは最も本質的な布教の本質である。医療と宗教が結託するということが意味するのは、生前と死後の両方を支配することである。そうであれば伝道活動が、博愛の名の下に侵略を伴ったのは必然である。啓蒙とは言わば、昼も夜も、生も死も、人間が認知する全てが一望監視塔の内側に包括されることであり、認識の内側に全てを取り込んでゆくことである。
 地球世界を経緯度によってグリニッジ線から順番に等間隔に刻み、時空間を科学的に、数量的に語る時、かつて人々が信じていた詩の世界は非真実として忘れ去られてゆく。
 日本の官設灯台群は欧米から見て情報が乏しく航行の困難であった日本列島周辺の海域を、一気に文明化してゆくことに一役買ったが、海を機械化し昼夜をなくしてゆくその性質をもって、ことの本質を先鋭化させていた。
 啓蒙(Enlightenment)的であること、つまり「光で照らし出す」ことは、その後、啓蒙の弁証法(Dialectic of Enlightenment)「光で照らし出すことに関する対話」として、アドルノとホルクハイマーによって批判されることになったが、自然支配の最終形は、内なる自然へと及ぶことになる。自然支配と植民地支配が進んだ結果として、人間自体が最後のフロンティアとして残されることになったのである。侵襲という医学用語は、あらゆる手術行為を含み、その本質に危害が含まれることを前提としており、その行為が、侵略や襲撃と紙一重、あるいは同じことであるという由々しき本質は、たとえその言葉を変えることが出来たとしても避けようがない。
 啓蒙主義が自然支配、植民地獲得の思想であれば、それは、人体への侵襲も行われることもまた、避けられないものとして現れ、人類種の遺伝子への非可逆的な影響を与えることになる。人間にとって最後の植民地は人体というミクロコスモスであり、人間が世界、ひいては宇宙というマクロコスモスを支配しようとする時、その中に住まう人間だけ、啓蒙されないで済むわけにはいかない。






§ 五八 手を見せてみろ

 標高が高く風は強い。零下二十度を下回る乾燥した大気は、肌を刺すほど冷え、日が沈めば氷点下四十度に迫る。ブラナ峠の気温は真冬のシベリア並みであった。
 人を寄せ付けず、空からも見つからない。老鉄山はその断崖に突き出した塔の上からエンジンの青白い炎が上がるのを眺めていた。
 気紛れな突風が吹きつけ、短い滑走路は、様子を伺いながら加速する余裕を与えない。一撃で決心速度を超える必要があり、離陸中止は不可能である。飛行機が西へと飛び去ってゆくのを見送ると、どっと疲れが出て、足元がふらついた。今度の眩暈はなかなか消えず、部屋の隅の翳っている方は最早よく見えなかった。
 イーサー・エルクと共に塔の螺旋階段を下り、細々とした仕事を終えたところで、老鉄山は意を決した。
「あなたをイーサー・エルクと解った上で頼みたいことがあるのです。この状況では、紅軍兵士とて長くは持ちません。私たちはその立場がどうであれ、人の子の幸せを願ってきた。それが私の信じていた共産主義です」
 老鉄山は凍てつく蟀谷とぼやけた瞳の向こうに、有体な、しかし彼女の信念であるところのそれを、最後の勇気でもって言葉にした。
 真理は寒梅の似し――。二の句が思い出せなかった。老鉄山はその昔、日本の桜の凄まじい咲き誇りようを見てそれを梅の一種と勘違いしたことがある。梅とて環境さえ揃えばそうなるのではないかとも訊ねた。無論、最後日本を去る時には、それがおよそ非科学的なことであることぐらいは解っていた。
 しかし、もっと苦い記憶はあの句が日本人のものであると知って、自分でも何故だか理解できぬほどに、落胆したことであった。そのことを沖ノ島はあっさりと見抜いた。落胆したのはそのことであったのかもしれない。中国は長らくその自尊心を挫かれてきた。
 彼女は屈託なく言う。梅は元々日本にある樹ではない。遣隋遣唐の時代に当時の中国から輸入され、長らくの間、日本で最も愛されてきた樹花である――。
 沖ノ島とは親友になれそうだと思った。自然と笑みが零れる。実際良き友である以上の関係を築き、戦いの中で、二人はお互いに掛け替えのない存在となっていった。沖ノ島が飛び抜けた資質を持っていることは、何も日本人のそれを体現しているのではない。彼女が特別なだけである。何より彼女は日本の帝国主義を憎んでいる。無論自らも――。自分も同じだと思っていた。沖ノ島の親友であることは、心のうちに言い様のない充足を与え、その上、どれほど沖ノ島が介在しようとも、大陸の生まれである自分こそがその正義の根拠の持ち主であるという理屈は決して朽ちることのない正当性をもっていた。それがどれほどの試練を強いることになろうとも。
 そして、阿Qは、阿Qというのは私の何であろう。あの男は何故――。そう思ったとたん、ばっと礫を含んだ黒い風が巻き上がった。阿Qはもう死んだのだった。
「言いたいことがあるのなら早くしたまえ。お互いに明日をも知れぬ命だろう」
 老鉄山は、目の前でイーサー・エルクの顔が間近に覗き込んでいるのに気付いて、我に返った。どのくらいの間があったのか。話している最中にもかかわらず、知らぬ間に気を失っていたことに驚きつつも老鉄山は続けた。
「アルタイ城外へも救援物資を投下すべきです。私たちは――」
「当然だよ。君はこの期に及んで私が裏切るとでも思っているのか?」
「ああ、イーサー。漢族離不開少数民族、少数民族離不開漢族!」
 そう言った瞬間、老鉄山を思いやるように見つめていたイーサー・エルクは憤怒の表情で眦を裂いた。
 外界の風が全て内側に入り込んだようになって胸を冷やす。老鉄山は不意に口を突いて出た党のスローガンに後悔し、ハムスタンの存亡を握る、デモクラシーの化身のような男の口から、容赦のない批判を聞かされることになった。その言葉は務めて静かなものであったが、留まるところを知らず、風と砂のように幾らでも吹き付ける。

 ハムスタンの首領であるイーサー・エルクは言う。
「少数民族は漢族と仲良くする前に、まず公平であるべきだ。私は人間として漢族のハムスタンの民に対するジェノサイドを躊躇なく非難する。暴虐とは人々が仲良く出来ないことではなく、無理やりベタベタさせることだ。
 我々は漢族に同化することを脅迫されている。漢族はハムスタンを蔑視し、同化することを拒んでいるのにもかかわらずだ。漢族は非漢族への差別的な分離政策を採用しながらも同化政策を強いている。そんなことがありうるのかと思うのならば、ナチの強制収容所を思い返してもみたまえ。ナチスドイツはユダヤ人に対し、絶滅収容所という究極の分離政策を強いながら、その政策への従順を誓わせたのだ。
 漢族が望む時、我々は友人であらねばならず、漢族が望まない時は、我々は一緒にいてはならない存在だ。漢族が我々を望む時とは搾取する時であり、漢族が我々を望まない時とは、我々が人として当然の扱いを要求する時である。肉と魂を剥がし牢獄の中に放り込んで逃げられないようにした上で、最低限度の権利を取り上げることで、自らの意思として、その口から恭順を望ませる。
 どうして人を殺してはならないのかなどということに疑義が挟まれるとすれば、それは最早、可能か不可能かの話であって、良いか悪いかの話ではない。それは人倫の話ではなく、倫理はいらないと言っているに等しい。全ての倫理性は可能性よりも小さいことによって守られるのだ。
 倫理の輝きは常に小さい。漢族も非漢族も含め我々が信じてきた共産主義とは、反自由主義であることを私は隠さない。しかし、それは決して、畑で取れる日々の糧を許さないようなものではなかったはずだ。残虐の自由を許さない正義であったのだ。
 どうして拷問は許されないのか、どうして民族浄化は許されないのか、どうして奴隷制が許されないのか。そんなことまで、論理的に説明しなければならない理由はない。私たちはユートピアを求めているのではない。人間にとって、最低限度の世界を掴むために私たちは戦ってきたのである。正義とは何かと嘯いて、相対主義に持ち込むのは、双方の正当性が、議会において、どうにもならないとこまで衝突してからでいい。それが民主主義というものである。民主主義とは単なる多数決のことではない。真っ先に優先されねばならない問題がある。人倫はこれ以上貶められるわけにはいかない。君も、私も!」
 老鉄山は判決を言い渡される囚人のように首を項垂れ、肩を窄め、その両手は風の中で力なく揺れていた。
「手を見せてみろ鉄山」
 老鉄山はイーサーの手をさっと払い、塔の入り口の暗闇の中へと身を引っ込ませた。
「夕飯にしましょう。あなたがその覚悟ならば、私はもう何も悲しくはない。私は今でもあなたと同じ世界を信じている。これだけは解って欲しい。漢族の多くは今でもその共産主義を信じている。私はそう信じている」
 塔の入り口で二人の差し迫ったやり取りを見ていたフォルチュネ医師が、ゆっくりと立ち上がり、外に出てきた。
 フォルチュネは言う。
「そんなことをしたらハムスタンの団結さえ危ういぞ。正気かイーサー」
「わからん奴らは騒ぎ立てるであろうが、大したことではないのだ。停戦が先んじるだけのことだ。ヤフヤーも羽賀も私の意図が解らんことはありえない」
「度を越えた良心はサイコパスのエサにしかならん。それでどうやって、毛沢東に勝つつもりなのだ?」
「私は勝ってみせる。歯と爪を血で染めたとテニスンが歌い上げたこの世界で、私は人倫の存在を証明してみせよう」
 背景がほとんど忘れられ去られた今でも、その話だけがぽつと思い出されたように語られることがある。
 ハムスタン紛争が論じられる時には、必ず付言されることではあるが、当時のアルタイ城内にいる十三万人の民族構成は、ハム漢比八対二程度であったと言われる。アルタイ城外を囲む中共軍においては、三対七ぐらいで民族構成が逆転しているが、どちらにしても割り切れない状況がある。ただしそれは、ハムスタンの首領であるイーサー・エルクの思うところではなかった。
 敵に塩を送ったとされ、後世語り継がれるイーサー・エルクの謎の行動は、解らぬ者には永久に謎のままであったが、当の本人には何の迷いもなかった。何よりも彼をよく知る者たちがそう証言し、最後には、それ以上の説明は出来ないと言ったのだった。

 ハムスタン紛争の真実を十年に渡り追い続けた西川雄二記者はその著書においてこう結んでいる。
『イーサー・エルクが他ならぬ革命軍の首領であったことや、当然そうあるべき戦略家として考えた場合の評価を一先ず横において、仮に、彼にそのような打算がなかったとしよう。私は、何が起きたのかは解った。しかし、それが何故であったのかは結局解らぬ仕舞いであった』
 彼は自ら撞着を言っていることに気付いていない。「何故か」と問うことは、そこには如何なる打算的な理由や不可避的な原因があるのかと問うているのである。それは無限背進に陥らざるを得ない。
 私が秋の空き地で精霊バッタを捕まえるのは、私が精霊バッタを見つけたからである。私が精霊バッタを見つけたのは、私がそこにいたからである。私がそこにいたのは、私がお母さんに頼まれて、お使いのために家から出てきたからである。私が家にいたのは、私がホームから家に戻ってきたからである。私がホームにいたのは戦争が起きて家族と離れ離れになった過去があるからである――。
 これらは全く正しい事実であるが、どのように起きたのかを説明していても、何故私がそう思うのかを説明しないで、私の行動を尾行して回っているに過ぎない。その説明は、心から物の彼方へと遠ざかってゆき、とどのつまりは宇宙の果てにまで行き着いてしまうであろう。そんな説明が許されるのであれば、やはり私が精霊バッタを捕まえたかったからという説明で十分である。
 事件が大きければ大きいほど、人はそこに人生を変えるような劇的な理由を求めるが、終局魂には理由がない。魂は理由ではなく原因だ。その信憑性が高ければ高いほどそうならざるをえない。それがどれだけ劇的であろうともである。唯物論者ならば、それは風が吹けば桶屋という話に過ぎないと言うであろう。あらゆる神話は、そこに説明がつけられることによって機械論へと回収されてしまうのである。
 人間のあり方の極限にサイコパスがいるのならば、また一つの極限に、極度に倫理観の強い人間が生まれてきてしまう。それが没倫理的な荒廃の局地にあるような世界であればあるほどに。遠心分離機にかけた粒子のように、重いものは残り、軽いものは遠心力で遠ざかってゆくと喩えることも可能かもしれないが、何故重いものが重かったのか、何故軽いものが軽かったのか、その答えはいずれ人の手の届かない虚空の断崖に突き放されることになる。彼の行動が信じ難いものであればあるほど、彼がそうであった理由は人生から隔絶しており、その歩みの中にはその原因を探し出すことが出来ないものとならざるをえない。
 この世界が皮肉なものであり続ける限り、その火種は生まれてこざるをえなかったのである。それを解ろうとするのであれば、彼は、いいや、私こそはそこに居合わせるべきだったのだ。






§ 五九 敢て風雪を侵して開く

「あんなところに人がいるぞ!」
 沈武は砂塵の中に揉まれる一行が、草木の生えぬ山岳を縫うようにして進んでいくのを飛行機の窓から捉えた。
 老鉄山とフォルチュネ医師と共にブラナの塔へと向かった沈武は、既に半包囲の状態にあったアルタイに潜入したものの、風邪で熱を出して動けなくなった。その後、アルタイの紅卍会に保護されることになったが、イーサーが操縦するDC-3が着陸すると、難民輸送作戦の第一便でブラナへと送られていた。アルタイではマックス機の強行着陸後に、羽賀少佐を中心にアルタイの大通りを用いた滑走路が整備されていた。沈武は動ける程度に身を持ち直すと、物資投下の役を名乗り出て、その任を受け持つこととなった。
 DC-3機は山間を行く小隊の上空五〇〇メートルを旋回し、確認を取ると信号弾を放った。地上からは沖ノ島の探索隊が手を振ってそれに答えた。

 空はまだ明るいオレンジ色の光を注いでいたが、ブラナ峠の北側に回ると既に暗黒の世界で、ほとんど横這いにならねば通れぬような崖沿いの道を氷斧一本で時間をかけて上ってゆかざるをえない。ミナレットがほの暗い光を放っているのが見える。既にアルタイへの物資輸送作戦が始まっていた。
 沖ノ島たちの存在に気が付くと、谷にガソリン缶を投棄していた人影がぴたりと止まった。
 沖ノ島は警戒を解くために手を振りながら言う。
「無駄足になってしまったわね!」
 猟銃を構えたフォルチュネは警戒を解かぬままに言う。
「無駄ではない。よく来たな! このままでは危ないところだった」
 全員が無事に到着すると、フォルチュネに案内されて狭い塔の中に入った。階段の脇まで埋め尽くすほどに荷物が山積されており、背嚢が邪魔をして、そのままでは進めない程であった。
 青白い顔をした老鉄山が灯室から出てくる。沖ノ島と目が合う。老鉄山の方はよく見えていない様子だった。かなり近づいてもその表情は変わらない。
 沖ノ島は後悔した。強引にでも、押し留めておくべきだったのではないかという思いが一気に溢れ出してやまず、老鉄山の肩を抱いたまま、いつまでも離すことが出来なかった。
 直後カザフから戻ってきたグルーエンサー機がブラナの飛行場に降り立つことになった。
 辛うじて西日が残っており見通しは良かったが、見る間にその光は色を失ってゆく。既に東の空には星が出ている。日が落ちてからの着陸はほぼ不可能であった。かなり際どいスケジュールを組んでおり、あと五分遅れていたら、着陸出来ずにカザフまでとんぼ返りせざるをえないところであった。
 松明を焚き、風力と風向きをイーサーが確認をとっている。松明をフォルチュネに手渡すと、イーサーは走って滑走路の奥の塔へと向かい、階上の老鉄山に伝えた。
「着陸させろ! 小さい方からだ。間違えさせるな!」
 落ちる西日を頼りに、護衛のスピットファイアと本隊のDC-3とが立て続けに着陸を慣行し、難なく成功させた。
 着陸の誘導を済ますと老鉄山は、最後の役目を終えたようにその場に崩れ落ちた。

 アノラックのフードを制帽ごとかぶったグルーエンサーと、フライトスーツ姿のマックスが寒気に身を屈めながら滑走路へと降りてくる。
 強風の中イーサーは二人に向かって言う。
「荷物は後だ! 少し休もう!」
 イーサーは飛行機が風に飛ばされないように手早くロープを括りつける作業を終えた。
 沖ノ島はそれを手伝いながら、頃合を見計らってイーサーに言う。
「イーサー、大事な話があるわ」
「なんだ」
 イーサーは話の内容に勘付いたように、僅かに立ち止まった。
 沖ノ島はその腕に手を回して、足を前へ進める。
「中へ」
 塔の中へ入って扉を閉めると外の激しい風音が途切れ、一瞬にして世界が消えたようになった。
「カザフへ来なさい」
「何故だ」
「あえて私が説明する必要があるの?」
「無論だ。説明してみろ」
「説得が必要ということかしら?」
「どちらでも。それが重要なことであれば言えばよいではないか」
「上へ」
 沖ノ島は、イーサーにカザフまで来るように説得を試みたが、やはりイーサーは首を縦には振らなかった。
 イーサーは言う。
「ブラナ・カザフ間はグルーエンサーに任せている。私はまだここを離れるわけにはいかない。何にしてもこの通り手狭だ。このままでは限界に至るのは目に見えている」
 沖ノ島は言う。
「それは私たちがやります。そのために来た。あなたにはカザフまで行ってもらわないと困る。あなたが去らなくても、彼らは国外へ出る方向で意思を固めている」
「ティムルもか」
「ええ。少佐が中心になって」
 イーサーは暫し考え込んだ。
「いや。まず、明日中にアルタイへ空輸を再開する。カザフへはそれからだ」
 グルーエンサーは言う。
「イーサー。どのみちDC-3一機では追いつかんぞ。塔を挟んでカザフとアルタイの両端を繋いでの区間輸送にする。最低でも二機が必要だ。戻って兵站を繋がねばならない」
 マックスが口を挟む。
「オレが行ってもいい」
 グルーエンサーは、マックスの肩を掴んで後ろに追いやった。
 マックスは温めた豆の缶詰で既に食事を始めている。
「イーサー。君は一度キャンプへ行く必要がある。君ぬきで避難民の意思決定をすれば、後々揉める原因になる。民族的意思で脱出したとしない限り、意図に反して誘拐されたと言い出されては、我々としても立つ瀬がない」
「そんなことは口が裂けても言わんよ」
「お前が言わなくても、言うやつは出てきてしまう。民衆はお前と違って、生きねばならない。彼らは自分たちの命だけが財産だ。しかし彼らはハムスタンの未来だ。お前の意思が必要なんだ」
 グルーエンサーは滑走路の図面をポケットから取り出して、木箱の上に置き、その上で飛行機の縮尺模型を配置してみた。外を覗いて実際の状況と見比べてみると、ロープで固定されたスピットファイアが風に煽られて頼りなく揺れていた。
「ダックを二機に、スピットファイアを一機……。やってみせようじゃないか。どう思うマックス」
「オレは大丈夫だ」
 沖ノ島はグルーエンサーに言う。
「ここにDC-3を二機着陸させることは出来ないはず。言ったはずよ。アブドルカリム達は今でもあの機体の中にいる」
「アルタイへの着陸が可能なうちは回せるはずだ。タイミングがシビアだが、対空機銃が設置されないうちに、やれるだけやる。そうだろうイーサー」
 イーサーは風化した飛行機の残骸を晒す谷底を睨みながら言う。
「やるしかあるまい。状況は悪いばかりでもない。近場にもう一本飛行場を確保出来る可能性が出てきた」
 沖ノ島は驚いて訊ねる。
「そんなものがどこに?」
「ここから北北東三十キロの山間に飛行機が着陸できそうな平坦な道が出来ている」
「それは炭鉱よ」
 沖ノ島は古い記憶を呼び起こす。確かにイーサーが幼少期を過ごした炭鉱がブラナからそう遠くない山中に存在した。
「でもそこは廃坑では?」
「復活している」
「何故?」
「解らん。しかし人が戻っているのを空から確認した」
「活動している状況ならば共産党の勢力下でしょう」
「いや。カザフに行き着かないで戦っている子供たちがいる。アルタイに呼応して決起したらしい。連中だけで挙兵したのだ。彼らをどうにかしないとならない」
「状況が解らない。中共の偽装工作という可能性は?」
「ありえない。白月旗が踊っていた。赤旗を踏みにじっている。彼らは我々の動きを察知して飛行場を建設している。なかなか優秀な奴らじゃないか」
 グルーエンサーは問う。
「何かあるのかその炭鉱には」
「何もない。私が十歳の頃には、既にろくな炭は出なくなっていて、閉鎖されたはずなのに。あんな場所がまだ残っているのだ。四十年経っているのだぞ。信じられるか。未だに馬鹿げた奴隷制を続けているのだ。力を与えたい。物資を出来る限り落としてやりたい。着陸出来るはずだ。まず私がスピットファイアで着陸して滑走路建設を指導する。滑走路拡張のためにダイナマイトも必要だ」
 マックスが口を出す。
「スピットファイアでやるのなら、オレが行く。ガキを取りまとめるのは得意だ」
「失敗すると修復が効かない。君はダイナマイトは使えるか」
「使える」
「どこで学んだ? 君は工兵には見えない」
「そんなこと言われたって使えなきゃしょうがねえ。まともな能書きさえあれば一発でやってみせる」
 沖ノ島が言う。
「私が行く。地上から出る」
「あんたは看護婦だろ? こんなとこまで来て、正気か?」
「飛行機で来たのはあなたで、地上から来たのは私でしょう」
 マックスはそんなの信じないと首を竦める。
「日数がおかしい。空を飛んできたのか? ああ、そうか。空を飛んで来たんだな」
 マックスは沖ノ島がプスモスを使ったと疑っていた。
 グルーエンサーは言う。
「……沖ノ島。君がここをやってくれ。自分でそう言ったはずだ。それにイーサー、やはり君はカザフに来い。空路は確保されている。既にキャンプには人が溢れかえっている。君は民衆の元に戻らないといけない。難民は最終的に三〇万人の規模を超えるぞ。報道も入り始めているが、中共のスパイも横行している。世界に訴えるのなら今しかチャンスがない」
 マックスが場違いな大欠伸をして首を回した。
「ああ。流石に疲れたぜ」
 グルーエンサーはそれを嗜める。
「皆疲れている。しっかりしろ!」
「オレは仕事をした。後はそっちで決めてくれ」
「根性なしめ」
 沖ノ島は言う。
「皆もう寝て。後は私がやる」
 イーサーが言う。
「私がやろう。君たちはあと少し頑張ってくれ。飛行要員は眠ってもらわないと困るのだよ。明日は日の出と同時に飛ぶぞ」
 翌朝、イーサーはカザフへ行くことが決まった。老鉄山は昨晩からずっと眠ったままだったが、担ぎこむ最後になって目を覚ました。
 老鉄山はふと、昔のことを思い出して呟く。
「沖ノ島。患者を後方に下げて。阿Qがやられた」
「大丈夫。戻れるわ。いつだって阿Qは戻ってきたじゃない」
 違和感を感じて老鉄山の手袋をとると、筆舌し難い惨い状況になっていた。老鉄山は、既に指を全て失っていた。
「何故黙っていたの? どうして一人で行ってしまったの?」
 頬の上に沖ノ島の額が触れると、老鉄山ははっと現実に戻って、何か言ったが、飛行機のエンジン音がそれを打ち消した。
 沈武が溜まらず懇願する。
「助けてやってくれ」
「はやく乗れ! 行くぞ!」
 マックスが飛び出してきて、ひょいと老鉄山を担いで機内へと運び込んだ。
 沈武がふらっとタラップを降りてくる。沖ノ島はそれを押しとどめた。
「あなたも乗りなさい」
「オレは大丈夫だ」
 少年は遠くを見ていた。赤い地平線の遥か彼方に金星が光っているのが見える。
「戻りなさい。あなたは十分戦った。老鉄山を頼む。私もすぐに行く」
 DC-3にマックスのスピットファイアが護衛について、二機は飛び立っていった。






§ 六〇 焼け野原に

 寒風吹き荒むキャンプはどこまで掻き分けて進んでも避難してきた人々で黒集りになっていた。カザフ兵に警護させ、人々を追い出して作った天幕の中には空輸された救援物資が集まっている。たどりつくまでに体力を使い果たした人々は虚ろな目をしてほとんど動きを見せなかったが、まだ力の残っている者たちは気が立っており、隙さえあらば天幕の中に突入しようとしてくる。何故救援物資を早く配らないのか。それらは自分たちのためにあるのではないのか。尤もであるが、実態スタッフたちはそれこそ寝る暇もなく連日働き通しであった。ナカノセは、いつ終るとも知れぬ物資の開封作業を続けていた。手の傷が膿んで霜焼けと合わさって炎症を起こしていた。看護婦から投げて遣されたハンドクリームを急いで塗ったくると、血が伸びて一面どす黒いピンク色になる。仕事にならない。部署を替えてもらうと、今度は木箱や段ボールを解体して焚きつけにするために手斧をふるい続けた。
 ボヤ騒ぎ、部族間の衝突、物資の消失、これらのことには事欠かない。毎日十数人のペースで死者が出ているが、報告に登らないものもある。滑走路の中に人が入り込んで、着陸できないといったトラブルも増加していた。
 ナカノセがぼうとした頭で、腕の疲労にうんざりしながら背を伸ばすと、人混みの向こうに何か新しい建物が出来ているのが目に入った。
 キャンプの一角にボブ・カリントンの指揮によって大型の天幕がもう一つ建てられ、カザフ兵が集まっていた。エディストーンが駆け込んでゆき、またすぐどこかへと向かって行くのが見えた。それを追ってゆくと、エディストーンは気付いたが、鋭く指先を振るい、戻れとナカノセに示し、駱駝に跨ってどこかへと行ってしまう。最早手が上がらないので、どこかで動けそうな人を雇って、そいつを監督していればいいだろう。そう思って踵を返すと、人混みの中でぐいと腕を引かれた。振り向くとそこにはボブの部下のミミ・マリーという女がいた。
 ミミは言う。
「あんたのボーイ・フレンドが来ているわ」
「国男が?」
 信じられないことだ。いや、ありえないことだ。

 オックスファム第二倉庫と表札のかかる新しく出来た大天幕までへ行くと、かくして奴はそこにいた。いたのはエース。因縁のA。ナカノセの表情は一瞬のうちに苛立ちに変わった。日本の駐カザフ大使が来るにあたり、Aはその随員として前交渉のために下見に来たらしい。
 天幕の中には演壇が設けられ、パイプ椅子が四十席余り並べられており、一見して記者席であると思われた。ナカノセは状況を察した。ついにイーサー先生が来るのであろう。
 こんな奴に構っている暇などはない。そう思ってナカノセが挨拶もせずにその場を飛び出そうとすると、Aは私からの手紙であると嘯いて、全く関係のない封筒をちらつかせた。
「元子が余計なことをしているようだ」
「元子がなんで。早くして」
 ナカノセが封筒を奪おうとすると、Aは相変わらずの気取りで、それを胸ポケットに仕舞う。
「中身を読ませてもらったが、そもそもの問題は何故難民なんかを救わねばならないのかだ。日本はこいつらに何の危害も加えていない。関係がない。自分たちの日々の生活で一杯なのに、それ以上のことなど出来るものか」
「突然なによ。五月蝿いわね。そんなことより、あんたが何でこんなところにいるのよ!」
 ナカノセが怒るとAは笑った。
「駐カザフ大使が俺を呼んだ。あいつは賢明なことに主席交渉官よりも俺をかっている。皮肉なことではあるが、学生運動の旗手でも使わざるを得ないぐらいには連中はこの問題に関しては無知だ。羽賀の名はおろか、白団の実態や、富士クラブのことも知らん。自分の在任中に大事が起きたことを嘆いていて、どうやれば責任を丸投げ出来るかで頭がいっぱいになっているような連中だよ。勘違いしないでもらいたいのは、俺は今でも真のマルキストだということだ。世の中は、搾取する者と搾取される者から成り立つというマルキズムのテーゼは、今でも有効だ。俺は変節したわけじゃない」
 ナカノセは手鼻をかんで外套で拭った。
「どうでもいい。わざわざなんでここまで来たのかって聞いてるのよ」
「難民の受け入れを断固阻止するために。自分の国を守れない人間に発言権はない。弱い民族が滅びるのは当然のことだ」
 ナカノセはさっさと終らせるつもりだったが、この物言いが腹に据えかねて、思わずAの挑発に食らいついた。
「ここの人たちは全く弱くはないし、滅びもしないけれど、万一弱い民族が滅びるのは当然のことならば、戦争の敗者にして、無条件降伏に調印した日本は滅びるべきだったことになる。日本が滅ぼされなかったのは、日本が戦争に勝ったからではなく、国際的正義によって救われたからである。生存と利益に関するエゴイズムを正義とし、基本的人権を無視することが可能ならば、エゴに基づく越境はより優先的に肯定されねばならない」
「まだそんなこと言っているのか! そんなもの、本気だったのか!」
「あんた一つでも本気であったことあるの?」
「これは公表せざるをえないな」
「公表も何も、公然とその目的を世に問うているじゃない。だけど、いい加減、あることないこと言いふらして、余計な真似をするのは許さないから」
「しらばっくれるな。橄欖会は他所のセクトのように国家転覆を試すようなことを望んではいないというのが一つの明白な態度であったはずだ。相変わらずバカな奴だなてめえは……。とんでもないことになるぞ。ナカノセは日本を滅茶苦茶にしてでも、難民を突っ込ませるってな!」
 気がつくとミミがビデオカメラで二人の論争を撮影していた。
「ちょっと止めて!」
「それは出来ないぞナカノセ。撮っていいと言ったはずだからな」
 声の向きに振り返ると、ボブが来ていた。ボブは発電機の電線を投げ込むと、ミミに続けろと指示し自らはすぐに天幕を出て行った。
 Aは言う。
「下手な治世で難民を作り出している毛沢東政権こそが自らを粛清すべきだ。次いで、被害を負っている当事者が戦うべき。我々はその次だ」
「その次になっているからのこの状況じゃない」
「お前の考えは、民主主義の名を騙った内政干渉なんだよ。侵略戦争を肯定することになる。難民の受け入れともなれば、」
「同意する」
「冗談じゃない。その代償を誰が払うと言うのだよ。言いだしっぺが南極あたりでやればいいことだろうが!」
「ナンセンス。ありもしないことを言うべきじゃない」
「できもしないことを言ってるのはそっちだろう! そもそも反核と何の関係があるというんだ。お前は原爆を追っていた。なのに今は大躍進批判だ。何の関係性もない。ホームはエゴだ。お前が活動を続けていくための言い訳にすぎん! 自己批判をしろ!」
 ナカノセはその時不意に呟いた。
「戦いの焼け野原に残されてゆく人たちのために」
「なんだって?」
「聞こえたところで、あんたには解らないことよ」

 マックスがふっと天幕に入ってきて近づいてくる。マックスがAの肩にぽんと手を置くとAは無言でそれを払いのけた。
 Aは全てが終ったとでも言いたげに吐き捨てる。
「……もうすぐ領事が来る。東京オリンピックが近い。中国と台湾どっちをとるかでもめているのさ。お前のことを売国奴と言っていた」
「私は売国奴と呼ばれても後悔しない。左派ってのは売国奴の別名だろうし、右派は人種差別主義者のことだって、そう言ったのはあんたでしょ」
「何故お前が俺と遭遇したのかが解る。エゴイストだからだ」
「あんたと一緒にされるわけにはいかないわ。あんたと一緒なのは、何をどのように罵られても構わないという一点だけよ」
 その場に突っ立っていたマックスが再び、Aの肩にぽんと手をの乗せた。
「言い負かされているようだね、君」
「触ってんじゃねえ! 正論を重んじないかてめえらは」
 マックスは辟易した様子で宙を仰ぐ。
「まったく、こんなモヤシみたいな奴まで大上段で喋りやがるのかよ……」
 警備隊長の男がやって来て、不審そうな様子でAに話しかけた。
「外交官殿。こっちへ来てくれますか。身分照会がしたい。難民団長のティムルさんが呼んでいる」
 マックスらを無視して、Aはふと思い出したような素振りで、胸ポケットから封筒を取り出す。
「ナカノセ。手紙だ」
 ナカノセが受け取ろうとして手を伸ばすと、その途端、Aは角を尖らせた封筒をナカノセの目に向けて鋭く突いてきた。ナカノセはそれを寸でのところでかわすと、間髪入れず拳を放って距離を取った。
 天幕の中が殺気立つ。案外状況が危ういと勘付いて、様子見をしていた警備兵たちが二人の間に割って入る。
「覚えてろよてめえ……。俺は借りは絶対に返す。例外はない」
 Aはそう言って、凄まじい形相でナカノセを睨んだ。
「邪魔。あんたの耳朶なんてどうでもいい。サディストのくせに、自分がやられるとなると、ぴーきゃー喚いて、一針縫ってもらったとか、お笑い草だよねあんたって」
「両目とも潰してやるからな」
「本当にそんなこと言うために来たの? 少しは真摯にものを考えているのかと思いきや、結局台無しじゃない」
「俺の夢はアメリカに原爆落としてやることだ。お前もそう言ったじゃないか。忘れたとは言わせない」
「忘れたわ。私は原爆なんていらないんであって、ただ単に、猫崎に死んでもらいたくなかっただけよ」
 Aは兵士たちに押し留められながらも歯軋りしていた。
「帰るから離せ。触ってんな。触ってんじゃねえ!」
 カザフ兵たちは、不愉快そうに困惑していたが、日本の外交官だと聞いているのか、すぐに手を放した。すると今度はマックスが近づいてきて、その両手で、Aの首筋をすっと包み込むように掴んだ。
「触るなっつってんだろうが! 離せよコラ! 外交官にそんな態度取っていいと思ってんのか? ルンペン野郎! 死に損ないども、どうなってもいいのかッ!」
 Aは渾身の力でマックスの腹に肘を突いたり、向こう脛を蹴りつけたりしたが、それを見越していたようにマックスはぴくりともしなかった。
「落ち着けよ。ちょっと縛って蹴ったり殴ったりするだけだからよ」
 Aがカザフ兵の指揮官に引き渡されて消え去るのを見届けると、天幕の中は途端に静かになった。
 ナカノセは椅子の位置や出入り口をチェックしながら図面を取っているマックスに向かって訊ねる。
「状況は。来るんでしょ。イーサー先生は今どこに?」
「話はまだだ」
「……あいつ警戒して」
「今のアレか?」
「そう」
「あんなピーナッツみたいの構ってるほど暇じゃねえよ」
「檻に閉じ込めておいて。何かある。こんなことで済むような奴じゃない」






§ 六一 必ずだぞイーサー

 某日一六二〇時、ハムスタン航空のDC-3二号機はパキスタンのカラチ、イスラマバード経由で飛んでくる貨物機に合流して、中カザフ国境地帯のソルヴェノク-Cキャンプに着陸した。
 イーサーを乗せた飛行機がキャンプ上空を迂回し、西側から飛んで来たかのように見せかけて着陸したのだった。

 一九六二年の暮も押し迫った時期にDC-3が毎日、払暁から黄昏までおよそ二時間おきにアルタイ上空に飛来し、物資投下を敢行していたという。
 アルタイ城内では凧が上がっているのが見えた。
 ハムスタンの凧は喧嘩凧である。割ったガラスの破片を紐に纏わりつけて、相手の凧の紐を切る。手を血みどろにするのも厭わずに、切れた凧を子どもたちが追いかけてゆく光景を羽賀少佐は見つめていた。皆が飢餓状態にあったが、彼等はただ飢えて絶望しているだけではなかった。
 白く輝く凧はアルタイの城壁を飛び越えて、人民解放軍の陣地へと飛んでいった。まだ十代の者も数多い解放軍の兵士たちが、落ちた凧を取りに砂丘の上まで緩慢に歩いて行き、それから数十分後、凧は再び空に上がった。
 彼等は依然として城壁を挟んで対峙しあっており、互いに何も言うことは出来ない。しかし、そこにいる者たちの間で、凧が上がるその訳を理解しえぬ者は一人もいなかった。

 アルタイから遥か西へ、Cキャンプでも凧は上がっていた。事故や、取り合いで暴動に発展することを警戒し、凧揚げは禁止されていたが、時期もあって、手持ち分を止めるには限界があった。青白い空と風に舞う黄砂の中、白い凧が永久にそうであるかのように超然とした態度で風を切り続けていた。

 一人の男がその様子を窓枠の陰から眺めていた。
「見なよエディス。凧を見るのは何年ぶりだ?」
「十年ぶりかしら。私は」
「私も同じだよ」
「イーサー。良く生きてきたわね」
「君に会うために」
「嘘は聞きたくない」
「嘘でもないさ。君に全部を譲るわけにはいかないというだけだ」
「そうあってもらいたい」
 エディストーンはテーブルの上のカメラを手にとると、窓に向かい、凧に向かってシャッターを切った。
 次いで人々の溢れかえるキャンプの様子を。それから、窓際で光を浴びているハムスタン共和国首相イーサー・エルクの肖像を撮ろうとカメラを向けたが、フィルムはそこで終っていた。
 エディストーンはカメラをテーブルに置きながら言う。
「私はハムスタンの民主化のために生涯を費やそうと決意している」
「私もだよ」
「思い残すことはないはずよ。だけど、まだあなたを死なせるわけにはいかない」
「老鉄山の具合はどうだ」
「見てあげて」
「どんな状態だ」
「死んだわ」

 ティムルが階段を駆け込んでくると、イーサーは反射的に拳銃を手に取った。
 ティムルの方も驚いた野生動物のようになって、反射的に扉の前で後退りする。
「私だ。ティムルだ。撃たないでくれよ!」
「ティムルか。随分待たせたようだな」
「待ったぞイーサー! 地域の代表は揃っている。話をするのなら今しかない!」
「何人ぐらいだ」
「四十三人」
 イーサーは言う。
「演説を先にやらせてくれ」
「代表だけ集めて演説をする気か?」
「二度やる。一度目は代表に向かってやる。外国のカメラは来ているか?」
「来ている」
「中継は可能か?」
「可能だ」
 ティムルがエディストーンの瞳を伺う。
「可能よ。カリントンに局を準備させた」
「ラジオはどうなっている?」
「キャンプ内なら通じる」
「最近は妨害が少ないようだ。夜ならアルタイまで通じる。君も何か言うなら気をつけろ」
 ティムルは訊ねる。
「何を演説する気だ。結論は? 状況をどうする気だ?」
「二度やる。まずは君が確認してくれ」

 ナカノセは仕事の合間を縫って毎日、新しい天幕、オックスファムの第二倉庫を見に行った。やって来る飛行機にも注意を払っていた。エディストーンは依然として口にはしなかったが、近日中にイーサー・エルクが来るのは間違いなかった。
 第二倉庫ではハムスタンの重鎮達が集まり、定例の会合が行われており、今日も厳重な警備網を敷いている。天幕の横には兵員輸送用の装甲車が二台持ち込まれ、万一の空襲に備えていた。
 その日の昼下がり、ナカノセが天幕を見に行くと、いつになく厳しい表情の兵士たちに、銃を突きつけられて追い払われてしまった。下手すると撃たれかねない調子だ。
 ナカノセが身を伏せて遠くから様子を見張っていると、暫くして、外国の特派員記者たちを乗せた輸送車がやってきて、彼等は足早に天幕の中に入った。
 ナカノセが諦めて、イースターの管制塔へ行こうとしている途中でAと擦れ違った。
 走狗。行動が怪しい。何をしているのか解らないが、気にしている暇はなかった。
 人混みを縫ってゆくと第三滑走路の方から馬を飛ばしてくるルッカウトと目が合う。ナカノセは急いでそれを呼び止めた。
「エディストーンは今どこに?」
「私も探している。朝からずっと見ていない」
 その時、管制塔の上に備え付けられたスピーカーから、ぶつぶつという泡立つような雑音に続いて音声が流れ始める。
 毎夕キャンプの放送ではカザフスタン国歌が流れ、ティムルが先導して、ハムスタンの避難民に歌わせていたが、その日はいつもとは違った。ハムスタンのウェイオブサルベイション――旧国歌たる革命歌が流れていた。
 群集の中から瞬く間に歓声が上がり始める。それから、ブチッとスイッチを切る音が鳴って、続いて、キーンと鋭い音を立てて耳を劈くハウリングの後に人の声が入り始めた。抗議の声が上がるが、すぐにその声は静まり返っていった。
「同胞たちよ。聞こえるか。私は生きている。私は、イーサー・ムハマド・バダウィー・エルクである。――受難の同胞たち。聞こえているか。私は、ハムスタン・イスラム共和国大統領――神に誓って私はイーサー・ムハマド・バダウィー・エルク本人である。私はまだ生きている。聞こえているのなら返事をしてほしい。今私はこのキャンプに来ている」
 瞬く間に割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こり、マイクがそれを拾って地響きになって拡散していた。ハムスタンの青天白月旗が管制塔の上ではためいていた。この日のために設置された街頭テレビの前は立錐の余地もないほどの黒集りになっていた。
「我々はついに故郷を追い出され、寒風の険しい荒野の中で、飢えと乾き、身を蝕む病に怪我、あらゆる種類の苦難に命を脅かされながら耐え忍んでいる。今の状況は我々ハムスタンの存亡の危機である。同時にこれは世界的な危機として重なり、米ソは再び核のボタンに手を伸ばし、中共においても北京政府はアルタイに核を向け、ハムスタンがソ連邦につくならば、根こそぎ葬りさらんと悪びれもしない態度を崩さないでいる。
 民族全体が根絶やしにされかねない状況にあると言うに決して過言ではない。注意深くよく聞いて欲しい。これはジハードである。私たちは最悪の状況下におかれているが、今尚真の勇気を忘れず神と共に生き、最善を尽くす民である。我々は人を人とも思わぬ仕打ちで強行する毛沢東の大躍進政策には反対だ。私たちはただ飢えているのではない。私たちは正義に飢えているのである。それを誤魔化してこれ以上生きてゆくことは出来ない。
 これから私が話すことはただの演説ではない。ハムスタンの偉大なる首長達が熟慮を重ねた上で出した厳粛な決意である。常に人民に誠実であったハムスタン評議会が長い時間をかけて出した答えだ。
 また、これは、今尚イスラム民主化革命の戦士として、戦列にあり続ける私、イーサー・エルクの決意に基づく指針である。二十年前の革命において、私たちが莫大な犠牲を払って手に入れた革命の精神と、民主主義の理念は、今尚失われてはいない。皆も知っているようにアルタイのヤフヤーを中心とする同胞は決起し、過酷な籠城戦を続けている。
 我等が同胞ヤフヤー・ハッワースはハムスタンの国難に対し神の遣わした戦士である故、アルタイを離れることが出来ない。私も本来アルタイに残るべきであったが、戦局はそれを許さない。既に知っている者たちもいるかと思うが、私は今の窮状を救うため、空輸によりアルタイの糧秣を繋ぐために自ら飛行機を飛ばしており、決定的となる成果を上げている。決して断ち切られることのない我ら民族の紐帯、そして、その正義に共鳴する世界の人々の惜しみない尽力により作戦は成功ならしめ、アルタイの同胞たちは今最大の危機を脱した」
 大歓声が湧きかえり、イーサーの声が聞こえると、また一瞬のうちに静まり返る。
「――戦いはまだ続いている。それ故に私もまた、これ以上西へ食い下がることは負からない。しかし、このキャンプにいる皆は、この地を離れよ。更に西へ向かいトルコ及び欧州へ、あるいは南進しパキスタン・インド経由で日本へと向かう。アラーの正義であり、アラーの御心に叶う、国連の恩恵を受け、この地を離れよ。我々は今日中に行動を開始する。私たちに迷っている時間はない。移動は傷病者、妊婦、十三歳以下の子ども、五十歳以上の老人は手配された飛行機に乗って、イスラマバードに向かう。その他の大人達は順次決められた目的地に向かい各個団結してキャンプを出発する。
 私イーサー・エルクと、ヤフヤー・ハッワースを残し、祖国に別れを告げることに、不安を覚えない者はいないはずである。ヤフヤーはいざ知らず、私とてただの一人の兵士にすぎず、弾を受けて死なぬ存在ではありえない。ならば私とて不安がないわけではない。しかし挫けることはない。預言者の示したあらゆる困難を跳ね除ける勇気と、尽くすところのない不屈の闘志が今尚私の心に燈り続けてやまないからだ。私は、全てのハムスタン同胞に、私と同じ炎が宿っていると信じて止まない。子どもたち。君たちは、必ずやその炎を引き継ぎ、いかなる困難があっても超えてゆく決意を忘れずにあれ。
 君。君だ。苦難に挫けそうになる君に、私は並々ならぬ希望を持っている。民主主義の真価というのは殴られた時にしか解らないのだ。戦う勇気なくして民主主義はありえない。いかなる強大な相手をも敵に回して屈することのない信念が、君のみならず、君の家族と同胞と、世界の全ての人々を死の淵から救う日が来るのだ。いつか再建されたハムスタンで会おう」
 放送の向こうで、ガタンと何かが倒れる音が響き、声が響いた。
「必ずだぞイーサー。皆君を待っていたのに。君はまだ戦うというのか」
「ティムル。君は今や数少ない孤児団の時からの戦友だ。君はゆめゆめ、逃げたなどと思ってはならない。君には君の戦いがある。戦いを逃れてもジハードは終らない。戦いの日々は待っている。私は今でも預言者の生き様を覚えている。平和な土地へ行き着いても、変わらず良き人であることを忘れないで生きていってもらいたい。いつか再建されたハムスタンで会おう」
「必ずだぞイーサー」
「ああ。必ずだ」
 イーサー・エルクは通常スピーチ原稿を用意しない。生の声が、その全てを作り出す。恐らくは民族的宿命で、彼等はそうならざるをえなかった。
 放送が余韻もなく切り上げらられると、一瞬の隙に任務符丁用のサイレンが響き、名もなき群集からイーサー・エルク万歳、ハムスタン万歳の声が一斉に沸き上がって止まらなくなった。当時のあの世界において公然と毛沢東の大躍進政策に否やを唱え、対決の姿勢を表明するということだけとってみても、どれほどの勇気と覚悟を要するか。これはその場にいた人々にしか解りえない。
 
 ナカノセは言う。ハムスタンの人々は、どんなに過酷な状況にありながらも、決して笑みを絶やさない人たちであったと。
 私が知りうる限り、彼等の首領であるイーサー・エルクは、決してよく笑う人ではない。共産世界の衛星国の指導者というのは、その理想と現実の深刻な乖離を繋ぎ止める責と、人生の短さから皆暗い影を帯びており、彼もまたその例外ではありえないのだ。
 しかし、ナカノセは、イーサー先生はいつも笑っていたと言ってやまない。

 ナカノセがイースターの管制塔舎に飛び込んだ瞬間に、狭い出入り口で、出て行く者と入ってくる者がぶつかりそうになりなって交錯した。
 出て行く者はほとんど難民団の各集団の連絡要員である。入ってくる者はナカノセを含むイースターのメンバーと報道関係者を含む他のNGOのスタッフである。
 管制室とされた手狭なプレハブ小屋の中で、エディストーンが青ざめた表情をしていた。
 エディストーンは告げる。
「国籍不明機が当キャンプに接近している」
 ナカノセは絶句した。
「この状況を爆撃するほど中国もバカでもないでしょう? まさかソ連が?」
「落ち着きなさい。あなたはここにいなさい」
「早く警報を!」
 エディストーンは意外なことを言った。
「警報は出さない」
「何故!」
「最早、この状況では逃げ場などないからよ」
「だからって!」
 エディストーンは無表情で続ける。
「たった今無線で権限をイーサーに移した」
「イーサー先生はなんだって?」
「これは脅しだと……。私もそう思う」
「万一、そうでなかったら?」
 ナカノセは不意にスピーカーのマイクへ手を伸ばした。
「やめろッ!」
 見たことのない男がナカノセを厳しい態度で跳ね除けて拳銃を抜いた。
「なんでよ……」
「どう出来ると言うのだ?」
「散開させる。少しでも被害を縮小させる!」
「当たり前だ。それは既にしている。まだ到着までには時間があるからな。ここで混乱を起こしてみろ。やつらの思う壺だ。こんな時こそ、落ちついていこうじゃないか……」
「……あと、どのくらい?」
「情報が正しければあと十分程度。すぐ来る」
「迎撃は?」
「不可能よ。狙撃兵を出したけど、無理。仮に命中させたとしても落ちるようなものじゃない」
「対空機銃は何のためにあんのよ!」
「既にカザフ軍が動いている。でも、無理。命中率は一万発に一発程度。弾も多いとは言えない」
「むざむざやらせるというの?」
「脅しに決まっている」
 ナカノセは食い下がる。
「脅しじゃなかったら?」
「……どう出来るというんだ?」
 男は拳銃をナカノセに向けたままに言った。回転式拳銃だが、散弾が一発撃てる仕様で、散弾の中はゴム弾だ。
 エディストーンは窓の外を見ながら独り言を口にした。
「今この状況で爆弾を落としたら、私はやり返すわ」
 テュルク語でイーサー・エルクが何かを指示しているのが聞こえた。人々は意外にもさして動揺せず、緩慢とした動きで移動を始めていた。
「飛行機が来たぞ!」
 外から声がかかると、一瞬、どよめきが大きくなったが、それ以上のものではありえなかった。
「爆撃機だ!」
「中に入って伏せていなさい。床を開けて。シェルターがあるから」
 ナカノセにそう言うもエディストーンは、やってくる飛行機を見つめて、そこから動こうとはしなかった。
 かくして群集の中に爆弾が投下される。爆弾が炸裂する音が立て続けに響き始めた。悲鳴が巻き起こる。
 しかし、エディストーンはすぐにそれが爆弾ではないことに気付いた。
 エディストーンはすぐにマイクを手に取った。しかし、内線も外線も繋がらなかった。
「あなたはここにいなさい! 抵抗はしないこと! ホールドアップのやり方をきちんと守って!」
 エディストーンはナカノセの頭に鉄帽を被せると、机の引き出しから拳銃を手にとって外へ駆け出していった。
 すれ違いで連絡のカザフ兵が飛び込んできて、部屋の中に喚き散らした。
「狙いは難民ではない! 大統領だ!」
 飛行機から発煙弾と爆竹が撒かれている間に、キャンプに紛れ込んでいた工作員と、イーサーを含むハムスタンの首領たちとの間で銃撃戦となっていた。工作員はほぼ全員ハムスタン系である。ハムスタンも一枚岩ではない。銃撃戦の最中、イーサーと間違われてティムルが撃たれた。

 Aは何者かからイーサー・エルク暗殺を請け負っていたはずである。
 難民の多くは、最終的に、トルコあるいは、西側欧米諸国への亡命を希望していたが、イーサー・エルクとの関係から、日本への亡命を希望する者も決して少なくはなかった。日本の民意はいかなる派閥も、その真実を知るに連れて、毛沢東政権のありように対して批判を強めていたが、ハムスタン難民の受け入れに関してはむしろ冷淡な態度をとっていた。
 ラジカルにおいては左派の支持を集め、右派も反共的立場から合流する流れがあったものの、大多数はなにより、ただ単純に、その混乱と負債を背負い込むことを恐れていた。多かれ少なかれ他の国も同じような状況であったと思う。戦争反対という左派の伝統を借りつつも、難民の受け入れには反対するような、都合のいい市民勢力が力を伸ばしていたぐらいで、およそ政治的判断は宙吊りになって、怒りと混乱とを演出して回るに過ぎなかったが、結果、難民団の多くが、日本を経由してアメリカへ行くことが決まると状況は落ち着き、そのうちには、この事件はあっけなく忘却されることになった。






§ 六二 孤児達の聖戦

 イーサーは間一髪のところで難を逃れていた。
 砂漠の中でスピーカーが叫び続けていた。
「止まれ! 四七便は中止だ! 聞こえないのか!」
 飛行機のプロペラに巻き上げられた砂煙が視界を遮る。イーサーは機の外のエディストーンと目が合う。何か必死に叫んでいるがイーサーには聞こえなかった。エディストーンはすぐさまオックスファムの管制塔に向かう。
 砂漠の風を掴んでざらざらと囁くラジオから、鋭く鮮明な声が響いた。
「ダック2 直ちに離陸して、アルトマイ空港へ直行せよ」
「ブラナへ行く!」
「あなたが死ぬことで、ハムスタンは最後の指導者を失うことになる! ためにならない!」
「開戦しない限り私もその意見だった。しかし、戦いは始まってしまっている。後戻りは出来ない」
「目を覚まして。今度は無理よ。あなたが行ってしまっては交渉が不利になる。米中の和平合意に敵対していると看做される可能性が高い!」
「あとにしろ。敵はどうだ?」
「すぐそこにまで迫っている。急げ」
「外に出るなよエディ」
「自分の心配をしろ。一回で飛べ」
 銃撃しながら猛追してくる装甲車の前に猟銃を構えた者たちが立ち塞がっていたが、ダダッと機関銃の強烈な射撃音がするや否や一掃されてしまった。
 エディストーンは窓を拳銃の銃底で砕くと装甲車に狙いを定めた。最接近したところで弾倉に残っていた二発を続けて撃ち込む。装甲車は止まるはずもなく、飛行機を追いかけて滑走路に乗り上げた。
 追い詰められつつあったDC-3がようやくして滑走を開始する。装甲車は発砲を続けていたが、蛇行しており、機銃の狙いは定まらない。
 僅かに機体が浮いた瞬間にランディング・ギアが機体に収納され、DC-3は間一髪のところで空に上がった。弾は受けなかった。
 エディストーンは空の彼方に飛行機が見えなくなるまで、見つめ続けていた。
 立ち尽くしているエディストーンの脇で、スピーカーがざわめき始め、そのうちに、イーサーの声となった。
「――ハムスタン革命は元より孤児による革命であった。私たちは、ただの糧と、身の保証を手に入れるために、戦い続けなければならない。それが世界で最も大切な正義であることを私は迷うことなく宣言する。私たちは皆たった一つの信念で、海も砂漠も飛び越えて、あらゆる種類の脅迫に立ち向う勇気を持った一羽の雁であり、自分の人生を選び取ることでもって、全人類、全世界をも選び取る存在である――」
 エディストーンはそこで、ナカノセの帽子が滑走路の上に落ちているのに気付いた。赤い帽子が、まるで遊んでいるかのようにして、風に巻かれて空を舞い、ゆっくりと降りてくるのを繰り返していた。

 窮地を逃れたDC-3は何ごともなかったかのように悠然と夕闇の中を飛行してゆく。
「ナカノセ」
 名前を呼ばれて、ナカノセが瞼を開くと木箱の隙間から赤い夕日が見えた。
「乗っているのだろう。いい加減出てきたらどうなんだ」
 積載物資の山の陰に隠れていたナカノセが出てくると、イーサーは拳銃を手にしたまま暫し止まっていた。
 イーサーは言う。
「エディスは私が勝てないと思っているのだ。ハムスタンが滅びると思っている。君もそうか?」
「全然」
「何故そう言える?」
「毛沢東はイーサー先生より老けてるから。ヒトラーもスターリンも生きている間が限度だった。イーサー先生もハムスタンもそれまで粘ればいいだけなのだから、ハムスタンの未来は明るい」 
 イーサーは暗闇の中で赤い夕日を方頬に浴びていた。
「ハムスタンの未来は明るいか。私も皆にそう言ってやればよかった」
「それにしても、イーサー先生に奥さんがいただなんてね」
 イーサーは嬉しそうに笑って拳銃をポケットに仕舞った。
「せっかくだから少し付いて来るといい」
「降りろと言われても、ここでは降りれないわ」
「パラシュートがある。降りるか」
「私はまだ降りれないわ。あとどれくらいかかる?」
「最善を尽くして二時間。ブラナからアルタイまでで三時間」
 
 それから間もなくして、八時方向から一機追いかけてくるのが見えた。マックスのスピットファイアⅨ二号機。DC-3の機体を観察するような動きを見せるが、慎重にも近づこうとはしない。
「丸腰で行く気か? 敵は既に展開しているぞ」
「何をしに来た」
「ムササビの観察だ」
「死んでもいいのならついて来い」
「こんなのオレにとっては散歩だよ」
「減らず口を叩く暇があるのなら左翼を警戒しろ。当機は左舷機銃を持たない」
「なんでそんな設計なんだ? センスを疑う。この国のエアフォース・ワンは雁ってほどいいもんじゃねえな」
「おかしな真似をすれば背面飛びをしてでも突き刺す。互角で格闘してやる」

 この時の国連の意向はハムスタンの中国からの独立を認めない代わりに、救援物資の受け入れを中国政府に認めさせる方向でまとまりつつあった。
 中国側報道官は捲くし立てる。バダウィー派の暴虐によって、街は破壊され尽くし、民は飢え傷ついている。被害とその脅威は甚大であり、世界の平和主義勢力、民主主義勢力の力を受け入れることした――と。
 国連側は暗黙の了解で中国側の言い分を受け入れた形になる。
 実際にハム族の貧困層を中心としたバダウィー派は、徹底抗戦を表明していたが、間もなくアルタイを放棄せざるをえない状況にまで追い込まれた。中国政府は、アルタイ内外両面への救援物資輸送のために奔走したイーサー・エルクその人を、ハムスタン独立を求めるイスラム過激派の首謀者として仕立て上げ、この機に乗じてアルタイ・バダウィー派の徹底的な殲滅に乗り出そうとしていた。かくして我等が父は民主主義世界の敵となったのである。

 過激派が徹底抗戦を続けているとこについてどう思っているのかと記者に問われたエディストーンは、根絶やしにされそうになっているのだから当然の抵抗であると陳べた。そして、それは彼女たちの活動に対する理解を妨げる要因となった。
 カメラを向けられた名もなきハムスタン兵は言う。
『我々には投降先がない。だから嫌でも戦わざるをえない。それがバダウィー派かどうかを決めるのは我々ではなく中共だからだ。やつらがハムスタンの十人に三人がバダウィー派だと言えば、その三人は射殺だ。十人中七人がバダウィー派だと言えばやはりその七人は殺される。十人中十人がバダウィー派だと言えば、その十人全員が殺されてしまうんだ』

 マックスからイーサー機に通信が入る。
「何かいるぞ。稜線の脇だ。向かってくる。ジェット機だ!」
 そう告げると、スピットファイアは高度を求めて上昇を始めた。
「待て!」
「ミグだ! 間違いない。来るぞ! どうすんだ?」
「……しつこい奴らだ」
「早く決めてくれ!」
 操縦桿が凍ってしまったかのように二機は真正面で向き合って刻々と接近していた。
「カーべル2。攻撃を許可する。性能の違いを思い知らせてやれ」
「了解。機銃を止めてくれ。手出し無用」
 マックスは敵機を正面に捉えたまま突っ込んでいった。距離五〇〇〇。軸が完全に重なり合っている。西日を浴びて金色に燃えて輝く無塗装のスピットファイアは、敵前でとんぼを切って、ミグのミサイルを吸い込みながら、ナイフに殺がれる鉛筆の削りかすさながらに弧を描いて進み、再び正面に入った。
 金属の球が見えないレールの上に乗っているかのように完全に同じ位置に戻っていた。猫崎がコンパスを使わずに正円を描くのと同じだった。常識外の技量でこの一連の動きをやってのける神話の世界の出来事をナカノセは、どこかで、ただの面白いものとして見ていた。
 相互に激しく機銃を撃ち放ちながら、急速に距離が詰る。ミグは一撃離脱を挑むつもりが、二世代落ちの大戦機に突き刺されて、細い三日月のかかる山の稜線の向こう側へと落ちてゆく。
 彼は天才だった。

「やるじゃない。ああ。私はあんたを一生嫉妬するでしょうね。私の人生に手の届かないものがまた一つ増えちゃったじゃないのよ!」
「なるほど。女にはちんこがないからな。操縦桿の練習は出来ないということだ」
「黙れマックス。お前は全ての世界における最高のパイロットだ。お前は立場に相応しい厳粛さを持たねばならない。ハムスタン空軍大佐として我が軍に入り、最後まで正義のために戦い抜け!」
「悪くない。ようやく俺に相応しい敬意を払う国を見つけたようだ。ここを俺の祖国にしよう」
 ナカノセは不思議に思い訊ねた。
「知り合いなの?」
 イーサーは言う。
「随分前から、あっちは私を知っていたようだな」
 マックスから通信が入る。
「戦前にドイツの秘密の飛行学校がソ連内にあって、マックス少年はその比類なき父をして、どうしても勝つことの出来ないパイロットがそこにいたというのがずっと気になっていたのだ。アジアの貧乏国の留学生で、レーニン・スクールを主席で卒業した男だ。奴は本当の正義感と勇気を合わせ持つ数少ない人間だ。なのに、いつもボロを着ていた。その男は、今でもそのボロを着て戦い続けている。俺はそれを超えなきゃならない」
 イーサーは地図を広げて、西日に翳した。
「……マックス。聞こえるか。このまま炭鉱までゆき物資投下と同時に敵を叩く。援護しろ」
「了解」
「ナカノセ。花火を見せてやる。死んだら諦めろ」
「そのつもり」
 ナカノセはイーサーに訊ねる。
「炭鉱って?」
「私が幼少期を過ごした炭鉱が復活している。ハムスタン勢が占拠しているが、いつ攻め落とされてもおかしくはない。子供たちは、私の作戦を理解して行動している」
「先生にそんな過去があるだなんて初めて聞いたわ。だけど、そいつらは構って大丈夫なの?」
「彼等は期待出来る。青天白月旗が上がっていた」
「何故そこは復活したの?」
「まだ解らん。この状況だ。概ね……」
「ひょっとしてウラン鉱として復活したんじゃないの?」
 ナカノセはほとんど出任せでそう言っただけだったが、イーサーは驚いた表情をした。
「バカな」
 イーサーは暫く眉間に皺を寄せて考え込んでいたが、すぐに決して、マックスに連絡した。
「カーベル2。炭鉱に降りる必要がある」
「感心しない」
「何故だ」
「気が進まないよ。風や角度はこっちでどうにか出来るが、床がどこまで強度があるのかは信用ならない。だいたい、そこがウラン鉱だったとして、なんだっつうんだ。どのみちどっかで掘ってるから、中国は核弾頭を手に入れることが出来たんじゃないか。それを見物したところでどうする。今は優先順位を間違えるわけにはいかないはずだ」
「急ぐぞ。今日中に回る」
「無茶だぜ……」
 珍しくマックスが危険を冒すことに渋る様子を見せた。
「これ以上日が落ちると着陸が出来なくなる。寄り道は危険だ」
「急げば間に合う。ブラナは夜間着陸を可能にしているはずだ」
「もしもそうじゃなかったら、どうするんだ?」
「照明弾がある」
「それを投下している間に着陸しろってのか?」
「そうだ」
「あんた、頭おかしいぜ」
「そうだ。一々愚痴を言うな」
 マックスは無線の向こうで変な悲鳴を上げた。

 西の空は雲海が広がり、オレンジ色と紫色を織り交ぜながら刻々と変化する複雑な表情を見せていた。東の空では既に星が瞬き始めている。青く冷え込んでゆく夕闇の中を二粒の光が進んでゆく。炭鉱の位置を目視にて捕捉し、慎重に接近して高度を下げてゆくと、飛行機に気付いた少年たちがこちらに向かって一斉に旗を振って合図するのが見えた。振り絞るようにして叫んでいる。
 その瞬間、向い側の崖から発砲があった。紺色の空にオレンジ色の火線が掠め飛んでゆく。
 炭鉱と搬出路の間を繋ぐ陸橋は崩れ落ちており、眼下のボタ山に、切り石が散らばっているのが見えた。切石の中に、双方の死体が倒れているのも見えた。
 少年たちは投石で応戦している。炭鉱の方が高台にあるために、勢いをつけた礫は鋭く飛んでゆき、崖に衝突して谷間に砕け散っており、銃砲さながらである。地の利はあるものの、補給を絶たれている可能性が高い――。
 滑走路は谷の合間を縫った先にあり、炭鉱に張り付くように位置していた。着陸しようとすれば砲の餌食になる。
 マックスは言う。
「ダック2、着陸は不可能だ。敵が近すぎる」
「いいだろう。着陸はしない。次の進入で、滑走路に物資を投下する」
「それも不可能だ。それでは撃たれる」
 その時マックスは、山陰の細い道の上に何か黒い塊があるのを見つけた。
「クソッ あれを、見ろ! 対空砲が配置されている!」
「こんなところに……」
「奴等の目標は炭鉱じゃないぞ! これは罠だ。一度戻るべきだ!」
「いや。このままでは彼等が持たない。投下する」
「爆弾はないのか?」
「ない。銃は積んでいる」
「――もう限界だ。旋回しろ。対空砲は俺がやる!」
「援護する。行け!」
「手出し無用だ! 邪魔はしないでくれ!」
 イーサーはそこで無線を切った。
「ナカノセ。お前には投下を任せる。貨物室へ行って手動で安全レバーを全部外せ。まず、投下ドアが開くか確認しろ」
「了解!」
「風に巻かれて落ちるなよ!」
 ナカノセが懐中電灯を振り回して貨物室へとすっ飛んでゆくと、突然床が破裂して、凄まじい爆風で吹き飛ばされた。
 十二月二九日夕、ハムスタン首領イーサー・エルクの操縦するDC-3機はブラナ峠付近の山間で、中国軍のミグ21に撃墜された。
 同日、国連決議一八八号の採択により、ハムスタン紛争への米軍の介入が決まった。米国は、中国領ハムスタン自治州における中国の主権及び領土保全を支持。米中の和解が成立し、キューバ危機から続く一連の核危機は回避されたという形になった。
 米軍はDC-3よりも飛行距離が長く、より多くの物資を輸送できる米軍のC-130ハーキュリーズ貨物機を百機以上用いて、膨大な量の輸送作戦を行い飢餓を救った。この名誉はアメリカのものとなり、中国の名誉を守り、その不名誉を帳消しにした。

 胴体中央底部を激しく損傷したDC-3は、照明弾を放ちながら視界を確保すると同時に、機体と滑走路を破壊しながら着陸した。ランディングギアが滑走路につくと、まだ滑走し終わらないうちに、機体は炎上を始める。
 照明弾と機体を燃やす炎に照らし出され、あたりは一時的に昼のように明るくなっていた。
 スピットファイアが状況確認のために対空砲が狙う上空を周回し続けていたが、イーサーとナカノセは間一髪のところで炎上する機体から脱出し、すでに炭鉱の中へ飛び込んでいた。
 炭鉱の少年革命軍は既に陣地を捨てていた。容赦のない足音が迫ってくる。少年たちではない。
 懐中電灯を照らす先は暗闇で、どこまでも続いていたが、イーサーはほとんど迷うこともなく、ナカノセの手を引いて走り続けた。
 不意に立ち止まって、イーサーは言った。
「まずいな。重大なことを忘れていたよ!」
「はやく!」
 二人とも大した怪我はなかったが、ぜえぜえと荒い呼吸をしていた。白い息が暗い坑道の中を曇らせている。
「お別れだ。ナカノセ。私たちの戦いに投じてくれたことを感謝している」
「こっちよ先生。しっかりして!」
「ここは出口に向かって先細りになっている。潜り抜けることが出来るのは子供だけだ。私はお前にはここには戻ってきて欲しくない。最後にお前は将来何になるのか教えてくれ」
 イーサーは消えそうになる火のついた木端を逆様に持ち直して、ナカノセの顔が見えるように翳した。ナカノセが振り返ると、イーサー先生は心底おかしそうに笑っていた。
 ナカノセは酸欠気味で、イーサー先生が何を言ったのか、すぐには解らなかった。
「私は革命に命を捧げたの。こんなところで倒れるわけにはいかないでしょ。先生も来て、先生が来ればハムスタンはこれからも……」
 イーサー・エルクはナカノセに火を渡すと、ピストルを抜いて素早くその遊底を引いた。
「ここはハムスタンなどではなく、トルキスタン・イスラム共和国だ。君が平和な社会において、自分のことを革命家だと嘘をついて生きてゆくことを私は許すわけにはいかない」
 ナカノセはさっと視線を動かして、拳銃を奪う隙を作ろうとしたが、イーサー・エルクは一瞬の隙も与えはしなかった。
 喉が酷く渇いていた。焦燥と眩暈で翻弄され、撃たれる前に死んでしまいそうだった。耳の奥で、ホームのピアノが見当違いの童謡の欠片を奏で「黄金の自由よ」と高らかに謳う猫崎の声が響く。それでも迫る足音と突発的に乱射される銃声は、決して空耳ではありえなかった。
 気がつけばアウレア・リベルタスがない――。
「明日から日本でどうやって生きてゆくのか聞かせてくれナカノセ」
「明日から、ママちゃまになって、みんな育てて、ホームは楽しかったんだ。イーサー先生も来ればいいのに」
「彼らは孤児だ」
「私が愛して育てる。私は、ママちゃまのいないホームをそのままにしてはおけないの」
 ナカノセの返事を聞き届けたイーサーは、ピストルの銃口を自らの方に向けてナカノセに差し出す。
「君はあと三秒だけ真の革命家であれ」
 二人の瞳はぱちくりと同時に瞬いて、静かに追いかけてくる仕打ちを待った。
 ナカノセは、自らに由来する栄光と挫折から目をそらして生きてゆくわけにはゆかない。
 我等が漫画戦記において、奇跡を起こせない時にしか真実は存在しないからである。それが猫崎の世界であり、イーサー先生の世界であり、私たちの世界であり、それでも彼女は世界を見届けるべく、かくあることを選んだのである。
 ナカノセが撃った弾は不発だった。何故こうなってしまうのかを幾ら聞いても私は納得しないだろう。しかし私たちは、その思いをいかなる奇跡よりも信じてきた。私たちの漫画は、これからもそうあるに違いない。




















§ 第七部
















§ 六三 金魚の楽しい飼い方

 あの日、猫崎がまだ生きていた八月、私たちは、お祭りには行かないことを取り決めていたので、貰った小遣いを缶空の中に入れた。アウレア・リベルタスがいつまで質屋にあるか分かりはしなかった。
 私たち三人が半ば途方に暮れて、いつまで経ってもお祭りに行こうとしなかったので、ことの次第をママちゃまに気付かれてしまい、凄まじい勢いで叱られた。心底悲しまれたというべきかもしれない。
 ママちゃまは怒りの混じった沈鬱な表情で言う。
「世界中を飛び回って『いにしえの昔』にも、『はるかかなたの未来』にもなかったものは何だったのよ」
 幼いチュンカベルがそう言って謎かけをしたのだ。猫崎が本当に初めの頃に描いた習作の一枚をママちゃまは、砂川の漫画戦記よりも大切にしていた。
 生きている私。
 それを誰よりも理解しているはずだったのに、猫崎は初めて知ったかのように泣きじゃくっていた。
 単純に辛くて可哀相で、私も一緒に泣いていた。
 彼女の青春は人生だ。彼女の生涯は短い命を燃やして一枚でも多く描き上げてゆく孤独な戦いの記録だ。
 彼女は無数の主人公をホームに帰し続けたが、自身あと僅かのところで気付いてしまった。物語がその本質に迫る時、ホームに帰ることが出来ない者がいるということを。
 猫崎みさき。お前だ。物語とは出会いと別れを描くことである。お前がそう言った。
 彼女は何をどう差し引いても漫画描きである。真実を誤魔化して描き続けることなんて出来ない。
 短い人生を漫画の中で取り戻すことに決めた女の子を描く短い序章と、戦争で生きることの出来なかった子供たちの亡骸から生まれた血と炎の妖精チュンカベルの死闘を描く後半の二部構成――。そのアイディアを聞かされた時、編集者たちは一様に絶句した。その漫画が、いつの日か現実のものにならざるをえないということを思って。
 ナカノセは泣いていなかった。ナカノセは、最悪、あれが消えてしまう前に、盗もうと考えていた。
 ママちゃまは言う。
「あんたたちそれで幾らあるのよ。考えておくから、はやくお祭りに行ってきなさい」

 私たちは、お祭りから帰ってくる人たちとぶつかりそうになりながら走った。私が背負ってやると何度言っても、猫崎は頷きはしなかった。
 猫崎は、ふとプロ研で宴会をした日のことを思い出して、ナカノセに訊ねる。
「ナカノセは、酒はどこで手に入れてきたの?」
「当ててごらん」
「万引きしたの?」
「そんなんじゃない」
「春を鬻いだの?」
「あっはは!」
「どこで手に入れたのよ?」
「血売った。わりと金になる。だけど、私はもうそんなしみったれたことしていたくないわ」
 私が宴会の日に羊羹を丸々一本持ってこれたのは、幼児用のミルクを買いに出された時に、乾物屋のおばさんがお釣を盛大に間違えたのを着服したことによる。私はしがない守銭奴だ。どんな脇役でも構わない。愛するホームがある限り。
 少女だった私は訊ねる。
「アウレア・リベルタスを手に入れてしまったら、それからどうするの?」
 あの様子ならママちゃまが買ってくれるだろう。皆そう思った。しかし、それは反則だった。私達はあれを自分達で手に入れようとしていたのだ。ママちゃまだって、ホームの園長として示しがつかない。実際、この後、ナカノセが海保の給料で返済するまではママちゃまが預かっておくことになった。ママちゃまは、私だって指輪なんて買ったことないのに、あんたたちは、こまっちゃくれてると言って怒っていた。
 この時のお金はイーサー先生がホームを出て行く子どものための祝金として用意したものだった。皆に行き渡すには到底足りなかったために、そのまま手付かずになっていたそれを、私たちは使わせてもらったのである。
 ナカノセは言う。
「ママちゃまに預けようと思うけどどうかな?」
「大人になるまではお預けってとこね。ママちゃまのものになるのなら私は構わないけど」
「大人になるまで、ホームで預かっておいて、その後はどうするの?」
「私は、もうその時にはいないんだからね!」
 猫崎はそこで話を終らせて、こう言った。
「今度の漫画は、お姫様は元子をモデルにして、主人公はナカノセで描くよ」
「あんたはどうするのよ!」
「私は漫画家になる」
 もう祭りも終わりに差し掛かり、家へと帰ってゆく子どもたちとすれ違う。
 私たちはみんな孤児だ。あいつらは、まだ、それに気づいていないだけなんだ。そう喉まで出かかるが、私には決してそんなことは言えなかった。本当の孤児の悲しみを、その戦いを、私はもう語ることなどできはしない。

 ナカノセは底の方をやたらと走り回っている泥鰌を捕まえようとして一息で網を破いた。ほとんど殴りつけるような勢いに見えた。今日のナカノセは金魚を捕まえることが出来ない。そう思っていたから不思議ではなかった。私はそれを見届けた上で、慎重に水面の縁を泳いでいる金魚を掬おうとしたのに、やはり失敗した。これは、信じられなかった。
 最後の一網を託された猫崎は、躊躇に躊躇を重ね、水面で傾き、もがいている金魚を選んだ。盆踊の太鼓の音と、秋風の冷たさに、全身全霊を傾けて、鳥肌が立っていた。あと数日で終わり、暗闇に閉ざされようとしている青春に、取り囲む世界の全てを聞き終えると、差し込まれた網は金魚を掬い取り、水を張った青いプラスチックの器の中に納まった。
 帰りの道すがら、薄暗い街灯の下で、金魚を入れた透明の小さなビニール袋を翳すと、猫崎は「まだ生きてる」と無心で呟く。

 ナカノセから手紙を貰って二月ほど経った後、私は自分の家のベランダの物入れの中に埃をかぶった水槽を発見した。水槽の中は乾いた五色砂が散乱していた。ビニール袋をしばっていた輪ゴムが朽ちて口を開いていた。砂の中に折れ曲がった漫画のようなものがあることに気付いた私は、わざわざ、それをかっちらげて引き抜く。掴み取った小冊子には「金魚の楽しい飼い方」とあった。
 私は未だに漫画ではない媒体に載っている一切れ、二切れの、コマ漫画に目が行く癖が抜けていない。専門の漫画雑誌以上に反応するところがあり、その本末転倒ぶりには我ながら呆れる。下手をしたらそっちの方が好きなのだ。想像力をかき立てられるものがある。
 思い立って水を張ったのは二週間前である。
 金魚の入った袋を目の高さまで掲げると、燃え上がるような黄金の草原の波の上に金魚が浮かんで見えた。金魚がその身を翻すと、秋の爆発的な太陽が飛び込んできて、私の目を少し焼いた。
 名前を呼ばれた気がして振り向くと、乾いた雑踏の向こうからナカノセがやってくるのが見えた。
 どんなことを話し合ったのか。どんな表情をしていたのか、何故彼女は遠い外国の戦争にその身を投じるに到ったのか。きちんと思い返す間もないままに、またその時が流れ去ってゆく。





ナカノセ漫画戦記 終    




















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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 構成・概要

「ナカノセ漫画戦記」の本編を公開することを目的に作ったサイトです。
 本作は2012年春に公開した「衛星カリスマからの電信」の後を受けて、
 同一作者である篭目春窓によって書かれました。
 リンクはこのページのトップによろしくお願いします。
 全七部63章構成 400字詰原稿用紙換算1121枚 総字数38万2538字。
 文量は恐らく文庫二冊弱(524頁)程度だと思います。

2018071X 海の日の公開開始を目指して。
20180728 β版の公開を開始。




 凡例

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